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2013/01/15

耳嚢 巻之六 采女塚の事

これは恐らく今までにない僕の「耳嚢」の注の有機的な増殖であった気がする――



 采女塚の事

 橋場(はしば)宗泉寺(そうせんじ)の邊に采女塚(うねめづか)といへるありと傳へぬれど、いまはをぼろに誰(たれ)しる人もなし。或(ある)老人の語りけるは、いにしヘ吉原町の遊女に采女といへるありしが、あたり近き寺の所化(しよけ)、右の采女をふと見初めてせつに思ひ慕ひしが、元より貧敷(まづし)き僧なれば、かゝる全盛の遊女に馴染逢(なじみあは)ん事もかたかりけるを、愁ひ忍(しのび)かねてや、彼(かの)くつわやの格子に來りて采女をしたひ自殺して失(うせ)ぬるを、いかなる者にやと懷中抔見しに、采女をこふるわけなどかき置けるを、采女きゝて、かく命を捨て戀(こふ)るとなん、いかにせん方もあるべきと、深く歎きてふし沈みしが、或夜うかれ出て、彼(かの)僧は橋場あたりに葬りしと聞(きき)て、其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや、一首の歌を、かたえなる松に殘して入水しておわりぬと、人の語りしが、其歌は

  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

□やぶちゃん注

○前項連関:天皇の発句から吉原妓女の辞世和歌で、雲上から急転直下、苦界へと続く詩歌譚として連関。

・「采女塚」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「宗泉寺は総泉寺なり、同所同寺末明星山寺の門前に、采女塚の碑蜀山人筆にて建ちてありしが、文字漫漶して読み難かりし、今はや癸亥の震災ありて、其碑も如何なりしやと、大正七年写したる全文を録す。―采女塚。寛文の頃、新吉原の里、雁かね屋の遊女、采女かもとに、ひそかにかよふ(剝落)かたくいましめて、近つけざりしかは、その客、思ひの切なるに堪す、采女か格子(下剝落)采女その志を哀み、ある夜家を忍ひ出て、浅茅か原のわたり、鏡か池に身(剝落)此里の美人なりしとそ、かたへの松に小袖をかけて短冊をつけたり、名をそれとしらすともしれさる沢のあとをかゝみか池にしつ(剝落)そのなきからを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わか兄牛門(剝落)それさへ失ぬれは、こたひ兄の志を継て、石ふみにゑり置ものならし。文化元年甲子六月駿州加島郡石川正寿建。金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)此外に歌二首、碑陰にも仮名文彫りたれど、よみ難かりし、傍に老松ありて、掛衣松碑建ちてありき。」「名をそれと」の歌の第五は「池にしづめば」である。漢文の部分は、孝女曹蛾の死をとぶらって建てた黄絹幼婦の碑文にならった謎語である。』と記しておられる。なお、引用部の『毎田即是(畝)』の『是』の右には(引用元か鈴木氏のものかは判然としないが)『(久カ)』という傍注が附されている。

 さても実は、この碑文は、加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」のここの資料によって全貌が知れる。即ち、万延元 (一八六〇)年序になる石塚豊芥子編「街談文々集要」の文化元(一八〇四)年の記事中の「倡妓采女墳」である。以下に恣意的に正字化して示す。

文化元甲子六月、淺茅ヶ原鏡ヶ池ニ、傾城采女碑建

  采女塚

寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいましめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、采女が格子窓のもとに來りて自害せり、采女その志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、淺茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短册を付けたり。

  名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかゞみが池にしづめば

そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるして建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を繼て、石ぶみにゑり置ものならし。

  文化元年甲子六月   駿河加島郡 石川正壽建

(以下、碑陰の文あり、略)

以上の記載と複数のネット上の情報から整理したい。まず、当該の采女塚の碑は現存していることが分かった。以下、三村氏の注その他について、幾つかの語注(●がそれ)を附しつつ、以下に解説をすると、

●現在の碑の在所は、台東区清川にある曹洞宗明星山出山寺(しゅっさんじ)で、三村氏の『明星山寺』が脱字であることが分かった。ここの辺りが元の采女塚であったと考えてよいと思われる(何故なら、以下に示す如く「鏡ヶ池」の跡地が直近にあるからである)。なお、本文の「宗泉寺」=総泉寺はウィキの「総泉寺」に現在、『東京都板橋区にある曹洞宗系の単立寺院。山号は妙亀山』で、『この寺は当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(一五五五年~一五五八年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。一九二三年(大正一二年)の関東大震災で罹災したため、昭和三年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る』とし、『大善寺は十五世紀末の開山にして「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)こそが、元の大善寺の本尊である』とあってどうも何だか妖しげな背景が複雑な移動の背後には感じられる気はする。現代語訳では正しい「総泉寺」で採った(因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は正しく「総泉寺」とする)。

●「漫漶」は「まんくわん(まんかん)」と読み、文字などが時を経て、擦れてはっきりしないこと。

●「癸亥の震災」は大正一二(一九二三)癸亥年九月一日の関東大震災を指す。

●「其碑も如何なりしや」この碑の受難は続き、その後、第二次世界大戦でも戦火を浴びて、現在は更に輪をかけて判読が難しくなっている模様である。

●「寛文の頃」西暦一六六一年~一六七三年。「耳嚢」の本文には時代特定がないから、これは重要である。

●「雁かね屋の遊女、采女」同じく加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」の「辞世集 その他」からの孫引きであるが、明治二十七(一八九四)年刊の関根只誠著「名人忌辰録」下巻の二頁に、

采女 遊女

新吉原京町雁金屋徳右衞門抱散茶。柴又村に生る。淺茅が腹鏡が池に身を投じて死す。寛文九酉年八月十六日なり。歳廿一。同所出山寺に葬る。

辭世 名をそれといはずともしれ猿澤のあとを鏡が池にうつして

と載る旨の記載がある(恣意的に正字化した)。私は都合、采女の辞世の六ヴァージョンが手元にはある。以下に並べて見よう。まず、一つは後掲する「江戸名所図会」(天保七(一八三六)年刊)所収の歌。

   名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが池にしづめば

それと全く変らない底本の三村注の歌(鈴木氏の補正を加える)。

   名をそれとしらすともしれさる澤のあとをかゝみか池にしづめば

そして、本「耳嚢」所収の歌。

   なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

さらに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の歌。

   なをそれと問はずともしれさる澤の影をかゞみが池に沈めば

最後に、現存する碑の写真もある「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、投身の翌朝、草刈り人達が見つけたという短冊には、

   名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかがみが池にしずめば

とあるから、少なくとも碑面に彫られた歌は、表記ともにこの最後に示したものが実歌と考えてよいであろう。加えて附すなら、岩波版長谷川氏注では「江戸砂子 二」に基づき、『吉原堺町』という吉原内の詳細町名が記されており、更にそこでは投身当時の年齢が十七歳となっており、碑文でもそうである。采女の享年は十七、満十六歳のこの入水は如何にも哀れを誘うが、実没年齢は「名人忌辰録」の方が本話の筋から見るならリアルな気はしないではない。なお、関根氏の記載にある散茶(さんちゃ)とは吉原の遊女の階層の一つである散茶女郎のことで、揚屋入りはせずにその家の二階で直接客を取った遊女を言う。ウィキの「散茶女郎」より引用しておくと、『太夫、格子の下であり、梅茶の上。昼のみ揚げ代、太夫三七匁(三・七両)、格子二六匁(二・六両)についで散茶は金一歩(〇・二五両)であった。「洞房語園」には、「格子は太夫の次、京都の天神に同じ、大格子の内を部屋にかまへ局女郎より一ときは勿体をつける局に対して、紛れぬやうに格子といふ名をつけたり。局女郎一日の揚銭二十匁(二両)なり、但し、寛文年中散茶といふものが出来て、揚銭も同じく百匁(一〇両)になる。局の構へやうは表に長押をつけ、内に三尺の小庭あり。局の広さは九尺に奥行二間、或は六尺なり」とあり、貞享の「江戸土産咄」には、「近頃より散茶といひて、太夫格子より下つ方なる女中あり、大尽なるは揚屋にて参会し、それより及ばざるは散茶の二階座敷にて楽しむ」とある。「傾城色三味線」は「散茶とはふらぬといふ心なり」と注する。「籠耳」によれば、ふるといふは茶を立てることというから、茶を散じるとはふらないことになる。「洞房語園」にはまた、「寛文五年、岡より来りし遊女は、未だはりもなく、客をふるなどいふことなし、されば意気張りもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり」とある。散茶はこうして遊女の階級となった。宝暦ころから散茶は昼夜揚代三分(〇・七五両)となり、「昼三」とよばれるようになり、のちに、散茶の名は廃れ、昼三がこれに代わった』。本件よりも後のことになるが、明和五(一七六八)『年「古今吉原大全」には「散茶いはゆる今の昼三のことなり」とある。ただし、吉原細見には天明、寛政のころまで散茶の名が見える』とあって、最後に安永(一七七二年~一七八一年)の頃には『太夫、格子が絶えて、散茶が最上になった』とある。采女の揚銭の高さが見て取れる。

●「わが兄牛門の如水子」牛門は荻生徂徠のこと。徂徠は牛込御門近くの牛込若宮町に住んでいた頃、「牛門先生」と呼ばれており、この采女塚顕彰碑を建てた狂歌師大田南畝は個人的に先哲徂徠を深く尊敬していた。これによって、徂徠の弟子の如水なる人物(不詳)の手になる「采女塚」伝承を顕彰する標札が、この出山寺若しくはその近くに寛政八(一七九六)年頃までは確かに立っていたということが分かる。

●「浅茅ヶ原」は現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目の辺りを指す(「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」に拠る)。

●「鏡ケ池」この池については、底本の鈴木氏は謡曲「隅田川」の古伝承を以下のように示しておられる。『梅若丸の母はわが子の跡をしたって京からさまよい来たが、すでに梅君は身まかったと聞き、この池に身を投げて死んだという。母の名を妙亀尼といい、総泉寺にその墓という妙亀塚があり、また池の傍に袈裟懸松とも衣かけ松ともいう松があった。』と記される。一見、唐突な注に見えるが、これは「耳嚢」本文が、「其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや」と記している点に鈴木氏は敏感に反応されたためである。即ち、この部分の叙述は、

――その寛文の頃までは、この(かの「隅田川」で子の死を知って母が入水した)鏡ヶ池なども(今のように涸れた沼沢の名残りのようなものではなく、)ずっと広く深くもあったものであったか――(飛び込めば確実に死ぬるほどの深さであったらしい)

という謂いなのである。「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、「江戸名所図会」によると、鏡が池の面積は文政(一八一八〜一八二九)期でも約五百平方メートル、橋場一丁目の北部辺りにあった、と記している(この出山寺に親族の墓所をお持ちの目高拙痴无氏のブログ「瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り」の「1日遅れのブログ」の記事によると、『この出山寺の北側に隣り合わせにあったという鏡が池は埋め立てられ、見ることは出来ない』と記されておられ、池は既に消失してしまったことが分かる)。さても――孫引きばかりでは面目御座らぬ。「江戸名所図会」の総泉寺から采女塚までを引用しておきたいと思う(底本は市古・鈴木校注のちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、ルビは一部を省略して正仮名化して示し、割注は〔 〕に、割注内の割注は《 》に変更、編者注は除去した)。

   《引用開始》

妙龜山總泉寺 曹洞派の禪林にして、江戸三箇寺の一員たり。開山は噩叟(がくそう)宗俊和尚と號す。當寺は千葉家の香花(かうげ)院なり〔永祿二年小田原北條家の『分限帳』 に、「武州石濱の會下寺」とあるは、當寺のことをいふなるべし〕。

 千葉氏の墓〔境内卵塔のうちにあり。長さ三尺ばかりの靑石に、梵字のみを鐫(ちりば)めて、號・法名等を註せず。當寺に大檀那千葉介守胤の靈牌と稱するものあり。「總泉寺殿長山昌轍(しようとん)大居士」とあり。寺僧云く、「守胤は、弘治三年丁巳十一月八日卒去す」と。されど、守胤卒去の時世すこぶるたがひあるに似たり。また『江戸惣鹿子(そうかのこ)』に、千葉介常胤の墓碑には、春淨院殿點心居士、同千葉介貞胤の墓碑には、即心自風流とあるよし記せども、いま所在をしらず。なは他日考ふべきのみ〕。

 宇津宮彌三郎入道の墓〔同卵塔のうちにあり。青石の碑二枚、その一は「正安元年十一月二十一日」、その一は「徳治二年丁未七日」とあり〕。

[やぶちゃん注:以下は底本では「少なからず。」までの全体が二字下げ。]

按ずるに、當寺にいひつたふるところの宇津宮彌三郎は、賴綱入道實信坊がことなるべし。またの號(な)を蓮生と唱ふ。源空上人の法を聽いて後、善惠上人に就いて出家す。正元元年己未十一月京師に寂し、遺言により、墳(はか)を師の石塔の傍らに設くるよし、西山上人の傳に見えたり。その地は、すなはち京師西山三鈷寺の東の坂なり。よつて考ふるに、當寺にあるところのものは、むかしその支族などこの邊にありて寫し建つるところの墓碑ならんか。されど正安・德治いづれも、正元に後(おく)るること四十有餘年なり。もつとも不審少なからず。

 そもそも當寺は、正法眼藏の妙理をしめし、實相無相の心印をひらく。向上の一路には、着相實有(じつう)の草を拂ひ、言下(ごんか)の一喝には、異學執解(しうげ)の塵を飛ばす。公案の床(ゆか)の前には、一千七百の則を重ねて、以心傳心を傳へ、坐禪の衾(ふすま)のもとには、朝三暮四の助けを得て、文字言句(もんじごんく)の話頭を離れたり。

 淺茅原(あさぢがはら) 總泉寺大門のあたりをいふ。

『囘國雜記』

  淺茅がはらといへるところにて、

  人めさへかれて淋しき夕まぐれ淺茅がはらの霜をわけつつ   道興准后(どうこうじゆごう)

妙龜塚 〔同所にあり。梅若丸の母公(ぼこう)妙龜尼の墳墓なりといひつたふ。小高きところに、草堂を建てて、妙龜大明神と稱せり〕。

 古墳一基〔妙龜堂の下にあり。靑き一片の石にして、長(たけ)二尺あまり、碑面蓮花の上、圓相のうちに、「法阿」といふ號(な)をちりばめ、下に「弘安十一年正月二十二日」と彫り付けてあり《この年四月、正應と改元あり》。『圓光大師行狀翼贊』卷第四十二に云く、嘉祿三年六月二十二日《この年十二月、安貞と改元あり》山門の衆徒奏聞を經て、大谷源空の墳墓を破却せんとす。その夜法蓮坊・覺阿坊、潛かに上人の柩を掘り出だし、蓮生坊《宇津宮彌三郎》・信生坊(しんしやうばう)《鹽屋入道》・法阿坊《千葉六郎太夫入道、この人は東氏の祖、從五位下》・道遍坊《澁谷七郎入道》・西佛坊(頓宮兵衞入道)の輩(ともがら)出家の身なりといへども、法衣(ほうえ)に兵杖(ひやうぢやう)を帶し、これを供奉し、廣隆寺の來迎坊圓空が許にうつすよしを記せり。按ずるに、この法阿は、千葉六郎太夫胤賴がことなるべし。胤賴は常胤が子にして、國府(こふの)六郎胤通の弟なり。この古墳、おそらくはこの法阿の墓碑ならんか〕。

 鏡が池 同所西南の方にあり。傳へいふ、妙龜尼、梅若丸の跡をしたひ京よりさまよひ來りしが、梅若丸身まかりしことを聞きて、この池に身を投げてむなしくなりぬとぞ〔元祿開板の『江戸鹿子(かのこ)』といへる草紙に、「むかしはこの池を泪(なみだ)の池と名づけし」とあり〕。傍らに鏡池庵と號(なづ)くる小菴あり。辨財天を安ず。これも妙龜尼をまつるところなりといへり。

 袈裟懸け松 〔池の傍らにあり。一名(いちみやう)を衣(きぬ)かけ松ともいへり。妙龜尼この松の枝に衣をかけ置きて、むなしくなりしといへり。舊樹枯れて、いまは若木を栽ゑたり〕。

 采女塚 〔同所にあり。寛文の頃、吉原町にうねめといへる遊女はべりしが、ゆゑありて夜にまぎれてここに來り、池中に身をなげてむなしく燈りぬ。夜明けてのち、あたりの人ここに來りけるに、かたはらの松に小袖をかけて、一首の歌をそへたり。

  名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが他にしづめば

 かくありしにより采女なることをしりければ、人あはれみて塚をきづきけるといへり〕。

   《引用終了》

采女に纏わる伝承は古くから全国にある。ウィキの「采女」によれば、采女とは、『日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった』が、『采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた。古くは『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載され、また『和漢官職秘抄』には「ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり」との記述がある。また『万葉集』には、藤原鎌足が天智天皇から采女の安見児を与えられた事を大喜びした有名な歌「われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ安見児得たり」が収められている他、「采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠み いたずらに吹く」という志貴皇子の歌もあり、美しい采女を憧れの対象とした男性心理が伺える』として、「采女」というイメージが男の憧れの対象としてシンボライズされてきた経緯があり、それが最も新しい形で都市伝説化したものが、この吉原堺町の梅茶女郎「采女」であった――そんな何か琴線に触れるものを、遊女采女は我々に奏でてくれているように思えるのである。

●「文化元年甲子六月」西暦一八〇四年。まさに、この「耳嚢 卷之六」の執筆推定下限は文化元年七月である!

●「金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)」これは要するに、以下の注で示す「黄絹幼婦」=「絶妙」のアナグラムと同様に、賦のように文意を持たせつつ、そこに碑文の標題「鏡池采女塚」――と執筆者である自分「記 南畝大田覃」を巧みに暗号化したものなのである。因みに「覃(ふかし)」とは大田南畝の本名である。

●「曹娥」(一三〇年~一四三年)は後漢の孝女とされる人物。舞の得意な一人の男が船上で酔って舞い、落ちて溺れ死んだ。彼の娘であった曹娥は七晩泣き明かした挙句、その川に身を投げ、後に父の遺体を背負ったままに川岸に打ち上げられたという。後にこの川は曹娥江と呼ばれて廟が建てられたが、曹操の家臣で曹植の四友の一人であった博覧強記の書家邯鄲淳(かんたんじゅん 一三二年~二二〇年)が、わずか十三歳で、この碑文をものし、評判となったということが「三国志演義」に載るという(「My三国志―百科事典」の「邯鄲淳」に拠る)。

●「黄絹幼婦」この言葉、実はこれ、中国では知られた一種のスラングでもある。即ち、「絶妙」の隠語で、「黄絹」は「色(ある)糸」で「絶」の字となり、「幼婦」は「少女」で「妙」となる。

・「所化」師の教えを受けている修行中の僧、弟子。また、広く寺に勤める役僧を言う。

・「くつわや」「轡屋」で女郎屋のこと。「轡」は馬具の名称で馬の口に嚙ませて手綱に結び、それで馬を捌いた。その形状は十文字で、そこから遊女を操り稼がせるとの意味から、遊女屋或いはその抱主である主人の異名となったものと考えられる。これについてはネット上に複数の語源説がある。例えば、京都柳町の遊女屋を開設した原三郎左衛門は、秀吉の馬の口取りをしていた者だったから、傾城屋を轡屋と呼んだという。庄司甚内らが吉原遊廓を作ったとき、廓の内に十文字の道を通したので、これを「くつわ」と称したという説であり、その他にも女郎屋の形状が縦横に道を作った十文字であったことに由来するという説は多いようだ。

・「なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば」岩波の長谷川氏注に、『天皇の寵が衰えてなら猿沢池に身を投げた采女を真似て鏡が池に身を投げるからは私の名は問わずとも知れよう』と訳されておられる。これはやはり、謡曲「采女」を基にした和歌で、ウィキの「采女」には、現在の続くところの、奈良市の春日大社の末社で猿沢池の北西に鎮座する采女神社の例祭で、毎年仲秋の名月の日(旧暦八月十五日)に行われる采女祭につき、『奈良市の猿沢池畔にある采女神社の毎年中秋の名月の時期に行われる例祭。奈良時代のさる天皇の寵愛を失った采女が猿沢池に投身自殺したとされ、その霊を慰める祭り』との解説がある。夭折の妓女「采女」の恐るべき博覧強記が、この和歌から滲み出ている。

■やぶちゃん現代語訳

 采女塚の事

 橋場の総泉寺の邊りに、采女塚(うねめづか)というものが御座ると伝えては御座れど、今はもう在所も定かではなく、誰(たれ)一人として知る者も御座らぬ。

 ある老人の語ったことには、昔、吉原町の遊女に――「采女」――と申す妓女が御座った。

 ところが、かの吉原に近きさる寺の修行僧、この「采女」をふと見初(みそ)めてしもうて、これもう、思い慕(しと)うて、どうにもならずなった。

 されど、もとより貧しき僧なれば、かかる当代一流の人気の遊女に馴染み逢はんなんどということは、これ、如何ともし難きことなるを……これ、あまりに恋い焦がれたる果てに、愁い、かくも、忍びかねて御座ったものか、かの「采女」のおる女郎屋の、格子のもとに来たって、「采女」を慕(しと)うたままに、これ――自殺して――果てた。

 さても、吉原の係りの者どもが如何なる者ならんと、この男の懐中なんどを探って見たところが、これ、「采女」を恋い慕(しと)う思いを、切々と書き置き致いたものが、出来(しゅったい)致いた。

 噂は千里を走るとも申そうず、じきに「采女」自身も、このことを小耳に挟み、

「……かくも命を捨て恋さっしゃったとは……かくの如くなってしもうた上は……一体、妾(わらわ)は……如何にせん方、これ、ありんすえッ?!……」

と、これ、如何にも深(ふこ)う、歎き伏し沈んでおったと申す。

 そんなある夜のこと、「采女」の君……こっそり……ふらふらと……吉原を出でて……禿(かむろ)なんどから伝え聞いてか、かの僧の、橋場辺りに葬られたことを聞きつけ――まだ、その頃までは、かの鏡ヶ池なんども、今とは様変って、広く深くも御座ったものか……

……一首の歌を

……傍らに御座った松の枝に殘し

……入水し

……果てた……

――とは人の語ったことで御座ったが――さても――その歌はといえば、

  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

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