耳嚢 巻之六 女妖の事
女妖の事
萩原彌五兵衞御代官所下總國豐田郡川尻村名主新右衞門家來、百姓喜右衞門後家さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳になり、新右衞門方にて召仕(めしつかひ)同樣いたし置(おき)けるに、同村吉右衞門迚(とて)五十六歳になりける者と、一兩年此方(このかた)心易(こころやすく)、夫婦になり度(たき)由さきより新右衞門の内に願ひけれども、年寄の事あるべき事にもあらずと、差押取合(さしおさへとりあは)ざりけるが、吉右衞門と申合(まうしあひ)、駈落(かけおち)もいたすべき風聞ありければ、新右衞門も止(やむ)事を得ず、さきが願ひにまかせ吉右衞門を入夫(にふふ)になしける由。鈴木門三郎廻村の節、新右衞門墓所に右さき居合(ゐあひ)候を見をよびしが、齒は落不申(おちまうさず)、鐡漿(かね)黑く附(つき)て、頭は白髮にて、立廻りは五十歳位にも見へしと、門三郎かたりぬ。所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交(まじは)りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:享和年間の出来事で連関。ハッスルさきおばあちゃんのお話で、都市伝説というより、記述の仕方が、地下文書風で、最後の一文の興味本位の叙述を除き、事実譚として捉えてよい。
・「萩原彌五兵衞」「萩原」ではなく荻原が正しい(訳では訂した)。荻原友標(ともすえ 寛保元・元文六(一七四一)年~?)。底本の鈴木氏注に、『明和二年(二十五歳)家督』(明和二年は西暦一七六五年)、『六年御勘定、八年御代官に転ず。享和三年武鑑に、常陸下総の代官と出ている』とあるから、享和三(一八〇三)年とぴったり一致し、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、極めてホットな噂話でもあることが分かる。
・「さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳」さきちゃんの生年は享保六(一七二一)年になる。
・「下總國豐田郡川尻村」現在の茨城県結城郡八千代町川尻。底本の鈴木氏注に、『豊田郡は旧名岡田郡。延喜式には豊田郡で出ている。その後郡名を失ったが、徳川幕府の初め、鬼怒川の東を豊田、西を岡田郡とした』とある。
・「吉右衞門迚五十六歳」さきちゃんより二十七歳も若いきっちゃんの生年は寛延元・延享五(一七四八)年となる。
・「鈴木門三郎」既出。勘定吟味役として主に治水のために廻村していたことが、本巻の先行する「老農達者の事」に出る。リンク先を参照されたい。
・「所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。」この部分底本では尊経閣本で( )部分を補った形で、
所にては、吉右衞門も夫婦になりて、(夜の□りには)をくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。
であるが、如何にもな伏字といい、気に入らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
所にては、「吉右衛門も夫婦に成(なり)て、夜の契りにはをくれのみ取(とり)ていと迷惑す」と語り、「まのあたり交りをも見て驚ろきし」と語るものありしが、是(これ)は流言や、誠しからずとかたりぬ。
であり、後者を主に前者と混淆させて表記した。例えば、底本「語る」と「かたる」の違いは、後者が猥雑なる流言を「騙る」の謂いをも利かせてくるので、そちらを採っておいた。
・「をくれのみとりて」あっちの方では、常に八十三のさきちゃんにリードされて。
■やぶちゃん現代語訳
女妖の事
荻原弥五兵衛殿が勤めて御座った御代官所、下総国豊田郡川尻村名主、新右衛門が家來、故百姓喜右衛門の後家に、『さき女(じょ)』と申す者、享和三年の亥の年で八十三歳になり、新右衛門方にては亡き喜右衛門の縁者なればとて、召使い同様に養(やしの)う御座ったが、同村の吉右衞門とて五十六歳になったばかりの者と、この二年ほど心易うして御座ったが、突如、
「……吉衛門さまと、夫婦(めおと)になりとう存じます。……」
と、かの、さき女より主人新右衛門へ願い出て参った。
されども、
「……何を血迷うておるのじゃ?!……棺桶に片足突っ込んだ八十三の年寄りのことなれば、……そ、そんなことは、あるびょうことも、はっ! あらざる仕儀じゃ!」
とて、許さず、
「年よりの世迷言(よまいごと)じゃ! 呆(ぼ)けたかのぅ、あの婆あも……」
と、全く以ってとり合わずに御座ったところが……
……さき女、何と!
「……御主人さま……そ、その……さき……で御座いますが……村にては……何でも……吉右衛門と申し合わせ……か、駈け落ちをも辞さぬらしい……と……専らの噂にて……へえ……」
という風聞を下男の者より小耳に挟んだゆえ、新右衛門も止むを得ず、さき女が願いにまかせ、吉右衛門を入り聟(むこ)に成して御座った由。
例の勘定吟味役鈴木門三郎殿が廻村の節、新右衛門が先祖の墓所に参じた際、この、さき女が居合わせて御座ったを実見に及んだとのことで、
「……いや、もう、……歯なんどは、これ、一本たりとも欠いておらず、お歯黒もきりりと粋に黒うつけて……流石に、頭は白髪(はくはつ)にては御座ったれど……その立ち居振る舞いなんどは、これ、五十歳位にしか見えず御座った。……オッホン……その……それから附言致しますると……川尻村在所にては――吉右衛門自身が『夫婦(めおと)になって、その夜(よる)の契りの方にては、常に遅れのみとって、大層、迷惑致いておる』と申したとか――また、忌まわしくも――『目の当たり、二人の交わりをも見たが、その、さき女の、いや、凄いこと! これには!驚ろいた!』――なんどと語る者も御座いましたが、これはまず、……騙り流言の類いかと思われ、誠にては御座りませぬ。……」
と、門三郎殿の語って御座った。