耳嚢 巻之六 麁末にして免禍事
麁末にして免禍事
四つ谷邊輕き御家人、御切米玉落(おきりまいたまおち)とて、札差が許へ兩三人連れにて參り、酒食などして、うけとるべき金子二三十兩懷中なして淺草觀音へまふで、同所の奧山にて見物などし徘徊しけるを、すりと云(いふ)賊、付けるにや、人立(ひとだち)にて彼(かの)者懷中の鼻紙入を拔しゆゑ、心附(こころづき)て殘念成る事せしといひしを、連れの男、右の内には先の金子も入り可有之(これあるべし)與(と)、長嘆しけるを、彼男依然として袖をさぐりて金包を出し、彼金子は是に殘りしといひしとかや。始(はじめ)心を用ひて深く鼻紙入れへいれなば盜(ぬすみ)取られんを、麁末なる取計(とりはから)ひゆゑ禍をまぬがれしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、やはり前話・前々話の舞台である厩河岸・橋場・吉原と浅草観音は同一圏内と言える。
・「麁末にして免禍事」は「麁末(そまつ)にして禍(わざわひ)を免(まぬがれし)事」と読む。
・「御切米玉落」既出であるが再注しておくと、」幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落にて、札差が許へ兩三人連れにて參り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。これを待つ間に茶屋にて「酒食など」する習慣もあったものであろう。
・「奥山」浅草寺西側一帯の通称。大道芸や見せ物小屋が立ち並び、盛り場としての浅草発祥の地でもあった。
・「鼻紙入」革又は絹布などで製の財布。鼻紙は勿論、小遣銭・印判・懐中薬・耳かきなどの小物や携帯品を入れ、懐中にした。
・「與(と)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
疎漏なるがゆえに禍いを免れた事
四ッ谷辺の軽い身分の御家人、御切米玉落(おきりまいたまおち)に当たって、札差の元へ三人連れで参り、酒食などを致いて、受け取るべき金子二、三十両を、これ、懐(ふところ)へ入れたまま、そのまま皆して浅草観音へと詣で、同所の奧山にて、大道芸やら見世物やらを見物なんど致いて物見遊山と洒落込んで御座った。
すると、掏摸(すり)と申すところの賊――これ、切米玉落帰りの者ならんとでも――目星を付けておったものか、雑踏にてかの御家人、懐中した鼻紙入れを抜き取られた。
暫くして、御家人、掏られたことに心づきて、
「……いい鼻紙入れで御座ったにて残念なことを致いた……」
と頻りにぼやいで御座るによって、連れの男、目を剥(む)くと、
「……そ、その内には……さっきの金子も、これ!……入れておったろうがあッ!……」
と、長嘆息して御座ったところ、かの御家人、ぼやいて御座った先程と、何ら変わらぬ様子のままに、袖の内をくるんと探って、裸のままの金包(かねづつみ)を、ごろんと摑み出だいて、
「……いやぁ……かの金子は、ほうれ、ここに全部残っておるよ……」
と申したとか。
当初、深慮用心致いて、しっかりと鼻紙入れの中へこれらを入れて御座ったとしたら、まんまと盜み取られて御座ったろうに――まあ、実に疎漏な取り計らいを致いたがゆえ、禍いを免れた、という訳で御座る。
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