耳嚢 巻之六 幼兒實心人の情を得る事
幼兒實心人の情を得る事
享和三年の春、中川飛州(ひしふ)、支配所(どころ)廻村に出しに、野州芳賀都眞岡町邊通行の處、同所にて年頃十一二歳の小兒、願ひ有之(これある)由にて飛州駕籠の前に踞(うずくま)りし故、いかなる事にやと尋(たづね)しに、渠(かれ)は代々醫師に候處、四歳の節(せつ)親子離れ、祖母の養育にて生育せしが、何卒家の醫業致度候得共(いたしたくさふらえども)、在所にては修行も出來兼(かね)候間、江戸表へ出申度(まうしたき)由の願ひの由故、隨分江戸表へ召連れ行可遣(ゆきつかはすべき)なれど、幼年ものゝ儀、仔細もわからざる故、所のものへ尋(たづね)問ひしに、渠が親は篠崎玄徹と申(まうし)、小兒の申通(まうすとほり)、逸々(いちいち)無相違(さういなき)旨申(まうし)けるゆゑ、彼(かの)小兒の心より出し事とも思われず、祖母其外親類の申(まうし)勸めける事ならんとせちに糺(ただし)けれど、さる事にもあらざれど、猶(なほ)ためし見んと、江戸へ召(めし)連れ候には、坊主にいたさずしては難成(なりがたき)由を申聞(まうしきか)させけるに、坊主と聞(きき)て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心(をさなごころ)に坊主といえる、衣體(いたい)を着(ちやく)す出家の事なりと思ひいなみしよし。けさ衣(ごろも)を不用(もちゐざる)坊主は隨分いなみ候事なしと即座に髮を剃(そり)、飛州に附添ひ江戸へ召連れ、多喜安長方へ遺はしけるが、よほどかしこき性質(たち)の由、飛州物語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:少年綺譚連関。私好み。されば、訳の一部を映像的に敷衍して拡張してある。
・「実心」「じつしん」と読み、真心・実意・まことの心・偽りなき真実の心の意。
・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな話題である。
・「中川飛州」中川飛騨守忠英(ただてる 宝暦三(一七五三)年~文政一三(一八三〇)年)。明和四(一七六七)年に十五歳で家督(石高千石)を継ぐ。小普請支配組頭・目付を経て、寛政七(一七九五)年に長崎奉行となり、従五位下飛騨守となる。長崎奉行は寛政九(一七九七)年二月までこれを務めたが、長崎在勤中には手附出役の近藤重蔵らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員、清の江南や福建などから来朝した商人たちより風俗などを聞き書きさせ、これを図説した名著「清俗紀聞」を編纂監修している。寛政九年、勘定奉行となり、関東郡代を兼帯した。本話柄の享和三年のまさに廻村の際、武蔵国栗橋宿(現在の埼玉県久喜市栗橋)に静御前の墓碑がないことを哀れんで、「静女之墳」の碑を建立している。文化三(一八〇六)年、関東郡代兼帯のまま大目付、文化四(一八〇七)年には蝦夷地に派遣され、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の応接を務めている。その後は文政三(一八二〇)年、留守居役(旗奉行を歴任)。旗奉行現職のまま、没。享和三年当時は満五十歳。因みに聴き手の根岸は南町奉行現職で六十六歳である。
・「野州芳賀都眞岡町」現在の栃木県真岡市。
・「坊主にいたさずしては難成」当時の医師は剃髪(坊主)している者が多かった。
・「坊主と聞て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心に坊主といえる、衣體を着す出家の事なりと思ひいなみしよし」少年は、坊主を出家して僧になることと考え、家名を継ぐことが出来ず、家名が途絶えると考えて難色を示したのであるが、忠英は子供心で坊主頭になるのが嫌なのだろうと一人合点したのである。
・「多喜安長」多喜元簡(もとやす 宝暦五(一七五五)年~年文化七(一八一〇)年)。寛政二(一七九〇)年侍医、同一一年には父元悳(もとのり)の致仕に伴い、その後を襲って医学館督事(幕府の医学校校長)となった。享和元(一八〇〇)年には医官の詮衡(=選考)について直言、上旨(将軍への進言)にまで及んだため屏居(=隠退・隠居)を命ぜられた。後、文化七(一八一〇)年に再び召し出されたが、その年の十二月に急死した。屏居中には著述に没頭、著書が頗る多い。「多喜安長方へ遺はしける」とは、当時、彼が督事であった医学館の学生として貰うように依頼したことを言う(以上は底本の鈴木棠三氏の注を参照した)。享和三年当時は医学館督事で満五十歳。
■やぶちゃん現代語訳
幼な心の偽りなき誠が人の情けを得た事
享和三年の春、中川飛騨守忠英(ただてる)殿が、御支配地を廻村なさておられた折りの話で御座る。
上野国芳賀郡真岡町辺を通って御座ったところ、同所にて十一、二歳の少年が、
「――お願いが御座いまする!」
と、拙者の駕籠の前に蹲(うずくま)って御座ったゆえ、
「如何なることか?」
と尋ねたところ、
「……私の家は代々医師で御座いましたが、四歳の時、親と死に別れまして、祖母の養育にて育ちました。……しかし何としても、家業の医業を継ぎたく存じます。なれど、この田舎にあっては、医の修業も出来申さざれば、何とかして、江戸表へ出とう存じます!」
との願い出にて御座った。
「……それは……まあ、出来ることならば……江戸表へ召し連れて参ることは、これ、出来ぬ訳でも、ないが……」
と答えつつも、未だ頑是ない子どもこと、加えて仔細の事情も分からざれば、ところの者に訊ねてみたところ、
「……へえ、この者の親は篠崎玄徹と申す医者でござんした。子どもの申し上げましたことは、これ、一つ残らず、間違い御座いません。」
といった答えで御座ったが、
「いや……それにしても……この、もの謂い……坊主! うぬが本心から出たものとも、これ、思われぬ。……実はそなたのお祖母(ばあ)さまや、その外の親族なんどが、言い含めて勧めたことであろう? どうじゃ?」
と執拗(しゅうね)く問い糺いてみて御座ったれど……どうも、そういうことにても、これ、御座らぬ様子なれば、
「では……」
と
『さらに試してみると致そう。』
と存じ、
「……江戸へ召し連れて参るには――坊主に致さずんば――これ、叶え難いが……それでも、よいか?……」
と、その少年に申し聞かせたところが、「坊主」と聞いて、少し躊躇致いたゆえ、拙者、内心ほくそ笑んで、
『やはり、な。』
と思うて御座ったのじゃが、
「……坊主……とは……出家して僧侶となる……ということにて御座いまするか?」
と訊き返したゆえ、
「いやいや、そうではない。近頃の医者は法体(ほったい)と相場が決まっておる。」
と答えたところ。
「法体とは?」
と即座に訊き返すゆえ、
「法体とは、頭を丸めることじゃ。」
と答えたところ――少年は、ぱっと笑顔になって御座ったゆえ、よく訊き質いてみたところ、子供心にも、
「先ほど、お侍さまの仰せられた『坊主』、これ、坊主になるとは、かの袈裟などの衣帯を着(ちゃく)して出家となること、すなわち、家名を捨てて、出家遁世致さずんばならずということ、と存じたによって、少し躊躇致いて御座いました!」
と――あたかも拙者の心内(こころうち)の、ほくそ笑みを覗かれた如――否む体(てい)を示した理由まで、はっきりと申して御座った。
そうして、その笑顔のままに、
「――袈裟衣を用いざる『坊主』なれば――全く以って否むものにては御座いませぬ!」
と言うが早いか、近くの百姓屋に飛び込んだかと思うと、借りて参ったらしい剃刀を以って、拙者の前にて、
――すっつすっつ
と即座に髪を剃ってしもうたので御座る。……
……されば拙者、もう、何も申さず、伴の者に命じて連れ添わせ、江戸表へ召し連れ帰って、医学館督事の多紀安長殿に頼んで、医学館の学生(がくしょう)にして貰いました。
先日、安長殿に逢いましたが、安長殿も、
「かの少年は、これ、よほど賢き性質(たち)にて、随分、頑張って御座います。」
と申して御座った。……
以上、飛騨守殿の直談にて御座る。
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