一言芳談 六十一
六十一
又云、眞實に此身を仏にまかせたてまつる心をば、人ごとにおこさゞる也。後世のつとめに、暇(いとま)ををしむもものは一人もなきなり。
〇此身を仏にまかせたてまつる、歸命本願抄云、身を本願にまかせかねたる心のなまざかしきにこそ、けふまで往生もとゞこほりぬれ。いまよりにても、心おかずたのみをかけば、やがて本願に乘ずべし。云々。
[やぶちゃん注:「暇をおしむもものは一人もなきなり」この目的語は――「眞實に此身を仏にまかせたてまつる心を」専心に行うこと以外のことすべて――であるので注意。即ち、彌陀の大慈大悲心に無条件でその身を任す=念仏に専心することには「暇を惜しむ」くせに、それ以外の自己のこざかしい知性や皮相な思想、中身のない主義主張のために時間を潰すことを惜しむ人間は、独りもいない、というのである。
「歸命本願抄」浄土宗清浄華院第五世向阿証賢(こうあしょうけん 文永二(一二六五)年?~興国六/貞和元・康永四(一三四五)年?)の作とされる。元亨年間(一三二一年~一三二四年)成立。和文で浄土宗教義を説いたもの。引用部は以下の文脈に現われる。
されば、念佛せんもの生ぜしめんといふ御ねがひ、かなふべくは、その御ちかごとにむくひてをのづから佛になりたまはんずらん。御ねがひむなしくして、我ら念佛すとも、うまるまじくは、又この御ちかごとにむくひて、よも佛にはなり給はじなれば、法藏比丘の成佛が我らが往生せんずるしるしにてはあるべき也。これによりて善導大師は、若我成佛十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺、彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虚、衆生稱念必得往生と釋して、かの佛いま現に成佛し給ひぬ、まさにしるべし、うまるまじくは正覺とらじとたて給ひしちかごとのをもさにかへて、うまれしめんとおぼしめす御ねがひむなしからずして、われら稱念せばかならず往生すべしといふ事をとの給へり。されば衆生の往生すべきによりて佛は正覺をとり、佛の正覺なり給によりて、衆生は往生をすべき也。このゆへに念佛申さんものの往生せんずる事は、はやすでに本願成就して正覺なり給し時より、ゆるぎなくさだまりてしかば、我らをみちびき給ふべき佛の御方便は、もとより、したためまうけられたるを、ただ衆生のかたよりあやぶみて、身を本願にまかせかねたる心のなまざかしさにこそ、けふまで往生もとどこほりぬれ。いまよりにても心をかずたへみをかけば、やがて本願には乘ずべし。本願にだにも乘じなば、又いのちをはらん時かの國に生ぜん事、いささかもうたがひあるべからず。それにつきては、本願に乘じて往生すといふことわりをこそ、よくよく心えわくべけれ。
「心おかず」気に掛けることなく、即ち、疑問に思うことなく、の意。]