金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 十日市 簑毛
十日市 簑毛
猪の江より一里半ゆきて十日市なり。この街道、富士・大山の道にて、夏は旅人もおほく、茶屋もあれども、常は坂東巡禮往來するばかりなり。
〽狂 ひやくせうの
みのげかいどう
なればとて
雨のふるのは
いとふたび人
旅人
「これはこれは。お前は、こんな山の中におくは、おしい者だ。なに、ご亭主はない。後家樣か、こいつ、いよいよ、おしいものだ。儂(わし)も女房なし、男の後家だから、なんと、ごけ・ごけとが、ごけあつて、ごけッこうなことをせうではないか。どうだ、どうだ。」
「イヤこの男は、ごけごけとしたことをいふ。上(かみ)さん、此男はよしなさい。こいつよりか、儂(わし)のほうがよつほど男振(ぶ)りがよからうから、儂の方(はう)にきめなさい。さあさあ、いやか、おふか、返事次第(しだい)じや。代(だい)をおくか、おかぬか、二つに一つの、女め、返答はなんとだゑゝ。」
十日市より簑毛まで一里半。簑毛より大山廿一丁目へいづる。この間に四十八瀨川(せがは)あり。馬(むま)にのりてよし。この道難澁(なんじふ)なれども、山水の景色いたつてよき所也。これより大山へかゝる。簑毛にも御師(おし)の家(いへ)あり。
〽狂 さく花はいろはの
四十八せ川風の手ならひ
ふきちらすなり
「此間も山の中で狼(おほかみ)に出あつた時、狼のいふには、わかい女ならくつても見やうが、年寄りの爺婆(ぢゞばゞ)ばかりでみな人間のくさりかゝつたのだから、一口(ひとくち)もくへぬ、といつてこまつたから、年寄りは、もふ、くはれる氣遣(きづか)ひはないが、わかい者はにげるがよい。狼ばかりでない、儂どもゝ婆(ばゞあ)をくふより、わかい女をくふのがうまひから、どうもこたへられぬ。」
「あそこで薦被(こもかぶり)のたほれたのをくつたら、胸がわるくなつた。おなじ薦被でも酒の薦被ならよい。それも劍菱なら、なをよいけれど。」
「お茶あがりませ。今朝(けさ)の煮端(にばな)でござります。」
[やぶちゃん注:「十日市」現在の秦野市本町四つ角附近。底本脚注に『五日、十日に市が立った』とある。
「坂東巡禮」坂東三十三観音巡礼。順礼用の古地図を見ると、第五番飯泉(いいづみ)山勝福寺の飯泉観音(小田原市飯泉)と第六番飯上山長谷寺の飯山観音(厚木市飯山)との巡礼路の間に、「そが」「いの口」「十日市」「みのげ」「大山」「ひなた」の地名を確認出来る(参照した古地図は個人ブログ「マルセ的世界」のこちらにあるもの)。
「ごけあつて」これは「後家」以外に、「こく」の意味を掛けているように思われる。「扱く」のしごくにコイツスのエロティクなものを、「放(こ)く」の卑俗な意の「する」、若しくは「転(こ)く・転(こ)ける」の「心がある人に傾く・惚れる」の意等が想起される。話者の品位の低さからはダイレクトな「しごく」辺りか(いやいや、品位が低いのは、そこまでかっぽじる私であった)。
「簑毛」秦野市蓑毛。表丹沢登山の起点として知られる。文句なしに懐かしい。私は二十三の時、同僚のワンダーフォーゲル部顧問の先輩教師に誘われて、ここから初めて本格の山登りを始めたのだった。……蓑毛からヤビツ峠へ、二の塔、三の塔、塔ヶ岳、そして丹沢山、翌日には蛭ヶ岳へ登ってユーシンを走って玄倉の最終バスに辛うじて間に合って、生徒と飛び乗ったのが忘れられない……二度と出来ない、強行軍だったが、忘れ難い、私の青春ででもあったように、思われるのである……。
「大山廿一丁目」蓑毛から少し行った位置をかく称し、そこから大山までの距離をも言っているものと思われる。「廿一丁」は約二三〇〇メートル弱であり、現在の地図上で蓑毛と大山山頂は直線距離で約二八〇〇メートルである。
「四十八瀨川」秦野市を流れる酒匂川水系の河川。秦野市北西部の鍋割山稜に源を発し、南流し、秦野市八沢(はっさわ)附近で中津川と合流、川音川となる。参照したウィキの「四十八瀬川」によれば現在でも景色のよい地として知られ、小田急ロマンスカーのポスター撮影地となっている、とある。
「御師」「御祈り師」の略敬称。特定の社寺に属して、信者のために祈禱を行ったり、参詣のための宿泊や案内などの世話・先達をする下級の神職。
「煮端」煎じたての香味のよい茶。でばな。にえばな。]
« 西東三鬼句集「變身」 昭和二十九(一九五四)年 一一一句 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(2) »