金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 景政社・大佛
景政社・大佛
これより、權五郎景政の社(やしろ)をうちすぎ、甘繩(あまなは)の明神(めうじん)の森。この邊りに盛久(もりひさ)敷皮(しきがは)の跡塚(あとつか)あり。宿屋(やどや)村の先に大佛堂高德院。日朗法師の土の牢(ろう)、此邊(へん)なり。みこしが崎、大佛の濡佛(ぬれぼとけ)にて、數(す)丈の御丈(みたけ)、座像なれども、見あぐるばかりなり。六錢(ぜん)にて大佛の胎内(たいない)をおがましむ。大異山淸淨泉寺(だいゐざんしやうじやうせんじ)といふ。座像の御丈、三丈五尺、膝囘(ひざまは)り、横五間半あり。
〽狂 大(だい)ぶつは
かまくら山の
ほし月夜
これ白膏(びやくごう)の
ひかり
なりけり
「なんと、京の大佛さまのお鼻の穴から、人が唐傘(からかさ)をさして出られるといふ事だが、看板のお鼻がその位(くらゐ)な物(もの)だから、さぞ、お金(きん)玉は、どのやうに大層(そう)な物であらう。貴男(あなた)が座像で、すはつてばかりござるからよいが、あれが、たつておあるきなさる段になつたら、あのお金玉が、邪魔になつて、おひろいなさりにくからうから、大きな紙帳(してう)の中へでも、お金玉をいれて、首にかけてゞも、おあるきなされずばなるまい。儂(わし)も、疝氣(せんき)で人並みより金玉がおほきいから、普段、袋にいれて首にかけてあるきますが、さてさてこんな邪魔な物はない。しかし、儂にはまた重宝なこともござります。この間も、講中(こうぢう)と一緒に勸化(くはんげ)にでた時、儂は首にかけてある金玉をたゝいて、『おんあぼきやあへいるしやな』といつてあるきました。」
[やぶちゃん注:「權五郎景政の社」現在の御霊神社。
「甘繩(あまなは)の明神」現在の甘繩神明神社。
「盛久敷皮の跡塚」盛久頸坐(くびざ)とも。現在、江ノ電由比ヶ浜駅の北、由比ヶ浜通り長谷東町バス停近くに同定されているが、庚申塔数基が残るのみ。「盛久」は平家家人主馬(しゅめ)盛久。詳しい伝承と考証は「新編鎌倉志卷之五」の「盛久頸座」の条と私の注を参照されたい。
「宿屋村」現在の光則寺辺の呼称らしいが、鎌倉地誌ではあまり聞いたことがない。得宗被官であった宿屋光則(やどや
みつのり 生没年不詳)の旧自邸が光則寺である。『光則は日蓮との関わりが深く、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。日蓮の書状には、宿屋入道の名前で度々登場している。日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かった。日朗らは光則の屋敷の裏山にある土牢に幽閉された。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』(以上はウィキの「宿屋光則」より引用)。大仏高徳院を挟んで、「日朗法師の土の牢此邊」とあるが、日朗の土牢は光則寺のすぐ裏にあって、この辺りも、どうも一九は実地踏査を行っていない嫌いがある。
「みこしが崎」御輿嶽(みこしがたけ)。大仏東北方から大仏の後ろを西へ回り込んだ霊山ヶ崎までの山並みを呼称する。
「大異山高德院淸淨泉寺」と高徳院同一。
「白膏」「白毫」が正しい。眉間白毫相のことで、表記は「びやくがうさう(びゃくごうそう)」が正しい。仏の三十二相の一。仏の眉間にあって光明を放つ長く白い巻き毛。仏像では水晶などをはめ込んだり浮き彫りにしたりして表わす。私は思わず、一九が膏薬を額に張り付けているのに洒落のめしたのかとも思ったが、真相は不明。
「貴男(あなた)」は「彼方」(に坐(おは)すの意)かも知れないが、金玉の叙述から、かく当てた。
「おひろい」の「ひろい」は「拾ひ」で、この場合は、高貴な人が泥濘(ぬかるみ)でない場所を拾うようにして歩む、の意から生じた、徒歩で行くことの尊敬語である。
「紙帳」紙をはり合わせて作った蚊帳。防寒具にも用いたから、ここはそれを袋状にして首から掛けられるようにした支持具。
「疝氣」「疝積」とも言った近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人は、それをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである)。ここでは睾丸の腫脹が顕著であるから、睾丸炎が候補とはなるが、「普段、袋にいれて首にかけてあるきます」という表現が誇張でないと考えると、これは「大金玉」、象皮病で知られる人体寄生性のフィラリア症、バンクロフト糸状虫
Wuchereria bancrofti の感染後遺症としてを引き起こされた陰嚢水腫の可能性が頗る高いものと私は判断する。信じられない方は群馬県高崎市小八木町はっとり皮膚科医院HPの服部瑛氏の「錦小路家本『異本病草紙』について-その5 フィラリア症」をご覧になられたい。ページ下方に俵のように腫脹した患者の医学記録写真があるが、この手の画像に免疫のない方には、クリックをお勧めしない。
「勸化」一般的な謂いでは、僧が仏寺仏像を造営するため、信者に寄付を勧めて集める、勧進を言うが、ここでは単なる講中連中との寺社参りを言っている。
「おんあぼきやあへいるしやな」これは密教経典である「不空羂索神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれる光明真言(正式名称は不空大灌頂光真言)という密教の真言に冒頭、「オン アボキャ ベイロシャノウ」の、音写である。漢訳「唵 阿謨伽 尾盧左曩」、意味は「オン」が聖音の「オーム」で、以下、「不空なる御方よ 毘盧遮那仏よ」の意(以上はウィキの「光明真言」に拠る)。最後の部分の「るしやな」は漢訳で分かる通り、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)=大日如来を指す。高徳院の鎌倉大仏は無量光仏=阿弥陀如来である。まあ、著名な與謝野晶子も「鎌倉やみほとけなれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と誤っているぐらいだから、この洒落も許容範囲の内。]