一言芳談 七十五
七十五
有云く、「後世をねがはゞ、世路(せいろ)をいとなむがごとし。けふすでに暮れぬ。渡世はげまざるにやすし。今年もやみやみと闌(た)けぬ、一期(いちご)いそがざるに過ぎぬ。よひにはふしてなげくべし、いたづらにくれぬることを。暁(あかつき)にはさめて思ふべし、ひめもすに行(ぎやう)ぜん事を。懈怠(けだい)の時には、生死無常を思へ。惡念思惟(あくねんしゆい)の時には聲をあげて念佛すべし。鬼神魔緣(きじんまえん)等におきては、慈悲をおこして利益をあたへ、降伏(がうぶく)の思ひをなす事なかれ。貧は菩提のたね、日々に佛道にすゝむ。富は輪廻のきづな、夜々(やや)に惡業をます。」
〇或云、行者用心集にこれを引きて惠心の釋と云ふ。
[やぶちゃん注:「世路(せいろ)」読みはⅠ・Ⅲに拠る。Ⅱは「せろ」と振る。何れで読んでも、世の中を渡って行く道、世渡り。また、渡って行く世の中、世途であり、『極楽往生を願うこと』は『人生を生きること』と同じである、というのである。
「やみやみと闌けぬ」本来は、盛りの時期・状態になる、たけなわになる、又は、盛りの時期・状態を過ぎるであり、ここが今年も何も出来ず無為に暮れてしまった、の意。Ⅱ・Ⅲは「やみやみと」が「やみやみ」。
「一期いそがざるに」人生は、主体的に急ごうと思っている訳でもないのに。
「ひめもす」「終日(ひねもす)」に同じい。
「魔緣」人の心を迷わせる悪魔。
「夜々」夜毎。日毎で、無明の闇を掛けるのであろう。
「行者用心集」室町時代の天台僧存海が天文一五(一五四七)年に記したもの。彼は釈存海と名乗っているから晩年は浄土宗に帰依したものと思われる。
「惠心」源信。]
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