一言芳談 五十九
五十九
松蔭(まつかげ)の顯性房云、渡(わたり)に出(いで)たる舟に行(ゆき)あひたるは、先(まづ)つかみつきて、のるほかに別(べち)の手なし。今生(こんじやう)の愛河(あいが)をわたらんとおもふに、彌陀の名號の聞(きき)得つる上には、仰信(かうしん)して稱名するほかには別(べち)の樣(やう)なき也。なまざかしき智惠に損ぜらるゝ事を、眞實(しんじつ)におもひしること人ごとになきなり。
〇先づつつかみつきて、蓮宗寶鑑云、逢舟濟沈論難。詎可遅疑。十困云、人値急難得一方便、應早速離。何暇論談。行者亦爾。旦暮難知。不雜餘言、勵聲念佛、當自有證。無常すみやかにして、地獄とほからず。はやく念佛に取りつくべし。
〇なまさかしき、あたら本願にあひながら、機をもつたなし、心もよわし、行もゆるしなどいひて、はかばかしく念佛申すことはなし。是はなま物知りの智慧にそこなはるゝなり。
[やぶちゃん注:「松蔭の顯性房」大橋氏脚注に、『湛澄は「善意上人弟子。長門に住す」 とする。しかし『浄土伝燈総系譜』に、明遍の弟子四人をあげ、その中、浄念に「松蔭住」とあるから、顕性は明逼の弟子ではあるまいか。』と解説されておられる。「松蔭」は地名で、現在の京都市上京区松蔭町か。Ⅲでは「せういん」とルビを振る。現在の松蔭町は「まつかげちょう」と読む。
「先(まづ)」副詞のように訓じているが、これはまず、舟の舳先の意味で、それに副詞の意を掛けているようである。
「愛河」愛欲などの執着が人を溺れさせるのを河に譬えた語。
「仰信(かうしん)」山崎弁栄(やまざきべんねい 安政六(一八五九)年~大正九(一九二〇)年):浄土僧。光明主義運動の提唱者。十二歳の時、空中に弥陀三尊を想見、二十一歳で出家して東京に遊学、筑波山で念仏行の修行をして三昧発得を体験した。その後一切経を読破し、明治二七(一八九四)年にインド仏跡参拝を行い、帰国後は独自の伝道活動を展開した。)の「人生の帰趣」に、『仰信とは天然素朴の人にも本来仏性あり、未だ顕動させざるも、伏能として存す。ミオヤの真理を聞いて一心一向に仰いで信じ、信頼する時は必ず救済に預ると平に思ひ込んで毫も疑ひを挾まざるが如きは仰信と云ふ』とある(山口県柳井市の長命寺のHP内の「人生の帰趣 0416」から孫引き)。
「蓮宗寶鑑云、逢舟濟沈論難。詎可遅疑。十困云、人値急難得一方便、應早速離。何暇論談。行者亦爾。旦暮難知。不雜餘言、勵聲念佛、當自有證。」をⅠの訓点を参考に読み下しておく。
「蓮宗寶鑑」に云はく、『舟、沈論の難を済ふに逢ふに、詎(なん)ぞ遅疑す可き。』と。「十困」に云はく、『人、急難に値つて一(いつ)の方便を得ば、應に早速に離るべし。何の暇(いとま)に論談せん。行者も亦、爾(しか)り。旦暮(あけくれ)、知り難し。余言を雑へず、聲を勵(れい)して念佛せば、當に自(おのづ)から證有るべし。』と。
「蓮宗寶鑑」は元の浄土教結社白蓮宗廬山東林寺の普度が著した「廬山蓮宗宝鑑」。十巻。白蓮宗の創始者は南宋孝宗期の天台宗系の慈昭子元だが、当初から国家からも既成教団からも異端視されていた。それは、半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたからだとされる。教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる(マニ教は中国には六九四年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記された。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立している)。普度は「廬山蓮宗宝鑑」を以って大都に上京、白蓮教義の宣布に努めて布教の公認を勝ち得たが、白蓮宗はじきに禁止の憂き目に遭った。白蓮教は元代には呪術的な信仰とともに弥勒信仰が混入して変質、革命思想が強くなり、何度も禁教令を受けている(以上はウィキの「白蓮教」に拠った)。
「人ごとになきなり」この「ごと」は接尾語で「~もみな」の意。従って「誰一人としていないのである」の謂いである。]
« 芥川龍之介新発見句 尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま | トップページ | 西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅰ »