一言芳談 四十八
四十八
又云、如形(かたのごとく)も、非人をたて、心やすく念佛せんと思はんものは、出世(しゆつせ)の法財(ほふさい)なを可閣之(これをさしをくべし)。況(いはんや)世間の資緣(しえん)はあひかまへてかまへて、事すくなき樣にふるまひなすべき也。はだへをかくし、命をつぐ事も、非人の身に相應して、出離の心ざしもけがさぬやうに、たくむべき也。
〇非人、たゞ世すて人のことなり。
〇法財、ならひし佛法の事なり。
出世財寶は持經本尊等の事なり。(句解)
〇資緣、衣食住は佛道修行をたすくる外緣(げえん)なり。
〇はだへをかくし、方丈記に云、藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺(みね)の木の實、命をつぐばかりなり。
かみのふすま寒食等の風情なり。(句解)
[やぶちゃん注:「可閣之」(之を閣(さしを)くべし)とは、持つことをやめるのがよい、の意。ただ「持たぬがよい」と訳してもよいとは思うが、何らの法体も経も持仏なしに専修念仏の遁世者となるというのは、そもそもがそれは、芭蕉が、
薦(こも)を着て誰人(たれひと)います花の春
と詠んだように単なる乞食にしか見えぬのである。但し、実はこれこそが無論、ここで敬仏房が最も理想的遁世僧としてイメージしている姿ではあるのであるが(私は以前に同僚が話して呉れたネパールで出逢った素っ裸の修行者の姿を思い出す)、それはまさに事実上不可能に近いのであるから、私は敬仏房が、既にそうしたものを豊かに持ってしまっているところの念仏の遁世僧らに向かって、その鮮やかな放下を諭しているという点で、「今持っているもの、布施としてこれから受くるものは、これより、これ、限界まで捨て去り、必要条件ぎりぎりのところまで享けぬようにするがよい」の謂いで採りたいのである。
「あひかまへてかまへて」よくよく心に用心して。語勢を高める接頭語「相」に、副詞「かまへて」の畳語というのは相当な強調形である。
「外緣」仏道修行に於ける内面の直接的原因を外から助ける間接的な原因。ただ「縁」と言った場合、通常は外縁を指すことが多い。
「方丈記に云、藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺(みね)の木の實、命をつぐばかりなり。」「方丈記」の終わりに近い部分にある(底本は一九八九年刊の岩波文庫版市古貞次校注本を正字化して用いたが、一部、納得出来ない部分を昭和四三(一九六八)年角川文庫版簗瀬一雄訳注本で変更した)。
夫(それ)人の友とあるものは富めるをたふとみ、懇ろなるを先(さき)とす。必ずしも情あると、すなほなるとをば不愛(あいせず)。只(ただ)絲竹(しちく)、花月を友とせんにはしかじ。人の奴(やつこ)たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきを先とす。更にはぐゝみあはれむと、やすくしづなるとをば願はず。只わが身を奴婢(ぬひ)とするにはしかず。いかゞ奴婢とするとならば、若(も)しなすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を從へ、人をかへりみるよりやすし。若し歩(あり)くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と心をなやますにはしかず。今一身をわかちて、二つの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乘物、よくわが心にかなへり。身心(しんじん)の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。物うしとても心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、これ養性(やうじやう)なるべし。なんぞいたづらに休みをらん。人を惱ます、罪業(ざいごふ)なり。いかゞ他の力をかるべき。衣食のたぐひ、又同じ。藤(ふぢ)の衣、麻(あさ)の衾(ふすま)、得るにしたがひて肌(はだへ)を隱し、野邊のおはぎ、峰の木(こ)の實(み)、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を恥づる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とも)しければ、おろそかなる報(むくい)をあまくす。惣(すべ)てかやうの樂しみ、富める人に對していふにはあらず。只わが身ひとつにとりて、昔(むかし)今とをなぞらふるばかりなり。
「奴」召使。「賞罰」「罰」は添え字で、専ら賞与のことを指す。「一言芳談標註」の引用部は、
藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺の木の實、命をつぐばかりなり。
で、
藤の衣、麻の衾、得るにしたがひて肌を隱し、野邊のおはぎ、峰の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。
とやや異なる。「一言芳談」の引用元は所謂、広本の流布本であり、市古氏の底本としたものは広本古本系最古の写本である大福寺蔵本であることによるものと思われる。尤も、「つばな」というのは首を傾げるもので、これはイネ科の多年草である「茅(ちがや)」であり、茎を漢方で茅根(ぼうこん)と称して利尿・止血薬とはするものの食用ではない。「おはぎ」は「嫁菜(よめな)」のことで、これは立派な食用野草である。]