一言芳談 五十二
五十二
又云、或人たづね申云、一向に後世のためと思ひてし候はん學問いかゞ候べき。仰云、始は後世のためと思へども、後には皆(みな)名利(みやうり)になるなり。
折々(をりをり)被仰(おほせられて)云、某(それがし)が身には、此(この)御山(みやま)に居初(ゐそ)めたりけるが、惡事にて候ける。遁世しなん後は、ほたの上に、味噌燒きなどうちをきて、はさみくふ風情にて有なんずるとこそ思ひしに、かへりてやの物になりて、ゆゝしげなるありさまにて候事、本意(ほんい)相違の事也。これは内心をばしらず、か樣(やう)にて閉籠(とぢこもり)たる體(てい)に候(さふらふ)事を、人の心にくゝおもへる故なりとて、にがみたまひしなり。
〇此御山、高野山なり。明遍僧都は蓮華谷(れんげだに)にこもり給ひしなり。
〇ほたの上に、ほたは榾の字、(句解)木の切れ端。
〇ゆゝしげなる、忌々敷と書く也。いまいましき也。處によりて心かはる也。
〇にがみたまひし、にがにがしきかほなり。
[やぶちゃん注:既出であるが、法然門下の浄土僧明遍(康治元(一一四二)年~貞応三(一二二四)年)は藤原信西の子として生まれた。号は空阿弥陀仏。平治元(一一五九)年、十七歳の時に平治の乱に逢い、父は斬首、彼も越後国に配流となった。後に赦免されて東大寺で三論宗を学んだが、五十歳を過ぎてから遁世して高野山に入山、蓮花三昧院を開創した。法然門下となり専修念仏に帰依した時期については不明。著作として「往生論五念門略作法」などがあるが現在は残されていないことから(以上は主にウィキの「明遍」に拠った)、この「一言芳談」の多くの直談は非常に貴重な彼の肉声と言うべきである。]
「高野山蓮華谷」Ⅱで大橋氏は、『(和歌山縣伊都郡高野町高野山明遍通り)。明遍は、はじめ蓮華谷で修懺堂を営み隠棲したが、やがてその貴族的出身と学識と道心とが評判となり、たちまち高野聖の偶像になった。のち明遍の住房蓮華三昧院は御庵室または主君寺と呼ばれ、慶長年間(一五九六-一六一四)まで、春秋二季に御堂講を営んでいたという。』と、本条と照らし合わせる時、目から鱗の脚注をなさっておられる。これこそが創造的注釈の鑑である。
「ほた」Ⅱは「ほだ」と濁るが、Ⅰ及びⅢを採った。焚き火。
「かへりてやの物」意味が採り難い。Ⅰでは非常に分かり易く「道心者(だうしんじや)」とある。大橋氏によると、続群書類従本では『「道の物」とある』とされ、この『「やの物」なる邦語、一般には見当たらない。「非人」が遁世者、求道者を意味するのと同じように、「谷者(やのもの)」すなわち階級外の身分最下の物を指した語に由来するか。』と考証されておられる。私は寧ろ「野の者」(「野」には品位が落ちる・賤しいの意が普通にある)のように感じられるが――私自身、昨年四月より「野人」となったによって、親しい言葉ではある――如何?]