一言芳談 六十三
六十三
顕性房云、心ぐるしき悕望(けまう)どもをなげすてゝ、たゞありのまゝなる心にて、ひらに名號をとなへんと思ひとることきはめてすくなし。黑白(こくびやく)を辨(わきまへ)ざるほどの者になりて、平(ひら)に念佛せんと、思へる意樂(いげう)を眞實におこせる人もなきなり。阿彌陀佛の本願他力の不思議をば、いかほどのちからと知りたるやらん。人ごとに分際(ぶんざい)を作りて、罪惡の身をかへりみて、佛力法力(ぶつりきほふりき)におもひつかざるなり。然る間、罪業も、いよいよとゞまらざるなり。これは返々(かへすがへす)もあしき心なり。
〇心ぐるしき悕望、名利(みやうり)をもとむるなり。
惠心云、求名顧衆身心共疲。求功成善悕望彌多。不如孤獨無境界。不如稱名抛萬事。
〇ありのまゝ、誠に往生がしたくて、たゞ申なり。名利の心もなく、智惠だてもなきを平(ひら)にといふ。
〇他力の不思議、かの佛の慈悲は深きこと海のごとし。その本願の力なれば、いかなる惡人もたすけられずといふ事なし。しかるに、われは是程の罪人なれば、往生しがたからんといふは、指にて海をはかりて、淺しといはんがごとし。
〇他力法力、法力とは名號の力をいふなり。
道氤(いん)法師云、佛力法力三賢十聖亦不能測。
[やぶちゃん注:この条、大きな異同が多い。まず、極めて大きな相違点が冒頭の、
ひらに名號をとなへんと思ひとることきはめてすくなし
の出現する。この部分は、Ⅱでは(漢字はそのまま)、
平に名号をとなへんと思へるごときは、はてすくなし
Ⅲでは、判読する限りでは(判読のママを示す)、
互(たがひ)に名号をとなへんと思ふつるはきはめてすくなし
としか読めない。Ⅱの「ごときは」も「はてすくなし」は私には不自然な言辞に感じられる。暫くⅠに従うが、「思ふつる」に難はあるものの、Ⅲも捨て難い。多くの修行僧の中で、複数の修行僧が、名号をただありのままの心で唱えるということを選択し合うということが極めて少ない、という集団での修行効果の難しさを示唆しているようにも思われるからである。
「黑白を辨ざるほどの者」の「者」はⅡ・Ⅲでは「物」とある。Ⅰに従う。
次に、
阿彌陀仏の本願他力の不思議をば
の部分はⅡ及びⅢでは、
阿彌陀仏の本願他力の不思議の身をば
とする。「の身」は、そうした本願他力の不思議を備えられた霊的存在である阿弥陀から守られた我が身という意で、あった方が正確であるように思われるが、文脈上の変化は起こらないので、Ⅰに従う。
次いで、
いかほどと知りたるやらん
の部分はⅡ及びⅢでは、
いか程のちからと知りたるやらん
とする。「の身」が省略されれば、「ちから」はなくてもよく、意味の通りもすっきりする。Ⅰに従う。
また、
罪惡の身をかへりみて
はⅢも同じであるが、Ⅱでは、
罪惡の身をかへりみで
と、打消の接続助詞「で」である。その方が通りがよいとは思われるが、「罪惡の身をかへりみて、仏力法力におもひつ」く全体が打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」によって打ち消されていると読むことが出来るので、Ⅰ・Ⅲに従う。
「悕望」「希望」と同義でも用いられるが、ここは悪い意味での、世間の評判や利益に対する欲望を指す。因みに、「正法念処経」では餓鬼道には三十六種の餓鬼がいるとするが、その中に「悌望」という餓鬼がいる。ウィキの「餓鬼」によれば、『貪欲や嫉妬から善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を詐術的な手段で奪い取った者がなる。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る』という。
「佛力法力」「佛力」は仏の持つ計り知れない能力・威力を謂い、「法力」仏法の功徳の威力、大橋氏の脚注では、『仏・菩薩が威神力を衆生に加えたすけて利益を与えること』と区別されておられる。
「惠心云、求名顧衆身心共疲。求功成善悕望彌多。不如孤獨無境界。不如稱名抛萬事。」をⅠの訓点を参考に書き下しておく。
惠心云はく、「名を求め、衆を顧みれば、身心共に疲る。功を求め、善を成せば、悕望、彌々(いよいよ)多し。如かず、孤獨にして、境界、無からんには。如かず、稱名して、萬事、抛(なげう)たんには。」と。
「道氤法師云、佛力法力三賢十聖亦不能測。」をⅠの訓点を参考に書き下しておく。
道氤(だういん)法師の云はく、「佛力法力は三賢十聖も亦、測ること能はず。」と。
「道氤」(六六八年~七四〇年)は唐代の法相宗の僧。法相宗第二祖とされる慧沼(えしょう 六四八年~七一四年)の弟子で、陝西省生。青龍寺(せいりゅうじ・しょうりゅうじ)の道氤として知られるが、この寺は陝西省の古都西安市南郊の鉄炉廟村にあり、空海ゆかりの寺としても知られている寺院である。
「三賢十聖」既出。「三十八」の私の注を参照。]