金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 湯本 小田原
湯本 小田原
湯本の湯は、瘡毒(そうどく)、腫物(しゆもつ)によし。町の中に浴室あり。あまた内湯あるところもあり。此ところより街道の三枚橋(まいばし)へいづる五丁ばかりあり。關本(せきもと)の最乘寺(さいじやうじ)へ道了權現(どうりうごんげん)へゆくには、塔の澤より山越(ご)しにゆく道あれども、いたつて難儀の道にて、案内なくてはしれがたきゆへ、この邊三枚橋より小田原へいでゝ、關本へゆくなれば、この所へいでたるなり。
〽狂 いくとせか見せを
はりこにあらねども
せんりへひゞく
とらやういらう
旅人
「わたしは、今朝からどふも蟲がかぶつてなりませぬから、此虎屋(とらや)の解毒(げどく)をのまふとぞんじてかいましたが、よくくかんがへて見ましたら、腹の中(うち)で蟲のかぶるのではない、腹の外でかぶりますから、そつと手をやつて見ましたら、道理(どうり)こそ、大きな虱(しらみ)が、めだつまで臍(へそ)の脇(わき)にかぶりついておりました。」
「儂(わし)はまた、さつきにから、尻で頭痛(づゝう)がしてなりませぬが、人のいふには、頭痛には、兩方の小鬢(こびん)先へ梅干(うめぼし)をはるがよいと申しましたけれど、尻で頭痛がするに、顏へはつてはきくまい。やはり、尻へはるがよからうとぞんじて、ぐつと尻をまくつて、梅干(むめぼし)を尻の割れ目の兩方へはつた所を子どもが見て、
『ヲヤヲヤ、このおぢさんは、尻に目がある。』
とわらひましたら、その傍(そば)にゐた女がいふには、
『なに、それがおかしいものか。大かたそのお人が、妾(わたし)の顏を見る尻目であらう。』
といひましたから、大笑ひさ。」
「旦那(だんな)、お駕寵(かご)をやすくのせませう。なに、その女中かへ。女中なら、のせるより、儂がのりたい。なんと、酒手(さかて)でのせてくださるまいか。さあさあ、いきづへが、もふこたへられなくなつてきた。はは。」
「ういろうばかりか。どうぞ、女のほれる藥はあるまいか。」
[やぶちゃん注:挿絵は小田原透頂香(ういろう)の全面タイアップ広告である。
「湯本」箱根湯本温泉は、箱根の玄関口にある箱根七湯中最古の温泉。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、神経痛・関節痛・冷え性に効く。箱根で最も大きい温泉街で共同浴場も多い。
「瘡毒」梅毒。
「關本の最乘寺へ道了權現へ」「關本」は現在の南足柄市大雄町にあった旧村名。「最乘寺へ道了權現へ」とあって一見、別な場所に見えるが、曹洞宗大雄山最乗寺に道了尊は祀られている最乗寺は応永八(一四〇一)年峨山五哲の通幻寂霊門下了庵慧明によって開山、坂東通幻派の拠点となった。通幻門下は各地で公共事業を行って民心を摑んだが、最乗寺にも、この地で土木工事を行ったという了庵の法嗣妙覚道了(道了尊)が祀られており、道了権現とも称される。妙覚道了は室町前期の曹洞宗及び修験道の僧。了庵慧明が最乗寺を開創すると、慧明の弟子であった道了はその怪力により寺の創建に助力。師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられ、最乗寺の守護神として祀られた。江戸庶民の間でも信仰を集め、講が結成され、江戸両国などでの出開帳も行われた(以上はウィキの「最乗寺」及び「妙覚道了」に拠る)。
「三枚橋」現在の箱根湯本駅から三百メートル程下流にある橋。名の由来は、かつては川幅が広く、二つの中洲があり、そこに三つの橋を架橋していたことに拠るとも、また、小田原方面から順に架橋された橋を地獄橋・極楽橋、そして本橋を三昧橋と呼んだとも言われ、橋を渡ると早雲寺があってこの寺に駈け込めば、如何なる罪人も罪を免れると言われて追手も地獄橋までは追ってもその後は追わなかったという。即ち、三昧橋とは、『その先は仏三昧に生きよ』という意味らしい(以上の由来譚は個人HP「悠々人の日本写真旅行」の「旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(18) 小田原~箱根湯本」にあるものを参照させて戴いた)。
「とらやういらう」薬種屋虎屋の外郎(ういろう)で、現在も小田原市の外郎家で製造販売されている大衆薬の一種。以下、ウィキの「ういろう(薬品)」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる』。『十四世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の一五〇四年(永正元年)には、本家四代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している』。『江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では喜多さんが菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りのせりふを物真似したものである。ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている』。
「蟲がかぶる」「かぶる」は現在の「被(かぶ)る」ではなくて「齧(かじ)る」の意で、「虫が齧(かぶ)る」と漢字表記する。腹痛が起こること、また、産気づいて陣痛が起こる、の意。
「尻目」流し目。
「酒手」人足や車夫などに対し、決められた賃金の他に「心附け」として与える金銭。
「息杖」既出。「東海道三嶋宿」参照。この「息杖」に、酒手まで弾むと聴いて嬉しくなって、女中に跨った自分の妄想がさらに膨れ上がって、その女中の「息使い」が「こたへられなくなつてきた」というのに掛けたエロティクな洒落である。]
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