火野葦平 英雄
全く偶然であるが、「耳嚢 巻之六」でも「英雄の人神威ある事」及び同「又」で、加藤清正絡みのところに、本作を電子化、注で大いに清正公の勉強をした。根岸と火野に感謝する。
*
英雄
そのときの騷ぎにはほとほと閉口したけれども、見てゐると面白くもあつたので、わしはしばらくの不自由をがまんして、暫時(ざんじ)、綠川のほとりに滯在した。
(――と、かく語る者はいまは、球磨川(くまがは)にあつて、すでに甲羅七百年を經てゐるといふ古河童不禪坊(ふぜんばう)ある。背の甲羅には蓑のごとき毛が密生し、皿をつつむ頭髮は棕櫚(しゆろ)のごとくかたく長く赤く、嘴が異樣にふくらんで巨大なので、かれは仲間から廣大な尊敬をはらはれてゐる。しかしかれはその重々しい歴史の堆積にいたづらに尊大ぶることもなく、ただわけ知りもの知りの古老として、昔の思ひ出ばなしでときどき後輩を惱ます程度の活躍しかしなかつたので、恐れられてもきらはれてもゐなかつた。彼の圖體のものものしい威嚴にもかかはらず、格段にほそい眼にはきはめて人なつこい柔和な光をたたへてゐたので、まだ頭の皿の形もととのはぬ童子たちからもなつかれた。筑後川の頭目九千坊、阿蘇の奈羅延坊(ならえんばう)とともに、河童の三豪であるが、前二者のやうに權勢にたいする欲望も色氣もなく、かへつて年古るとともにその追憶と教訓とがあまりに豐富になりすぎて、もてあましたやうに、面倒くさいので早く死にたいのだなどと、まんざら冗談や強がりでなくいつたりもしてゐるのであつた。しかし死ぬやうな目に出あふとやつぱりいつか本能的にこれを避けるので、齡(よはひ)をかさねるばかり、苦笑するばかりで、いよい古びはてるわけである。いつも退屈さうにしてゐるが、どこの古老もさうであるやうに、昔話だけは胡瓜よりも好きである。そこで、今日も秋晴れの水底に孫のやうな河童たちをあつめて、昔ばなしを、……まるで巨大な頁を持つた書物をあてずつぱうにひらいて、どこからでも勝手に讀みはじめるやうな具合に、ひよつくり頭にうかんだところから、はじめてゐるのであつた。かれが、そのときといつてゐるのは、どうやらいまから三宮年ほど前のことらしい[やぶちゃん注:「そのとき」は底本では傍点「ヽ」。]。むぐりむぐりとふくらんだ嘴をうごかすたびに、靑豆のやうな鼻孔から水晶玉のやうな大小の泡がくるくる舞ひながら、つながつて、あかるく水底まで透してくる水面の陽光にむかつてのぼつてゆく。水藻のながれるのはあるが、魚の姿は見えない。)
……その騷ぎといつたら、ちつとやそつとのことではなかつた。はじめわしはわけがわからなかつたが、直接自分にひびいて來るやうな途方もない亂暴をされて、しまひには腹が立つて來た。わしの棲家(すみか)たる綠川はその騷ぎのために、棲むことができなくなつたのだ。なにしろ、川上から毒をながす。灼熱(しやくねつ)した石を淵といふ淵に投げこむ。なにか爆發する花火のやうなものを淀みに落しこむ。大砲や鐡砲を土手や橋や舟のうへからやたらに川の中に投げこむ。これではさすがのわしも水のなかには居られない。そこで中流の淵のうへにある瀧口にあがつて、高いところからこの阿呆たらしい騷動をながめてゐたのだ。ところが、そのうちにこの騷動の原因がやつとわかると、さすがのわしも啞然となつてしばらく口がふさがらなかつた。なんと、その途轍もない川狩りこそは、河童退治、つまりこのわしを征伐するための大騷動だつたのだ。そして何日もつづけられるその騷ぎをながめてゐるうちにわかつて來たことは、ざつとこんなことだつた。ときの熊本の殿樣加藤淸正が寵愛(ちようあい)してゐた一人の小姓があつた。女にしてもよいやうな、たいそう顏立ちの美しい少年で、淸正が眼のなかに入れても痛くないほど可愛がつてゐたといふ。なんとかいふ名前だつたが、それは忘れた。わしにはそんな人間界のことはよくわからんが、なんでも淸正の稚兒(ちご)とかいふことで、その小姓がゐなければ夜も日もあけぬ始末、その鼻毛を拔かれてゐる恰好はほとほと近親者の眼にあまつてゐたとのことだつた。その小姓が或る日この川を渡船でわたらうとして、落ちて溺れたのだ。さういへば金絲銀絲のぴかぴか光る元綠模樣の着物をつけた若い侍が土左衞門になつて、川下へながれゆくのを見たことがある。わしも昔は人間の尻子玉(しりこだま)に興味をもつて、ときどきはいたづらをして人間を川に引きこんだりしたこともあつたのだが、そのころはもうとんと倦(あ)いてしまつてゐたので、その土左衞門が干潮とともに海の方へ出てゆくのを見はしたが、格別氣にもとめなかつた。ところがその小姓の溺死は加藤淸正をいたく悲しませ、そして怒らせた。淸正は悲しんで、そして怒りだした。無茶苦茶に怒つたのだ。それは阿蘇山の爆發に似てゐた。淸正は小姓を川へ引きこんだのがてつきり河童のしわざときめた。忠義な家來のなかに、さういふ意見を述べる者があつたうへに、そのとき同じ渡船に乘りあはせてゐた者で、たしかに河童が引いてゆくのを見たといふ者が三人もあらはれたのだ。證人の一人は小姓の袴を水かきのある手がつかんでゐるのが見えたといひ、一人は子供の月代(さかやき)のやうな河童の頭の皿が、二度も小姓の落ちこんだ場所で浮きあがつたと述べた。きらに一人は獲物をとらへたときにいつも河童の覆する、キチックック、キチックックといふよろこびの聲をはつきり聞いたと述べた。かくなつてはもはや疑ふ餘地はないのである。これまでにもこの川で河童の害にあふ者が少くなかつたうへに、寵臣をさらはれた豪勇のきこえ高い城主は、おのが領内に棲みながら、領内の民に害をなすとは不屈至極と、徹底的な河童征伐を思ひたつたのだ。ところが、この綠川にはわしよりほかには河童は一匹もゐなかつた。もとはゐたらしかつたが、いつかどこかへ移住したとみえて、ついぞ仲間を見かけなかつた。そのわしは生まれてから二百年ほどの問は、人間をからかふのも面白かつたが、その後はすつかり興味を失つてゐたので、殿樣の怒つたやうに、ここ二百年ほどは領内の者に害を加へたことはさらになかつたのである。わしは綠川の一人暮しがほんに氣樂で、大半は眠つてばかりゐたし、起きてゐるときも欠伸(あくび)をするのが仕事で、人間などに見むきもしたことはない。綠川は川幅がせまく、曲り角の多い急流で、ところどころ瀨や淵や瀧や、ものすごい渦を卷いてゐる箇所があり、平穩な川とはいへなかつた。水底には岩石が山脈のやうにつらなつてゐるところが多く、よほど熟練した船頭でないと、安全に水路を乘りきることはできないのである。したがつて年に數囘の事故の絶えたことがなく、水死人も出たわけであるが、それがありがたくないことにみんな河童のせゐにされた。しかもその河童を確實に見たといふ者が何人も出て來るのだからしかたがない。ところが年功經たわしが人間から姿を見られるといふことは絶對にないわけで、人間たらがまことしやかに述べる河童の姿といふものは、このわしとは似ても似つかぬものだつた。といつて、人間どもが河童にあらぬ濡衣(ぬれぎぬ)をきせたところで、別段わしにとつてどうといふこともないわけだつたので、ふだんはわしもただ苦笑してゐるだけで、人間どもの勝手にまかせておいた。ところが、今度ばかりはさうのんきにはして居られなくなつたのだ。愛する小姓を殺された城主が河童退治を思ひたつと同時に、早速實行にとりかかつたからだ。加藤淸正とい大將の武勇傳はわしも聞いたことがある。朝鮮で虎を退治た話だの、地震のまんなかに飛びこんで行つた話だの、赤ん坊のときに重りにつけられてゐた石臼をずるずる引きずつて遊んだ話だの、みんな獰猛(だうまう)な話ばかりだつた。膝までとどく長い顎髭をたらし、賤(しづ)ヶ嶽では七本槍の筆頭として鳴らし、大身の槍をりゆうりゆうとしごく姿は人をふるへあがらせたといふ。そんな有名な大將が怒髮(どはつ)天をつくいきほひで、河童征伐を思ひたつたのだから、そのはげしさは言語に絶してゐた。まづ綠川の兩岸に甲胃(かつちう)に身をかためた數千の軍勢がくりだきれた。旗さしものをひるがへし、刀、槍、弓矢、織砲をたづさへた兵隊たちは、十數隊にわかれ、各段長の指揮のもとに、部署についた。陣太鼓がうち鳴らきれ、法螺貝(ほらがひ)のひびきがあたりに鳴りわたつた。總大將の加藤淸正は、緋おどしの鎧に、赤い陣羽織、烏帽子兜に馬割靴、自慢の槍を片手に綠川の中流にある八幡神社に出ばつて、みづから采配をふるった。本陣には蛇の目紋章入りの幕が張りめぐらされた。附近の町民や村民は徴發されて人夫となり、櫓を組み、兵粮をはこび、炊きだしをした。米麥、野菜、副食物、水、薪、牛、馬、その他の供出を命ぜられた。町や村の娘たちは、陣中の兵隊の伽(とぎ)をするために狩りだされた。酒樽がはこばれて、鏡が拔かれ、氣勢はさらにあがつた。夜になると、あかあかと篝火がたかれ、つらなつた兩岸のその明りは川の面に映じて、ときならぬ火の亂舞を現出した。攻撃がはじめられる。隊長の指揮にしたがつて、數十隊にわかれた鐡砲隊は、命令一下、河中にむかつて一差齊藤射撃をした。土手に据ゑられた大筒から、砲彈が水しぶきをあげて川に射らこまれた。向かふ鉢卷をした十數名の村民が土手の上から川のなかへ、屁つぴり腰で唾(つば)をはく。その唾が散つたならばその下に河童はゐないが、唾がかたまつたままくるくる舞ふと、その下にかならず河童がゐるといふのである。ときどき唾はくるくる水のいきほひで廻る。するとそれとばかりその下にむかつて大砲と、數十挺の鐡砲がうちこまれ、爆雷が投げこまれる。飛沫は散り、水柱が立ち、すさまじい轟音は川を中心にして附近の村々山々にとどろきわたつた。川上からは毒がながされて、川の水は紫色になつた。なんの毒であらうか。淸正は南蠻わたりの祕藥を多く藏してゐるときいたこともあるので、或ひは舶來の劇藥かも知れない。韮(にら)に似た臭氣がして、たちまちに川の面には魚たちが白い腹を横にして無數に浮きのがる。魚類はもとより、蝦、蛙、源五郎、鰻(うなぎ)、水すまし等水中に棲息するあらゆる動物は全滅した。ところが河童の死骸は一匹も出て來ないのである。多くの小舟が浮かべられて、熊手や鉤(かぎ)のやうなもので水底が搜索された。投網(とあみ)がうたれた。河童はかかつて來なかつた。川岸の數箇所で、石燒きがはじまつた。薪が山と積みあげられ、えんえんと焰が狂ひ、巨大な數千の石がそのなかで熱せられた。また家のやうに大きな釜で熱湯がわかされた。石も湯も綠川のなかに投げこまれた。河童は湯にあへば力落ちて死ぬるといふことが文獻にあらはれてゐるといふのである。ところがこの事業は生やさしいことではなかつた。眞赤に燒けた巨岩を川岸まで運ぶために、鐡の車が用意されたが、燒石を車にのせるために多くの兵隊や村民が火傷する始末だつた。ときにはうまく車にのらず、轉げ落ちた石の下敷になつて、何人もが壓死した。熱湯をあびてただれる者も少くなかつた。日夜椿事は相ついで、被害者の數は増すばかりである。ところでいかに細い川とはいへ、流れてゐる川を燒石と熱湯とで湯にしようといふことはまづ無謀といつてよかつた。上流をせきとめて川を干すことが考へられた。ところが、せきとめられた上流の水ははけ口がなくて、附近の町や村へ洪水をもたらした。田畠は水につかり、疊の浮く家ができた。水に追はれた領民たちは家財道具を積んで避難した。そのため本流の水は減つたけれども、河童の姿はあらはれなかつた。毒ながし、燒石、熱湯、砲撃、爆雷、集中射撃等はたゆまず續けられた。この川の魚をとることによつて生活してゐる多くの漁夫もゐたわけであるが、さういふ連中がもはやその職を失つたことはいふまでもない。のみならず彼等はそのときには川の練達者として案内人に徴發され、あちこちに唾をはき散らしては、水底にするどく眼を放つてゐたのである。夜に入ると天をこがす篝火のあかりとともに、喧騷はさらに絢爛(けんらん)さを増した。どんな盛大な祭だつて、これほど派手ではあるまい。八幡境内のはりめぐらした幔幕のなかにどつかと腰をすゑた大將加藤淸正は成果のあがらぬもどかしさに、いらいらと唇を嚙んでゐた。部下を叱咤激勵した。怒りに燃える狂氣のまなざしで、家來どもの無能を罵倒した。多くの猿の鳴き聲がきこえて來て、わしも眼をみはつた。どこからこれだけの猿があつめられたのか、うようよとつながれた千匹にちかい大猿小猿が、どんぐり眼を廻轉させ、齒をむきだして、けたたましく叫びかはしながら、川の南岸に群れてゐた。河童と猿と對決させるつもりであらうか。なるほど猿に負ける河童もあるにはある。どこもいろいろな物識りが居るとみえる。わしはこれらの一份仔什(いちぶしじゆう)を瀧口のうへに胡坐(あぐら)をかいて見物して居つた。そこは淸正の本陣のすぐ上なのに、わしの姿はたれにも見えない。ここは特等席だから、一切の騷動が手にとるやうにわかる。つまりはこの途轍もない動員と騷擾(さうぜう)はわしひとりのためにおこなはれて居るわけなのだ。わしははじめはくすぐつたかつたり、をかしかつたり、あきれたり、面白かつたりで、笑ひがとまらず、好奇心で眼をきよろつかせてばかりゐたのだが、何日も同じことが飽くこともなくくりかへされるのを見てゐるうちに、妙に胸につかへるものを感じて來た。自分でもわかるほど不機嫌になつて來た。そのときから綠川に住むことをやめようと思ひたたつたのだけれども、そのときわしが氣が鬱して來たのは、なにも住む場所を荒らされた腹立ちばかりではなかつた。それもあつたけれども、そんなことよりも、わしはいつか奇妙な薄氣味わるさを感ずるやうになつてゐたのだ、なんに? だれに? 相手のない騷ぎに熱中してゐる人間どもの馬鹿馬鹿しさ、その張本人加藤淸正、たかが小姓一人を失つただけで大勢の人々の迷惑、苦しみなど一切かへりみない暴君、傳説の虛妄(きよまう)にとりつかれてまことしやかなしぐさをくりかへす白々しさ、阿呆らしさ、さういふものをわしは輕蔑に値すると考へてゐた。何十日同じことをつづけたところで、一匹の河童もかかる筈はないのだ。これほど馬鹿げたことが世にあらうか。わしはこれをどんなにでも嘲笑することができる筈なのだ。ところが……妙なことに、わしはしだいに嘲笑するどころか、氣味のわるさで身體がすくむ思ひがして來た。これは明瞭に人間どもの敗北であるにもかかはらず、なにか、負けたのはわしの方ではないかといふ不思議な錯覺がわいて來たのだ。わしは不愉快さで首がちぢまつた。そんな馬鹿なことはない。現に自分はかうやつて、瀧口のうへから、愚かな人間どもの所行を傲然(がうぜん)とながめおろしてゐる。かれは傳説の虚妄にむかつて空虛な挑戰をしてゐるだけではないか。わしはふつと考へた。なるほど、自分も二百年ほど前にはときどき人間にいたづらをしたことがある。さすればやはり傳説をつくりだしたものは自分で、いまは堅氣になつたとはいへ、その傳説の亡靈は人間どもの歴史のなかには現實としてのこつてゐたのか。とすればあきらかに戰ひは自分に挑(いど)まれてゐるわけになる。がいづれにしても、人間どもの負けではないか。たしかに負けだ。自分は絶對に安全であるうへに、人間どもの騷動は莫大な費用と時日と犧牲とをかけたにもかかはらず、なんらの成果もあがらない。……さう思ふのに、わしはすこしも釋然とせず、逆に氣が鬱して來るばかりなのだ。嘲笑されてゐるのが自分の方のやうな、いやな錯倒がおころ。……わしはそのときの不思議な豫感がのちになつて、傳説の掟(おきて)をもくつがへすやうな結果もたらしたことを知つたのだが、……そのときはただ無性に憂鬱でしかたがなかつた。眉をあげた加藤淸正はやがて確信をもつて、綠川の河童はすでに剿滅(さうめつ)されたと宣言した。さうして奇妙な戰鬪はうち切られた。人々は弊歡喜して明君淸正の功業をたたへた。ここに新しい傳説が創造されて、綠川の河童は勇猛なる淸正公の威光におそれて逼塞(ひつそく)したといふことになつた。かくて人間どもの間で淸正の偉大な名はこんにちにいたるまでたたへられてゐるのである。さすれば勝つたのは淸正で負けたのはわしだといふことになるが、わしがあのとき不氣味さに戰慄したのは、さういふやうな淺墓な勝利と敗北の觀念にかかはるものではない。もつと具體的なつまらぬことなのだ。それはあの騷動の結果、綠川といふ川の姿がまつたく變つてしまつたといふことである。狹く角の多い急流だつた綠川は、いまは坦々とゆるやかな淸流になつた。ながされた毒は時間の經過とともに洗ひきよめられて、自然の理によつて魚類をはじめあらゆる生物が復活した。かれらはもはや不必要に急流にさへぎられることもなく、至極悠々と游弋(いうよく)してゐる。あのとき河中に投じられた無數の彈丸と爆雷と砲彈とは、山脈のやうに凹凸のはなはだしかつた川底の岩石を微塵にくだいて、川底はいまは扁平となつた。ながれをせきとめたり、曲げたり、ほとばしらせたりするものがなくなつて、水はしつかにながれるやうになつた。おまけにあのときは上流をせきとめて洪水をおこしたが、それはいつの問にかいつかの放水路になつて、大雨のときにも水量がそんなには增さず、奔流となることも洪水をおこす危險もなくなつた。つまり、平穩な川となつたわけで、……ここが大切なのだが、川での事故といふものがほとんどなくなつたのだ。狂暴な城主の情熱が自然を修正した結果、傳説がその證明をする契機を生じたのだ。さうしていまにいたるまで、淸正の名は不滅のものとなつて、傳説と歴史のうへに君臨してゐる。さすれば、いつたいわしは勝つたのだらうか? 負けたのだらうか?
この話があつてから數日の後、球磨川の水底を脱出した數匹の河童があつた。不禪坊はみづからの借問に陶醉してゐて、とるに足らぬ孫のごとき小河童どもが、自分の膝下から出奔したことなどはまるで知らなかつた。聞いたとしても氣にもとめなかつたであらう。脱走した河童たちは綠川にやつて來た。さうして先輩が四百年の甲羅を經るまで住み古るしたといふ歴史の川に來て、大きな吐息をついた。しかしいまはいたづらに感傷にふけつてゐるときではなかつた。示しあはせた河童たちはただちに活躍を開始した。土手を通る犬をみつけて川のなかに引きこんだ。馬の尻尾をつかんで淵へ落しこみ溺らせた。子供の尻子玉を拔いた。月の夜の土手で人間を待つて角力を挑んだ。かれらは三百年の昔、加藤淸正のつくりだした傳説の轉覆と、過去の權威への抹殺とを志したのである。かれらはまだ幼く力が足らなかつたけれども、全力をそのことに傾注する決意をした。不禪坊の話をきいた後、先輩の話にはなはだしい不滿を感じた。さうして仲間をかたらつたが、たれも一笑に附して相手にならなかつた。同志は數名しかゐなかつた。かれらは綠川に來ると、たらまちありたけの力をふるつて、河童の存在を示すことにつとめた。ところが一匹が犬を川に引きこんだとき、村人はぼやつとした馬鹿たれ犬奴(め)と犬の方を笑つた。つれてゐたかつぽん下駄の少女は泣きはしたが、自分が不注意だつたのだと犬に詫びた。馬を淵で溺れさせたとき、馬車引きは自分の不運をなげき、やつぱり厄年だといひ、その淵の崖を修繕しなくてはまた同じ過(あやまち)があらうと村人に注意をした。子供の尻子玉を拔いたとき、この子は泳ぎの下手なくせに、こんな深いところで遊ぶからいけない、大方心臟痲痺でもおこしたのだらうと噂した。土手で角力をとつた男は氣ふれたのだと村人から笑はれた。努力は徒勞なつて、河童たちは完全に默殺された。それがすべて過去の權威のしからしむるところ――明君加藤淸正が綠川から永遠に河童を放逐したといふ頑強なる傳説の虛妄にしたがつてゐることを知つて、河童たちはいらだつた。さうしてあの河童退治の騷ぎのとき、のめのめとこの川を退散し大先輩へ突如としてはげしい輕侮の念がわいた。河童たちの焦躁は危險をともなつた。牛を瀨にみちびきいれんとした一匹はしたたかに角にはねあげられて、頭の皿を割つた。息絶え絶えになつて、快復まで永い時間を要した。一匹は按摩の杖にうちたたかれて橋の上から落ち、甲羅の數枚にひびが入つた。しかしながら、かれらの妄執はいつかな去るときがなく、目的を達するまでは綠川を去らうという考へは毛頭なかつた。川岸の八幡の境内に淸正を祭つた小廟があつて、繪馬堂に、當時の河童征伐の光景をあらはした一枚の繪馬があつた。古ぼけて繪具がところどころ剥げ落ちてはゐたが、全貌はあきらかだつた。砲彈と燒石と毒と爆雷とに、のたうち苦しんであへない最期をとげる數百匹の河童が描かれてゐる。阿鼻叫喚(あびけうくわん)の地獄といつてよく、その凄慘きは眼をおほひたいほどである。中央に甲冑に身をかためた加藤淸正が、一つは缺けた三つ穗の槍をしごき、巨大な眼玉を憎々しげに光らせて、つつ立つてゐる。河童たちは怒りと悲しみとに興奮して、繪馬のなかの淸正をさんざん搔きむしつた。眼をつぶし、鼻をもぎ、口を裂いた。手と足とを折つた。槍までへし曲げてしまつた。あとでこれを見つけ神主は鼠奴がつまらぬ惡さをすると、いまいましげに舌打ちした。そして、ペつと唾をはいたので、油斷してゐた一匹はそのとばちりを食ひ、そこから腐つて膿(うみ)が出るやうになつた。
[やぶちゃん注:「綠川」熊本県中部を流れる一級河川。宮崎県境の向坂山(標高一六八四メートル)及び小川岳(標高一五四二メートル)の西麓に発し、西流する(現在は上流に緑川ダムがある)。甲佐町で北西に流れを変え、嘉島町南部で熊本平野に出て、再び西流へ転じ、宇土半島の北側基部から有明海に注ぐ。現在でも水源から美里町辺りまでは谷が深く、滝が多く見られる。特に山都町には「矢部四十八滝」とも呼ばれるくらい滝が多い。谷が深いため架橋数が少なく、台地から谷を越えて架かる橋は内大臣橋と鮎の瀬大橋のみであり、橋から遠い集落に住む人たちは、谷を渡るにはかなり迂回しなければならない(ウィキの「緑川」に拠る)。
「球磨川」熊本県南部の人吉盆地を貫流して川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り、有明海と宇土半島を隔てた八代海(不知火海)に注ぐ一級河川。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つ。球磨郡水上村の石楠越(標高一三九一メートル)及び水上越(標高一四五八メートル)を源流とし、人吉盆地の田園地帯を西に流れる。人吉市を過ぎてからは九州山地の狭い谷間を縫って流れ、JR肥薩線と国道二一九号が併走する。球磨村の球泉洞の付近で流れを北向きに変え、八代平野に出て分流し三角州を形成、不知火海に注ぐ。球磨村の辺りは日本でも有数の急流で、数多くの瀬がある。もともとは七十六の瀬があったが、ダムができたため、現在は四十八の瀬となっている。その中で、「二俣の瀬」、「修理の瀬」、「網場(あば)の瀬」、「熊太郎の瀬」、「高曽(たかそ)の瀬」が球磨川五大瀬と呼ばれている。四方を深い山々に囲まれ外界から遮断されている人吉盆地は内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのために秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。年間百日以上も朝霧が発生し発生頻度は日本で一、二を争う(ウィキの「球磨川」に拠る)。
「筑後川の頭目九千坊」絵師熊猫堂氏のHP「魔獣絵師画廊跡地」の「九千坊河童」記載から引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた)。九千坊河童『は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている(それ故、熊本では八代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている)。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である』。『海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えようモノだが、日本に腰を据えてからの彼等の傍若無人振りもなかなかのモノだった。向かう所敵無し、常勝不敗の「九千坊」だったが、そんな彼も生涯に二度だけ大敗を喫した事が有る。一度目は、』関八州の全ての河童を統括していた女河童である祢々子(ねねこ)河童(リンク先は同じく絵師熊猫堂氏のページ)『の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時。この時の事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、猛将・加藤清正(かとうきよまさ)との争いだった』。『各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂には河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重なる清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治する福岡の筑後川であった』。『有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。「九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を誓ったと言う』。『「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう』と、本話創作の元となった伝承の一つを美事に解説して下さっている。
「阿蘇の奈羅延坊」不詳。
「加藤淸正」(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)は天正一四(一五八六)年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国一九万五〇〇〇石を与えられ、熊本城を居城とした。本話では河童殲滅作戦の副次的産物のように描かれる治水は、清正の肥後に於ける事業の中では最も知られたものである。以下、ウィキの「加藤清正」より、引用すると(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『清正が肥後国を治めていたのは、天正一五年(一五八七年)から慶長一六年(一六一一年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に腰を据えていた期間は、実質延べ十五年程である。清正以前の肥後は有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められ、男女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われた為みな喜んで協力したという』。まず、白川・坪井川大改修が挙げられる。『以前は白川と坪井川は現在の熊本市役所付近で合流し、下通を貫いて今の白川に流れていた。現在の流路に変更したのは清正である。熊本城築城の際、熊本城築城の予定地の側に、現代で言うところの都市河川である坪井川と、阿蘇からの火山灰を含んだ白川が合流する様を見て、これは流路を分けて、城に近い坪井川を内堀に、遠い白川を外堀として、河川改修を行った。また当時の技術に於いて更に下流にある再合流地点に石塘を築き両河川を河口まで分流した。それは、それよりも下流の地域まで氾濫から未然に防ごうとする設計だった』。次に本話と関連がある熊本四大河川改修が挙げられ、『白川坪井川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、菊池川に於ける各種改修等。これにより広大な穀倉地帯が生まれた』とし、また、『熊本平野・八代平野・玉名平野への干拓と堤防の整備。これにより海岸に近い地域にも広大な畑作地域が生まれ』、更に『白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手)等』、『当時としては先進的な測量・土木技術の賜物である。今日の農業用水確保はこの時代の遺構に頼る面が少なくない』ともあり、『なお、現在の堀川は加藤忠広が着工し、細川忠利の時代に完了した。白川と坪井川を結ぶ農業用水路である』と記す。他にも『田麦を特産品化して南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮している』とあって、本話はちょっと、清正公は怒り心頭に発するばかりでなく、清正を崇敬する熊本県人には不快を催させる作品ではあろう。
「馬割靴」恐らくは騎馬実戦用の乗馬靴らしいが不詳。「馬割」は通常は「うまわれ」と読み、大坂から米を運送する場合、一〇石の米の内の半分を馬荷によって運送し、他の五石を上荷船により運送したことを言うが、本熟語との関連は不明。
「八幡神社」同定不能。最も知られるものは熊本県熊本市中央区井川淵町にある熊本の総鎮守藤崎八旛宮であるが、位置が緑川よりも有意に北過ぎ、「綠川の中流にある」や後文の「川岸」という条件に合わない。識者の御教授を乞う。
「河童と猿と對決させる」これは熊本県甲佐(こうさ)町の猿王堂や金八水神に纏わる伝承に基づくものと思われる。昔、緑川が二つに分かれ、龍野の下と乙女の下を流れていた頃の民話で、乙女村に住む盗賊の首領金八の配下の河童軍団と阿蘇大宮司によって遣わされた甲佐岳の猿軍団との全面戦争(猿軍の勝ち)である。甲佐町の公式HPの「甲佐町の民話・猿王堂」で読める。
「剿滅」掃滅に同じい。]