一言芳談 七十四
七十四
乘願房云、さすがに年のよるしるしには、淨土もちかく、決定往生(けつじやうわうじやう)しつべき事は、おもひしられて候ふまり。所詮、眞實に往生を心ざし候はんには、念佛は行住坐臥(ぎやうぢゆうざが)を論ぜぬとなれば、たゞ一心に、ねても、さめても、たちゐ、おきふしにも、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と申して候ふは、決定往生のつととおぼえ候ふなり。學問も大切なる樣に候へども、さのみ往生の要(かなめ)なることも候はず。又學して一の不審を披(ひら)くといへども、するにしたがひて、あらぬ不審のみいできたるあひだ、一期(いちご)は不審さばくりにて、心しづかに念佛する事もなし。然而(しかうして)念佛のたよりにはならで、なかなか大なるさはりにて候ふなり。
〇決定往生のつと、家土産(いへづと)というは俗にみやげという事なり。旅裹(たびづと)というは旅にもつ食物なり。往生のつととは往生の資糧(しりやう)なり。
〇往生の要、往生の支度の樞要(すうえう)なり。
〇不審、いぶかしき事なり。
〇さばくり、取りあつかふ義なり。
[やぶちゃん注:「乘願房」宗源(そうげん 仁安三(一一六八)年~建長三(一二五一)年)は浄土宗の僧。権中納言藤原長方八男。当初は仁和寺で密教を学んだが、後に法然の弟子となり、京都醍醐の菩提樹下谷・清水の竹谷に棲み、念仏教化に努めた。竹谷上人とも言い、公家の帰依者も多かった。常に念仏し、建長三年七月三日に享年八十四歳で念仏往生した。
〇「つと」標註で十分であるが、「苞」「苞苴」と漢字表記し、「包む」と同語源の語。藁や葦・竹の皮などを束ねたり編み束ねて作った容器、又は、その中に食物を包んだものをいう。藁苞(わらづと)。食糧・魚や果実などの食品を包み入れて持ち運んだ。荒巻きなどともいう。旅行用の携帯食糧を入れる他にも、出先への贈り物を包んで携行したり、そこから帰る際の土産物を入れたりしたことから、土地の名産や土産物をも言う語ともなり、家への土産を「家苞(いえづど)」と称するようになった。]