耳嚢 巻之六 御製發句の事
御製發句の事
後水尾院は、近代帝王の歌仙とも申ける由。名は忘れたればもらしぬ、俳諧に名有(なある)もの御前にめされ、下ざまにて俳諧といえるはいかなる姿のものなるやと、御尋(おたづね)ありければ、かゝるものに侍るとて一句を御覧にいれければ、(つらつら御覧の上)、
干瓜や汐の干潟の捨小舟
うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉
右兩句を遊(あそば)されて、かく有べしやとみことのりありけるにぞ、彼(かの)諧老(かいらう)も恐入(おそれいり)て退(しりぞ)きしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。畏れ多くもかしこくも、連歌ならまだしも御製(ぎょせい)の発句とは、これ、珍しや!――しかし、眉唾物で、都市伝説の類いである。残念(以下、注を参照)。
・「後水尾院」後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)は第一〇八代天皇(在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。諱は政仁(ことひと)。家康の意向によって立太子された。元和六(一六二〇)年には徳川秀忠五女和子(まさこ)が女御として入内したが、寛永四(一六二七)年に紫衣事件(以下、ウィキの「紫衣事件」によれば、幕府が朝廷の紫衣授与を規制したにも拘わらず後水尾天皇が従来通り、幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、これを知った将軍家光が法度違反と見做して多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じ、朝廷が既与の紫衣着用勅許を無効にすることに強く反対、大徳寺住職沢庵宗彭や妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も挙って朝廷に同調、幕府に抗弁書を提出したのに対して、寛永六(一六二九)年、幕府が沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪に処した事件。この事件により江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示、征夷大将軍とその幕府が天皇よりも上に立ったということを知らしめた大事件)徳川家光の乳母である春日局が朝廷に参内するなど、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに堪えかねて、同年十一月八日に二女の興子内親王(女帝である明正天皇)に譲位している。勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じており、学問を好み、「伊勢物語御抄」の著作がある(以上はウィキの「後水尾天皇」に拠る)。
・「俳諧に名有もの」時代背景から、貞門・談林の何れもが含まれるが、後掲するように、一句は確実に談林後期の松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五四)年)のものであり、貞徳は京都出身で九条稙通・細川幽斎に和歌・歌学を学んでおり、朝廷方とのパイプもあった。
・「(つらつら御覧の上)」底本では右に『(尊經閣本)』とあって、それによって( )部分を補った旨の補注がある。
・「干瓜や汐の干潟の捨小舟」岩波版の読みを参考にすると、
干瓜(ほしうり)や汐(しほ)の干潟(ひがた)の捨小舟(すておぶね)
となる。岩波版長谷川氏注には『二つ割した干瓜を捨小舟に見立てた句。』とある。無論、汐の干潟は実景でなくては句にはならない。少なくともこの句は後水尾の句ではない。宝井其角「句兄弟 上」に載る句である。個人ブログ「八半亭」の、「其角の『句兄弟・上』(その十一)」に、
十番
兄 (不詳)
干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
弟 (其角)
ほし瓜やうつふけて干す蜑小舟
とあって、句意として『)汐の干潟に捨て小舟があり、その捨て小舟に「捨て小舟」の異称のある白瓜の漬け物が干してある。』とある。また、『兄句の作者のところは空白で、其角の作とも思われるが』ある注釈書では、『判詞の「棹頭の秀作にして」の「棹頭」を「チョウズ」と読んで、松永貞徳の号の「長頭丸」の宛字に解して』そこでは、『貞徳の作と解』している旨の記載がある。
・「うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉」岩波版の読みを参考にすると、
うじなくて味噌(みそ)こしに乘(の)る嫁菜(よめな)哉(かな)
となる。岩波版長谷川氏注には『氏なくて玉の輿に乗る嫁に対して、嫁菜は味噌こし(味噌を漉してかすを除くざる)に乗せられる。』とする。「女は氏無くて玉の輿に乗る」、女は生まれがよくなくても富貴の人に見初められて嫁になれば富や地位を得ることが出来るとという俚諺が元々あるのを踏まえた。こうした言語遊戯は貞門の特徴である。
■やぶちゃん現代語訳
御製の発句の事
後水尾院は、近代の帝の中にても、これ、歌仙と称せらるる帝にてあらせらるる由。
さて――その名は忘れて御座れば、ここに記さずにおくしかないので御座るが――とある、俳諧の名ある者、後水尾院御前に召され、
「……下々の者の間にて、俳諧と称しておるもの、これ、如何なる姿のものなるや?」
との御下問があらせられたによって、
「……お畏れながら……かくなるものにて、御座いまする。……」
とて、お恥ずかし乍らと、自作の一句を御覧(ぎょらん)に入れ奉ったところ、暫くの間、黙られたまま、凝っとご覧になられた上、
干瓜や汐の干潟の捨小舟
うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉
という二句を御製(ぎょうせい)遊ばされて、
「……かくあれば、よろしいか?」
と、詔(みことのり)あらせられたによって、かの老俳諧師も全く以って恐れ入り奉って、そのまま退出致いた、とのことでおじゃる。