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2013/01/09

一言芳談 五十八

   五十八

 

 有云、心戒上人(しんがいしやうにん)、つねに蹲居(そんこ)し玉ふ。或人其故を問(とひ)ければ三界(さんがい)六道(だう)には、心やすくしりさしすへて、ゐるべき所なきゆへ也、云々。

 

〇心戒上人の事、禪林の十因に見えたり。(句解)

〇蹲踞、ついゐる事なり。とくとしりをすゑぬなり。

 うづくまる、つくばふともよめり。居は踞の字歟。火急の事ありて、耳をふたぎしこゝろ也。(句解)

 

[やぶちゃん注:「心戒上人」平宗親(たいらのむねちか 生没年不詳)の法名。鎌倉初期の聖。源有仁の流れを引き、平宗盛の養子となって阿波守となったが、文治元(一一八五)年の平氏滅亡とともに遁世、心戒房と称し、重源の伝を辿って宋に渡り、帰国後は居所も定めず、諸国を流浪し、一説に陸奥で行方を断ったという。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の最後には、その行動と言談は聖の典型として「一言芳談」に載る、とある。彼については鴨長明の「発心集」巻七の十二に以下のように載る。

 

十二 心戒上人、跡を留めざる事

 近く、心戒坊とて、居所もさだめず雲風に跡をまかせたる聖あり。俗姓は、花園殿の御末(すへ)とかや。八嶋のおとどの子にして、宗親とて、阿波守になされたりし人なるべし。昔年(そのかみ)はいかなる心かありけん、平家ほろびて、世の中・目の前に跡かたなく、あだなりしに、もとより世をそむける佛性坊と云ふ聖に逢ひともなひて、高野に籠り居て、年久しく行はれけり。其の後、大佛の聖、唐(もろこし)へ渡りけるを、たよりにつきて渡る。彼の國に年比ありて、行ひける有樣も世の常の事にあらず。偏へに身命(しんみやう)を惜しまず。或る時は、樹下坐禪とて、同行(どうぎやう)三人具して深山に入りて、草引き結ぶほどの用意だになくて、偏へに雨露に身をまかせつつ、四、五十日と行ひければ、今二人はえ堪へずして、捨てて出でにけりとぞ。其の後、此の國へ還りて、都邊は事にふれて住みにくしとて、常には、えひすか・あくろ・津輕・壺碑(つぼのいしぶみ)なんど云ふ方にのみ住まれけるとかや。妹あまたおはしけるに、天王寺に理圓坊とて住み給ふは、昔、建禮門院に八條殿と聞こえし人なるべし。彼の聖のありさま、山林にまどひ來て、跡を求めず。さとばかり、ほのぼの聞こゆれど、近比は、對面などせらるる便りもなければ、『いかでかおはすらん。』、知らず。ひたすら昔語りに過ぎ給ひけるに、此の二、三年が先に思ひよらぬ程に、世にゆゆしげなる人の入り來るあり。童部(わらんべ)あまた、後にたてて、「物くるひ。」と笑ひののしる。其の樣を見れば、人にもあらず、瘦せくろみたる法師、紙ぎぬの汚なげにはらはらと破れたる上に、麻の衣のここかしこ結び集めたるを僅かに肩にかけつつ、片(かた)かた破れ失せたる檜笠(ひがさ)を着たり。「あないみじ、こは何者の樣(さま)ぞ。」と思ふ程に、年來(としごろ)おぼつかなく心にかかる心戒坊なりけり。これを見るに、目もくれて、あはれにかなしき事限りなし。まづ、さてまぢかく見ん事もかはゆき樣なれども、古き物どもぬぎ捨てなんどして後なむ、閑かに年來のいぶせさも語られける。「今は年もたかくなり給ひたり。行ふべき程はつとめて過ぎ給ひぬ。いづこにもしづまりて、念佛など申されよ。」とねんごろにいさめて、山崎に庵一つ結びて、小法師(こぼふし)一人つけて、其の用意など彼の妹の沙汰し、おくられければ、主從ながら月日を過しける程に、或る時、河内の弘川(こうせん)に住む聖とかや、尋ねて來けり。これも對面(たいめ)して、終夜、物語せられけるを、此の小法師、物を隔てて聞けば、「かくてもなほ、後世は必ず修すべしとも覺えず。事にふれて障りあり。ただ、もとありしやうに、いづくともなくまどひありき、聊かも心をけがさじと思ふ。」など語りければ、あやしと思ひけれど、忽ちにあるべき事とも思はで過ぐる程に、其の四、五日ありて、いづくともなく失せにけり。此の小法師、心ある者にて、いと悲しく覺えて、泣く泣く尋ね行きけれど、いづくをはかりともなし。「ありし夜の物語の中に、丹波の方へとやらん、聲先(こゑさき)ばかりわづかに聞きしものを。」と思ひ出でて、志しのあまり、尋ね行きける程に、穴太(あなう)と云ふ所にて尋ね合ひにけり。聖、おぼえず、あきれたるけしきにて、「いかにして來たるぞ。」と云ひければ、「日來(ひごろ)もさるべきにてこそ仕うまつりつらめ。いかなる御有樣にても、御伴申し候はん。」なんど、志し深くきこゆ。志しはいといとありがたくあはれなり。しかあれど、いかにも叶ふまじき由もてはなれて、まさしく違(たが)ひぬべき樣なりければ、力無くてかへりける。後、更にその行末もしらずなむ侍りし。いと尊く、今の世にもかかるためしも侍れば、これを聞きて、我が心のおろかなる事をも勵まし、及びがたくとも、こひねがふべきなり。(以下、長明の心戒の生き様に対する論評が展開されるが省略する。)

 

・「八嶋のおとどの子」平宗盛。

・「大佛の聖」重源。東大寺大仏復興勧進再建で知られる。

・「えひすか・あくろ」不詳。ここは「夷が悪路」で地名ではなく、東北地方一帯を総称しているのかも知れない。

・「壺碑」現在の宮城県多賀城市市川にある多賀城近辺。坂上田村麻呂が大石表面に矢尻で文字を書いたとされる石碑があるとされた歌枕。

・「河内の弘川」大阪府南河内郡にある真言宗醍醐寺派竜池山弘川寺。西行終焉の地として知られる。

・「聲先ばかりわづかに聞きし」ちょっとだけ小耳に挟んだ。

・「穴太」近江比叡山山麓にあった穴太ノ里(あのうのさと)。現在の滋賀県大津市坂本穴太(あのう)。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊に当たり、安土桃山時代に活躍した石工集団穴太衆の出身地として知られる。穴太衆は古代古墳築造などを行っていた石工の末裔とも言われる。特に描かれていないが、小法師が捜し当てた心戒は、そうした石を切り出した岩窟で静かに念仏を唱えていたような気がするのである。

 次に「徒然草」第四十九段を引く。

 

 老來りて、始めて道を行(ぎやう)ぜんと待つことなかれ。古き塚は、多くは少年の人なり。はからざるに病ひを受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、初めて過ぎぬる方の誤れる事は知らるれ。誤りといふに、他の事にあらず、速やかにすべきことを(ゆる)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時、悔ゆとも、かひあらんや。人はただ、無常の身に迫りぬることを、心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、佛の道を勤むる心もまめやかならざらん。

 『昔ありける聖(ひじり)は、人來りて自他の要事(えうじ)を言ふ時、答へて曰はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕(あしたゆふべ)に逼れり。」とて、耳をふたぎて念佛して、遂に往生を遂げけり』。と、「禪林の十因」に侍り。心戒といひける聖は、餘りに、この世のかりそめなる事を思ひて、靜かについゐけることだになくて、常はうづくまりてのみぞありける。

 

これは御覧の通り、これは明らかに「一言芳談」からの孫引きである。標註にも出る「往生十因」は注済であるが、平安後期の三論宗の東大寺僧侶、永観(ようかん 長元六(一〇三三)年~天永二(一一一一)年)の撰。一巻。念仏が決定往生の行であることを十種の理由(因)をあげて証明し、一心に阿弥陀仏を称念すれば、必ず往生を得ると明かした書で、法然の専修念仏の先駆として注目される書である。

 

「蹲居」蹲踞。所謂、尻を下につけることなく、うずくまること、しゃがむことを言う。

「三界六道」「三界」は一切の衆生が生成消滅する全宇宙で、欲界(淫欲と食欲の二様の欲望に捉われた有情の住む空間。六欲天から人間界を含んで無間地獄までの世界を総称する)・色界(しきかい:欲界の二つの欲望は超越しているが、未だ色(物質的属性)に捉われた有情が住む空間。ここ禅定の階梯により大きく四禅天に分けられ、更にそれが十八天に分れる)・無色界(欲望も物質的様態も超越し、ただ精神の存在となったものが禅定の状態で住している空間)。「六道」は善悪の業によって輪廻するより個別な地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界。但しここでは「三界六道」で、この世、現世、現実世界の限定的意味で意で用いている。]

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