一言芳談 五十
五十
敬佛房云、後世の事は、たゞしづかに案ずるにあるなり。
むかしの坂東(ばんどう)の人、京に長居しつれば、臆病になる也。これ後世者の才覺也。身しづかに心すむなどいふ事は、いさゝかなれども、名利をはなれてのうへの事也。然(しかる)を幽玄(いうげん)なる棲(すみか)にうそぶきたるばかりをもて、心のすむと執(しふ)するが故に、獨住(どくぢゆう)の人おほくは、僻事(ひがごと)にしなす也。
〇臆病になるなり、關東の者は大膽にて、命をかろく持つなり。京はしづかなるところにて、常住の思(おもひ)になりて、命が惜しくなるなり。その如く初心の人、庵室(あんじつ)にこもりては心のすむやうなれども、常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。
〇幽玄、しづかなる境。(句解)
[やぶちゃん注:これを一段落目を「用心」、二段落目を「三資 居服食」に分解しているⅠ、この湛澄の仕儀は、はっきり言ってとんでもなく無理な編集と言わざるを得ない。
「坂東」足柄峠と碓氷峠の坂から東の意。関東の古称。ここには台頭してきた武士階級、特に坂東の荒くれ武者のポジティヴなイメージが強く働いているように感じられる。
「棲」Ⅱ・Ⅲは「樓(ろう)」とするが、採らない。
「うそぶきたる」この場合、私は本来の「嘯(うそぶ)く」の意である詩歌を小声で吟じるの意で採り、幽邃(ゆうすい)な地に隠棲をやらかし、風流を気取って詩歌を嘯いているだけの体たらくの中で、の謂いと採る。大橋氏は恐らく「うそぶく」を、偉そうに大きなことを言う、豪語するの意で採られたものか、この前後を『それなのに幽玄な住居に住み、修行めいたおおげさなまねをするだけで、こころがおちつくと思い込んでいるために』と訳しておられるが、私にはこの訳は支持出来ない。
「僻事にしなす也」「僻事」は古くは「ひがこと」とも呼んだ。道理や事実に合わないこと、まちがっていることであるから、誤った理解をしているのだ、心得違いをしているのである、の意。
「常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。」言わずもがなであるが、この標註の中の「常住」は所謂、永遠不変なこと、変化しないで常に存在することという常住涅槃の謂いではない。文脈は――「常住の思」いに執着するようになって知らず知らずのうちに「命が惜しくなる」のである――その「念」を忘れないうちは「心」が真に澄むということはないのである――と言うのだから、この「常住」は逆に、文字通りの「いつもそこに住んでいること」「普段」「日常」の謂いである。]