フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013/02/28

西東三鬼 拾遺(抄)Ⅲ

   拾遺(やぶちゃん抄)Ⅲ

[やぶちゃん注:これは朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を底本とし、そこで鈴木六林男編「『西東三鬼全句集』拾遺」(中央書院昭和四九(一九七四)年一月刊『季刊俳句』第二号所収)に載るところの拾遺句の抄出句を「拾遺三」として掲げたもの全九十二句の中から、私の琴線に触れる四十九句を抄出したが、本コンセプトに随い、恣意的に正字化した。]

鳩胸の誇冬霧わけ來たる

家々をつなぐ聖樂冬田晴れ

星さわぐ國の不安の除夜過ぎぬ

飛行音枯木にものる星さわぐ

耶蘇名ルカ霰はじきて友歸る

寒七日七夜の修道ルカの妻

[やぶちゃん注:「ルカ」は平畑静塔のクリスチャン・ネーム。彼は昭和二六(一九五一)年にカトリックの洗礼を受けているので、この二句は同年中の作と考えられる。関係ないが、私の勝手な洗礼名もルカである。]

狂女の手赤きもの乾す寒の窓

寒入日背につまらなく訓戒す

寒月の炎ゆるを窓に狂女眠る

寒曉や體温包み一農婦

半ば魔を恃む深雪に兩足消し

深雪踏む白き看護婦呼べばふり向く

寒の軍鷄猛るみどり子死にし家に

寒水の魚を見てゐて返事せず

雪しづか赤光(シヤクコウ)の鐡打ちに打つ

降る雪にサイレンの尾の細り消ゆ

いつまで平和春の卵に日を記す

病者等が指さし春の川光る

犬となり春の裸の月に吠ゆ

透明な氷の不安金魚浮く

不安の春花粉まみれの蜂しざり

戀猫のびしよ濡れの闇野につづく

つぶてめり込む雪達磨溶けはじむ

春土に糞まる猫の今安けし

菜の花遠し貧者に拔きし齒を返す

どの底の患者の血もてわが手染まる

土筆食ふ摘みたる人に見られつつ

看護婦の水蟲かなし春の雲

血に染む手硝子の外の朝櫻

一語のみ春の夜明けの人の聲

土堤に乾しボートの腹を赤く塗る

若者が遠野に笑ふ春の闇

泥炭の激しき流れ遠き雷

坑夫眞黑雨の地上に躍り出る

鴉騷ぎ翔ちてしづもる大新樹

毛蟲身を反らすよあけの半太陽

五月よあけの河の引き潮女眠れ

言葉なき夜汽車夏みかん晝の色

濁流の逆波燕自由なり

月光のレールが二本スト前夜

大旱の岩にかさりと蜻蛉交む

大旱の硝子戸ありて蠅唸る

働きし汗の胸板雷にさらす

曼珠沙華咲きけるわが家に旅終る

曼珠沙華最も赤し陸の果

海鳥の影過ぎしあと曼珠沙華

曼珠沙華海は怒濤となりて寄る

曼珠沙華のこして陸が海に入る

曼珠沙華より沖までの浪激し

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 山之内圓覺寺

   山之内圓覺寺

 

瑞鹿山門覺寺(ずいろくさんゑんがくじ)は山之内にあり。鎌倉五山の二番目なり。本尊は寶冠(ほうくわん)の釋迦佛。諸堂の額は、皆、眞筆(しんひつ)なり。北條時宗の建立にて、開山は、宋國の佛光(ぶつくわう)禪師なり。境内に宿龍池(しゆくりやうち)、座禪窟、鹿巖(しゝがん)、虎頭岩(ことうがん)などいふ名跡あり。佛殿の南の方(かた)に、高さ八尺の大鐘(がね)あり。在(ところ)の人は、龍宮(りうぐう)よりあがりし鐘也といひつたへたり。

〽狂 みほとけのちかひを

   むすぶゑんがくじ

 かゝるりやくに

    おほがねのおと

參詣

「なんと、よいお寺。かうかうとしたものだ。昔、鎌倉の繁盛の時は、さだめて、今、江戸の淺草の奧山のやうに、豆藏(まめぞう)や見世物(みせもの)などが、この境内にもあつたらうから、さぞかし、その時分には、にぎやかなことであつたらう。」

「左樣(さやう)、左樣。今の奧山の『濱藏(はまぞう)』の先祖は、昔、この鎌倉にて、『由比(ゆひ)の濱藏』といつて、由比の濱に小屋をかけてゐたといふことでござりますが、いつでも、いざといふと、濱藏が出かけて一番に手柄をしたといふことでござります。」

「イヤお前、とんだことをいふ。何、戰(いく)さの時に豆藏が何の役にたつものでございます。」

「イヤイヤ、違(ちが)ひのないこと。和田合戰(わだがつせん)の時、敵は目にあまるほどの大軍、一度気(いちどき)におしよせきた處(ところ)に、北條方(がた)は、無勢(ぶせい)にて、

『これは、どうしてこの大敵(たいてき)をふせがふ』

と、うろたへまはる處へ、濱藏の先祖がきて、

『大敵、私(わたし)がしりぞけてお目にかけませう』

といつて、笊(ざる)をもつてとんで出たら、

『そりやこそ、ざるがまはる』

と、その大敵が皆、にげてしまつたといふことでござります。」

[やぶちゃん注:「眞筆」新編鎌倉志三」の「圓覺寺」の条に、総門及び仏殿の額は後光厳帝の、山門の額は花園帝の宸筆とある。なお、ここに載る円覚寺内の名所等については「新編鎌倉志卷之三」及び鎌倉四」の本文及び私の注を参照されたい。

「江戸の淺草の奥山」江戸中期ころから浅草寺境内の西側奥(裏手の後に五区と呼ばれた旧地)の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが盛んに行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保一三(一八四二)年から翌年にかけて江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町。現在の台東区浅草六丁目)に移転して来ると、そうした傾向は更に強まった(以上は主にウィキ浅草寺に拠る)。

「豆藏」手品・曲芸や滑稽な物真似などをして銭を乞うた大道芸人。

「今の奥山の濱藏」「由比の濱藏」何れも不詳。「濱藏」の漢字は推測で当てた。識者の御教授を乞う。

「笊がまはる」この「笊」は大道芸人が芸の後に投げ銭を貰うために客に持って回った笊のことであろう。]

祈禱 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

 

 祈禱

 

ぴんと光つた靑竹、
そこらいちめん、
ずばずば生えた竹籔の中へ、
おれはすつぱだかでとびこんで、
死にものぐるひの祈禱をした、
まつかの地面の上で、
ぎりぎり狂氣の齒がみをした。

 

みれば笹の葉の隙間から、まつぴるまの天が光つてゐる。
おれは指をとんがらして、
まつかうからすつぱりと。

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻の「未發表詩篇」(二七三~二七四頁)に載るもの。私の感じる〈「竹」詩想〉の一篇である。]

西東三鬼 拾遺(抄)Ⅱ (色紙・短冊・その他より)

   拾遺(やぶちゃん抄)Ⅱ

[やぶちゃん注:これは朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を底本とし、そこで都市出版社昭和四六(一九七一)年刊の大高弘達・鈴木六林男・三橋敏雄編「西東三鬼全句集」に載るところの色紙・短冊・その他からの抄出句を「拾遺二」として掲げたもの全十九句の中から、私の琴線に触れるものを抄出したが、本コンセプトに随い、恣意的に正字化した。]

昭和二十二(一九四七)年

葱坊主みな默り立つ朝の雨

昭和二十三(一九四八)年

蝶在れといへば蝶在る杖の先

炊煙に涙し逃れ夕櫻

昭和二十六(一九五一)年

虹消えし方へのそのそ歩き出す

[やぶちゃん注:「のそのそ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

昭和三十(一九五五)年

ひらひらと春の夜氣入る首飾

[やぶちゃん注:「ひらひら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

春の星恍惚の手を別ちけり

昭和三十六(一九六一)年

くちつけてくずれて死なむ天の川

昭和三十七(一九六二)年

元日の鳩桃色の脚いそがし

北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郞富士人穴に入る

 

      ○伊東崎大洞  仁田四郞富士人穴に入る

同六月一日、將軍賴家卿、伊豆の奥の狩倉(かりくら)に赴き給ふ。伊東崎と云ふ所の山中に大なる洞(ほら)あり。賴家卿、此內を不審(いぶかし)く思(おぼし)召し、和田平太胤長(たねなが)に仰せて、洞の內を見しめらる。胤長、松明(たいまつ)をともして、洞の內に入りたりしが、巳刻計(みのこくばかり)より、酉刻に及びて、洞より歸り出でつゝ申すやう、「この洞の內、數十里を打過る。暗き事云ふ計なし。松明を振(ふり)立てて奥深く行き至れば、所々に小川流れ、兩方の岩角疊竝(いはかどたたみなら)び濕(うるほひ)滴りて滑(なめらか)なり。猶深く進(すすみ)行く。奥に一つの大虵ありて、蟠(わだかま)り臥したり、其長(そのたけ)十丈計もやあるべき、兩眼輝(かゝや)きて凄(すさま)じく鱗(うろこ)重なりて苔生ひたり。胤長を見て口を開き、吞まんとする勢(いきおひ)あり。胤長、卽ち太刀を拔きて、大虵の口を竪樣(たてざま)に切割(きりさ)くに、地を響(ひゞか)して倒(たふれ)死す。是より奧は虵に塞(ふさが)りて通り得ず、罷出でて歸りし」と申す。「猶奧見極めざらんは、洞に入りたる甲斐なし」と將軍、御不興(ごふきやう)し給へば、和田平太も心の外に思ひながら、御前をぞ立ちにける。同じき三日、將軍家、駿河國富士の狩倉に赴き給ふ。山の麓に又大なる穴あり。世の人、是を富士の人穴とぞ名付けける。この穴の奧を見極めさせられんが爲にとて、仁田四郞忠常を召して、劍を賜り、「汝この穴の中に入りて奥を極めて來るべし」との上意なり。忠常、畏(かしこま)りて、御劍を賜り、御前を罷立ちて、主從六人、穴の內にぞ入りにける。次の日、四日の已刻に、四郞忠常、人穴より出でて歸り來る。往還、既に一日一夜を經たり。將軍家、御前に召して聞(きこし)召す。忠常、申しけるやう、「この洞は甚(はなはだ)狹くして、踵を𢌞らす事叶(かない)難し。僅(わづか)に一人通るべくして心の如くに進(すすみ)行かれず。又暗き事云ふ計なし。主從手每(てごと)に松明をともし、互に聲を合せて行く程に、路(みち)の間(あひだ)は水流れて、足を浸す。蝙蝠(かうもり)、幾等(いくら)と云ふ限(かぎり)なく、火の光に驚きて飛翔(とびかけ)り、その行先に滿塞(みちふさが)れり、色黑き物は世の常にあり。白き蝙蝠も亦、少(すくなか)らず。水の流(ながれ)に隨ひて小き虵(へび)の足に當り纏(まとひ)付く事隙(ひま)なし、刀を拔きて切流(きりなが)し切流し進(すすみ)行くに、或は腥き匂(にほひ)、鼻を衝きて嘔噦(おゑつ)せしむる時もあり。或は芳(かうば)しき薰(かをり)來りて、心を涼(すゞやか)に成す事もあり、奥は漸々(ぜんぜん)廣くして、上の方には何やらん、色透(すき)通りて靑き氷柱の如くなる物、ひしと見えたり。郞從の中に物に心得たるが申しけるは、是は鐘乳とて石藥(せきやく)なり。仙人、是を取(とり)て不老長生の藥を煉ると傳聞(つたへきゝ)しと語り候。又、步(あゆみ)行く足の下、俄に雷(いかづち)のはためく音して、千人計一同に鬨(ときのこゑ)を作ると聞しは、是は定(さだめ)て修羅窟(しゆらくつ)の音なるべし。凄じき事に存じて候。猶、行先、愈(いよいよ)暗く、松明をともし續け、些(すこ)し廣き所に出たり。四方は黑暗幽々(こくあんいういう)として、遠近(をちこち)には時々、人の聲、聞(きこ)ゆ。心細き事、宛然(さながら)、迷土(めいど)の旅路(たびぢ)に向ひたどり行く心地ぞする。かゝる所に一(ひとつ)の大河に行(ゆき)懸る。事問ふべき都鳥も見えず、漲(みなぎ)り落(おつ)る水音は其深さ淵瀨(ふちせ)も定(さだか)ならず。逆捲く水に足を浸し入れたりければ、水の早き事、矢の如く、冷(ひやゝか)なる事、極寒の水に勝れり。紅蓮(ぐれん)、大紅蓮の地獄の氷は是なるべし。川向ひ其遠さ、七八十間もあるべし。其中に松明の如くなる物、向ひに見えて、光、宛然(さながら)、火の色にもあらず。光の內を見れば、奇異の御姿、邊(あたり)を拂(はらつ)て立ち給ふ。郞從四人は、その儘、倒れて死す。忠常、かの御靈(ごりやう)を禮拜するに、御聲(みこゑ)、幽(かすか)に敎へさせ給ふ御事有て、則ち、下し給はりし御劍(けん)を其(その)川に投(なげ)入れけるに、御姿は隱れ給ひ、忠常は、命助(たすか)りて歸り出で候なり」と申す。賴家卿、聞召し、「猶その奥は、定めて天地の外の世界なるべし。重ねて渡し舟(ぶね)を造らせ、人數多く遣はして見屆くべし」とぞ仰せられける。古老の人々は、是を聞きて、「この穴は淺間(せんげん)大菩薩の住所なりと申し傳へ、昔より遂に其內を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣(かやう)に事を破り給ふには、將軍家の御身に取りて御愼(つゝしみ)無きにあらず。恐(おそろ)し恐し」とぞ私語(さゝやき)ける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年六月一日・三日・四日に基づく。頼家の畸人性が強調され、頼家のカタストロフが近いことが禁忌への抵触によって暗示される。以下、この連続した三日分(二日は記載がない)を纏めて以下で見よう。

〇原文

一日丁酉。晴。將軍家着御伊豆奥狩倉。而號伊東崎之山中有大洞。不知其源遠。將軍恠之。巳尅。遣和田平太胤長被見之處。胤長擧火入彼穴。酉刻歸參。申云。此穴行程數十里。暗兮不見日光。有一大蛇。擬吞胤長之間。抜釼斬殺訖云々。

三日己亥。晴。將軍家渡御于駿河國富士狩倉。彼山麓又有大谷〔號之人穴〕爲令究見其所。被入新田四郞忠常主從六人。忠常賜御釼〔重寳〕入人穴。今日不歸出暮畢。

四日庚子。陰。巳尅。新田四郞忠常出人穴歸參。往還經一日一夜也。此洞狹兮不能𢌞踵。不意進行。又暗兮令痛心神。主從各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顏。不知幾千万。其先途大河也。逆浪漲流。失據于欲渡。只迷惑之外無他。爰當火光。河向見奇特之間。郞從四人忽死亡。而忠常依彼靈之訓。投入恩賜御釼於件河。全命歸參云々。古老云。是淺間大菩薩之御在所。往昔以降。敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

一日丁酉。晴る。將軍家、伊豆の奥の狩倉(かりくら)へ着御す。而るに伊東崎と號する山中に大洞(おほおら)有り。其の源(みなもと)の遠さを知らず。將軍、之を恠(あや)しみ、巳の尅、和田平太胤長を遣はして見せらるるの處、胤長、火を擧げて彼の穴に入る。酉の刻、歸參し、申して云はく、

「此の穴の行程數十里、暗くして日の光を見ず。一(いつ)の大蛇有り。胤長を呑まんと擬(ぎ)するの間、釼(つるぎ)を抜き斬り殺し訖んぬ。」

と云々。

三日己亥。晴る。將軍家、駿河國富士の狩倉に渡御す。彼の山麓に又、大谷(おほたに)〔之れを人穴と號す。〕有り。其の所を究められんが爲に、新田四郞忠常主從六人を入れらる。忠常、御釼(ぎよけん)〔重寳(ちやうはう)。〕を賜はり、人穴に入る。今日、歸り出でず、暮れ畢んぬ。

四日庚子。陰る。巳の尅。
新田四郞忠常、人穴を出で歸參す。往還に一日一夜を經るなり。

「此の洞、狹くして踵(くびす)を𢌞らす能はず。意(こころ)ならず進み行くに、又、暗くして心神を痛ましむ。主從各々松明(たいまつ)を取る。路次(ろし)の始中終(しちゅうじう)、水流、足を浸し、蝙蝠、顏に遮(さいぎ)り飛ぶこと、幾千万といふことを知らず。其の先途(せんど)は大河なり。逆浪(げきらう)、漲(みなぎ)り流れ、渡らんと欲するに據(よんどころ)を失ふ。只だ迷惑の外(ほか)、他(ほか)無し。爰に火の光に當り、河向ふに奇特(きどく)を見るの間、郞從四人、忽ち死亡す。而るに、忠常、彼の靈の訓(をし)へに依つて、恩賜の御釼を件(くだん)の河へ投げ入れ、命を全うし歸參す。」

と云々。

古老云はく、

「是れ、淺間(せんげん)大菩薩の御在所なり。往昔(わうじやく)より以降(このかた)、敢へて其の所を見ることを得ず。」

と云々。

「今の次第、尤も恐るべきか。」

と云々。

「伊東崎と云ふ所の山中に大なる洞あり」これについては一説に、「伊東崎」は静岡県伊東市南部にある美しい単成火山の大室山で、洞窟は、その北西側裾野にある熔岩洞穴とも伝えられている。

「和田平太胤長」(寿永二(一一八三)年~建暦五(一二一三)年)和田義盛の甥。弓の名手として知られたが、この後、建暦三年に同心した「泉親衡(ちかひら)の乱」(信濃源氏の親衡が亡き頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとした事件であるが、多分に謀略臭い)発覚、陸奥岩瀬郡(現在の福島県)に流された。これを機に義盛が挙兵して「和田義盛の乱」となったが、執権義時方に敗れ、胤長も同年五月、配流の先で殺された。本話当時は満二十歳。


「巳の刻」午前十時頃。


「酉の刻」午後六時頃。


「數十里」は大袈裟。八時間で往復で、しかも足場の悪い洞窟内では、「十数里」でも覚束ない。冒頭から胤長の嘘が読める。大方、入口から程遠からぬところで、静かに隠れていたものであろう。

 

「十丈」約三〇メートル。

 

「富士の人穴」現在の静岡県富士宮市にある古代の富士山噴火によって形成された溶岩洞穴。ウィキ人穴」によれば、主洞は高さ一・五メートル、幅三メートル、奥行き約九〇メートル。最奥部から更に細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もある。江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講の開祖である角行(かくぎょう 天文一〇(一五四一)年~正保三(一六四六)年:江戸時代に富士講を結成した人々が信仰上の開祖として崇拝した人物。)は、永禄元(一五五八)年に人穴にやってきて修行をした。また富士講信者は富士参詣をすませると聖地人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされる。現在も洞内にはその時代に作られたとされる石仏が安置されている。「人穴」という名前の由来は、源頼朝が家臣をこの穴に潜らせたことから、人穴と呼ばれるようになったといわれる、とある。

「仁田士朗忠常」(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)は伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の住人で、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵に十三歳で加わった。頼朝の信任厚く、文治三(一一八七)年正月、忠常が病いのために危篤状態に陥った際には頼朝自らが見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦、文治五(一一八九)年の奥州合戦においても戦功を挙げた。建久四(一一九三)年の曾我兄弟の仇討ちの際には兄の曾我祐成を討ち取っている。頼朝死後は第二代将軍頼家に仕え、頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父(めのと)となったが、建仁三(一二〇三)年九月二日に頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変が起こると、忠常は掌を返して北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚比企能員を謀殺している。ところが、三日後の五日に回復した頼家からは、逆に時政討伐の命令を受けてしまう。翌晩、忠常は能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かったが、彼の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由として謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中、加藤景廉に殺害されている(以上はウィキ「仁田忠常に拠った)。彼も結局は「昔より遂に其內を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣に事を破」った実行既遂犯であった以上――ここでの教唆犯頼家の受けることになる「神罰」という名の「謀略」から、やはり遂に免れ得なかったのだ、ということであろう。本話当時は満三十六歳であった。

「已刻」午前十時頃。

「一日一夜」一昼夜であるから正味二十四時間。こちらは家来五人の内、四人が死亡していると報告しているから、かなり真面目に奥の奥まで探索したものと考えてよかろうか。――そうでないとすれば――四人の家来だけを奥の穴に無理矢理行かせ、戻って来ずなったによって帰ってきて大嘘をついた――という、胤長なんぞより遙かにトンデモ冷血漢ということにもなろうか。――仁田の実際の事蹟(前注参照)や、波瀾万丈の美事なる地底廻りの話っぷり、最後の神霊の出現の辺りの如何にもな感じからは――寧ろ、その残忍で打算的な男の可能性の方が、残念ながら私は高いようにも読めるのである。

「嘔噦(おゑつ)」は正しくは「おうゑつ」で(底本では「お」の下に空白があるので「う」は植字の脱落かも知れない)、しゃっくりやゲップ、吐きそうでいながら、物が出ないことをいう。

「修羅窟」六道の修羅道。

「事問ふべき都鳥」「伊勢物語」第九段の「東下り」の知られた和歌「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえるが、この如何にもな落ち着いた引用装飾も、実にこの仁田の話柄全体の嘘臭さを高めていると言える。


「紅蓮、大紅蓮の地獄」地獄の中で、通常知られた地獄の業火ではなく、極度の寒冷に責め苦しめられる八種の地獄の内の二つ。「紅蓮地獄」はその第七とされ、正しくは鉢特摩(はどま)地獄で鉢特摩とは「蓮華」を意味するサンスクリット語の音写。ここに落ちた者は酷い寒さにより皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。次の「大紅蓮地獄」はその第八の地獄で、正しくは摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄。摩訶は「大」を意味するサンスクリット語の音写。ここに落ちた者は紅蓮地獄を超える寒さにより体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。八寒地獄で最も広大とされる(以上はウィキ地獄」の記載を参照した)。


「七八十間」約一二七~一四六メートル。

「淺間大菩薩」木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)とされる富士の守り神である浅間大神を祀った浅間神社が神仏習合によってかく呼ばれた。]

 

耳嚢 巻之六 人魂の事

 

 人魂の事

 

 

 或人葛西(かさい)とやらんへ釣(つり)に出しに、釣竿其外へ夥敷(おびただしく)蚋(あぶ)といへる蟲のたち集りしを、かたへにありし老叟(らうさう)のいへるは、此邊に人魂の落(おち)しならん、夫(それ)故に此蟲の多く集(あつま)りぬるといひしを、予がしれるもの、是も又拂曉(ふつぎやう)に出て釣をせしが、人魂の飛(とび)來りてあたりなる草むらの内へ落ぬ。いかなるものや落しと、其所(そこ)へ至り草などかき分け見しに、泡だちたるものありて臭氣もありしが、間もなく蚋となりて飛散りしよし。老叟のいひしも僞ならずと、かたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:死後も執心の守銭老人から、死後の人魂で軽く連関するように感じられる。

 

・「蚋(あぶ)」は底本のルビ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「アブ」とカタカナでルビする。アブは狭義には昆虫綱双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ科Tabanidae に属する主に吸血性の種を指す。但し、人や地方によっては、双翅目や短角亜目に属するより広い範囲の種をアブと呼称するし、和名の中に「アブ」と名打つ種は直縫短角群(ちょくほうたんかくぐん)Orthorrhaphous 双翅目短角亜目に属する昆虫の中で単系統群である環縫短角群のハエを除外したものの総体(側系統群)、所謂、生物学的な広義のアブ)とは完全には一致しない(以上は主にウィキアブ」及び直縫短角群に拠った)。

 

・「老叟」は年とった男性、老翁であるが、何故か岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「老婆」となっている。船釣りに出たのであれば老婆は不自然であるが、「かたへにありし」という表現は、遇然に傍にいた、ともとれることから、これは河口付近で岡釣りに出たのだともとれ、それならば、この老婆の急の登場、これ、逆にホラー効果を高めるとも言える。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人魂の事 

 

 ある人が――葛西辺りで御座ったか――釣りに出たところ、釣竿や魚籠(びく)その外に「虻」と申す虫が夥しく集(たか)って御座った。

 

 すると、それを見たる老爺が、ぽつりと、

 

「……これは……この辺りへ……人魂の落ちたに、違いない。……さればこうして、この虫がよう、集まって来るのじゃて。……」

 

と呟いたと申す。……

 

 今一つの話。

 

 私の知れる者が――この話でもまた、やはり夜明け方に出て釣りへ行った――ところが、人魂が飛び来たって、かの者の釣り致いて御座った近くの叢(くさむら)うちに落ちた。

 

「……さても……如何なるものの……落ちたものか?」

 

と、その落ちた辺りへ向かって、草なんどを掻き分け、掻き分けして見たところが……

 

……何やらん……

 

……じゅくじゅくと……

 

……白う泡立った……

 

……奇体な塊のあって……

 

……何とも言えぬ……

 

……生臭い……

 

……嫌(いやー)な臭気も……

 

……これ……漂って御座った。――

 

……ところが……この泡の塊のようなるもの……間もなく……

 

……無数の……

 

……これ……虻となって……

 

……何処(いずこ)へか……飛び散ってしもうた。――と申す。……

 

 

「……なるほど。……されば先の話で老爺の申したことも、これ、偽りにては御座らぬかのう……」

 

と、私と後の話をした御仁と、語り合(お)うたことで御座った。

鳥の毛の鞭 大手拓次

 鳥の毛の鞭

尼僧のおとづれてくるやうに思はれて、なんとも言ひやうのない寂しさ いらだたしさに張りもなくだらける。
嫉妬よ、嫉妬よ、
やはらかい濡葉(ぬれば)のしたをこごみがちに迷つて、
鳥の毛の古甕色(こがめいろ)の悲しい鞭にうたれる。
お前はやさしい惱みを生む花嫁、
わたしはお前のつつましやかな姿にほれる。
花嫁よ、けむりのやうにふくらむ花嫁よ、
わたしはお前の手にもたれてゆかう。

一言芳談 九十九

   九十九

 明遍云、出家遁世の本意(ほんい)は、道のほとり、野べの間にて死せむことを期(ご)したりしぞかしと、如此(かくんごとく)おもひつれば、いかに心ぼそき事にあふとも、一念も人をうらむべからず。それにつけても佛力(ぶつりき)をあふぐべきなり。

〇佛力を、法然上人のをしへにも、臨終の知識はなくとも佛をたのみて往生すべしと侍り。

[やぶちゃん注:Ⅱの大橋氏の注に「一遍上人語録」の巻下から以下のように引用する(恣意的に正字化した)。
わが門弟におきては、葬禮の儀式をとゝのふべからず。野に捨て獸にほどこすべし
「人をうらむべからず」この「べし」は確述若しくは当然の意で、「人を恨むことはないはずである」の謂い。]

2013/02/27

生物學講話 丘淺次郞 第八章 團体生活 一 群集

 

      一 群集

 

 ある種類の動物が、一箇處に澤山集まつて居ることのあるは、誰にも氣のつく著しい事實である。例ヘば春から夏にかけて、暖な時節になると、毛蟲が澤山に出て來るが、中には樹の膚が見えぬ程に幹にも枝も一杯に居ることがある。また「ばら」・菊・「はぎ」その他の草花類の新しい芽の處に、「ありまき」が壓し合ふ程に一面に集まつて居ることがある。田畝の流れに「めだか」が游いで居るのを見ても、禁獵地の池に鴨の浮んで居るのを見ても、皆必ず群をなして居て、單獨に離れて居るものは殆どない。かく多數に集まる原因は場合によつて必ずしも一樣ではないが、相集まつて居る以上は、とにかく群集に基づく利益を得て居ることは慥である。

 

 生物の中には風に吹かれ浪に流されて、同じ處に無數に集まるものがある。「夜光蟲」などはその一例で、海岸へ吹き寄せられた處を見ると水が一面に桃色になる程で、幾億疋居るか幾兆疋居るかその數は到底想像も出來ぬ。「數の子」の一粒にも及ばぬ小さな蟲が、殆ど水を交へぬ程に密集して、數十粁に亙る沿岸の波打ち際に打ち寄せられて居ることが屢々あるが、僅二三十疋づつ硝子瓶に入れて、五十錢にも賣つて居る標本商の定價表に從つたならば、世界中の富を悉く集めてもその一小部より外は買へぬであらう。但しこれは潮流の關係で芥が寄るのと同じく單に機械的に集まるのであるから、自身から求めてわざわざ集まる他の生物の群集とは素より趣が違ふ。ときどき海水を腐らせて水產業者に大害を與へる赤潮の微生物も、略々これと同じやうな具合で、突然無數に寄つて來ることがあるかと思ふと、その翌日はまるで一疋も見えぬこともある。尤も絕えず蕃殖するから、その增加するのは單に他から集まるのみではない。同じ方角の風が吹き續くと、沖の方から「かつをのゑぼし」が無數に濱へ寄つて來て、幾萬となく打ち上げられたものが腐敗して臭氣を放つので、その邊の者が大に迷惑するやうなこともときどきある。

Kagerou

[「かげらふ」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 

 動物にはそれぞれ生活に必要な條件があるが、かやうな條件の具はつてある處には、これに適する動物が集まつて來る。日光を好むものは日向に集まり、日光を嫌ふものは日陰に集まる。掃溜を掘つて「やすで」の塊を見出すのはそれ故である。食物が多量にある處へは無論これを食ふものが集まつて來る。毛蟲や芋蟲が大群をなして居る場合は卽ちかゝる原因による。また「ありまき」の如きものは、運動の遲いために遠くへは行かず皆生まれた處の近邊に留まるので、大群を生ずることがある。「かげろふ」といふ「とんぼ」に似た蟲の幼蟲は長い間水中に生活して居るが、それが孵化するときは幾萬となく、同時に水から飛び出すから、暫時大群が生じ通行人の顏や手に留まつて、うるさくて堪へられぬ。「いなご」が非常な大群をなして移動し、到る處で綠色の植物を殘らず食ひ盡すことは昔から有名な事實であるが、これも恐らく同じ時に卵が揃つ孵化した結果であらう。

 

[やぶちゃん注:「かげろふ」昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫の総称。昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。幼虫はすべて水生。不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態を行い、成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。参照したウィキカゲロウ」によれば(この記載は優れて博物学的である)、目の学名はギリシャ語でカゲロウを指す“ephemera”と、翅を指す“pteron”からなるが、この“ephemera”の原義は “epi”(on)+“hemera”(day:その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する(ギリシャ語で“ephemera”(エフェメラ)は、チラシやパンフレットのような一時的な筆記物及び印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す語としても用いられるが、これも、やはりその日だけの一時的なものであることによる)。和名の「カゲロウ」については、『空気が揺らめいてぼんやりと見える「陽炎(かぎろひ)」に由来するとも言われ、この昆虫の飛ぶ様子からとも、成虫の命のはかなさからとも言われるが、真の理由は定かでない。なお江戸時代以前の日本における「蜉蝣」は、現代ではトンボ類を指す「蜻蛉」と同義に使われたり、混同されたりしているため、古文献におけるカゲロウ、蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指しているのかは必ずしも明確でない場合も多い』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である。一方、平安時代に書かれた藤原道綱母の『蜻蛉日記』の題名は、「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という中の一文より採られているが、この場合の「蜻蛉」ははかなさの象徴であることから、カゲロウ目の昆虫を指しているように考えられる』。『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』とある。最後の部分は補注すると、クサカゲロウは、

 

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae

 

に属し、ウスバカゲロウは、

 

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae

 

に属する。形状は似ているものの、全く異なった種である。]

 

Inago

[「いなご」の大群]

[黑雲の如くに日光を遮る。我が國の內地へはかやうの大群の渡り來ることがないけれどもアジヤ、ヨーロッパ等の大陸地方では往々これに襲はれ瞬く間に作物を悉く食ひ盡されることがある。]

[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 

 右の如きものの外に、動物には自ら同種相求めてわざわざ群集を造つて生活するものが少くない。淺い處に住む海產魚類の中に、形が「なまづ」に似て、口の周圍に幾本かの鬚を有する「ごんずゐ」と名づける魚があるが、これなどは特に群集を好むもので、水族館に飼つてあるものを見ても、常に多數相集まつて、殆ど球形の密集團を造つて居る。二―三糎にも足らぬ幼魚でも明にこの性質を現し、球形の塊りになつて游ぎ𢌞るから、漁夫の子供らはこれを「ごんずゐ玉」と呼んで居る。試に竹竿を以てかやうな「ごんずゐ玉」を縱橫にかき亂すと、一時は多少散亂するが、竹竿を退けるや否や、直に舊の通りの球形に復する。「ごんずゐ」は小さな球形の群集を造るから、特に眼に立つが、見渡し切れぬ程の大群集を造る魚類も少くない。「いはし」「にしん」などはその例で、大きな地曳き網を引き上げる所を見物すると、實に無盡藏の如くに思はれるが、その盛に密集して居る處では、魚が互に押し合ふために、海の表面から上へ現れ出る位であるといふ。その他、鰹でも「さば」でも「たら」でも一定の處に非常に澤山に寄つて來るので、漁獲の量も頗る多く、隨つて水產物中の重要なものと見做されるのである。

 

Gonzui

[ごんずゐ]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】]

 

[やぶちゃん注:「ごんずゐ」硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ Plotosus japonicus 。和名は漢字では「権瑞」と書く。ウィキのゴンズイによれば、体長一〇~二〇センチメートルに達するナマズ目の海水魚で、『茶褐色の体に頭部から尾部にかけて二本の黄色い線がある。集団で行動する習性があり、特に幼魚の時代に著しい。幼魚の群れは巨大な団子状になるため、「ごんずい玉」とも呼ばれる。この行動は集合行動を引き起こすフェロモンによって制御されていることが知られている』。『背びれと胸びれの第一棘条には毒があり、これに刺されると激痛に襲われる。なお、この毒は死んでも失われず、死んだゴンズイを知らずに踏んで激痛を招いてしまうことが多いため、十分な注意が必要である』とあり、また、『地方によっては味噌汁や天ぷらなどで食されることがあ』るとあるが、残念なことに私はまだ食したことがない。因みに和名の由来は牛頭人身の地獄の鬼卒の牛頭に頭部が似ていることから牛頭魚(ゴズイオ)と呼ばれたものが訛ったという説がある。確かにゴンズイの頭部は牛に似ていないとは言えず、鰭の毒腺によっても悪しき印象なればこそ、しっくりくる説明ではある。他にも中部地方で雑魚のことを「ゴズ」または「ゴンズリ」と称することからから、それが訛ったという説もある。なお、植物でバラ亜綱ムクロジ目ミツバウツギ科に、同様の和名を持つゴンズイ属 Euscaphis があるが、これは薪以外に使い道がなく役に立たないところから、同様に役に立たない魚である「ゴンズイ」に擬えた命名と言われる(植物の方のゴンズイは漢字表記では「権萃」)。

 

――なお、ここでどうしても述べておきたいのだが、私はこうした危険動植物の例記載に際しては、生物学者なればこそ、それがたとえ本論と大きく外れる場合であっても、必ずその危険注記を附すべきである、と私は考えている。例えば、ここで丘先生は、漁夫の小どもの遊びの例(遊びとはおっしゃっていないが、「遊び」としか読めない)を示しておられるが、都会の子が、この叙述だけを読んで、誤って「ごんずい玉」に手足を差し入れた時のことを、私は科学者たる生物学者だからこそ、注意書きしなくてはならない、と思うのである。これは丘先生一人への批難ではない。私は幼少の頃から、各種の生物図鑑で、本来、その扱いに注意が必要な危険生物について、しばしばそうした不記載があることに強い不満を感じ続けてきたからである。

 

――私は「科学的」であるということは、何よりも興味深く面白いことを喚起しながら、同時に、時として個人の身体や生命、いや、人類の生存さえ危険が及ぶこともあることを必ず謂い添えて学ばせることが「科学的」であることの本質と理解しているのである。科学は原子力の似非安全性や非科学的な経済効果に奉仕するためにあってはならないのである。池内了氏が主張なさっているように(私が教師時代後期に新聞記事で教授したように)、今も昔も、真の――科学者たるものは社会のカナリアにならねばならぬ――と切に思うからでもある。]

 

 

Ahoudori

[「あはうどり」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 

 鳥類や獸類にも群居するものは甚だ多い。その中でも特に著しいのは海鳥や海獸の類で、遠洋の無人島に於ける海鳥群集の有樣は、實地を見たことのない人には到底想像も出來ぬ。南鳥島とか東鳥島とかいふ名も、島中が鳥で一杯になつて居る所から附けたのであらう。海鳥は魚類を常食とするから糞の中に多量の燐が含まれてある。それ故海鳥の糞は肥料としては甚だ有功なもので、價も相應に高い。海鳥の群集して居る島にはこの貴重な糞が何百年分も堆積しているから、これを掘り取ると一角の富源なる。無人島に居る海鳥の中で主なるものは「あはうどり」で、翼を擴げると一米半もある大鳥であるが、人が來ても逃げることを知らず、ただ魚の消化した臭い汁を吐き掛けるだけで、棒で打ち殺すことは何でもない。南極近くに居る「ペンギン鳥」も、殆ど無數に群がつて居る處があるが、これらの鳥はたゞ集まつて居るといふだけで、互に相助けるといふ如きことは決してせず、恰も電車の乘合客のやうに、相罵りながら押し合つて居る。「ペリカン」なども、動物園や見世物で一、二疋を見ると頗る珍しい鳥の如くに思はれるが、その集まつて居る處には殆ど無限に居る。

 

[やぶちゃん注:「南鳥島」一つは本州から一八〇〇キロメートル離れた日本最東端として知られる小笠原諸島の南鳥島がある(東京都小笠原村に属すが、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊や気象庁南鳥島気象観測所、関東地方整備局南鳥島港湾保全管理所の職員が交代で常駐するのみ)。他にも小笠原諸島の母島(ははじま)列島内にも無人島の小島で南鳥島という同名の島がある。

 

「東鳥島」「東小島」が正しい。東京都小笠原村沖ノ鳥島にある島で、日本最南端の島である沖ノ鳥島の一部。「国土地理院図」のここ

 

「あはうどり」ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus 。漢字表記は「阿呆鳥」「阿房鳥」「信天翁」で最後は「しんてんおう」とも読む。和名は人間が接近しても地表上では動きが緩慢で本文にある通り、捕殺が容易だったことに由来する。北太平洋に分布し、夏季はベーリング海やアラスカ湾・アリューシャン列島周辺に渡り、冬季になると繁殖のために日本近海へ南下する。現在、本文中に示された鳥島や尖閣諸島北小島及び南小島でのみ繁殖が確認されている。かつての羽毛目的の乱獲により生息数は激減した。一九三九年には残存していた繁殖地である鳥島が噴火し、一九四九年の調査でも発見されなかったため、鳥島では絶滅したと考えられていたが、一九五一年で繁殖している個体が再発見され、保護活動が行われている。特別天然記念物。二〇一〇年に於ける調査では鳥島のアホウドリ集団の総個体数は二五七〇羽と推定されている(以上はウィキの「アホウドリ」に拠った)。]

 

Ottosei

[「をつとせい」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 

 「あざらし」・「をつとせい」の如き海獸は皆大群をなして生活する。「いるか」なども、何十疋か揃つて汽船と競爭して泳いで行くのを見掛けることがある。陸上の動物でも羊・山羊・鹿・「かもしか」などを始め兎・鼠に至るまで、植物を食ふ獸類には群棲するものが甚だ多い。これらは皆單獨の生活を恐れ、なるべく群集から離れぬやうに注意し、萬一少しく離れることがあつても、直に群集の方へ歸つて來る。しかし群集の中では互に相助けることはなく、食物を奪ひ合つて喧嘩をするものも絕えぬ。或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつたが、普通の動物の群集も多くはこれに似たものであらう。但し一疋が危險を見附けて逃げ出せば、他はこれに雷同して全部殘らず逃げ去るといふ便宜はある。

 

[やぶちゃん注:『或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつた』とあるのは哲学者ショーペンハウアーの随筆集「余禄と補遺」(パレルガ・ウント・パラリポメナ)第二巻に載る寓話を指す。但し、正確にはこれを精神分析学者フロイトが「ヤマアラシのジレンマ」と呼んだことで、広く知られるようになったもので、「はりねずみ」は誤りである(ヤマアラシとハリネズミの違いについては後述する)。以下、その訳をヤフー知恵袋の「ショーペンハウアーのヤマアラシのジレンマはどの本に載っていますか?」の答えにある秋山英夫氏訳になる「ショーペンハウアー 随想録」(白水社一九九八年復刊とある)から孫引きさせて頂く(カンマを読点に変更した)。

 

   《引用開始》

 

 やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。

 

 だが、まもなくおたがいに刺の痛いのが感じられて、また分かれた。

 

 温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。

 

 こうして彼らは二つの難儀のあいだに、あちらへ投げられこちらへ投げられしているうちに、ついにほどほどの感覚を置くことを工夫したのであって、これでいちばんうまくやっていけるようになったのである。

 

 ――こうして、自分自身の内面の空虚と単調から発した社交の要求は、人びとをたがいに近づけるが、そのいやらしい多くの特性と耐えがたい欠陥は、彼らをふたたび突きはなすのである。彼らがついにあみだした中ぐらいの距離、そして共同生活がそれで成り立ちうるほどのへだたりというのが、礼節であり、上品な風習というわけだ。(中略)

 

 しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は、めんどうをかけたりかけられたりしたくないために、むしろ社交界から遠ざかっているのである。

 

   《引用終了》

 

即ち、「ヤマアラシのジレンマ」とは、人間社会に於ける自己自立の欲求と、他者との一体感希求という相反する二つの欲求のアンビバレンツによるジレンマのことを指す。但し、ウィキの「ヤマアラシ」の解説にもあるように、心理学的には以上のような二律背反的な否定的意味以外に、『「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点』で注意が必要である。

 

 さて、ヤマアラシは、

 

哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科のヤマアラシ科 Hystricidae 及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae

 

に属する草食性齧歯類の総称で、体の背面と側面の一部に鋭い針毛を持ち、『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇する。そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進する。針毛は硬く、ゴム製の長靴程度のものなら貫く強度がある』と記す。なお、ヤマアラシの棘は長く、外に向かって開くようにして逆立ち、対象に刺さると自切して抜ける点が特徴的である。

 

 対する「ハリネズミ」はヤマアラシとは、全く異なる生物種で、

 

哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae

 

に属する、ミミズなどを採餌する雑食性の哺乳動物である。針状の棘は体毛の一本一本が纏まって硬化したもので、ヤマアラシのそれとは異なり、対象に刺さっても棘は抜けず、逆立てる場合も、内向きに重なり合うようする(以上は主にウィキの「ハリネズミ」などを参考にした)。同ウィキにも『ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である』とある。なお、ウィキの「ヤマアラシ」によれば、『実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりしている』とあって、しっかり身を寄せ合うことが出来るのであって、この「ヤマアラシのジレンマ」 は、動物学的には――完全な嘘っぱち――であることも言い添えておく。

 

 野牛の群れが虎などに襲はれた場合には、强い牡牛は前面に竝んで敵に向ひ、弱い牝や子供はなるべく奧へ入れて保護するが、かやうな團體は「あはうどり」や「ペンギン鳥」の群集とは幾分か違ひ、若干の個體が共同の目的のために協力して働くのであるから、多少社會を形造る方向に進んだものと見做せる。また狼なども多數相集まつて、牛の如き大きな獸を攻めることがあるが、これもそのときだけは一つの社會を組み立てて居るといへる。但し元來互に相助ける性質のないものが、たゞ餌を食ひたいばかりに合同して居るのであるから、敵を倒してしまへば、利益分配に就いて說が一致せず、忽ち互に相戰はざるを得ぬやうになる。これらの例を見てもわかる通り、簡單な群集から複雜な社會までの間には種々異なつた階段があつて、臨時の社會、不完全な社會などを順々に竝べて見ると、その間に判然たる境界のないことが明に知れる。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松个岡 甘露井

   松个岡 甘露井

 

東慶寺(とうけいじ)は、松が岡といふ。圓覺寺(ゑんがくじ)の南にあり。禪宗にて尼寺なり。開基は北條時宗(ときむね)の妻、秋田城介(あきたじやうのすけ)の娘にして、潮音院覺山志道禪尼(てうおんいんがくさんしだうぜんに)といふ。第二十世の住職は、豐臣秀賴公の息女なり。佛殿の後ろにその石塔婆(せきとうば)あり。甘露の井も、この邊(へん)なり。鎌倉十井の内の、その一つなり。

〽狂 常盤(ときは)なる松が

   おかとてあぢ

        はへば

 ちとせを

   のぶる甘露井(かんろい)も

        あり

旅人

「これはうつくしいお比丘尼(びくに)だ。坊さまにしておくはおしいものだ。」

「この前、儂(わし)が奧州へいつたとき、ある旅籠屋(はたごや)で、

『飯盛(めしもり)をかをふ』

といつたら、

『こゝには飯盛はござりませぬ、比丘尼があります、よんで御らうじませぬか』

といふから、

『こいつはめづらしい。話の種だ、かつて見やう』

と呼びにやつて、見たところが、くろい頭巾(づきん)をかぶつて、つまらない顏附きの比丘尼、

『お勤めは幾らだ』

ときいたら、

『お布施は三百だ』

といふ。

『木綿の洗濯物をきてゐるものを、三百とは、あたじけない』

と思ひながら、ねて見たところが、どうも坊主くさくていやだから、すぐにねたふりをしてゐると、その比丘尼が、そつと儂が鼻へ手をあてゝ寢息をかんがへるから、

『こいつ、氣味のわるいおかしなことをする』

と思ひながら、いよいよねたふりをしてゐたら、やがて、その比丘尼がそつとおきて、後先(あとさき)を見まはし、頭巾をとつて、兩手で頭をごしごしとかいたが、その頭が毬栗頭(いがぐりあたま)で、

『さては今まで頭のかゆいのをこらへてゐたのか』

とおかしく、それなりでねてしまつたが、翌朝、そこをたつて、先の立場(たてば)の茶屋できいたら、あの宿(しゆく)の比丘尼は、麥一升づゝでうりますといつたものを、三百とられて、とんだ目にあつたことがあつたから、儂は、比丘尼には、こりはてたものさ。」

[やぶちゃん注:標題「松个岡」は「まつがおか」、「甘露井」は「かんろゐ」と読みを振っている。

「秋田城介」(あきたじょうのすけ)は名前ではなく、出羽国の秋田城を専管した国司の称号で、ここでは安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)を指す。彼は安達景盛の嫡男で北条時宗の父時頼の得宗専制体制に尽力した人物である。

「潮音院覺山志道禪尼」(建長四(一二五二)年~徳治元(一三〇六)年)は、現在の読みでは「かくさんに」と濁らない。彼女は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で滅ぼされた義景の三男泰盛の妹に当たる。覚山尼は時宗の臨終に際して弘安七年に落飾しているから、その翌年に実家安達家の滅亡の遭遇している。

「豐臣秀賴公の息女」天秀法泰尼。寛永年間から二十世として活躍、将軍家との特別な俗縁によって、江戸期を通じて守られた駆入寺法(縁切り寺法)の守護者と伝えられる尼である。

「甘露の井も、この邊なり」は頗る興味深い謂いである。詳細はかつて鎌倉攬勝考卷之一の「五名水」で考証したので詳細はそちらに譲るが、「鎌倉五名水」というのが別にあって、ある説にその一つを「甘露水」といい、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは実際に現在、訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、「新編鎌倉志」で初めて示されたところの名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

という記述を見出す。ここではっきりするのは、どうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、そうして、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったかが同定できなくなっていたことが分かるのである。さればこそ、私には一九の「この邊なり」という不定の謂いが、実に正確であると思うのである。

「飯盛」飯盛女。旅籠屋での接客をする女性のことを言うが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道で早くに見られ、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)であった。飯盛女を抱える旅籠屋を飯盛旅籠屋といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき二人までを許可している。なお、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、しだいに宿内や近在、とくに助郷村(すけごうむら:街道宿駅の常備人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたすために補助的に人馬を提供した宿駅近傍の郷村のこと)の農民を対象とするようになり、しばしば宿と助郷間の紛争の種となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。先の佐助稻荷 岩屋堂の私の注も参照のこと。

「比丘尼」これは元は歌比丘尼。熊野比丘尼、絵解比丘尼と称して、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人を起源とするが、江戸期には尼の姿で売春を行った低級私娼を指すようになった。

「あたじけない」通常は、吝嗇だ、しみったれだ、の謂いで用いるが、ここは原義の「欲が深い」の意である。

「洗濯物」汚れた衣服のこと。

「毬栗頭」髪を短く丸刈りにした頭。比丘尼私娼であるから、外見上、坊主であるかのように見えるように髪を短く刈り込んでいるのを黒頭巾で覆って隠していたのだが、恐らくは房事の最中も頭巾を附けたままであったがために、汗で蒸れて痒くなったのであろう。さすれば彼女は、心機一転売りを狙って俄か比丘尼私娼をコスプレした、飯盛女ででもあったのかも知れない。男の眼を気にして、そこはかとなく、哀れな気もしてくるではないか。]

病氣した(海底/魚介)の無題草稿 萩原朔太郎

 

 

  

 

うにのぐにやぐにやにただれたうにの肉とくさつた海綿のはらはたから

 

なまこの赤い花がさき

 

┃ひもくらげのうすらあかりで

 

病氣のたこが手をくひ

 

いそぎんちやくが手がしなりしなり

 

また遠い岸の岬では

 

┃いそぎんちやくの纎手が

 

 

くらげひとでのまるい口

 

┃魚の耳

 

┃ひとでの口

 

いそぎんちやくの纎毛

 

┃さゞえの耳

 

┃いそぎんちやくの手

 

足をたべる病氣のたこのたぐひが足をたべる光景

 

また水のしたにはわがふむ水の底には

 

靑貝をたべる光景

 

またこゝの淺洲には

 

わがくされたるものつた肉をくふ

 

わがしんけいの根をくふつめた貝 

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『草稿詩篇「未發表詩篇」』(四八〇頁)に載るもの。題名は底本では「海底」「魚介」が「病氣した」の下に併記されてある。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。因みに、底本では「ひもくらげのうすらあかりで」から「いそぎんちやくの手」までの十一行を、推敲過程で抹消されずに残った併記語句と捉えており、更にその前半の「ひもくらげのうすらあかりで」から「いそぎんちやくの纎手が」までの五行と、「くらげのひとでのまるい口」から「いそぎんちやくの手」までの六行がその中で対応する推敲詩句であると捉えている。それを私は「┃」と「↕」で示した。削除部分を除去すると、

 

  


ぐにやぐにやにただれたうにの肉とくさつた海綿のはらはたから


なまこの赤い花がさき

 

ひもくらげのうすらあかりで

 

遠い岬では


いそぎんちやくの纎手が

 

魚の耳

 

ひとでの口

 

さゞえの耳

 

いそぎんちやくの手

 

病氣のたこ足をたべる光景

 

靑貝をたべる光景

 

またこゝの淺洲には

 

わがしんけいの根をくふつめた貝

 


となる。

……さても……如何にも僕好みの……饐えた、畸形の、海の標本箱だ……

耳嚢 巻之六 吝嗇翁迷心の事 その二

 又

 或在方に、かるき百姓の、農事商ひ等に精入れ稼ぎけるが、僅(わづか)に金子五兩を貯へしが、其邊常に立(たち)入る富家(ふうか)のあるじに向ひ、寔(まこと)に精心を表して死金(しにがね)を貯へ候が、貧家に置(おき)て盜難もおそろしければ、預り給はるべしと願ひしに、彼(かの)富翁(ふをう)も、渠(かれ)が精心を憐みて、そのこひにまかせ預りしが、四五日過(すぎ)て又來り、此間(このあひだ)の金を見せ給わるべしと乞ひし故、差出遣(さしだしつかは)し候處改(あらため)候て、又々預り呉(くれ)候樣(やう)にと、いふにまかせ預りしに、又四五日過て同(おなじ)やうに來りて、金を乞ひ改め、預けぬ。かゝる事四五度に及(および)しかば、富翁大(おほい)に憤りて、我(われ)なんぞ汝が金を預るにおろそかなるべしや、聊(いささか)の金子に度々來りて煩(わづらひ)をかくる事、何とも迷惑なれば、最早預りがたしと差戻しければ、ほうぼうと持(もち)歸りけるが、四五日も見へざる故尋(たづね)しに、彼もの右の五兩の金を握りて死し居(ゐ)けると也。人々哀(あはれ)と思ひて、彼金にて葬式等をなし、ねんごろに吊(とむらは)んとて、握りし金をとらんとせしが何分放さゞれば、せん方なく是も其儘に葬りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関;守銭院吝嗇翁居士「死ンデモ金ヲ放シマセンデシタ」二連発。
・「ほうぼうと」副詞「這ふ這ふ」の「はふはふ(ほうほう)」か。ならば、「あわてて」の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「しをしをと」で、これなら副詞「萎萎」「悄悄」の「しおしお」で、気落ちして元気がないさま。悄然と。しょんぼりと、となる。後者を訳では用いた。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭院吝嗇翁居士の死しても金への迷妄の消えざりし事 その二

 ある田舎にてのこと。
 賤しき百姓男が、野良仕事の他に、ちょっとした行商なんどに精を出し、小金を稼いで御座ったと申す。
 僅かに金子五両ばかりが貯まったところで、男の在所の近くにて、日頃から出入りして御座った裕福なる農家へと赴き、その主(あるじ)に向(むこ)うて、
「……まことに一途に、稼いで稼いで、ここにこうして、己(おの)が死金(しにがね)として貯へて参りましたが……我らが貧家に置きおいては、これ、盜まるること、恐ろしゅう感じますればこそ……どうか一つ、こちらさまにて、お預り下すっては頂けませぬかのぅ?」
と願(ねご)うたによって、かの富農の老主人も、男の一念の志しを憐れんで、その乞いに任せて預ったと申す。
 ところが、四、五日ほど過ぎて、かの男、また来たっては、
「……このあいだの金……お見せ下さいませぬか?……」
と乞うたによって、厳重に仕舞い置いたる納戸より、かの五両を取り出だいて、差し出し見せてやったところ、男は――しけじけ――一枚一枚を――舐め齧って――改めた上、またしても、
「……確かに。……さても続いて預り下さいまするように。……」
と申す。その改めように、何やらん、厭(いやー)な気がしないではなかったが、また、言うに任せて預って御座ったと申す。
 ところが、またまた、四、五日過ぎて、男、同じ如、参っては、金を乞うて出ださせ――またしても――しけじけ――舐め齧っては改め――再び預けて御座ったと申す。
 かかることが、これ、四、五度にも及んだによって、鷹揚なる老主人も流石に大いに憤り、
「我れ、なんぞ! そなたが金を預るに、いい加減に――その辺に転がしておき、誰かに盗まれたり、贋金にすり替えられたりするような――そんな疎(おろそ)かなこと、これ、しようものカイ! たかが五両ばかりの金子がために、度々来たっては、しけじけ舐め齧って改め、時と手間の煩いを我らにかくること、これ、迷惑千万! 最早、預り難い!」
と啖呵を切って突っ返したところ、男は如何にもしょんぼりとして、持ち帰って御座ったと申す。
 それから四、五日経っても、男の姿を見る者がなかったゆえ、少々、きつく言い過ぎたかと思うた老主人が散歩のついでに男の家を訪ねてみたところが……
……かの者……
……あの五両の金を……
……握りしめたままに……
……薄汚れた囲炉裏端にて……
……坐ったまま……
……とうに……
……冷とうなって御座った。――
 在所の者どもも皆、哀れに思うて、
「……死金として大事大事に致いたものなれば、かの五両の金をもって葬式なんどをなし、懇ろに弔(とむろ)うてやるがよろしかろう……」
ということになり、握って御座った金子を取ろうとしたところが……
……これ……
……いっかな……
……放さぬ――
……なれば、仕方なく――これも前話と同様――その金子を握ったままに、葬ったとのことで御座る。

一言芳談 九十八

   九十八

 

宝幢院本願(ほうだうゐんのほんぐわん)云、むかしの上人は、一期(いちご)道心の有無を沙汰しき。次世(つぎのよ)の上人は法文を相談す。當世の上人は合戰物語(かせんものがたり)云々。

 

〇宝幢院本願、宝幢院は高野山にあり。本願上人は寛泉房(くわんせんばう)の事か。叡山の西塔をも宝幢院といふ。

〇沙汰、すなをあらひいだすがごとく、たがひにいふて、よく義理をつくるを、さたといふなり。

 

[やぶちゃん注:前段を補強するための同内容の再話。最後の「合戰物語云々」がスパイスとして利いている。

「宝幢院本願」Ⅱの大橋氏注に、諸資料の証左を掲げられた上で、『高野山宝幢院(現在は廃寺)を指すらしい』と推定され、『「本願」は中世の高野山では念仏行者を総称した語。高野山宝幢院の本願上人ということになるが、誰を指すか未詳』とされている。「標注」の「寛泉房」なり人物は、調べてみたところ、「法然上人行状絵図」の第四十八巻に、まさに高野山宝幢院の上人として登場することから、以上の大橋氏の推定の強力な証左の一つになる(大橋氏は同書の第九巻を揚げておられるが、こちらは示されておられない)。以下、ウィキ空阿弥陀仏」の注5に載せる該当部分の説話を恣意的に正字化して孫引きしておく(但し、ここでは本願上人は話柄の主体者ではない)。

高野山寶幢院に、寛泉房といへるたとき上人ありき。彼舍弟、天王寺に住しけるが、あるとき天狗になやまさるゝ事ありけり。かの天狗は、天王寺第一の唱導、念佛勸進のひじり、東門の阿闍梨なりける。託していはく、われはこれ東門の阿闍梨なり。邪見をおこすゆへに、この異道に墮せり。われ在生の時おもひき。我はこれ智者なり。空阿彌陀佛は愚人なり。我手の小指をもて、なお彼人に比すべからずと。しかるに彼空阿彌陀佛は、如説に修行して、すでに輪廻をまぬかれて、はやく往生を得たり。我はこの邪見によりて、惡道に墮し、なを生死にとゞまる。後悔千萬、うらやましきことかぎりなしとてさめざめとぞなきける。

なお、ここに登場する「空阿彌陀仏」(くうあみだぶつ 久寿二(一一五五)年~安貞二(一二二八)年)は、引用元に『かつて延暦寺の僧であったが、比叡山を下りた後は京都に向かい、そこで法然上人に弟子入りして専修念仏に励むようになったとされる。修行生活に関しては清貧な態度を貫き、経典も読まずにひたすら称名念仏するのみであった。また、極楽の「七重宝樹の風の響き」や「八功徳池の波の音」を想像させるとして風鈴の音を愛していたことも有名で、あちこちの道場で人々から尊敬され』、『法然上人の死後も活動を積極的に行ったが、比叡山延暦寺が専修念仏停止の強訴を朝廷に起こしたことをきっかけに、』嘉禄三(一二二七)年七月に、隆寛・幸西の二人の僧とともに『流罪に処されることとなった(嘉禄の法難)』但し、『彼は、流罪先の薩摩へ赴く前に入滅したとされている』とある。『法性寺の空阿弥陀仏は法然上人から「源空は智徳をもて人を化するなを不足なり。法性寺の空阿彌陀佛は愚痴』『なれども、念佛の大先達としてあまねく化導ひろし。我もし人身うけば大愚痴の身となり、念佛勤行の人たらん」と常に評されていたとされる。法性寺の空阿弥陀仏の方も法然上人を仏として崇敬し、画家藤原信実に法然上人像を描かせ、その上人像を本尊として飾り、念仏を行っていた』ともある。なお、本「一言芳談」で多出する明遍は、同じく「空阿彌陀仏」の号を持つが別人で、両者を区別するに当たって、この空阿弥陀仏を指すに際し、「法性寺の空阿彌陀仏」と呼ぶ例が見られる、ともある。

「合戰物語(かせんものがたり)」ルビはⅢに拠った。Ⅰ・Ⅱにルビはなく、Ⅲでは御覧の通り促音「つ」が表記されていない。]

枯木の馬 大手拓次

 枯木の馬

神よ、大洋をとびきる鳥よ、
神よ、凡ての實在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲(めくら)の肉體よ滅亡せよ、
さうでなければ、神と共に燃えよ、燃えよ、王城の炬火(たいまつ)のやうに燃えよ、
ああ、わたしの取るに足りない性の遺骸を棄てて、
暴風のうすみどりの槌のしたに。
香枕(かうまくら)のそばに投げだされたあをい手を見よ、
もはや、深淵をかけめぐる枯木(かれき)の馬にのつて、
わたしは懷疑者の冷(つめ)たい着物をきてゐる。
けれど神樣よ、わたしの遺骸には永遠に芳烈な花を飾つてください。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十六(一九六一)年

昭和三十六(一九六一)年

網干して砂が疊の冬の濱

寒雷が滝のごとくに裸身打つ

睡蓮にひそみし緋鯉戀いわたる

[やぶちゃん注:「戀い」はママ。]
[やぶちゃん後注:底本の昭和三十七(一九六二)年分は、その総てが先にテクスト化した角川書店より昭和五五(一九八〇)年四月に刊行された「西東三鬼読本」収載分である「『變身』以後」に収録されており、その他の句は所載しない。但し――実は二千七百三十五句を載せる底本の平成四(一九九二)年沖積舎刊の「西東三鬼全句集」とは――三鬼の現存する全句を網羅したもの――ではない――のである。確かに三橋敏雄氏の凡例には『句帳・ノート・日記・色紙・短冊ほかに記されたいわゆる未発表作品は、収載を見合わせた。』とある。ここで申し添えておきたいのであるが――かくも本電子化に際し、お世話になった書物乍ら、しかし、敢えて言わせて戴くならば――例えば、本書以前に出た句と随筆の抄録集である同じ三橋敏雄氏の編になる朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)には、この「全句集」に所収しない拾遺が「拾遺二」と「拾遺三」だけでも百十一句載せられているのである(以下の「拾遺(やぶちゃん抄)Ⅱ」及び同「Ⅲ」を参照。なお、同朝日文庫版の都市出版社昭和四六(一九七一)年刊の大高弘達・鈴木六林男・三橋敏雄編「西東三鬼全句集」からの抄録である「拾遺一」所収の句は、その総てが沖積舎版に載っている)。こういう三鬼の句集類のこれまでの出版史の中で、果たして沖積舎版が『全句集』を名打つのは、果たして正しいと言えるであろうか? 私自身、沖積舎版を三鬼の「全句集」だと信じて買ったし、正直言えば、凡例部をちゃんと読んだつい先日前までの、実に本書を購入してから二十年余りずっと、私は書名から「全句集」と信じ続けてきたのである(――凡例を読まないお前が馬鹿である、他の購読者は皆、凡例を読んでから全句集かどうかを調べてちゃんと買うのだ――と言われるのであれば、そう言うあなたは、如何なる人をも言葉をも信じない真正懐疑主義者であるわけだから、『他の購読者がそう考える』と言うあなたの謂い自体が偽(ぎ)であるので、私はあなたとは金輪際、議論をしようとは思わないと言い添えておこう)。せめて、近い将来、真に西東三鬼全句集と言えるものが出されるべきであるとだけは言っておこう。]

2013/02/26

賛同と批判

僕への――如何にも慇懃無礼で冷静な賛同は――如何にも傲岸不遜で実直な批判に――若かない――

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 長壽寺・明月院

   長壽寺・明月院

 

 長壽寺(てうじゆじ)、龜(かめ)が谷(やつ)にあり。寶龜山(ほうきざん)といふ。源基氏(みなもとのもとうじ)公の建立。昔は伽藍、大寺(でら)なり。淨智寺(じやうちじ)は鎌倉五山の四番目なり。開山(かいさん)は宋の佛源(ぶつげん)禪師、本願は平師時(たいらのもろとき)なり。この向ひに明月院(めいげついん)といふあり。上杉憲方(うへすぎのりかた)の建立。この上の山を六國(こく)見といふ。これより見わたせば、安房、上總、武藏、下總、相模、伊豆の六國、一目(ひとめ)に見ゆるといへり。

〽狂 けいだいのきれいさ

   はうきざんなれば

 ばくばかりなる

  堂(どう)のほりもの

旅人

「上方(かみがた)の旅籠屋(はたごや)には、五右衞門風呂(ゑもんぶろ)といふがあつて、わるくすると、底板(そこいた)がういてあるから、それをとりのけてはいつて、直(じき)に釜で火傷(やけど)をするが、昨夜(ゆふべ)の宿(やど)も、その水風呂(すいふろ)でこまりはてた。」

「儂(わし)はまた田舍へいつたとき、水風呂へいつたところが、あんまりぬるいから、

『これこれ、ちつと、湯の下をたいてくだされ』

といふと、宿の男(おとこ)が、

『かしこまりました』

といつて、藁(わら)であみたてた御鉢(おはち)の蓋(ふた)のやうな大きな物をもつてきて、儂のはいつている頭の上からかぶせるから、

『これは、どうするのだ』

といふと、

『水風呂に蓋をしてたきます』

といふから、

『まつてください、その蓋を頭からきせられて、火をたかれたら、ゆでころされるであらう』

といふと、その男が、

『いやいや、この蓋の穴から首をだしておいでなされ』

といふから、よくよく見れば、その蓋の眞ん中に、首をだすほどの穴があいているゆへ、體は水風呂にいりてゐながら、蓋をして、蓋の穴から首ばかりだしてゐる、その可笑しさ。

『獄門のやうだ』

と大笑ひしたが、あるくと、いろいろな事があるものでござります。」

「獅子舞いがきた。しゝの十二文でまつてください。」

「江戸へいつたら、京橋(ばし)の南傳馬(みなみてんま)丁の仙(せん)女香(かう)をかつてきてくれと、隣りの娘にたのまれたから、かつてきてやらずばなるまい。」

[やぶちゃん注:「源基氏公の建立」長寿寺の開基については、基氏が父足利尊氏の菩提を弔うために建立したとするこの説の他に、実は足利尊氏自身を開基とする説もあり。詳しい寺の歴史は不明である。

「佛源禪師」大休正念の諡号。浄智寺は開山の経緯が特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも、任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。

「本願」開基。

「平師時」北条師時(建治(一二七五)年~応長元(一三一一)年)。第十代執権。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。

「上杉憲方」(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)は関東管領。法号・戒名を明月院天樹道合と言い、墓所は明月院に現存する。

「六國見」「りつこくみ」又は「りつこくけん」(現在の通称は後者が優勢で「ろっこくけん」とも呼ばれている)と読む。「新編鎌倉志卷之三」では「見」には「ミ」とルビを振る。

「ばくばかりなる」「ばく」は悪しき夢を食うという想像上の神獣「獏」。私は遠い昔、特別公開の折りに少しだけ拝観したきりで、長寿寺の荘厳具の中に獏が多数登場しているのかどうかについては知見を持たない。識者の御教授を乞うものであるが、もし、現在、それがないとすれば、この江戸末期の長寿寺の面影を知る上で非常に貴重な狂歌ということになる(獏が実際に長寿寺に彫られていなければ、この狂歌は狂歌としておかしから、恐らくあったと考えねばならぬ)。

「水風呂」茶の湯の道具である水風炉(すいふろ)に構造が似るところから、桶の下にかまどを取りつけて浴槽の水を沸かして入る形態の風呂を言う。まさにここで問題になっている五右衛門風呂は水風呂の一種である。通常は、海水を沸かした塩風呂やサウナのような形態の異なる蒸し風呂などに対して用いる語である。「すえふろ」とも読む。

「五右衞門風呂」竈の上に鉄釜を据え附けて下から火を焚いて直接に沸かす風呂。全体を鋳鉄で造ったタイプと湯桶の下部分に鉄釜を取り附けたタイプのものとがあり、入浴する際には浮いている底板を踏み沈めて入る。釜風呂。名称は石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたという俗説による。なお、ウィキの「石川五右衛門」によれば、彼は秀吉の甥豊臣秀次の家臣木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるも、秀吉の寝室に忍び込んだ際に香炉が鳴って捕えられ、三条河原で煎り殺されたとされるが、この「煎り殺す」というのは「油で揚げる」の意であると主張する学者もいるとある。また、『母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている』とあり、他にも、子供と一緒に処刑されることになっていたが、『高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている』。いや、『釜茹でではなく釜で焼かれた』という説も記されてある。

「御鉢」炊き上げた飯を入れておく木製の容器。飯櫃(めしびつ)。御櫃(おひつ)。

「獄門」獄門首、晒し首のこと。

「しゝの十二文」九九の四四十六を十二と誤る、絵の中の今、走り来たった感じの鈍愚な子守の小僧の台詞であろうか。右手中央の茶屋の床几の旅人は、その誤りを聴きつけて笑ってでもいるかのようにも見える。

「京橋の南傳馬丁の仙女香」は「美艶仙女香」という白粉(おしろい)。京橋南伝馬町の稲荷新道にあった坂本氏が販売していた。「歴史人公式ホームページ 歴史人 歴史人ブログ」の村田孝子氏の「大江戸娘のお洒落帖」の「第2回 美艶仙女香―嶄新な宣伝手法」に、以下の記載がある(アラビア数字を漢数字に代え、改行部を総て繫げ、記号の一部を変更させて戴いた)。

   《引用開始》

美艶仙女香が描かれた浮世絵は、今、確認しただけでも四〇点以上あり、歌川広重なども宿場のなにげない風景のなかに仙女香の宣伝をしているものもあります。また、浮世絵だけでなく、為永春水が天保三~四年(一八三二~三三)に書いた人情本「春色梅児誉美」にも、この美艶仙女香がいい薬が入った白粉として宣伝しています。当時の浮世絵、人情本などをたくみに使って広告をしたのでしょう。ただ、「春色梅児誉美」の書かれた頃は、まだ美艶仙女香も江戸の女性たちが大いに使用していたのでしょうが、天保十一年(一八四〇)に天保の改革が行われ、奢侈禁止令などが度々発令されたことによって、化粧もあまりおこなわれなくなりました。これだけいろいろなものに登場して、一世を風靡した「美艶仙女香」でしたが、まだ本物に巡り合っていません。どこかに眠っているのでしょうか。一度見てみたい気がします。

   《引用終了》

それにしても、なるほど。御当地タイアップではなく、こうした挿入広告という手法もあった訳だ。目から鱗。特に、これを呟いているのは、私には左側の中央で大きな俵を担いでいる人夫風の、如何にも実直そうな中年男のように思われ、同じような、しがない中年で、長屋の隣りの娘にそれとなく惚れている町人なんどが、ここを読めば、「儂も隣の娘に、一つ、美艶仙女香、買(こ)うたろ!」という気になったりしたのかも、知れないなあ……。]

くさつた蛤 萩原朔太郎

 くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれてゐて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟體動物のあたまの上には、
砂利や潮(しほ)みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、
ながれてゐる、
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて居るらしい、
それゆゑ哀しげな晩かたになると、
靑ざめた海岸に坐つてゐて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の中の「くさつた蛤」副題「なやましき春夜の感覺とその疾患」の章の十一篇目で、これが同時に初出である。
 朔太郎は貝類や蛸など軟体動物を好んで登場させるが、私はこの年になって、自分が何故、萩原朔太郎が好きなのかに思い至った。私も朔太郎と同じく寄生蟹やくらげや貝や蛸やおしなべて海産無脊椎動物が好きだからだ。朔太郎は異端精神世界の博物学者なのだ。彼の、魂の畸形種ばかりをコレクションした標本箱が――丁度、私という貧しい弱虫の少年の心の中にある、原っぱの叢の秘密基地の、汚い段ボールの筐底にあるそれと――全く同じであることに、中学時代の私は……気づいていたのであった。……]

耳囊 卷之六 吝嗇翁迷心の事

 

 吝嗇翁迷心の事

 

 文化の元年四月の頃、赤城下(あかぎした)に翁ありしが、子もなく獨住(ひとりずまひ)にて、聊(いささか)の商ひをなして、聊の利を以てたつきを送りしが、あくまで嗇心(しよくしん)にて、朝夕の食事をも思ふ儘にせず、明暮(あけくれ)稼(かせぎ)て商ひせしが、聊風の心ちとて商ひにも不出(いでず)、あたりのもの尋問(たづねと)へば、心あしきと而已(のみ)こたへしに、或日朝近所の者尋しに、竈(かまど)の前に臥して死したりしを見出し、店内(たなうち)のもの呼(よび)集めて立入(たちいり)見しに、誠に天命を終りしや、疵(きず)痛(いたみ)とふもあらず、病死しけるに相違なきが、兩手にてひとつの財布を握り居(ゐる)を見れば、金銀を入置(いれおき)しと見えたり。兼(かね)てしわきものなれば、死に金(がね)とて貯へけるやと、是をとり改めんとするに、中々放れざれば、あたりの寺僧をまねきて、これを放さんと經など讀(よん)でとらんとすれども放さず。所役人(ところやくにん)も、彼(かれ)が精心の凝り候所(ところ)、聊の金に心殘りしならん、怖(おそろ)しとて、其儘に葬(はうむり)けると也。金(きん)ならば、拾兩にも不及(およばざる)程のやうに見へしと、其あたりの人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注
○前項連関:自らの財産を惜しげもなく民草に分け与えた鈴木石橋に対し、真逆の守銭奴老人の「死ンデモ財布ヲ放シマセンデシタ」譚で連関。

・「文化の元年四月」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、三か月前の極めてホットなニュースである。

・「吝嗇翁」「りんしよくをう(りんしょくおう)」と読んで居よう。

・「赤城下」東京都新宿区赤城下町(グーグル・マップ・データ)として名が残り、新宿区の北東部に位置する。

・「とふもみえず」「とふ」は「等」であろう。正しい表記は「とう」である。

・「死に金」は自分が死んだときの費用として蓄えておく金の謂いであるが、結局、本話の最後では、死体がその全額を握ったまま手放さないから、握らせたままに葬っってしまう訳であるから、死に金の本来の謂いである、蓄えるばかりで活用されない金の意も響かせてくる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 守銭奴院吝嗇翁の死しても金への迷妄の消えざりし事

 

 文化の元年は四月の頃のことである。

 内藤新宿の先、赤城下町(あかぎしたまち)に一人の老人があった。

 子もおらず、独り暮らしにて、聊かの行商をなしては、聊かの利を得て生計(たつき)と致いて御座ったが、この老人、あくまで吝嗇(りんしょく)にて、朝夕の食事をもろくに致さず、日がな一日、商いに歩いては稼ぐことのみを、これ、生き甲斐に致いておるようで御座った。

 ところが、先だっての四月の、とある日のこと、

「……聊か……風邪の気味でのぅ……」

とて、商いにも出でずなったと申す。

 老人にしては珍しきことなれば、よほど調子の悪いことならんと、辺りの者二、三人も、尋ね問うてはみたものの、

「……気持ちが……悪い……」

とのみ答えるばかりにて御座ったと申す。

 さても数日後の朝方、やはり近所の者が覗いてみたところが、入口の脇の竈(かまど)の前に、突っ伏して死んで御座るのを見出だしによって、長屋うちの者を呼び集めて、中へと入って見たところ――これ、正真正銘、天寿を全うしたものか――取り立てて不審な外傷や圧迫痕なども、これ、なく――病死致いたに相違なく見えたと申す。

 ところが、その遺体、両手で一つの財布をしっかりと握り絞めておった。

 その握っておるものをようく、見てみると、金銀を入れ置いたものと見えた。

 かねてより、非常な吝(けち)と知られた老人で御座ったれば、その場にあった一人が、

「……己れの葬儀の死金(しにがね)としてでも、貯えて御座ったものかのう?……」

と、それを取って改めんとした。

――ところが……

……老人……

……遺体となっておりながら……

……これ……

……なかなか……

……財布を……

……放さぬ――

 さればこそ、と、何とのう、気味悪うなった長屋の衆が、近所の寺の僧を呼んで参り、これを放させようと、経なんどを誦してもろうたりしたものの……

……いっかな……

……放さぬ――

 さればとよ、と、不審なる死体の仕儀にて御座ったればこそ、かくかくの不思議これあり、とかの地の係りのお役人へも申し上げたところが、お役人も、

「……かの守銭奴の老人の……その執心の霊魂の……これ……凝り固まって御座ったところの成す技にてもあろう……聊かの金にさえ……心残りが生じたものか……実(げ)に怖ろしき……執念じゃのぅ!……」

とのことなればこそ、もう、金銀を握らせたそのままに、葬ったと申す。……

 

「……金(きん)ならば、そうさ、十両にも遙かに及ばざるほどの額のようにしか見へませなんだ。……」

とは、その辺りに住んで御座った御仁が、語った話で御座る。

 

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十五(一九六〇)年

昭和三十五(一九六〇)年

 

甘藷刺すごとく少年、党首刺せり

 

星赤し暗殺國の野分浪

 

[やぶちゃん注:二句ともに同年の『断崖』十月号所収。無論これは同年十月十二日に日比谷公会堂に於いて演説中の日本社会党委員長浅沼稲次郎が、十七歳の右翼少年山口二矢(おとや)に刺殺されたテロ事件詠。山口は翌十一月二日、東京少年鑑別所内で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」と記し、シーツを裂いて繩状にしたものを用いて天井の裸電球を包む金網に掛けて縊死した(自死時も満十七歳)。右翼団体は盛大な葬儀を行い、山口を英雄視したが、沢木耕太郎の「テロルの決算」によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三などの政治家もリストに加えており、「大東亜戦争」批判を行ったことを理由に三笠宮崇仁親王まで狙っていたともいう(以上の山口二矢の記載はウィキの「山口二矢」に拠った)。]

 

うちそとに蟲の音滿ちて家消えぬ

 

いわし雲折られきらら波女一人

 

美(よ)き踵に水來てわかれ秋の渚

象よ歩め 大手拓次

 象よ歩め

赤い表紙の本から出て、
皺だみた象よ、口(くち)のない大きな象よ、のろのろあゆめ、
ふたりが死んだ床(とこ)の上に。
疲勞ををどらせる麻醉(ますゐ)の風車、
お前が黄色い人間の皮をはいで
深い眞言(しんごん)の奧へ、のろのろと秋を背に負うて象よあゆめ
おなじ眠りへ生の嘴(くちばし)は動いて、
ふとつた老樹(おいき)をつきくづす。
鷲のやうにひろがる象の世界をもりそだてて、
夜(よる)の噴煙のなかへすすめ、
人生は垂れた通草(あけび)の頸(くび)のやうにゆれる。

一言芳談 九十七

   九十七

 或人物語云、諸宗の學生(がくしやう)、公請(くじやう)に随つて、御(おん)佛事いまだ始まらざるほど、自他要事を相談す。一条院の御時などまでは、一向(いつかう)、後世門(ごせもん)の事なり。顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か。白河院の御時よりは、法文の沙汰なり。鳥羽院の御時にいたるまでは、ひとへに世間の沙汰なり。則ち我等出仕の時なり。然うして其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世(たうせい)は其程(それほど)の事もなきか。

〇公請に、禁裏公家方へ召されて參る事なり。
〇御佛事、内裏にて御祈禱御國忌(こくき)などある事なり。
〇いまだはじまらざるほど、ほどは時なり。
〇一条院、人王六十六代。
〇一向、ひたすらなり。
〇顕密、天台、眞言等なり。
〇白河院、七十一代の帝。
〇沙汰は、砂を洗ひ出すごとく、互に言うて、よく義理をつくるを沙汰といふなり。(句解)
〇鳥羽院、七十四代。
〇世間の沙汰なり。竹窓随筆云、古之學者賓主相見、纔入門、便以一大事因緣選相研究。今群居雜談、率多世諦。漫遊千里、靡渉參詢。遐哉。古風不可復矣。嗟夫。
〇論義日記、其日々々の論義を記すなり。

[やぶちゃん注:「公請」僧が朝廷から、法会や講義に召し出されること、また、その僧をも言う語。読みは辞書類及びⅠ・Ⅱに随った。Ⅲでは「こうしやう」と振っているが採らない。
「一条院の御時」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の在位は寛和二(986)年~寛弘八(一〇一一)年。
「一向」一途に。全く以って。
「後世門の事」浄土という存在及び浄土へ至るための要諦。
「顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か」天台真言の僧であっても、仏門にある以上は、かの「後世門の事」を学ぶ必要があったからでしょうか。「出離」は元来は、現世という穢土の迷いを離れて、解脱の境地に達することを言うが、ここでは単に仏門に入ることを言っていると思われる
「白河院の御時」白河天皇(天喜元(一〇五三)年~大治四(一一二九)年)の在位は延久四(一〇七三)年~応徳三(一〇八七)年)
「法文の沙汰」読み上げる経文類についての議論。
「鳥羽院の御時」鳥羽天皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の在位は嘉承二(一一〇七)年~保安四(一一二三)年。彼の天皇即位は一条天皇の退位から九十六年後、以上は凡そたった百年余りで、公請の前の高僧による講筵が、敬虔な浄土及びそこに至るための厳かな階梯の諭しから、愚かな人智による語義論へと変わり、後にはその議論さえさえも定式化されて内容がなくなり、遂には、その儀式化された経論の内容を記すだけになり(後注参照)、果ては現在のように、この穢土のただの世間話をするまでに致命的に変質してしまったことを述べる。
「我等出仕の時」私が公請によって召され、宮中にて仏事を修していた頃。されば、本条の話者は匿名化されているものの、平安末期の法主クラスの高僧の高弟であった可能性が高いと考えてよいであろう。
「其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世は其程の事もなきか。」Ⅱの大橋氏注の「論義」の注に『論義は仏教教義を問答議論することで、のちには法会の一つの型として伝えられた』とあるから、ここは、
尤も、その我らが出仕致いて御座った頃までは、型通りばかりに法論が演じられ、その内容を儀式上、公請に於ける前段論議の日録としてばかり記していたに過ぎぬ。されど今は、その程度のことさえも、これ、しておらぬのではあるまいか。
と完膚なきまでの堕落を述べて終わるのである。]

2013/02/25

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 淨光明寺 荒居焰魔

   淨光明寺 荒居焰魔

 

淨光明寺(じやうくはうめうじ)の境内、慈恩院(ぢおんいん)に矢拾(やひろい)地藏あり。網引(あみひき)地藏は、この山中(さんちう)にあり。藤原の爲相(ためすけ)の塔、その後ろなり。景淸(かげきよ)土(つち)の牢(らう)は、化粧坂(けわいざか)の山際にあり。

〽狂 あみ引のぢぞうのまへの

   ちや屋にきてあとひき

 ぢざけのむぞたのしき

「なんでも、旅では、途方もなく錢(ぜに)をとられることがあるから、うつかりとは、のめぬ。それとも貴公方(きかうがた)のお振舞(ふるま)ひなら、うつかりとのんでもよい。」

「なに、旅へ出て、お振舞ひといふことがあるものか。なんでも、割合(わりあい)。先(さつき)に貴公がのんだ甘酒(あまざけ)の八文は、俺(おれ)がだしておいたから、よこしなさい。」

「貴公、きたないことをいふ。そういふと、昨日(きのふ)、渡錢(わたしせん)の二文、よこさつし、よこさつし。」

「イヤイヤ、あれは雪の下の團子(だんご)の錢四文さしひくと、そつちから二文釣りをとらねばならぬ。たつた今、勘定、さつし。それそれ、女がきた。エヘン、エヘン。」

「もふ一合(いちごう)やりたいが、いつそのこと一銚子(ひとてうし)、一銚子。」

それより姫(ひめ)が谷(やつ)、荒居(あらゐ)の焰魔(ゑんま)。口に幼な子の附紐(つけひも)をくわへゐるは、謂われあることなるべし。海藏寺(かいぞうじ)、本尊泣藥師(なきやくし)といふ。昔、この山中にて、毎夜、子どものなく聲あり。その地をほりて、この藥師をえたり。この門前に、底脱(そこぬけ)の井といふあり。

〽狂 たうとさはたぐひあらゐの

 ゑんまどうまいらぬ人も

      なきやくしなり

「もしもし、上(かみ)さん、荒居の焰魔さまは、これかの。焰魔さまは、お宿(やど)にござりますかへ。」                      

「今、奧に轉寢(うたゝね)をしてござりました。あそこへいつて、鰐口(わにぐち)をおたゝきなさると、じきにお目をおさましなさります。焰魔さまは、とかく鰐口がおすきで、妾(わたし)の鰐口をたゝいて見たいと、いつそ、妾をおはなしなさいませぬから、

『お前さまは、葬頭(そうづ)川の婆(ばば)さまといふお妾(めかけ)さまがあるから、その鰐口をおたゝきなされ』

といいましたら、

『いや、もふ、あの婆々のは鰐口ではない、木魚(もくぎよ)のやうに、ぼくぼくしていかぬ』

とおつしやりました。」

[やぶちゃん注:本章は以下の注で示した以外にも、海蔵寺の泣き薬師の由来譚など、珍しく踏み込んだ記載が散見される。一九が実際に踏査し、オリジナルに興味を持った一帯であったように見受けられる。

「慈恩院に矢拾地藏あり。」旧淨光明寺の塔頭。「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」に、

慈恩院 本堂の西の方にあり。地藏の立像を安ず。《矢拾地藏》是を矢拾(やひろひ)地藏と云ふ。相ひ傳ふ、源の直義の守り本尊なり。直義一戰の時分、矢種盡きけるに、小僧一人走り來つて、發ち捨てたる矢どもを拾ひ、直義に捧げける。怪しく思ひ、守りの地藏を見ければ、矢一筋錫杖に持モち添へけるとなり。今も錫杖は簳(やがら)なり。又直義の位牌あり。表に、當院の本願、贈正二位大休寺殿古山源公(こさんげんこう)大禪定門の、神儀。裏に、觀應元年二月廿六日とあり。又大塔宮(をほたふのみや)の牌も有しが、此牌は理智光寺にあるべき物也とて、院主是を送り遣し、今彼寺にあり。

とある。「直義一戰の時分」は、伝承では故北条高時の遺児時行の起こした建武二(一三三五)年七月の中先代の乱の時の話とする。さて、この「新編鎌倉志」には、この慈恩院の他に玉泉院・華蔵院の、都合三院の塔頭が現存するとあるが、「鎌倉市史 社寺編」には、「相模国風土記稿」にはないことから、『貞享以後天保までの間に三院とも廃絶したのである』とあり、この一九の叙述はもしかすると、その正式な塔頭としての慈恩院最後の記述であった可能性がある。

「振舞ひ」饗応。ともに旅人であるのに、「おもてなし」とは合点がいかぬ、と言っているのである。

「割合」割り勘。

「銚子」徳利。ここは二合徳利以上の大徳利のこと。

「姫が谷」不詳。浄光明寺から「これより」とあって「荒居の焰魔」(現在の円応寺)というルートから推すと、現在の泉ヶ谷を北へ登った二つの谷の何れかを指すように思われる。現在、この谷戸名は残っていないものと思われるが、如何にも響きのよい名ではある。

「口に幼な子の附紐をくわへゐるは、謂われあることなるべし」円応寺の閻魔は「子育て閻魔」の異称を持つ。円応寺のパンフレット(HATADA氏の「天空仙人ワールド」の「円応寺」よりの孫引き)によれば、『昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけようとした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れ、お堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまり、お堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ばした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事、小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった』とある(一部の表記を訂し、読点を追加した)。――但し、私の訪れた際の遠い記憶では、現在の閻魔像の口からは「幼な子の附紐」はぶら下がってはいないように思う。――ぶら下げておけばよいのに――とも思う。

「鰐口」仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。神社の社殿に使われることもあり、金口・金鼓とも呼ばれる。元来は金属製の梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を二つ合わせた形状で、鈴(すず)を平たく潰したような形状である。上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金(かね)の緒と呼ばれる布を編んだ綱が付属し、これで鼓面を打って誓願成就を祈念する(以上は、主にウィキの「鰐口」を参照した)。勿論、ここでの堂守のシャンな年増女(絵図左手に描かれた粋な女性を見る限り)のこの謂いは、鰐口を女性の会陰のシンボルに掛けている。女性が言っていると思うと、不思議に忌わしい猥雑感が薄まるから不思議である。

「葬頭(そうづ)川の婆さま」「葬頭川」の「そうづ」は「さんず」の訛ったもの、三途の川のこと。この「婆」とは三途の川で渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るとされる鬼女、奪衣婆(だつえば)のこと。ウィキの「奪衣婆」によれば、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた』とある。円応寺には閻魔王を始めとする十王像の他、この奪衣婆の像もある(先のHATADA氏のページで写真が見られる)。

「あの婆々のは鰐口ではない、木魚のやうに、ぼくぼくしていかぬ」打てば美事に嬌声を響かせる「鰐口」とずぼんずぼんと虚ろなる古びた「木魚」を年増と婆の下の塩梅に譬えたものである。相変わらずの下ネタながら、謂いは洒落ていると思う(ほどに猥雑至極の一九に私もかなり免疫になったことを自白する)。]

蛇苺 萩原朔太郎

 

 蛇苺

                美棹

 

實は成りぬ、
草葉かげ、
小(ささ)やかに、
赤うして、
名も知らぬ、
實は成りぬ、

大空みれば、
日は遠しや、
輝々たる夏の午(ひる)さがり、
野路に隱(かく)れて、
唱ふもの、

魔よ
名を蛇と呼ばれて
拗者(すねもの)の
呪(のろ)ひ歌(うた)
節なれぬ

野に生ひて
光りなき身の
運命(さだめ)悲しや
世(よ)を逆(さかしま)に

のろはれし
夏の日を
妖艷の
蠱物と
口吻(くちづけ)交(かは)す蛇苺

 

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「みづの人」のペン・ネーム、「蛇いちご」の標題で初出したものの、『文庫』明治三八年九月下旬号に「美棹」のペン・ネームで再録されたものを底本とした昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集第三巻の「拾遺詩篇」(一五~一七頁)の校訂本文に拠ったが、全集編者によってなされた改変を元の状態の復元して示し(一連及び二連の読点)、さらに初出にあった「蠱物(まじもの)」の読みを附し、最終行の「交す」に初出で平仮名表記になっている「かはす」の読みを附した。【2022年2月21日修正】正字漢字の不全を直し、筑摩版により消毒されたものと断じて「輝輝たる」を「輝々たる」に訂した。]

耳嚢 巻之六 威德繼嗣を設る事

 威德繼嗣を設る事

 

 野州鹿沼在石橋村(かぬまざいいしばしむら)に、富農四郎兵衞といふものありて、質朴なるもの故、奇特の取計ひもありて、領主戸田家より名字(みやうじ)ゆるして鈴木四郎兵衞と名乘(なのり)、耕作の外、商ひなどして豐饒(ふねう)にくらしけるが、中年までも子といふものなく、妾(めかけ)を需(もとめ)て千計なせど其望を得ざれば、四郎兵衞つくづく思ふに、かく富(とみ)、また心に懸(かか)る事なけれど、百年の後、他人に金銀財寶讓らんも心ゆかざる事なり、とても他人え讓る事ならば、一人へ讓らんよりは多人數(たにんず)へわけ讓らんこそ、天道(てんだう)にもかなひなんと思ひたちて、野州の賤民よろしからぬ風俗ありて、妻懷胎なせば、出産の子惣領は育て、其餘は間引(まびく)とか、またもどすなど唱(となへ)、産家(うぶや)にて殺す事をなしぬ。これを救ひて生育なさんと、寛政の子年(ねどし)までに、四百人程を尋(たづね)搜して救ひしと也。其頃子なければ、少しのゆかりより養子なして、右養子は醫師を業(なりはひ)とせしが、不計(はからざる)に四郎兵衞も實子出産して、文化元年に十一歳になりける。彼(か)子を生育せざるの賤民を救ふ事は、懷胎を聞(きか)ば手當なし、出生すれば又手當なすといふ事、その雜費も夥しきを不厭(いとはず)して、思ひ立(たつ)どをりなしけるが、耕作に利を得、商賣に德ありて彌々富饒に暮し、當時其養子の住居とも三ケ所にて、何れも榮へける由。生(しやう)を好むの天意にもかなひけるや、書物抔を好み、聖堂へも出(いで)、林(はやし)祭主もしれるものゝ由。予が許へ來る元卓(げんたく)生(せい)のかたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:清心の感応譚から誠心の人徳譚で連関。

・「威德繼嗣を設る事」は「いとくけいしをまうくること」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「陰德繼嗣」となっており、こちらの方が主人公の施した慈善事業の内容を考える時には、より自然ではある。

・「野州鹿沼在石橋村」現在の栃木県鹿沼市石橋町。日光例幣使(れいへいし)街道(家康没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使である日光例幣使が通った道)沿いの村。

・「領主戸田家」宇都宮藩城主戸田家。安永三(一七七四)年からの初代藩主戸田忠寛(ただとお)に始まる。前半部の記載はこの忠寛の代のことと考えられ、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、本話執筆当時(本文後半部の時)は忠寛の長男で文化六(一八〇九)年から就任した第二代藩主戸田忠翰(ただなか)の代であったと思われる。但し、主人公が亡くなった文化十二(一八一五)年(次注参照)当時は忠翰次男の第三代藩主忠延の時であった。

・「鈴木四郎兵衞」儒者鈴木石橋(せっきょう 宝暦四(一七五四)年~文化十二(一八一五)年)として知られた人物。下野国鹿沼の人で昌平黌に学び、帰郷して私塾麗沢之舎(れいたくのや)を開き、後、宇都宮藩儒生となった(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『鹿沼宿本陣の家に生まれ』とあり、また底本の鈴木氏注に三村竹清氏の以下の注を引く(恣意的に正字化し、幾つかの語に読みを振った上、句読点も追加変更、後に簡単な注を附した)。『名は之德、字は澤民、号は石橋、老(おい)て閑翁といふ。天明の凶歉(きようけん)に方(あた)り、大(おほい)に救濟に盡(つく)す。最も三禮に精通し、深夜圖説の著あり、晩年、心を易理に潛め、周易象儀(しやうぎ)二十卷を著す。藩主、禮を厚うして城中に延(まね)き、講筵(かうえん)を開く。文化十二年二月六十二歳を以て沒す。蒲生君平(がまふくんぺい)は實に其門より出たり。』

●「凶歉」凶作。「歉」は穀物が実らない意。

●「三禮」天神・地祇・人鬼を祭る三つの儀式。

●「深夜圖説」不詳。

●「周易象儀」講談社「日本人名大辞典」には「周易象義」と表記。

●「蒲生君平」(明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年は、同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられる儒学者・尊王論者・海防論者。下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡)生。父は町人で油屋と農業を営んでいた。参照したウィキの「蒲生君平」には、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋(二十九歳)の麗澤舎に入塾(十五歳)、『毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した』と、本話の主人公石橋の愛弟子であったことが窺える。

・「産家」産屋であろう。出産の穢れを避けるために特別に設えた出産用の小屋や装置。先の遁世の夫婦笑談の事の「産籠」の私の注を参照されたい。

・「寛政の子年」寛政四(一七九二)年壬子(みずのえね)。

・「林祭主」林大学頭。「祭主」は学制の長官のこと。「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年の頃は林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

・「元卓」与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 厳かなる人徳のあったによって嗣子(しし)を設けた事

 

 上野国鹿沼在石橋村に、富農の四郎兵衛と申す者があったが、性(せい)、至って質朴なる者であったゆえ、実にありがたきお取り計ひも御座って、領主戸田様より特に名字を許され、鈴木四郎兵衛と名乗って、田畑耕作の外、商いなんども致いて、豊かに暮して御座った。

 が、四郎兵衛、中年になっても子(こお)というものが、これ、ない。妾(めかけ)を求むるなど、いろいろと試みてはみたものの、遂に、これまで、望みを遂ぐることが出来ず御座った。

 されば、四郎兵衛、つくづく思うたには、

「……かくも富み、また、これと申し、心に掛かる心配事なんども、これ、なけれど、このままにては百年の後まで、血の繋がらぬ赤の他人の誰かに、これらの金銀財宝、皆、譲ってしまうという結果ともなると申すも……これ、何とのう、得心出来ぬことじゃ。……いや……所詮、誰ぞ一人の赤の他人へ譲ることとなるのであれば……ただ一人へ譲る結果とならんよりは、これ、多くの人々へ分け与えて譲るこそ、これ、天道(てんどう)にも適うことにて御座ろうぞ!」

と思い立ったと申す。

 さて、上野国の賤民の間には――これ、その困窮ゆえとは申せ――実によろしからざる忌わしき風俗が御座った。――例えば――妻が懐妊致いた折りには、出産した子(こお)の惣領は、これ、育てるものの――その余は――「間引き」とか――また――「もどす」――なんど唱え――その産家(うぶや)の内にて――こっそりと殺して――御座った。

 四郎兵衛。俄然、

「何としてもこれらの子(こお)を救うて生育なさん!」

と、寛政の子年(ねどし)までに――周辺の民草の生計(たつき)は勿論のこと――妊娠出産の噂や何やかやを――予め十二分に収集致し、また探索方も出だし探らして――実に四百人ほどの子(こお)をも――これ、尋ね捜し出だいては、救って御座ったと申す。

 なお、先にも述べた通り、四郎兵衛にはその頃、子がおらざれば、別に多少の由縁(ゆかり)の者より養子を成して御座った。その養子は医師を生業(なりわい)と致いて御座った由。

 ところが、何と――今まで如何にしても出来なんだ四郎兵衛に――如何なることか――実子が産まれて御座った[根岸注:因みに本記載時の文化元年にあっては、この子は当年とって十一歳になるという。後出元卓談。]。

 附言致しておくならば――かの養育致さざる賤民の子(こお)を救う際には、懐妊の噂を聴くや、走って行って懇ろに世話致し、出生すればまた、手厚く手当致すという仕儀にて、これ、その雑費も夥しくかかるをも厭わず、思う存分、湯水の如く用いては手厚く施して御座ったと申す。

 されども、自分持ちの耕作にても潤沢な利を得、また、別に営んで御座った商売にても、これまた順調な利益のあったによって、いよいよ富饒(ふにょう)に暮し、当時、自宅やその養子の住居など合わせて、三箇所も邸宅を所持致いて、そのどの屋敷も如何にも裕福なる様子にて御座った由。

 

「……生命(いのち)を好むところの天意にも適(かの)うておったからででも御座いましょうか。……この鈴木四郎兵衛なる御仁、書物を好み、何でも……かの湯島の聖堂へも出入り致いて……あの、林大学頭様御自身もご存知の方と承って御座る。……」

とは、私の元へ参る、例の医師元卓の語った話で御座る。

槍の野邊 大手拓次

 槍の野邊

うす紅い晝の衣裳をきて、お前といふ異國の夢がしとやかにわたしの胸をめぐる。
執拗な陰氣な顏をしてる愚(おろ)かな乳母(うば)は
うつとりと見惚れて、くやしいけれど言葉も出ない。
古い香木のもえる煙のやうにたちのぼる
この紛亂(ふんらん)した人間の隱遁性と何物をも恐れない暴逆な復讎心とが、
温和な春の日の箱車(はこぐるま)のなかに狎(な)れ親しんで
ちやうど麝香猫と褐色の栗鼠(りす)とのやうにいがみあふ。
をりをりは麗しくきらめく白い齒の爭鬪に倦怠の世は旋風の壁模樣(かべもやう)に眺め入る。

一言芳談 九十六

  九十六

同上人云、今度(こんど)、法印御房を見たてまつるに、日來(ひごろ)の所存をかへたるなり。させる事もなかりける事を、樣(やう)がましく思ひけるなり。誠にほれぼれと念佛するには不如(しかず)と云々。

〇法印御房、明禪法印なるべし。
〇日來(ひごろ)の所存をかへたるなり、日比かの法印の行はさぞめづらしき事ならんとおもひつるに、つきそひてみれば、たゞうちかたぶきて念佛せらるゝばかりなり。さらに奥ふかき樣子もなし。かねての推量にはたがひてあるなり。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、ここまでの「一言芳談」を読まずに読むと、誤釈される方もあろうかと思われるので、私なりに「標注」を援用しながら現代語訳したい。
――敬仏上人が言われた。
「拙僧は今度(こんど)、初めて明禅法印を見奉ったが、その法印の念仏の有り様(よう)を拝見致いたによって、拙僧、日頃よりの『念仏するということ』に就き、心に思うて御座ったことを、これ、全く変えるに至ったのである。
 拙僧は、実は日頃より、
『かの明禅法印の念仏の行は、これ、さぞかし凡百の僧のそれとはうって変わって、珍しくも貴きものにてあるに違いない。』
と思うて御座った。ところが、いざ、法印に付き添うて、ともに念仏を致いてみたところが――
――法印は、ただ――普通に――自然に――俯いて――静かに――優しく――念仏なさるばかりで御座った……。
 その瞬間、拙僧は悟った。
……今までは、これといって声を大にして言うべきことにてもあらぬような、ごくごく当たり前のこと――しかし、しかもそれが〈誠〉である――を、如何にも取り立てて特別に奥深きことででもあるかのように――しかし、そう感ずることによってその〈誠〉からは遠く遠く離れてある――思い込んでいたのであった――ということを。……
……そうして、まっこと、己れ自身、弥陀の慈悲に心からうたれて、うっとりとしながら、念仏を致すに、これ、若はない――ということを、な。……」
と。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十四(一九五九)年

昭和三十四(一九五九)年

鷹を賣り獅子賣る都會火星燃ゆ

2013/02/24

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 扇个谷 源氏山

   扇个谷 源氏山

 

東光山英勝寺(とうくはうざんゑいしやうじ)は、扇(あふぎ)が谷(やつ)にあり。この地は、太田道灌(おほたどうくわん)の舊跡なり。この邊隨一の大寺(てら)にて、諸堂の莊嚴(そうごん)、結構なり。本尊阿彌陀佛、運慶の作。山門、總門の額、眞筆(しんひつ)なり。境内に澤庵(たくあん)の石盤(せきばん)あり。この西の山を源氏山といふ。阿佛尼(あぶつに)の塔、この境内の北にあり。

〽狂 げん

 じ山

ひかる日の

    出は

すへひろの

あふぎが

  やつの

かすむ

 あけぼの

旅人

「あの飴(あめ)をかつてゐる年增(としま)は、なかなか、まんざらでない器量(きりやう)だ。尻目(しりめ)で、儂の顏をみるは、儂(わし)に氣があるとみへる。ちよいときいて見やう。もしもし。お上(かみ)さま、ちと、物がおたづね申たい。お前、私(わたし)に氣がありますか、ほれなさつたか、どふでござります。」

「ナニ、妾(わたし)がほれたか、氣があるかとは、この野郎奴(やらうめ)は、とんだ事をいふ。うぬのやうな不景氣な野郎に、誰(たれ)がほれるものか。戲言(たはこと)をぬかすと横面(よこつつら)をはりとばすぞ。」

「今日は大ぶん、參詣のある日だわへ。晩には賽錢箱(さいせんばこ)の勘定(かんぢやう)をいたそふ。」

「これ、したり、小錢(こぜに)がない。四文錢(もんせん)を賽錢になげるも費(ついへ)だ。借(か)りにして、たゞ、おがんでおこう。貴公(きこう)も、そうなさい。」

[やぶちゃん注:「扇个谷」は「あふぎがやつ」とルビする。

「莊嚴(そうごん)」この場合の「莊嚴」は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)等で厳かに飾ること及びそのように飾り付け、建造したその物のことを指しす仏教用語であるから、厳密には「そうごん」ではなく、「しやうごん(しょうごん)」と読むのが正しい。

「山門、總門の額、眞筆なり。」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」に、総門の額は「東光山」で曼殊院良恕法親王の筆(裏書に寛永二十年四月二日のクレジット)、山門の額は「英勝寺」で後水尾帝の宸筆(裏書に寛永二十一年甲申(きのえさる)の年八月日のクレジット)とある。細かいことだが、順序が逆で、寺のより外にある総門から、次にその内側の山門を記載するのが普通である。

「澤庵の石盤」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の「石盤」の項を参照。卦を示す四種の文様の図及び碑文も読める。

「年增」娘盛りを過ぎた女性の謂いで、現在用いられる場合、流行語の略語「アラフォー」、アラウンド・フォーティー(Around Forty:四十歳前後。)と同義的で三十五歳から四十五歳辺りまでの女性層を指すが、江戸期のそれはもっと若く二十歳前後を年増、二十歳を過ぎてから二十八、九歳程までを中年増、それより上を大年増と言った。彼女は今なら相応に若いのである。それにしてもこの気風(きっぷ)の良さはどうか。

「だわへ」の「へ」は「え」で軽い感動を添える間投助詞。英勝寺は尼寺(現在も鎌倉で唯一の尼寺である)であるから、尼の台詞と見れば「え」もしっくりくる。ただ、賽銭勘定をする尼僧を想起させる一九は、これ、やはり意地が悪いともいえるが、前の語気苛烈なる姐御に守銭奴の尼を配せば、どっこい、当時の女傑もなかなかのもの、今までのエロティクで愚鈍な旦那連中より、ずっと気持ちがよい。

「尻目」流し目。]

耳嚢 巻之六 精心感通の事

 精心感通の事

 

 藤堂和泉守家士何某(なにがし)といへるもの、享和の末に、在所より大阪藏屋敷へ勤向(つとめむき)にて在勤せしが、彼(かの)地の女子(をんなご)に泥(なづ)み、限りの月になりぬれど、彼ものゝ愛情にて歸府を延(のば)し、留守なる妻子の事も思はで滯留なしけるが、其妻深く歎き、男子なれば思ひ染(そめ)し女に愛情もさる事ならんが、我身のみか一子の事も思ひ給わざるはうたてき事と、度々文(ふみ)して諫めぬれど取用(とりもちゐ)ざるやうにて過(すぎ)しが、或夜彼男の夢に、留守なる妻來りて、家の事、子の事を思ひたまはざるや、彼女子をもともないて歸り給へと異見なせしを、腹たつまゝ枕にて額(ひたひ)を打(うち)て疵付けしと見て、驚ろき覺めけるが、心にもとめで、彼圍(かこ)ひ置(おけ)る女子の元へ或夜まかりしに、彼圍女(かこひをんな)いへるは、我身願ひあり、永(なが)の暇(いとま)給はるべしといひしに、いかなる事やと尋問(たづねとひ)しに、別の事にもあらず、過(すぎ)にし夜、夢に奧方來り給ひ、御身の事、永く此地に止(とどま)り給ひては、おん爲(ため)もあしきと段々理を盡して異見し給ひしが、逸々尤(いちいちもつとも)の事に赤面に及ぶと見てさめぬ、何分永く此地に居給はゞ御ためにもあしく、御暇給わるべしとせちに願ひければ、彼男も其理にや伏(ふく)しけん、願ひに任せ暇を出し、其身も其筋へ歸りの事を告(つげ)て在所へ立(たち)歸り、妻子にも久々にて對面なせしが、其妻の額に疵の跡ありし故、いかなる疵やと尋問しが、初めはいなみ答へざりしが、夜に入(いり)て、此疵に付(つき)不思議の事侍りし、御身難波(なには)にて愛(めで)給ふ女になづみ歸る期(ご)を延(のば)し給ふと聞(きき)て、御爲にもよろしからず、妻子の事も思ひ給はざるやと、旅宿に至り異見なせしを、御身憤りて枕をもて打給ふと夢みしが、さめて後、かくのごとく疵付(つき)しとかたりけるに、男も大に驚きて、精心は其切なるに隨ひては萬里(ばんり)相通(とほ)るものと感じ、恐れけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、まさについ先日の生霊譚、謂う所のテレパシー“mental telepathy”精神遠隔感応譚である。単身赴任男の難波妻というメロ・ドラマとしても面白い。

「藤堂和泉守」伊勢国津藩城主。「享和の末」を文化元年に改元される享和四(一八〇四)年とすれば、当時の藩主は第十代藤堂高兌(とうどうたかさわ 天明元(一七八一)年~文政七(一八二五)年)である。参照したウィキの「藤堂高兌」によれば、高兌は江戸後期の名君の一人に数えられ、財政再建や行政機構改善、藩校有造館の創設といった善政を施して領民からも深く慕われた。そうした語られぬ徳政の藩主の、その家士の火遊び、という背景をも読解の射程に入れると、本話のドラマ性がより高まるように思われる。

・「大阪藏屋敷」各藩が年貢米や領内の特産物を売り捌くために設けた倉庫兼邸宅のこと。大坂にあったものが最も多く著名であるが、江戸・敦賀・大津・堺・長崎などの交通の要衝の商業都市に設置されたケースもある。また、大名だけでなく有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた(以上はウィキの「蔵屋敷」を参照した)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 精心が遠き地の夫に感通した事

 

 藤堂和泉守高兌(たかさわ)殿の家士某(ぼう)に纏わる話。

 この男、享和の末に、在所より大阪蔵屋敷へ出向(しゅっこう)となり、在勤致いて御座ったが、かの難波の地の女子(おなご)と深い仲と相い成って、出向も終わりの月となったにも拘わらず、その女子(おなご)への深き愛着ゆえに帰府を延ばし、留守を守って御座った妻子の事をも思いかけることものう、だらだらと滞留致いて御座ったと申す。

 されば男の妻、深く歎き、

『……男子なればこそ思い染めた女に愛情の執着をかけらるるは、これ、あろうことにては御座いましょう……なれど……我れらが身のみか、一子の事もお思いかけなさらざるは……これ、あまりに、情けなき御事(おんこと)……』

と、たびたび文(ふみ)を遣わしては諌めて御座ったが、男は難波の女子(おなご)にすっかり目が眩んで、妻の思いの一つだに、これ、気にかけることものう、うっちゃって御座ったと申す。

 ところが、ある夜、この男の夢に、

……留守を守る妻が来たって、

「……家のこと……子のことを……お思いにはなられませぬのか?……その女子(おなご)をも伴のうて……どうか……お帰り下されませ!……」

とまで異見をなしたによって、男は腹の立つまま、己(おの)が枕をむんずと摑むと、それを以って――妻の額(ひたい)を――強(したた)かに――打った――妻の額は――ぱっくりと裂け――その傷より――血の流れ出でた……

……と見て、驚ろいて目を醒ましたと申す。

 されど、たかが夢と、これまた、心にかくることもなく、その数日後のある夜、囲い置いてあった女子の元へと通った、すると、かの囲い女、

「……妾(わて)、お願ひが御座います。……どうか、永(なが)のお暇(いとま)を、いただきとう存じますのや……」

と寝耳に水の懇願を致いたによって、

「一体、如何なる謂いか!?」

ときつく訊き質いたところが、

「……へえ……何か、これといったことがあった訳にては御座いませぬ。……ただ、先だっての夜のことでおます。妾(わて)の夢に、奧方さまが参られて、

……『……我らが夫……そなたの思い人は……このまま永く、この地にお止まりになっておられては……藩士としての御身分にも……これ……甚だ悪しきことの及びまする……』

と、だんだんに理を尽くされて、異見なさっしゃいました。……が、これ、いちいち、どれもこれも、ほんにもっともなることなれば……妾(わて)はもう、黙っておるばかり……もう、妾(わて)、顔がすっかり赤(あこ)うなって……

と見て、目が醒めまして御座いました。何分、永(なご)う、この難波の地にあらっしゃっては、夢内とはいいながら、確かに、奥方さまのおっしゃった通り、おん為(ため)にも悪(あ)しゅう御座います。どうか、曲げて、お暇(いとま)を下さいますように!……」

と切に願うたによって――かの男も、流石にその理に屈したものか――女子の願いに任せ、暇(いと)まを与え、自身も、その筋へ、

「――遅まきながら、公私諸般の事情により――遅延致いて御座ったが、これより、帰藩致しまする。――」

旨を告げて、在所へと立ち帰ったと申す。

 さても、久方振りの妻子対面と相い成る。

……と……

……何事もなかったように、しとやかに挨拶致すその妻の手

……額に……

……これ……

……大きな傷が……

……ある――

「……そ、その大きなる……ひ、額の傷は……一体、如何なる傷か?」

と訊き質いたが、子も横におればこそ、そこでは、

「……いえ、これは申し上げるような大層なことにては御座いませぬ……」

と口を濁して御座った。

 さても夜に入っての妻の寝物語によれば、

「……この傷につきましては、不思議なことが、これ、御座いました。……お前さまが難波(なにわ)にて愛(め)でなさった女と深い仲と相い成られ、御帰藩の期日をさえ、お延ばしなさっておらるる由、風の便りに聴きましたが、……ある夜のことで御座います。

……『……これはおん為(ため)にも宜しからず……妻子の事をも思いかけなさること……これ、微塵もあられませぬか?!』

と、難波の旅宿へと至って、妾(わらわ)が異見致しました。……ところが、お前さまは、大いにお憤りになられ、枕をお摑みになって、妾の額を打ちなさる……

……と夢見たところで、目を覚ましましたが、醒めて後……このように額に傷が一つ……ついて御座いました。……」

と語ったによって、男も大いに驚き、

「……まっこと、精心は、これ、その切なるに随う折りには――万里(ばんり)をも一瞬に走るもの――なのじゃのう!……」

と感じ入って、畏れ入ったと申す。

近日所感 萩原朔太郎

 

 近日所感(きんじつしよかん)

 

朝鮮人(てうせんじん)あまた殺(ころ)され
その血(ち)百里(り)の闇(あひだ)に連(つら)なれり
われ怒(いか)りて視(み)る、何(なん)の慘虐(さんぎやく)ぞ

 

[やぶちゃん注:『現代』第五巻第二号・大正一三(一九二四)年二月号掲載。筑摩版全集の「拾遺詩篇」に所収する初出形を示した。「さんぎやく」はママ。言うまでもなく、前年九月一日に発生した関東大震災の混乱の中、「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などによって、多数の朝鮮人や共産主義者が虐殺された。正確なそれらの犠牲者数は今以って不明であるが、推定される犠牲者数は、六百名前後から約六千名ともされる。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十三(一九五八)年

昭和三十三(一九五八)年

大魚跳ね彼方初富士ひゞきけり

紅梅や鋸ためす一指彈

春晝の生ける剝製となりて鰐

亡靈の外燈ともり朝ざくら

子が泣けば干潟いよいよ露はるる

斷層の目盛りがありて麥伸びる

黄金の闇 大手拓次

 黄金の闇

南がふいて
鳩の胸が光りにふるへ、
わたしの頭は釀された酒のやうに黴の花をはねのける。
赤い護謨(ごむ)のやうにおびえる唇が
力(ちから)なげに、けれど親しげに内輪な歩みぶりをほのめかす。
わたしは今、反省と悔悟の闇に
あまくこぼれおちる情趣を抱きしめる。
白い羽根蒲團の上に、
産み月の黄金(わうごん)の闇は
惱みをふくんでゐる。

2013/02/23

Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう

僕には、ことあるごとに思い出す、「こゝろ」の先生の述懐がある。何故、ここなのか、実は僕自身よく分からない――先生が「其意味は私には解りません」と呟くように……



 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數(じゆず)の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。

(引用は僕の電子テクストより)

相棒シーズン二第四話消エル銃弾ハ怪奇大作戦ノ優レタル末裔ナル語

最近、僕はテレビでは「相棒」しか見ていない。
これは妻が好きで録画しているものを、夕食の際に、昨今の愚劣なテレビ番組には見たいものもこれと言ってないために見ているに過ぎないのであるが、それでも「相棒」も総じて偶然性が高過ぎて、プロットは殆んど噴飯物ではある。
しかし、特に最初期の寺脇康文演ずる亀山薫君が好きで、ついつい見てしまうのである。
今日は、Season2の第4話(2003年11月5日放映)「消える銃弾」を見た。

砂本量(すなもとはかる 昭和33(1958)~平成17(2005)年:惜しくも大腿骨悪性骨腫瘍のため47歳で亡くなっている。)氏の脚本になるこの作品(監督は昭和24(1949)年生の大井利夫氏)、これ、真正の、優れた現代版「怪奇大作戦」と見た。
未見の方のために筋の詳細は語らぬが――相変わらず銃器の盗難と弾丸の製造の必然性にはトンデモ偶然が絡んでいただけぬ部分が見られるのではあるが――
私の推測では――
――これは「怪奇大作戦」の例の欠番となっている第24話「狂鬼人間」(脚本・山浦弘靖 監督・満田※〈「※」=「禾」(のぎへん)」+「斉」〉「かずほ」と読む 昭和(一九六九)年2月23日放映) のインスパイア――
と映った。
特にラスト・シーン、留置所の鉄格子の戸外からのショットで唄われる吉田拓郎の「夏休み」は、「狂鬼人間」の同じラスト・シーンの「七つの子」に美事にオーバー・ラップした。
氏家恵さんが頗るいい演技をしている。
必見である。

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 序

    第八章 團體生活

 同種類の生物個體が多數相集まつて居ることは、餌を捕へるに當つても敵を防ぐに當つても頗る都合のよいことが多い。一疋づつでは到底かなはぬ相手に對しても、多數集まれば容易に勝つことが出來る。また非常に強い敵に攻められて惨々な目に遇うたとしても、多數に集まつて居ればその中の幾分かは必ず難を免れて生存し、後繼者を遺すことが出來る。特に生殖の目的に對しては、同種族のものが同處に多數集まつて居ることは極めて有利であつて、一疋づつが遠く相離れて居るのとは違ひ、すべてのものが殘らず手近い處に配偶者を見出して、盛に子を産むことが出來る。されば事情の許す限り、同種類の生物は同じ處に集まつて生活して居る方が、食ふにも産むにも遙に好都合であるに違ない。
 抑々生物は親なしには決して生まれぬもの故、一生涯絶對に單獨といふものは一種たりともあるべからざる理窟で、少くとも親から生まれたときと、子を産んだときとは、同種類の生物が何疋か同じ處に接近して居るに違ない。特に多數の生物では、同時に生まれる子の數が相應に多いから、これらがそのまゝ留まつて生活すれば、已に一つの群集がそこに生ずる。そして相集まつて生活して居れば、上に述べた如き利益がある。かやうな次第で、同種類の生物が一處に集まつて生存することは自然の結果であるやうに思はれる。しかるに單獨の生活を送る生物も決して少くないのはなぜかといふと、これは生活難のために一家離散したのであつて、生存の必要上群集生活を思ひ切るやうに餘儀なくせられたものに限る。例へば陸上の食肉獸類には群棲するものは殆どない。これは獅子〔ライオン〕・虎などの如きものが一箇處に多數集まつて生活し、多數の牛や鹿を殺して食つたならば忽ち食物の缺乏を生じ、皆揃つて餓死せねばならぬからである。これに反し、草食獸類の方は餌が澤山にあるから、大群をなして生活して居ても、急に食物が皆無になる心配はない。昆蟲類などでも木の葉を食ふ毛蟲は枝一面に群集して居ることがあるが、蟲を捕へて食とする「かまきり」や「くも」類などは、一疋づつ離れて餌を求めて居る。尤も肉食するものでも、餌となる動物が多量に存する場合には、群棲しても差支はない。「をつとせい」・「あざらし」の類は肉食獸であるが、その餌となる魚類は極めて多量に産し、恰も陸上の牧草の如くであるから、數千も數萬も同一箇處を根據地に定めて生活して居る。詰まる所、生物が群棲するか單獨に暮らすかは、食物供給の量と關聯したことで、群棲しては到底食物を得られぬ種類の動物だけが、親子兄弟離れ離れになつて世を渡つて居るのである。
 同じ種類の生物個體が、たゞ相集まつて居るだけでも生活に種々都合のよいことがあるが、もしも多數のものが同一の目的を達するために力を協せて相助けたならば、その效力は實に偉大なもので、大概の敵は恐れるに足らぬやうになる。各個體が食ふにも産むにも死ぬにも、すべて自己の屬する團體の維持生存を目的としたならば、その集まつた團體は、生存競爭に當つて、個體よりも一段上の單位となるから、攻めるにも防ぐにも勝つ見込みが頗る多い。かやうな團體を社會と名づける。實際動物界を見渡すと昆蟲類の中でも、蜂や蟻などの如き社會を造つて生活する種類は到る處に跋扈(ばつこ)し、場合によつては獅子〔ライオン〕や虎のやうな大獸をさへも苦めることがある。個體のたゞ集まつた群集と、全部一致して活動する社會との間には、順々の移り行きがあるが、同じく社會と名づけるものの中にも種々の階段があつて、その最も進んだものになると、個體間の關係が、猫や犬で普通に見る所とは全く違つて、殆ど一個體の體内に於ける器官と器官の關係の如くになつて居る。次に若干の例によつて、これらの關係を一通り述べて見よう。

北條九代記 判官知康落馬 付 鶴ヶ岡塔婆造立地曳

      〇判官知康落馬  鶴ヶ岡塔婆造立地曳

賴家卿は官加階(くわんかかい)滯りなく、次第昇進し給ふ。八月二日、京都の使節參著す。去ぬる月二十二日、左近衞中將より轉任あり、從二位に叙せられ、征東大將軍に補せられ給ふ由を申す。

即ち鶴ヶ岡に於いて宮前拜賀の式をぞ行はれける。愈(いよいよ)日毎の御鞠(おんまり)は天下の政道に替へ給ひて、世の誹(そしり)、人の嘲(あざけり)を知(しろし)召さず。同じき十一月二十一日、將軍家、若者善哉公(ぜんやぎみ)、年(とし)三歳始て鶴ヶ岡に神拜(じんはい)あり。神馬(じんめ)二疋を奉らる。同十二月十九日、將軍家、御鷹場(たかば)を御覧ぜんとて山内莊(やまのうちのしやう)に出で給ふ。夜に入て還御ありける所に、判官知康、御供に候ず。龜谷(かめがやつ)の邊にて乘(のり)たる馬、物影に驚き、頻(しきり)に棹立(さをだ)ちて、知康、鞍壺に堪(たま)らず、舊井(ふるゐ)の中に落入りたり。されども別義(べちぎ)なく、額(ひたひ)の邊(あたり)を打(うち)損じ、濕々(ぬれぬれ)として匐上(はひあが)り、やうやうに家に歸りければ、將軍家、御小袖二十領を知康に下されたり。是を聞ける人々、「京家の古狐(ふるぎつね)、善く將軍を妖入(ばかしい)れたり」と唇(くちびる)を返して私語(さゝやき)けり。かゝりけれども、近習(きんじゆ)の輩を初(はじめ)て諷諫(ふうかん)を奉る人、更になし。建仁三年正月二日、將軍家の若君一幡公(まんぎみ)、鶴ヶ岡に御社參あり。同二月四日、將軍家の御舍弟千幡公、鶴ヶ岡に參り給ふ。絵馬四郎殿、御車副(くるまぞひ)として、神馬二疋を奉り給ひけり。同十一日、八幡宮の塔婆(たふば)再興の爲、地曳(ぢびき)を始めらる。去ぬる建久三年に炎上ありける後、遂にその沙汰もなかりしに、今日、彼(か)の舊基(きうき)を興(おこ)さしめ、將軍家、監臨(かんりん)し給ふ。大夫屬(さくわん)入道善信、是を奉行す。

[やぶちゃん注:頼家の補任及び頼家子息善哉(頼家の次男。後の公暁。母は源為朝の孫娘に当たる足助重長(あすけしげなが)の娘)・一幡(頼家嫡男。母は比企能員の娘若狭局。比企能員の変の際、享年六歳で焼死した)・弟千幡(後の実朝)の鶴ヶ岡参詣の部分は「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年八月二日及び十一月二十一日と建仁三年正月二日及び二月四日の条を、メインの判官知康の落馬事件は、同巻の建仁二年十二月十九日の条を、最後の鶴岡の塔婆地曳の記事は、同じく同巻の建仁三年二月十一日の条に基づくが、例に如くオリジナルに、「愈日毎の御鞠は天下の政道に替へ給ひて、世の誹、人の嘲を知召さず」と辛口に論評したり、元後白河法皇の腰巾着で今や頼家のそれである鼓判官平知康に対し、鎌倉の市井の人々が「京家の古狐、善く將軍を妖入れたり」と陰口を囁いたと附記して、陰に陽に頼家を批判することを忘れていない。

「官加階」官職と位階。

「絵馬四郎」北条義時。

「八幡宮の塔婆」鶴岡八幡宮寺にあった宝塔又は三重塔という。

「地曳」「地引き」とも書く。家屋などを建築するに当たって地均(なら)しや地突きの際に行う宗教性を帯びつつも、プラグマティクでもある儀式のこと。地曳き祭り。後世の宗教性の高い土公祭(どこうまつり)や現在の地鎮祭とは異なる。

「建久三年」この塔婆炎上は建久二(一一九一)年の誤り。「吾妻鏡」の同年三月四日の条に「餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆」(餘炎飛ぶがごとくして、鶴岡の馬場本(ばばもと)の塔婆に移る)とあるのが、それ。

「大夫屬入道善信」三善善信。]

 

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 佐竹天王・本覺寺

  佐竹天王・本覺寺

 

 由井の濱、鳥居の内(うち)にいりて、閻魔川(ゑんまがは)をわたり、身替(みがはり)地藏、辻(つじ)の藥師、逆(さか)川の橋をうちわたり、大町佐竹天王(さたけてんわう)の宮(みや)にいたる。それより大巧寺(きやうじ)、本覺寺(ほんかくじ)にゆきて、中の鳥居前、琵琶橋(びわばし)にいづるなり。

〽狂 旅(たび)はうき身

    がはり地藏(ぢぞう)

 ふしおがむこれも

   他生(たせう)のゑんま

            川かな

「そなたを駕寵(かご)にのせずにあるかするも、我(われ)ら了見(りやうけん)あつてのことだから、大儀であらうけれど、精だしてあるいてください。晩の泊(とま)りに鹽梅(あんばい)のよい處(ところ)を賞翫(せうぐはん)いたすのが、我ら、何より、それが樂しみだ。」

「さやうなら、妾(わたし)は精だしてあるきませうが、貴方(あなた)はお駕籠にめしませ。あまりおくたびれなされたら、晩のお役(やく)にたちますまい。」

「氣遣(づか)いしやるな。こんなことでくたびれることではない。儂(わし)のあるくのは、兩足を擂粉木(すりこぎ)にいたそうと思つての事だ。そうなると、一本の擂粉木が三本になるから、そなたは、さぞ、うれしからう。どうだ、どうだ。」

「旦那さまの擂粉木は、當(あ)てがあるから、よろしふござりますが、つまらぬは、妾(わたくし)の擂粉木でござります。まづ、腰にさした二本の擂粉木と兩足から、都合(つがう)、五本の擂粉木に、お駕籠の衆(しゆう)の擂粉木が二人で六本、それに、兩掛持(りやうがけも)ちの可内(べくない)が擂粉木三本、都合(つがう)、しめて十四本。皆、不用(ふよう)の擂粉木。この致し方(かた)がござりませぬ。なんと、旦那さま、これは、いかゞいたしませう。」

「それは、こうするがよい。來春、大和廻(やまとめぐ)りにゆくから、それまで、まつがよい。その時、その擂粉木は皆(みな)、高野(かうや)へでもおさめてしまうが、よからう、よかろう。」

「これから金澤へいつて網をひかせて、おもいれ、魚(さかな)をとつて、皆の者にも、うまい酒を一杯づゝのませよう。なんと、うれしいか、うれしいか。そのかはり、二杯とは、ならぬぞ。」

[やぶちゃん注:「佐竹天王」は現在の大町にある「お天王さん」の愛称で親しまれている鎮守、八雲神社のこと。後三年の役の際、新羅三郎義光が兄八幡太郎義家の助勢のために奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄ったが、疫病が流行っていたため、京の祇園八坂社の祭神を勧請したのが始まりと伝えられる。室町期には前出の名越にあったとされる佐竹屋敷の祠が合祀されて「佐竹天王」とも称され、江戸期には将軍より朱印が下賜されて、鎌倉祇園社となり、「祇園さま」として尊崇された。明治維新を迎えて八雲神社と改称、明治四四(一九一一)年に大町の村内にある上諏訪・下諏訪・神明・古八幡の四社をも合祀している。神輿四基があり、その内の一つを佐竹天王と称しており、七月の神幸祭の神輿渡御では担ぎながら天王歌を唄うと、白井永二編「鎌倉事典」にある。

「閻魔川」滑川の河口付近での呼称。閻魔堂川とも。現在の円応寺の前身である荒井閻魔堂がかつて川の近くに在ったことによる。現在の山ノ内小袋坂上に移転したのは元禄一六(一七〇三)年の震災による大破後であるから、本書の頃には既に荒井閻魔堂はなかった。

「身替地藏」延命寺の曰くつきの裸地蔵。「新編鎌倉志卷之七」に、

延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈せ、厨子に入、衣(きぬ)を著せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六(すごろく)を爭ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

とあり、編者は光圀の意を汲んで、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと激しい不快感を示して吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らく、この秘所を参拝者に見せることが、割に日常的に行われていたと思われる。現在、okado氏のブログ「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。但し、「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺(にしきでら)町の璉城寺(れんじょう)の光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。それにしてもこれは、一九にとっては絶好の好色ネタにぴったりなのに、全く言及していないのは解せない。後段の艶笑話にも全く影も形ない。一九はこの絶妙の「下ネタ地蔵」を実見しておらず、もしかすると、そのきわどい話も実はよく知らなかったのかも知れない(狂歌で本地蔵を読み込んではいるが、これは一般的な意味での身代わり地蔵の意でしか「身替り」の意を採っていないことは明白)。知っていれば、一九先生、絶好の御当地エロ話として餌食にしなかったはずがないのである。

「逆川」鎌倉一」に、

逆川 名越切通邊より流出て、西の方へ流るゝゆへ逆川と唱ふ。大町の境へ出て、閻魔堂川に合して南流す。

とある。現在の大町四ツ角から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に逆川橋が架橋されているが、この逆川(さかがわ/さかさがわ:現在は後者の呼称が一般的)という名は、この滑川の支流が、地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向(現在は距離にして五〇メートル弱。「鎌倉攬勝考卷之一」の「西の方」というのはこの川の流れる方向としては正しいが、それが「逆川」の由来というのは実は不審である。あえて言うならこの逆橋からは寧ろ北北東に流れが急変すると言える)に流れているために付けられたものである。

「兩掛」は旅行用の行李(こうり)の一種で、挟箱(はさみばこ)又は小形の葛籠(つづら)に衣服や調度品を入れて、棒の両端にかけ、天秤棒で担いだり、二つの荷物を紐で結んで胸と背に振り分けて持った体裁のものを言う。

「可内」武家の下男の通称。「可(べく)」の字は、元来、文中で漢文表現して「可申候(まうすべくさふらふ)」等と必ず上に置く返読文字であったが、それを「無(な)い」で否定して、上に就かない、必ず下に付くの意としたものを「甚内」などの人名に擬えて「内」の字を当てたものである。

「「おもいれ」副詞「思入れ」で、思いっきりの意。]

蒼天 萩原朔太郎

 蒼天

いつしんなれば、
あふむけに屍體ともなる、
つめたく合掌し、
いんよくいちねん、
きりぎりす靑らみ、もはら、
雀みそらに殺さる。

[やぶちゃん注:『風景』第一巻第六号 大正三(一九一四)年三月号。底本全集の「拾遺詩篇」に所収する。]

しなびた船 大手拓次

 しなびた船

海がある、
お前の手のひらの海がある。
苺(いちご)の實の汁を吸ひながら、
わたしはよろける。
わたしはお前の手のなかへ捲きこまれる。
逼塞(ひつそく)した息はお腹(なか)の上へ墓標(はかじるし)をたてようとする。
灰色の謀叛よ、お前の魂を火皿(ほざら)の心(しん)にささげて、
淸淨に、安らかに傳道のために死なうではないか。

耳嚢 巻之六 其才に誇るを誡の歌の事

 其才に誇るを誡の歌の事

 

 才力ある人は、人も尊崇し、公私の用にもたちてよろしけれど、自分(おのづと)其の才器に任せる故(ゆゑ)人も慴み、またさまでなきは、智才ある人、却(かへつ)て人の用ひもをとる事あり、世にあらん人は心得あるべき事と、或る老人に咄し合(あひ)けるに、彼(かの)老人の云へるは、さればとよ、それにつき思ひ出る事あり、後水尾院樣の御誡歌(ごかいか)の由、人の語りしとて噺しぬ、

  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝

げにも尊き御教(おんおしへ)の御歌(ぎよか)と、爰に記し置(おき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の艶笑狂歌から、また、堂上狂歌へ連関。この後水尾院、本巻で先行する御製發句の事では発句さえものしており、なかなかの通人であらっしゃたようどすなあ……但し、恐残念ながら、この歌も先の発句同様、彼の御製ではない可能性が高い。

・「其才に誇るを誡の歌の事」「誡」は「いましむる」と訓じているか。岩波版では「いましむ」とルビを振る。

・「慴み」「慴」は「おそれる」「おびやかす」としか訓ずることが出来ず、意味もおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「憎み」とあり、こちらならすんなり通ずる。現代語訳では「憎み」を採った。

・「後水尾院」御製發句の事に既注。

・「たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝」底本の鈴木氏注に以下の三村竹清氏の以下の注を引く。『この歌徹書記かと被存、右集外へかし置、穿鑿に間合兼申候、才智は人の仇なりといふ事を、『見よや人(おもへ人)をのがえならぬ花の香に折やつさるゝ野路梅が枝』このやうにそら覺申候、初五文字別して覚束なく、作者は猶さらにて候』とあるとするが、岩波版長谷川氏注には『正徹諸集に見えず』ともある。正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)は室町中期の臨済僧で歌人。

――誰も誰も、よう、見とうみ……己れの枝にはない……香しい野辺の梅が枝(え)の花は……これ……必ず折り採られて……絶やさるるもので……おます――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 己れの才に誇るを誡む歌の事

 

……才智ある人は、他人からも尊崇され、公私の用にも、何かと役立つゆえ、一見、如何にもよろしゅうに見ゆるけれども――これ、自ずと勢い、その己れの才器に誇りがちとなるゆえに――結局は他人も内心にては憎み、また――憎まるるとまでは至らずとも――才智ある人という者、その、人より優れた才智のゆえにこそ――かえって人も物怖じ致いて、逆に採用致すに二の足を踏む――ということも御座る。こうした事実を世を渡らんとする才智ある御仁は、よう、心得ておかねばならぬ。……

といったことを、とある老人と談話致いて御座った折り、その老人の言うに、

「……そう言えば……それに就いて思い当ることが御座る。後水尾院さまの御誡(おんいまし)めの歌の由、人の語って御座った、ありがたき御製にて……」

とて、示された御詠歌、

  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝

「……実に尊き御教(おんおし)えの御歌(ぎょか)で御座ろう。」

と申して御座ったによって、ここに記し置くことと致す。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十二(一九五七)年

昭和三十二(一九五七)年

木枯の一夜明けたる道白し

冬耕の馬より低く入日炎ゆ

  高岡城跡

大寒の小石かゞやき城古りぬ

枯蓮の夕べ秒針すこやかに

紅顏や石崖の根に雪のこり

松さかしま寒城の水鋼(はがね)なす

[やぶちゃん注:『週刊読売』同年二月十七日号。私は若き日に高岡に住んだことがあり、これらの句は何故か不思議に極めてリアルな印象を受ける。因みに――私はこの年の二月十五日に生れた。]

華やかな木枯夜富士吹きとがる

道ありて歸る冬滿月正面に

ひとの子の紙鳶をさゝげて初濱に

正月の岸壁蔦の朱一枚

寒林を透りて誰を呼ぶ聲ぞ

海女の火の煙一炷蠅つるむ

[やぶちゃん注:『春光』六月号より。「一炷」音ならば「いつしゆ(いっしゅ)」、訓ならば「ひとたき」であるが、後者で読みたい。]

夏山へ古城へ双の鳶別れ

[やぶちゃん注:『週刊読売』(底本に月号表示なし)掲載の「淀城」の中の一句。淀城は現在の京都府京都市伏見区淀本町にある城跡のこと。本丸の石垣と堀の一部が残る。]

一言芳談 九十四

   九十四

 敬佛房云、婬事對治(いんじたいぢ)、不淨無常(ふじやうむじや)は猶、次(つぎ)なり。只以貧爲最(ただひんをもつてさいとなす)。依之(これによつて)、故上人は、あながちにうれへず。貧賤をさきとする故なり。今の後世者は其身、富有(ふいう)なるがゆゑに、此事難禁(いましめがたし)と云々。同(おなじき)上人、あからさまにても、男女(なんによ)の間の事、物語にし給はず。

〇婬事對治、婬欲を對治せんには、人身の不淨を觀じ、自他の無常を觀ずる、つねの事なれども、それよりも貧乏が第一の對治にてあるとなり。婬事も衣食住のゆたかなるうへの事なり。はだへさむく、食事ともしくば、色欲もおのづからおこるまじとなり。
〇あからさまにても、かりそめにもなり。

[やぶちゃん注:「婬事對治」「對治」は退治と同義。性的な欲に関わる一切を退治すること。「不淨無常」との並列ではなく、「禁欲するためには~」で以下に続く。
「不淨無常」「不淨」とは五種不浄を謂い、種子不浄(父母の淫欲の業火、その種子の結果として生じる身体とその内にある種子すべてが不浄であること)・住処不浄(生まれる際の十月十日の間の母胎の内は臭穢に満ちており不浄であること)・自性不浄(脚部から頭部まで全身に不浄が充満しており、如何なる着衣・清拭・飲食を以てしても浄めることは出来ないということ)・自相不浄(この身は常に九孔より不浄物を流出していること)・究意不浄(死後に遺体が腐敗・膨満・崩壊して白骨となることを謂い、一切の死屍の中でも人身が最も不浄であることを指す)を指す。つまり、生命の発生から死後の白骨化に至るまでの一生のことごとくが不浄に埋め尽くされていることを説く言葉であり、それは謂わば、諸行無常という認識の自己による体現である、ということを述べているのであろう。
「只以貧爲最」「依之」「此事難禁」の部分が漢文脈で記されていることから、これは伝不詳の敬仏房なる人物の書き記した何物かからの引用であることが分かる。
「故上人」「同上人」法然。
「物語にし給はず」大橋氏の訳では、『何も、こうせよといったことは話をしていらっしゃいません』とある。]

2013/02/22

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 五 意識

     五 意識

 人が目を醒まして居るときは意識があるといひ、熟睡して居るときは意識がないといふ。
しからば意識とは何かと尋ねると、これは容易に答へられぬ。なぜかといふに、意識のある狀態とない狀態との間には自然の移り行きがあつて、判然たる境界線を定めることが出來ぬからである。誰も自身に經驗のある通り、夜寢床に入つて目を閉ぢて居ると、いつとはなしに意識が朦朧となつて、暫時うとうとした後に終に眞に眠入つてしまふ。また急に起されたときには、直に意識が明瞭にならず、方角も分らず、物の識別も出來ぬやうな所謂寢ぼけた有樣を通過して漸く精神が判然する。赤子の生まれたばかりのときには取り立てて意識と名づくべき程のものもないやうであるが、日數が重なる間に次第に人間らしく、笑つたり怒つたりするやうになり、長い時日の後に至つて普通一人前の意識が完全になり終る。また病人が死ぬときにもまづ意識が混濁して昏睡の狀態に陷り、一歩一歩眞の無意識の境遇に近づいて行く。かくの如く人間だけに就いていうても、明瞭な意識のある狀態から、全く意識のない狀態までの間に無數の階段があるが、他の生物は如何と見ると、こゝにも意識には種々の程度の違つたものがある如くに思はれる。昔の或る有名な學者は意識を有するものは人間ばかりで、他の生物には意識はない。かれらは單に自動器械の如きもので、恰も時計や、ぜんまい仕掛けの玩具などの如くに器械的に動いて居るに過ぎぬと説いたが、これなどは人間と他の生物とを絶對に區別したいと思うた舊い頃の考で、今日虛心平氣に判斷すると、全く何の根據もない説である。生物の中には、眼付や擧動から鑑定すると人間に劣らぬ明瞭な意識を具へたものもあれば、人間の寢ぼけたとき位の程度以上に意識の進まぬものもあり、また一生涯を昏睡の狀態で過すものもある。野蠻人が、鳥獸は素より草木金石に至るまで、自分と同じ程度の意識がある如くに考へるのも誤であるが、昔の西洋の學者が、その正反對に人間以外の生物には意識はないと論じたのも同じく誤といはねばならぬ。
[やぶちゃん注:「昔の或る有名な學者」とは恐らくデカルトを指している。デカルトは「意識」という概念を、現在で謂うところの「思考」や「精神」に極めて近似したものとして定義しており、仮に動物に「意識」的に見える行動があったとしても、それは「考える」という能動的行動とは異なると考えていた。]

 著者が實物を見て考へる所によれば、多くの生物には慥に人間のと同じやうな意識がある。但しその程度は決して同じでない。本能や智力も各種の生物によつて發達の程度が違ひ、各々その生活に必要な程度にまでより進んで居ないが、意識なるものも各種の生物が食つて産んで死ぬのに必要なだけの程度より以上には昇らぬ。即ち一生涯昏睡の狀態にあつても、食うて産んで死ぬのに差支のない生物には、昏睡の狀態以上の意識は現れず、寢ぼけ程度の意識さへあれば食つて産んで死ねる生物には、寢ぼけ程度より以上の意識は生ぜぬ。隙を覗うて電光の如くに肴を盜み去る猫の意識と、靜に草を食つて居る芋蟲の意識と、追はれても逃げず突かれても平氣で居る「くらげ」の意識との間には、勿論甚しい相違はあるが、人間が生まれてから死ぬまでの間、または起きてから寢るまでの間には、これらと同等の階段を順次に經過するから、その間に境界を定めることは出來ぬ。無意識の狀態から有意識の狀態に進む有樣は、恰も夜が明けて朝となり、また晝となる如く、いつとはなしに變化して行くから、兩端を比べるとその間の相違は著しいが、こゝまでは意識がなく、そこから先は意識があるといふ如き境界はどこにもない。かやうな所に強いて境界を定めようとすれば、恰も汽車や電車の賃金十二歳以下は半額とか、五歳以下は無賃とか定める如くに、相談によつて便宜勝手な所に境を造るより外に致し方はないであらう。
 意識の程度が、各種の生物の生活に必要な所までより進まぬ如く、意識の範圍も、各種の生物の生活に必要なだけより以上には及ばぬやうである。元來意識は神經系の働の全部に亙るわけではなく、僅にその一部を含むだけで、恰も闇の夜に懷中電燈で照らした處だけが明く見えるのと同じく、殘餘の部分は全く意識の外にある。一例を擧げて見るに、我々が或る物體を觀るときには、その物體の像が眼球の奥の網膜の上に倒さに小さく映ずるが、このことは少しも意識せられぬ。また種々の實驗でわかる通り、網膜の上に映じた像をそのまゝに感ずるわけではなく、これを材料として一種の判斷力を働かせ、その結果を感ずるのであるが、この判斷の働も意識の範圍以外にある。そして、たゞその結論だけを直感的に知ることが出來る。網膜にどんな像が映じようとも、また先祖以來の感覺の記憶や、その連絡の記憶がどんなであらうとも、そのやうなことは知つても生活上何の役にも立たぬから、意識の中に現れぬが、自身の前面に當たる外界の一部に、自分より約何米距る處に何程の大さの如何なる形の物が有るかを知るのは生活上最も肝要なことであるから、たゞこれだけが意識せられるのである。されば意識の範圍内に現れるのは、神經系の働の中で生活上明瞭に意識する必要のある部分だけであつて、その他の働は、たとひこれと密接な關係のあるものでも、みな意識以外に隱れて居る。これに類似したことは我々の日常の生活中にも幾らもある。例へば時計を用ゐるには時刻の讀みやうと、鍵の卷きやうと、針の動かしやうとを知つて居れば十分であつて、内部の細かい機械の仕掛けなどは知らずとも差支はない。また電話を掛けるには、呼出しやうと切りやうとを知つて居ればよいので、別に電話機械の構造や理窟を知つて居る必要はない。生物の有する意識なるものもこれと同樣で、神經系の働きを全部知つて居る必要はないから、他の部分はすべて無意識の繩張り内に殘して置いて、たゞ直接に知る必要のある部分だけを引き受けて居るのである。意識に現れることは、皆無意識の範圍内に於ける神經系の働を基礎とし、且これと密接な關係のあることはいふまでもない。
 本章に於ては主として智力のことを述べて、情の働、意の働のことは全く省いたが、著者の考へによればこれもやはり前と同樣の關係で、各種の生物が食うて産んで死ぬのに必要な程度までには發達して居るが、決してそれ以上には進んで居ない。しかもそれが意識に現れるのは當事者が自覺する必要のある部分だけに限る。情の力、意の力が無意識の範圍内で働き、その結末だけが意識せられる場合には、なぜにこのやうなことがしたいか、なぜこのやうなことをせずに居られぬかは、無論自身にもわからず、たゞ本能的にそのことをなし終るであらうが、かくすれば、それが必ず種族の生存のために役に立つ。即ち當事者が自身の行爲の理由を知つて居ても知らずに居ても、それは種族の生存のためにはいづれでも差支はない。たゞ必要なだけのことが行はれさへすれば宜しいのである。身體に水分が不足すれば渇を感じて水が飮みたくなり、水を飮めば水の不足は忽ち補はれる如く、意識して感ずるのはたゞ直接に必要なことだけで宜しい。それより奧のことは必ずしも感ずるに及ばぬ。かやうに考へて見ると、意の力、情の力を具へて、生物が敵を防ぎ、子を育てなどして居る有樣は、恰も電車の運轉手がハンドルの廻しやうと、齒止めの掛けやうとだけを知つて、日々車臺を運轉せしめて居る如くで、抑々如何なる理由で車の輪が廻轉するかといふ問題などは捨てて置いても少しも差支はない。たゞ綠の旗が出れば進み、赤い旗が見えれば止まりさへすればよいのである。そして實際如何なる生物でも意識内に現れる神經系の働きは、必ずかやうな性質の部分のみに限られて居るやうに見受ける。
 なほ各種の生物が食つて産んで死に得るために有する種々の構造や習性を通覧して、心附かずに居られぬ點が一つある。それは外でもない。いづれの構造でも習性でも種族全體としての生存に有利であれば宜しいので、例外の場合に少數の個體が犧牲となることは全く度外視せられて居る。言を換へていへば、自然なる者は種族の生存を圖るに當つて、いつも全局を通じての利益を標準とし、多少の無駄は始から覺悟して居るのである。本章に述べた本能でも智力でも反射作用でも、皆各種の生物の種族全體に取つては必要なものであるが、特殊の場合に若干の個體が、そのため生活の目的にかなはぬ所業(しわざ)をなすことを避けられぬ。「走りぐも」が紙屑の丸めた球を卵塊と誤つて大切に保護するのは、本能のために無益な勞力を費して居るのであるが、蛾の類が燈火を見て飛び込んで來る如き場合には、本能のために命を捨ててしまふ。しかしながら、「走りぐも」が紙屑を卵と間違へるのは、人がわざわざ試驗して見る極めて稀な場合に限ることで、これは全く勘定には入らず、また人が燈火を點し始めたのは、地球の長い歴史中の最後の頁で、しかも燈火の光の達する區域は、表面の廣さから見れば殆どいふに足らぬから、もし蛾をして燈火に向はしめる神經系の構造が、蛾の生活上他の方面に有功な働をなして居るものとすれば、差引き勘定無論遙に得になつて居る。半紙を漉くに當つて、始から毫も無駄の出ぬやうに出來上りだけの寸法に造らうとすれば、これは頗る困難なことで、如何に手數を掛けてもなかなか行はれ難い。これに反して、始から若干の無駄を見越し、出來上りの寸法よりも稍々大きく漉いて、後に周邊の餘分の處を裁ち切ることにすれば、頗る容易に目的を達することが出來る。生物界に於ける本能・智力乃至情の力、意の力なども、これと同じ理窟で、無駄な部分を裁ち切つて餘つた處が生活上の役に立てば、それで已に目的にはかなうて居る。特殊の場合に出遇つた本能の働や、生活に必要なより以外の方面に向けた智力の働などは、時としては若干の個體の生存のために無益または有害なこともあるが、これは恰も半紙の裁ち屑のやうなもので、各種族の全體の經濟からいへば、捨てても決して損にならぬ位のものであらう。

内部に居る人が畸形な病人に見える理由 萩原朔太郎

 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、

それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。

わたしは手に遠めがねをもつて居ります、

それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、

につける製の犬だの羊だの、

あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、

それらがわたくしの瞳(め)を、いくらかかすんでみせる理由です。

わたくしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、

そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、

それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。

じつさいのところを言へば、

わたくしは健康すぎるぐらゐなものです、

それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。

なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。

おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、

そのへんがはつきりしないといふのならば、

いくらか馬鹿げた疑問であるが、

もちろん、つまり、この靑白い窓の壁にそうて、

家の内部に立つてゐるわけです。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の中の「くさつた蛤」副題「なやましき春夜の感覺とその疾患」の章の巻頭の一篇。下線部は、底本では総て傍点「ヽ」。初出同様、初出の最終行のルビから推して、題名を含め、総ての「理由」は「わけ」と訓ずるべきであろう。]

内部に居る人が病氣に見える理由 萩原朔太郎 (「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」初出形)

 
 

 内部に居る人が病氣に見える理由

わたくしは窓かけのれいすの影に居ります。
それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。
わたくしは手に遠めがねをもつて居ります、
それでわたくしはずつと遠いところを見て居ります。
につける製の犬だの羊だの、
あたまのはげた子供の居る林をみて居ります、
それらがわたくしの眼をいくらかかすんでみせる理由です。
わたくしはけさ貝類を喰べすぎました、
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、
それがわたくしの顏をこんなに歪んで見せる理由です。
じつさいのところをいへば、
わたくしはまつたく健康すぎるぐらひです。
それだのに、なにを君たちは笑つてゐる!
ああわたくしの腰から下ならば、
それをそんなに怪異(ふしぎ)がるならば、
おそらく馬鹿氣きつた説明をやりますが、
もちろん、この高い窓の内側にある理由(わけ)です。
                ――四月作――

[やぶちゃん注:『ARS』第一巻第三号 大正四(一九一五)年六月号所収。二年後に出版される詩集「月に吠える」に所収された「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」の初出形。太字「れいす」は底本では傍点「ヽ」。「わたくしはまつたく健康すぎるぐらひです。」の「ぐらひ」はママ。最終行のルビから推して、題名を含め、総ての「理由」は「わけ」と訓ずるべきであろう。]

耳嚢 巻之六 孝傑女の事

  孝傑女の事

 

 享和三年の頃、御代官なる鹽谷何某(しほのやなにがし)の手代に、苗字は聞洩(ききもら)しぬ、林左衞門といえるありて、年頃廉直に勤めて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらん、勢ひよく勤めしに、一人の娘ありしを、同じ手代仲ケ間の世話にて、是も同じ手代類役(るいやく)の内へ媒(なかだち)せしが、いまだ事極りしにもあらず、況(いはんや)たのみなどとりいれしにもあらず。しかるに熊ケ谷邊の知音、かの林左衞門と懇意なりしが、右の媒にかゝりし手代を以て、彼(かの)娘を越後の國の豪家の百姓へ世話いたし度(たし)と、頻りにいひこしける故、彼越後成(な)る百姓は音に聞へし富家(ふけ)なれば、手代のかたへ嫁(か)せんよりは、遙(はるか)にまさるべしと、林左衞門夫婦へも咄しければ、夫婦も大きに悦び早速承知の趣にて、娘へもかたりければ、彼娘、何分越後へ嫁せん事はゆるし給へとて、斷(ことわり)に及びし故、父母は勿論、かの媒せし男も、いろいろうちよりいさめけれど、父母の命に背くは恐れあれど、幾重にも免し給へと斷るゆへ、媒もあぐみて考へぬれど、かの媒せんと始めかたりし手代は、年も四十にて年頃も相應にも無之(これなく)、容貌は大疱瘡(だいばうさう)にて醜といふの類ひ、いまだよき手代といふ程の人物にもあらざれば、戀慕執着のたぐひにもあらず。富貴(ふうき)を好むは人情の事故、ひそかにかの娘が内心を尋ねしに、素より右の手代の方へ嫁せんと好むにもあらず、しかれども、最初に物語り媒ありしは右の手代にて、追(おつ)て越後の豪家の農家より需(もと)むるとて媒あれば、全く富貴に目のくれて子を賣る罪、父母に蒙るべし、父は醇直(じゆんちよく)を以て今元締(もとじめ)等も致し、人も稱するに、此事にて慾にふけるの名をなさん、これ子の身としてしのびざるの事なりとて、何分合點せざるゆゑ、始は吉(きち)にして終り不宜(よろしからざる)もあり、縁談の値遇は人の憶智(おくち)にも及ばざればと、兼て心安(やすく)せし、相學に名ある栗原某を呼びて、いづれか吉ならんと相を賴みけるに、其の血色いかにも徹女(てつぢよ)にて、容色美わしきといふにはあらねど、十人には增るべき人相なり。しかれど、農家に嫁し或は田舍の事とり扱ふの手代などに嫁しては、いづれも不宜(よろしからず)、武家などへ嫁して可然(しかるべし)と判斷して歸りしと、右の栗原語り稱しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。深慮ある孝行者の麗しき娘の物語り。あとのことしりたや……

・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事。

・「鹽谷何某」塩谷惟寅(しおのやこれのぶ 明和六(一七六九) ~天保七(一八三六)年。大四郎。江戸後期土木事業などに大きな業績を残した西国筋郡代。名は正義。幕臣粟津家に生まれ、のち塩谷家に入る。寛政一二(一八〇〇)年に勘定吟味改役から代官に昇進、文化一三(一八一六)年には九州の幕領十万石支配の代官に任命され、翌年、豊後国日田陣屋(大分県日田市)へ着任した。その後支配地は十六万石余にまで増え、文政四(一八二一)年には西国筋郡代に昇任。日田在任中は小ケ瀬井路の開削・筑後川舟運の整備・救済施設陰徳倉の設置・道路の改修などを行った。また、豊前宇佐郡や豊後国東郡などの海岸干拓新田を築造している。但し、こうした積極的行政政策は町村の豪農商の出金によって賄われたため、その負担が有意に増し、「塩鯛(塩谷大四郎)は元のブエン(無塩)に立返れ塩が辛うて舌(下)がたまらん」との狂歌も残されている。天保六(一八三五)年まで同職にあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。底本の鈴木氏注には『享和三年の武鑑に、塩谷大四郎は単語但馬美作の代官』とある。

・「手代」郡代・代官・奉行等に属して雑務を扱った下級役人のことを指すが、狭義にはその内で非武士階級の者を指す。底本の鈴木氏の「手代」の注に、『町人百姓から適任の者を採用するのを手代という。手代は役にある間は侍待遇で両刀羽織袴であるが、退職すれば士分の待遇を失う』とある。次の「手附」の注も参照のこと。

・「手附」辞書には「手代」と同じ記載があるが、底本の鈴木氏の「手代」の注には、『小普請の御家人から採用する』事務担当者を特に『手附とい』うとある。また、岩波版長谷川氏の注には、『幕臣で譜代の者と一代のみ抱えの者あり。小普請組より採用の者と手代より抜擢の者がある』ともある。但し、本文ではこれ以降の「手代」を、この「手附」と厳密に区別して用いているようには思われない。

・「たのみ」「頼み」「恃み」などと書き、契約(結)を受けて(納)下さいの意で、婚儀の結納を指す。

・「況(いはんや)」は底本のルビ。

・「栗原某」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

・「徹女」一徹の女子の意であろう。思い込んだことは一筋に押し通すと見える筋の通った女丈夫ということ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  孝行の女傑の事

 

 享和三年の頃、御代官として知らるる塩谷何某(しおのやなにがし)殿の手代にて――苗字は聞き洩らしてしもうたが――林左衛門(りんざえもん)と申す者が御座って、年頃、実直にお勤め致いて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらを、精心に勤め上げて御座った。

 さて、林左衛門には一人の娘があったが、同じ手代仲間の世話によって、これも同じ手代の役務を致いておる者の家へと、媒酌致いて御座った。

 ところが、未だ、その手代方との正式なる受諾や婚儀手筈なんども決まっておらず、況んや、結納(ゆいのう)の儀なんどは、これ、まだ取り交わしてもおらなんだ。

 ところが、そんな折りも折り、武蔵国は熊谷辺りの、林左衛門とは懇意なる知人が、かの、先の媒酌に関わった同じ手代――彼もこの知人と知り合いで御座った――を通して、

「――かの娘子の婚儀のことじゃが、実は、かの貴殿もご存知の、かの熊谷の御仁より、いい話しが別に降って湧いて御座った。場所は越後の国、相手は土地の豪農じゃ! そちらの家へ、是非とも世話致したく存ずるのじゃ!……」

と、頻りに慫慂(しょうよう)に参っては、

「――その越後の百姓と申すは、これ、我らも存ずるほどの、かの地でも音に聞えた富家(ふけ)なればこそ、先だっての、あの、手代の方へ嫁(よめ)せんよりは――遙かに娘子へも良きことで御座るて!」

と、林左衛門夫婦へも熱心に勧める。

 夫婦も、これを聴き、大いに悦び、早速に承知した旨、その媒酌の男に新たな取り持ちの許諾を与え、娘を呼んでは、そのことを語った。

 ところが、娘は、

「……何分……その越後へ嫁(よめ)入り致すということ……これ……お免(ゆる)し下さいませ!……」

と、堅く断りを入るる。

 されば、父母は勿論、かの媒酌致いた男も、意外な娘の言葉に慌て、一緒になって、いろいろと宥(なだ)めたり賺(すか)したり、何とか説得致さんと、したが、これ、全く聞き入るること、御座ない。

 娘はただ、

「……父上さま母上さまの御命(おんめい)に背くことは、これ、畏れ多いことと存じます……が……それでも……幾重にも……はい……お免し下さいませ!……」

と頑なに拒む。

 されば、媒酌人も考えあぐみ、

「……かの、初めに媒(なかだち)致さんとした手代は――これ、年も既に四十にて、年頃も娘子に相応の者にては、これ、ない!――失礼ながらかの手代が容貌も、これまた、ひどい疱瘡の痘痕面(あばたづら)にして、まんず、言うたら、「醜」の部類!――また、未だ手代としても、これといった業績を積んでおるというほどの人物にも、これ、御座ない!……されば、娘子が、かの手代へのせつない恋慕執着の類いによるものにても、これ、御座ないこと、明白じゃ!……それに富貴(ふうき)を好むは、これも人情のことなればこそ……さても!?……」

と合点の行かぬゆえ、媒酌人、こっそりと、かの娘一人と逢(お)うて、その忌憚なきところの内心を糺いたところ、

「……はい……もとより……かの初めの手代の御方へ、嫁入り致すことを心より望んでおるわけにては、これ、御座いませぬ。……されど……最初に、お話があり、媒(なかだち)の御座いましたは……かの手代の御方……後(あと)より追って、越後の豪家の農家より、嫁を求めておらるるとのお話、これ、貴方さまより媒(なかだち)御座いました。……が……これ、お受け致さば――『全く富貴に目の眩んで子を売った』――と申す謂われなき咎(とが)を、これ、父母の蒙りますこと、明白……父は、これまで淳直を以って、今は手附役の元締めなども致いて、人も讃える一廉(ひとかど)の人物……されど……この我らが婚儀の経緯によって――『欲に耽るがりがり亡者』――と申す忌わしき風聞を成さんは……これ、子の身として、忍び難きことにて御座いますれば、かく、お畏れながら、お断り申すので……御座いまする!……」

とて、如何に懐柔致さんとしても、これ、いっかな、合点せぬ。

 されば――始めは吉(きち)に見えても、終わりには、これ、よろしからざる結末の出来(しゅったい)致すこともあり――また、縁談に限っては、殊にその男女の出逢いと申す――これ、憶測や人智の及ばぬ摩訶不思議なるものの力とも言わるるものなれば……かねて心安うして御座った相学に名のある栗原某を呼びて、

「……さても、この二つの縁談……何れが吉で……御座ろう?……」

と人相見を依頼致いたそうな。

 さても――この栗原某――そう、最早、読者諸君もご存知の、かの栗原幸十郎で御座った。……

 

「……そうさ、その娘は、血色、これ、如何にも一徹の女傑にて……まあ、容貌麗しい、と明言するほどにては、これ、御座らなんだが……それでも、十人並、と申してよい美顔、、基! 人相で御座った。……然れども……

――農家に嫁(か)し、また或いは田舍の些事雑事を取り扱(あつこ)うが如き手代なんどへ嫁しては、これ、何れもよろしからず――しっかりと致いた武家などが方へ嫁してこそ然るべし――

と断じて、帰りまして御座る。……」

とは、かの栗原殿の開陳致いてくれた話にて御座る。

陶器の鴉 大手拓次

 陶器の鴉

陶器製のあをい鴉(からす)、
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。
嘴(くちばし)の大きい、眼のおほきい、わるだくみのありさうな靑鴉(あをがらす)、
この日和のしづかさを食べろ。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十一(一九五六)年

昭和三十一(一九五六)年

種牛や腹に五月の土蹴上げ

月光を入れてピアノの第一音

肥後乙女まなこ黑々マスク白し

一言芳談 九十三

   九十三

 

 或云、乞食修行の次(ついで)に、我執名聞(がしうみやうもん)を遁れて、心靜かに後世のつとめをもし、終(おはり)をも取りつべき依所(えしよ)、便宜(びんぎ)の得失などを、かねてよくよく思慮し、見さだめて置くべきなり。後世のこゝろなきものは、この案がなきなり。

 

〇乞食修行、乞食と佛と説(とき)玉ふ。沙門は頭陀行(ずだぎやう)をするが第一也。我執おのづからやむべき也。(句解)

 

[やぶちゃん注:Ⅰでは「便宜」に「べんぎ」と振るが、Ⅲを採った。Ⅱ・Ⅲは「依所(ところによつて)」と訓じているが、文脈から自然なⅠを採った。また、Ⅰは「思慮」を「思量」とするが、Ⅱは明らかに「慮」でルビも「しりよ」とあり、Ⅱ・Ⅲを採った。

「乞食修行」托鉢のこと。頭陀行・行乞(ぎょうこつ)とも呼ぶ。僧尼が修行のために経を唱えながら各戸の前に立って食物や金銭を鉢に受けて回ることで、本来は、生活のためのプラグマティクなものではなく、結果としては修行生活に必要最低限度の(即ち、生命維持のためのみという厳密な条件下で)食糧などを乞い受けることになるものの、あくまで信者に功徳を積ませることを主体とした修行者の修行の一形態であった。元はサンスクリット語のピンダパータで、インドの正当にして崇高な修行者が托鉢によって食物を得たことに由来する(「托鉢」という語は中国で宋代から用いられるようになった)。現代の日本では主に禅宗や普化(ふけ)宗などで修行の一つとして実施されているが、一部参考にしたウィキ托鉢」には、明治五(一八七二)年十一月に托鉢の禁令(教部省第二十五号達)が出され、明治一四(一八八一)年八月には解禁(内務省布達甲第八号)されたものの、『管長の免許証の携帯が義務付けられた。この托鉢免許証の携帯義務の規定は『日本国憲法施行で信教の自由と政教分離が定められたため廃された。しかし、現在においてもほとんどの宗派が、托鉢の鑑札(許可証)、または、問い合わせの際に回答できるよう僧籍番号と届出の一覧制度を持っており、疑義ある場合は問い合わせが可能である』とあり、『現在の托鉢には、集団で自派の檀家の家々(近隣に限らない)を訪問する形態(門付け。かどづけ、と読む。)と、個人で寺院の門前や往来の激しい交差点など公道で直立して移動せずに喜捨を乞う形態(辻立ち。つじだち、と読む。)がある』。『このように日本の仏教における托鉢が本来の目的から外れるようになったのは、日本を含む東アジアに広まった大乗仏教では上座部仏教とは異なり物品の所有を禁止しておらず、その結果として寺院が寄進された荘園等を運営し、その小作料等で寺院を維持する事が可能となったため、維持を目的とした托鉢を行う必要がなくなったからである』と実にプラグマティクに解説してくれている。

「終をも取りつべき依所」臨終即ち極楽往生を遂げるに最も相応しい場所。

「便宜の得失」その時と場所が極楽往生を遂げるに最も相応しい好機であるかどうかという見定め。得失とは損得の意ではなく、成功と失敗の意、極楽往生を速やかに心静かに行えるか行えないかという意であろう。

「この案」前文総てを指す。こうした単純唯一の、欣求浄土する者の基本的な考え方。]

2013/02/21

藍色の蟇 大手拓次

[やぶちゃん注:以下、本文標題紙。「詩集」は横組。]

   詩集 藍色の蟇

   陶器の鴉

 藍色の蟇

森の寶庫の寢閒(ねま)に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰濕の暗い暖爐のなかにひとつの繪模樣をかく。
太陽の隱(かく)し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のやうな眼をもつて、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の獵人(かりうど)はやはらかいカンガルウの編靴(あみぐつ)に。

大手拓次 宿命の雪 自序に代へて

 宿命の雪
   自序に代へて

ほのほはそのかげをおかしてたたずみ、
みどりの犬をはなち、
合掌し 合掌し みづにおぼれる。

              大正十五年九月   拓次

[やぶちゃん注:次の次の頁に拓次の死の翌日の死顔の逸見享によるデッサン画。左下に「昭和九年 四月十九日 享」とある。これは画家逸見享(へんみたかし)氏(明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)で、和歌山県出身。中央大学卒業後、ライオン歯磨意匠部に勤務する傍ら、木版画を始め、大正八(一九一九)年の第一回日本創作版画協会展に入選、日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作、友人であった大手拓次の詩集の装丁・編集も彼が手がけた(講談社「日本人名大辞典」の解説に拠る)。本詩集の編集・装幀も彼の手になる。]

大手拓次詩集 藍色の蟇 序 北原白秋

ブログ・カテゴリ「大手拓次詩集 藍色の蟇」を始動する。ネット上にない、初版の可能な限りの正確な電子テクスト化を目指す。

北原白秋の異様に長い序とその、長さに劣らぬ異様な讃嘆――僕はそこに「犯罪者」白秋の臭いを嗅ぎ取るのであるが……それはまた、いつかのお楽しみに……



藍色の蟇   大手拓次

[やぶちゃん注:底本は昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の「藍色の蟇」に拠り、原本の順に従ってなるべく忠実に再現したが、細部の字配や詩題等のポイントの違い(有意に大きい)は原則、無視した。疑義のある箇所は昭和二六(一九四一)年創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」、昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」及び平成三(一九九一)年岩波書店刊岩波文庫原子朗編「大手拓次詩集」を適宜参考にした(なお、大手拓次の第一人者である岩波版編者の原氏は、本詩集「藍色の蟇」について、編集過程で製作順列が変更された上に、晩年の作品も恣意的に加えられており、大手拓次の『四半世紀にもわたる詩業を整理もせず一冊に盛りつけている』『内容自体に問題がある』詩集として強く批判され、岩波版編集の際もその『作品選択は、既刊本『藍色の蟇』の内容に左右されていない』とわざわざ解説で述べられているほどに評価されておられぬことを附け加えておく)。]

[やぶちゃん注:以下、標題紙前にある献辞。]

   わたしのひかりである
    北原白秋氏に獻ぐ

[やぶちゃん注:以下、標題紙。]

  藍色の蟇   大手拓次詩集

[やぶちゃん注:間に著者遺影。次に本文前目次。]

   『藍色の蟇』の詩人に(序)・北原白秋
   大手拓次君の詩と人格(跋)・萩原朔太郎

[やぶちゃん注:上記の裏頁。]

   装幀 逸見 享

[やぶちゃん注:次頁。]

   序

[やぶちゃん注:改頁二回。]

   『藍色の蟇』の詩人に

                北原白秋

         1

 大手君。
 君の在天の靈に獻ぐる此の私の言葉は、既に遲きに過ぎた。しかしながら到るべき時が滿ちなければどうにも輝かぬ機會がある。かうした自然の推移を推移として、今日の光榮があらためて君の上に俟たれたのである。とは云つてもこの事は決して私の爲に自身の懈怠をうち消す理由にはならぬ。深くお詑びをする。
 かう言へば、君は却つて虔しく微笑されるであらう。君は私を識り、私もよく君を知つてゐる。幽明所を異にしようと私たちには必ず靈犀相通ずるものがあると思へる。時は到り道は愈々に開けて來た。大手拓次詩集『藍色の蟇』が燦然として今こそ梓に上るのである。

 大手君。
 君の詩を私が識つてから幾年になるであらう。『朱欒(ザムボア)』の昔、明治大正の初頭に吉川惣一郎の筆名を以て突如として現れた新人の君は、室生犀星、萩原朔太郎の兩君と共に、一に金線につながる連星として光つて來た。以來、君の純情と節義とは私をして常に敬愛せしめた。私の行くところ常に歩みを同うして君は君の香韻を鳴り響かした。時として私が歩を停むれば君も亦幽かに、潔くして隱れた。『地上巡禮』“ARS”『詩と音樂』『日光』『近代風景』、さうした私の詩歌史に於ける諸誌を通じて、主として君の詩業は公にされ、ただ一道に眞實を傾け盡したのであつた。なみなみならぬ結緣といふ外はない。世に稀な忝さとはかうした魂の共鳴りであらうか。

 大手君。
 君の詩集『藍色の蟇』は、室生君の『愛の詩集』萩原君の『月に吠える』と雁行して、少くとも大正の中葉には輝かしく出世すべきであつた。謙讓であり、非社交的であり、私行の上に極めて扣へ目がちであつた君は幾度かその機を逸した。此の事は詩友としての私にも責任が無いとは言へない。君の詩は君獨自の香氣と語感と韻律とを以て、知るかぎりの人には驚目されてゐた。いみじき寶玉の凾はいつよりか獵奇の手に開かれてあり、決して巖窟の闇に埋もれてあつたといふ譯でもなかつた。運不運といふ事があるとしたら、君は不運の星から永らく見守られてゐたと云へる。この頃の新詩人の間には、吉川惣一郎と云ひ大手拓次とは云つても、或は見知らぬ世界の「球形の鬼」のやうにも見定め難いであらう。しかしながら大正より昭和にかけて君が成就された個の詩風は蕩然として實在し、此の『藍色の蟇』一卷の重量と柔かみとは、その掌に戴く人々をして、稀有の新詩集として讚歎せしむるであらう。年代を追ひ、その生長の跡を辿り、今更に、私は外ならぬ君の息吹を感じ、その詩句のひとつひとつに寧ろ自身の手澤をさへ嗅いで、この兩者の愛と深い魂の交流を聽きつつある。何よりも遺憾に思ふことは、今は遂に君の最後だといふことである。
 君の親友逸見享君は、進んで裝幀した此の金を鏤むる『藍色の蟇』を獻げて、何は措いても君の墓前に額づかれるであらう。それにしても、澄明な冬の大氣に、此の濃い藍色の詩集が燻らす香煙の匂やかさを偲ぶ時、私はつくづくと熱い我が眼がしらのふるへを痛感する。

         2

 大手君。
 君はその初期の詩「藍色の蟇」「陶器の鴉」等によつて早くも一家の淸新體を風騷した。想念に於ても感覺に於ても、または語音の舌觸、韻律の蕩搖に於ても、殆ど前人の影響を受けず、日本詩歌の傳統以外に、個の吉川惣一郎の詩を創成した。異數の事であり、まことに佛蘭西風の開花でもあつた。その獨自の香氣と粘りある柔軟性とは、怪奇な雜多の主題と共に、その觀る人々に一種のえならぬ甘い戰慄をさへも與へた。
 稟質の特異性といふ點に於ては、神經の詩人『月に吠える』の著者と時代を同じくして、或は好き一對を成すものであらうか。しかしながら、此の『藍色の蟇』の世界はまた別種の惱氣ある幻夢を吐いて、寧ろ放埓なまでに黄色い空想の噴霧を羽ばたかした。空想の獵人と云ひ、麻醉の風車と云ひ、鳥の毛の鞭と云ひ、茴香色の性慾と云ひ、紅い羊皮を着た召使と云ひ、草色の瘤の生えた幽靈の足と云ふごとき、ただに五六の詩句を拾つたのみで、暗鬱の胸板をかき撫でられるむづ痒ゆさや柔かい怪しい七色の祕密の呪文をその「香料の顏寄せ」の中に感じられるであらう。もやもやした、のろのろした、ねばねばした、ふはふはした、よろよろした、ゆらゆらした、めらめらした、によろによろした、うとうと、うねうね、うつうつとした、或はぴらぴらした、ちろちろした、べろべろした、ほやほやとした、何といふ不思議なこぐらかつた肉的觸感であらう。聲、色、香、味、觸、之等の中で、君は最も觸の一面を高い藝術にまで、視覺や嗅覺と織り交ぜたのではなかつたか。
 時としては蒼白の面に、而も一脈の妖美をひそめた尼僧のやうに羞かみ、或は緬羊の衣を著て、春の夕映の下によろばふ托鉢僧のやうに吐息した君は又、白い狼をその背に吼えさしたり、ぽうぽうと手にも足にも草を生やしたりしてつぶやいた。さうして君は獨身で生涯を畢つた。言葉をかへて云へば、君の詩は獨身の肉體に咲いた幻想の華であつた。
 何故かなら、君の藍色の蟇は夜と毒氣を雜草の奧に吐き出だすそれではなかつた。森の寶庫の寢間にうづくまつて、あの陰濕な暗い暖爐の中にさへも、或る朱の更紗の繪模樣を描いた。
 君にボオドレエルの影響が無いとは言へないであらう。しかしながら君の詩はかの惡の華とも色合を異にしてゐた。孤燭で内氣な肉體の華、陰鬱と情念のラムプの舌、とりとめない幻感と連禱、乳黄と綠の羽ばたき、さうしたもだもだとした雜光の霞に陶醉した君は何といふ不思議な存在であつたらう。

 君は詩の使徒にはちがひなかつたが、より苦行する以上により哀樂した。寧ろ淫するほどに溺沒した畸體の詩魔であつた。さうして君の言葉に從へば、その一篇の詩を得る時には、病床に餅菓子の粘りを舌なめづる餓鬼の嗜慾をも感傷した。
 君は十年一日のごとく、夜は近代映畫館の電飾と騷音とを眼前にして、陰濕な暗いその空を閉して、その己れの肺臟を刻々と蝕ませて行つた。

         3

 大手君。
 君の書かれた詩を見ること二十數年に及ぶ間に、君の書體はいつも變らなかつた。君は一頁十行の原稿紙に、その一頁と次の頁の二三行とを、君獨自の圓みと粘りとを持つた細い曲線で書いて收めた。さしてそれ以上に詩は長くもなく、又、以内に短くもなかつた。
 君は迫らなかつた。その爲に行の運びによる詩の韻律は常に緩調(アンダンテ)の樂曲であつた。ただ解體する縞蛇の群の四方への匍匐のやうに、行と行とがその想念情癡の綰ねから放れ、ぬらぬらと、而も未だ夢見る色と香ひとのとろみを、かの妖しい季節の首玉に一條一條とうねらすかのごとくであつた。さうして遂に雅味多き平假名の美しい連鏁となつた。是の平假名をかくばかり生きた波狀のやうにぬめりにぬめらした君の詩の姿は、日本の詩により新らしい匂と煙とを縺れさせ、さうして日本のものといふよりは寧ろ十九世紀あたりの舶來の氣色をも想見せしめた。君が日本文學の何ものの傳統にも殆ど囚へられなかつたのは、君にとつては知らぬが幸であつたとも云へよう。それだけにほしいままにも樂しめた自由さであつたか。私のごときは古典と先人の重壓の下に、苦しみに苦しみとほして來た。結縛と不自由との中にあらためて己れを鍛錬し、己れを解放することに惱みぬいて來た。何れが幸であり禍であるかといふことはその人の分にある。私は私でよく、君は君でよろしかつた。それにしても、君は藍色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人として、この祖國の民俗とは甚しくかけはなれた海の外から、提琴を爪ぐつて來たかのごとくにその詩句を操つた。近代日本の口語體に移したよき飜譯調のやうでもあり、血脈の相違をも疑はせた。君は易々として樂しかつたであらう。その爲にまた、日本の言葉に新味の感情を附與し、香色の排列を光闡した。

 君の詩が如何に幻想に豐かであつたかといふことは、日常に君を夢遊せしめた詩魂の音樂に就いて聽けばよき理解が匂ふであらう。ただ君の韻律の流動にはさして多種多樣の變化は看られなかつた。概して相似の音波の連續であり、音の強弱が度に於てほぼ同じく絶えず遠心的に蒼茫とした空氣を顫はして行つた。内に寵る極度の緊縮や、詩型の整齊や、時にとつての動顚や、野性の咆吼、人間群落の亂聲といふ風のものは、その詩興の五線譜には綴られなかつた。少年の羞耻にも近い潔癖や、厭人的孤高性や、また穩かな女人の白い手の香炎にも似た性情が、さう常にあらしめたであらう。
 君はまことに詩に隱れて、ただ獨の幻感と連想とに昏醉した人ではあつた。此の『藍色の蟇』の詩は、君が作るところの一部の選抄にしか過ぎない。その類型の爲に、現像の稀薄、或は喪れた想像の翼の爲に、或は餅菓子を食べ過ぎたが爲に、そのまま筐底に葬られたものは實に顆しい蝶の數に堆積した。君は君の藍色の夜を、ただに黄いろいラムプの中にあつめて、詩を吐き、炎を瞬かしてゐればよかつたのだ。
 或は、そのせいでもあつたか、晩年にはいくらか根が疲れ、聲色の衰へと香の火の白いくづれとが見えないではなかつた。何にしろ初期の詩がすぐれて妖しく炎を點してゐる。

 大手君。
 君の情感は翼の生えたわかわかしい黄ろい薔薇の花のやうであつた。色も香ひも、その繞りの空氣もすべてがゆらゆらと新らしく、そこには古めかしい何の文獻の關りもなかつた。再び云ふが、君の言葉は君によつて選まれたところの此の近代の日本の言葉のみであり、その口語脈の詩句のひびきは君自身に内より外へ釀し出された薰りの音波であつた。これほど物の見事に我が古典を雲霧の彼方に忘却し得た今日の詩人は他にはあるまいと思はれる。強ひても赤外線によつてでも、原始日本を身の眞近に映寫しようとする私ごときにとつては、全く不審にすら思はれる。
 詩人の一生にも風雪と境涯の推移によつて、幾許かの轉身はある。この私の詩風にも、君が觀られたとほり幾度かの變貌がひとりでに來た。然るに君はその背中の美しい翅ばたきを休止するまで、失張り同じ語韻の同じ姿體の持主であつた。而もその精神に於ては永遠の浪曼人(ロウマンチスト)であつた。
 君がありのままの自然の觀照家でもなく、活きた人生の現實主義者でも末世の思想家でもないといふことは、君の詩人としでの價値を上下する理由にはならぬ。君は君としての個の匂のふかい世界を夢から夢へと織り續けて行つたのだから、それでよいではないか。
 思ふに君の詩は君の謂ふ黄ろい馬の耳元や、柔かいカンガルウの編靴の傍、或は陶器製の靑い鴉のまへ、あかい假面の上の雜草の中、或は月を眺むる靑狐の足のうしろ、白い髯を生やした蟹のかたへ、さうした位置に、君と同じに心を据ゑて、それらの一句一句を味わふべきものかと思はれる。君の怪奇な曼陀羅圖は濛々とし惱氣と、さだかならぬ啾々たる鬼哭とを以て私たちを吸ひ寄せる。一氣に、或は東洋風の簡約に、頸根つこや生膽をがしと摑むそれらでもなく、徹りきつた直觀で錐揉みに揉むそれらでもないやうである。ともすれば放恣に空想の蛾が鱗粉を散らし、金の吹雪が卵をたぎらせる。どうともせよと焦燥したくなつても中々に見えて來ぬ幽靈の手ぶりもあれば、さだかにはわきがたい銀の捕繩の響もする。君は獨だけで考へ、獨だけでつぶやきつづけた。
 しかもまた、解體しつつある縞蛇の塊りとも、私は君の鬱憂の匍匐狀態を云つたが、角の神經を持つた雲丹型の紅い球形の鬼が君の腦髓には棲んでゐたらしい。君の蛇はぬらぬらとしても温かく、君の鬼は陰鬱でも明るくしやくつてゐた。南方の詩であり、北方のそれではなかつた。全く、あの色も響も無くしんしんと押し迫る寒波の凄まじさは、たとひ妖氣の獵奇者の君にも堪へられなかつた筈だ。眞空鐘の中では音韻が微動だにせぬがごとく、光と薰と空氣無しには、君は一瞬も生きられさうになかつた。
 それであるから君は決して惡の詩人ではなかつたのである。

      4

 大手君。
 君の風貌に就いては、君の詩を識つて以來、十數年の後に至るまで、私は全く知るところがなかつた。それは此の集の君のおぼえがき「孤獨の箱のなかから」に君が書かれたとほりであつた。君はその永い歳月の間にただの一度も私を訪れては見えなかつた。
 ただ、私は、君より入手するや詩と書體をとほして、私の恣な想像を樂しむのみであつた。初めて君の魔女作「藍色の蟇」を發見した當時の私の悦びは、今にしても光りかがやく私の頰を感ずる。室生、萩原兩君の出現に私の眉もうちあがつたあの『朱欒』の開花時が思ひ出される。
 吉川惣一郎、その人の名を以て、私に寄せられた折々の書簡は、大手拓次となつても、まだ秋の香爐の煙のやうに匂はしく、何か内氣な女手のやうな色めきや優しみが殘つてゐた。その細みの圓い曲線に縺れた涙ぐましい風のそよめきが時として些か私を戚傷の囹とした。謂ふところの未知の戀人のやうに私を遠くより觀る瞳の若さが偲ばれた。

 大手君。
 さうであつた。たまたま詩誌『近代風景』の創刊に際して、谷中天王寺の私の假寓に、君と初めて會見したのはまさしく大正十五年の冬であつた。
 私は驚いて目を瞠つた。
 蓬々として捲いてちぢれた肩をうつ長髮、鼻も高く、鬱屈した逞しい顏、筋骨の嚴つい中年の偉丈夫が、何と私の前に端坐してゐたのではないか。豫想とは全くちがつた、諧謔して云へば歷山大王のやうな風姿の君ではあつた。
 それにも關らず。君はまた寡默の、極めて羞かみ屋の、切長の眼の潤んだ、事ごとに頰を赤める少年の純情を以て、おどおどとした、その詩や書體に見るやうな人でもあつた。
 私たちは何を語つたであらう。おほかたはあの墓地の落葉のやうに記憶も飛び散つて了つたが、雲は細く、玉蘭の高い枝には朱の寂びた奇異な瘤形の果の幾つかが、くくれて、共に歩いて見上げた、私の眼底に灼きついてゐる。

 君の詩に就き、性情に就き、私生活に就き、樣々に思ひ惑つた私は、君の死後に、それとなく聽きもし、日記類なとも散見もして、漸くに氷釋した數々があつた。
 書いてもいいかと思ふが、君の詩はまさしく、君の鬱悶が、神經が、生活が書かせたものにちがひなかつた。異常の君にしてよくもライオン齒磨の廣告部に二十年近くも日々勤務しおほせたと思へるが、それ故にまた、牛込袋町の下宿の一室に机の向も變へずに、夜々を坐りとほした忍苦と奇怪な不精とを肯き得るのである。
 限りのない戀慕と詩と空想と美の耽溺は、君の命を糸で編んだラムプの蕊のやうにぢりぢりと縮めては行つたらうが、君自身には、それが炎の祭でもあり、好もしく吸ひあぐる紫の燈油のにじみでもあり、如何ともするすべはなかつたであらう。
 書いてはわるいかとも思ふが、君の詩の世界の相手は、多くは君ほどの優れた詩人の戀する相手としてはあまりに價値の無い市井の少年少女であつたらしい。君の書き贈る切々とした戀の詩の美しさや消息の細々しさに對して、手まはり香料や化粧液を嗅ぎ分けるほどの敏感さを果して彼等は所有してゐたであらうか。君の心の鳴咽はかの母韻のごとくに、常に子韻のかげに隱れて五色の光線を顫はしたが、彼等は遂に知るところも啄むところも無かつたらしい。綿々たる情熱を祕めた幽婉な愛の言葉の末には、必ず「朝な朝な、その淨き齒を磨きたまへかし。」と書き添へることを忘れなかつた君の純情はさることながら、如何ほどに彼等の口中は牝牛の舌や腐れた赤茄子からの唾液を厭はしく淸掃したであらうか。
 いつもいつも恐ろしい幻滅が、君を蝕ませたといふそのことそれ自らが、非現實な幻想家の收穫すべき冬の日の柿の蔕ではなかつたか。
 永い間の君の獨身が、夢にのみ華やかなその木の根の石の上には、いつもいつも怯儒な蒼い影ばかりをこびらつかせたのだ。

 大手君。
 許してもらへるならば、私は、君の詩生活の豐潤と、虛妄とも見えて君には眞實であつた香炎の羽ばたきとを、更に裏書すべき詩文集の一卷を編纂さしてほしいと思ふ。詩の殘闕と、日記、書簡、その他の類聚である。此の一卷こそ、君の裸形の背後から射透す紫外線の火花でなくして何であらう。
 私は密かに見た。君が戀する女の足に就いてあの幻感と連禱とを恣にした日記の詩文を、さうして、その二つの白い素足をそれぞれの中心として縱横十方に放射する理性と神經と情念との道路圖を。
 私は知つてゐる。私の義弟山本鼎の近親であつて、同じく畫家であり、未完成ながら天才の俤を多分に示した村山槐多の遺稿集『槐多の歌へる』のあの暴露の凄まじさを。おそらく君のこれとは、色こそちがへ、同じ光度に於て世を驚倒せしめるであらう。

      5

 大手君。
 私は君に就いて些か鵞鳥の筆を以てして書き過ぎたかもしれぬ。切口が今でもきちきちするこの羽根で。
 しかし、君はきつと私が君の詩をかう觀て讚歎もし微笑もしてゐたことを知つてゐられたにちがひない。それほどの知己の間の私たちであつたから。君の死後に私が處置すべきことの何であるかも私は知つてゐる。

 昭和九年四月十八日、茅ケ崎の南湖院からの急電を受けて、私たち夫妻が駈けつけた時は、すでに君の命脈は止つてゐた。その一二年がほどは、君からの消息も無く、病患に就いても、再度の轉地療養のことも、少しも知らなかつた私たちであつた。
 春と言つても、雲と波の音は薄ら寒く、風は砂をけぶらして、したたか群生の小松に吹きあげてゐた。
 しみじみと合掌しながら、私は君の死顏の高貴さに撲れた。透きとほり、淨く緊り、蒼白く光をさめ、日の長い薄明の中に、君は幽かに仰向いてゐられた。
 愈々起たずと知つて、白秋この私には必ずその臨終後の通知を打電(う)つやうにと、そのただ一人の附添ひの看護婦に密かに云ひ含めてあつたと聽いた。
 さうであつたか。
 私は君が、大福餅のみを、その少しく前よ朝夕に一つづつ幼童のごとく嗜好されたといふことも聽いた。
 電燈が黄ろく點つた。コードの紐の影がいくらか搖れたやうであつたが、君の閉した眶には何の微動も無かつた。

 二十日、故郷の上州磯部へ君の遺骨が還られる日、私は、室生犀星、萩原朔太郎、大木惇夫諸君その他私の周圍の新人達と上野驛に謹んで參集した。詩の交友も殆どそれだけに限られた君であつた。發車の汽笛が鳴り、私たちは聲を呑んで禮拜した。私の腸はちぎれさうになつた。

 大手君。
 君は生前に、此の新詩集『藍色の蟇』を自身の手で明るく上梓するよい機會とよい條件に惠まれなかつた。大正の十五年に一旦編纂して、卷末のおぼえ書を書き添へまでした君ではあつたが、委托された私ではあつたが、二人の前にはただに大きな障碍のみが暗い翼を張つた。今漸くにして、ここに、その後の詩品を逸見君と更に收錄し補綴して、この出版の日の目を見ることとなつた。しかし、君の圓寂後、その多年の事務的勤勞の餘情として得られたものから、乃ち死後の君自身によつて刊行されるのである。謝するに言葉の無い私たちを君はまことに、虔ましく、弱々と微笑されてゐるであらう。
 それでよいのであらうか。否々、君にはもつともつと世の耀かしい酬が莊巖されねばならぬ。
 君はまことに、明治大正昭三代に亘つての數少い優れた詩人の中の一人であつた。   昭和十一年十二月十五日拂曉

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 由比濱

   由比濱

この邊り、すべて由井(ゆゐ)の濱(はま)といふ。こゝに八幡宮の大鳥居あり。御本社まで、この所より十八丁あり。昔、新田義貞(につたよしさだ)、相模入道をほろぼしける時、稻村が崎の海をわたりたりといふ。七里の濱とこの由井の濱の間(あいだ)なり。つねに漁師(れうし)、この所にて網をひき、漁(りやう)をなすところにて、皆、漁師のみ軒をならべて、生業(すぎわい)をなす濱なり。
〽狂 そりたての
あをさか
   やきと
 見ゆるかな
 なみたいらけき
    かみゆいの
        はま
「なんと、この海といふものは、たいそうなものさ。世界中でとる魚(さかな)も大きなことだが、つきるといふことは、ない。海も大きいが、魚にも大そうなものがある。儂(わし)が金毘羅(こんぴら)へいつた時、肥前の船が、
『先へはゆかれぬ。これは、とんだ所へきあはせた』
と船頭がいふから、
『なぜだ』
ときいたら、
『あの向かふを見なさい、海が一面に眞つ黑になつたは、今度、肥前五島浦(ひぜんごとうのうら)の鯨(くじら)の所から、熊野浦(きまのうら)の鯨の所へ嫁入りがゆく、その行列で、長さが三十間も五十間もある鯨が、幾らも、幾らも、つゞいてとほることだから、この間(あいだ)から、毎日、船の往來がとまつたといふことだ』
といふ。わしも船端(ふなばた)へ出て見たら、むかふの海の中がまつ黑になつて、大きな鯨が、ぞろぞろとならんでとほつたが、先(さき)へいつた鯨が、
『どうだ、後(あと)の鯨が埒(らち)があかぬ。はやく、こぬか。なにをしているのだ』
と、その鯨が、後(あと)へふりかへつて見たばつかりで、其処(そこ)にいた小船(こぶね)が三艘(ぞう)ばかり、どこへか、はねとばされて、なくなつたから、儂の船もそろそろ、脇へにげましたが、あんなめづらしい事は滅多に、ござるまい。」
「なにさ。鯨がそんなにめづらしいものか。儂が此間(あいだ)、江戸の麹町(かうじまち)で大きな鯨を見ました。手足(てあし)をしばつて大道(だいどう)へほふり出してあつたが、たいそうな物ものであつた。」
「なにをいふ。鯨に手足があるものか。」
「あるとも、あるとも。貴樣のいふは海の鯨、儂のいふのは、山鯨(やまくじら)でござる。」
[やぶちゃん注:「十八丁」約一九〇〇メートル。現在の直線距離実測で約一六〇〇メートルでやや短いが、この場合の「この所」とは当時はこの大鳥居(三の鳥居。現在の一の鳥居)の直近に広がっていた由比ヶ浜からを広義に起点としていると考えれば、逆に正しい。]
「そりたての あをさかやきと 見ゆるかな なみたいらけき かみゆいのはま」鶴岡氏は、
 そりたての あをさかゆきと 見ゆるかな なみたいらけき なみゆいのはま
と判読しておられるが、これでは意味が採れないように私には思われる。この狂歌の眼目は浜の名称である「由比(ゆひ)」を「髪結(かみゆ)ひ」に掛けて、その内海の穏やかな紺碧の風情を、剃りたての月代(さかやき)の青さに譬えたところにあると私は読む。
「山鯨」猪のこと。肉の食感が鯨肉に似ていることに由来するが、「薬食い」と同様、獣肉食の禁忌を犯すために(この時代に鯨は哺乳類として認識されていないので問題がない)、世間を憚って隠語でかく呼んだ。……私には不思議な記憶がある……恐らく三才位の記憶だ……私は左肩関節の結核性カリエスを患っていた。母と一緒に新宿の東京女子医大に通っていた。駅から病院へは飲屋街の路地を抜けて行くのであったが、そんなある日、朝のそこを通ると、飲み屋の前に、大きな死んだ、手足を縛られた猪がまるまる一匹、横たえられていた。――私は実は豚や猪が、今も大好きだ。動物としても、また無論、食材としてもであるが――私は近づいてゆく……そうして……その冷たくなった猪の腹のお尻の辺りを……指で突いている……その俯瞰のショットと同時に……その「近づいてくる三才の少年の私」と……その「背後に微笑んで立っている二十九の若い美しい母」とを……道路からアオった映像も同時に蘇るのだ――この話は亡き母が、よく私との思い出として語っていたものだったから――私の記憶が操作されてそうした映像演出がなされているのであろうか……でも……もしかすると……「手足をしばつて大道へほふり出してあつた」、あの哀れな猪は――実は私だった――のかも知れない……ねえ、母さん?――]

地面の底の病氣の顏 萩原朔太郎

 地面の底の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ、
さみしい病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の莖が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し、
冬至のころの、
さびしい病氣の地面から、
ほそい靑竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顏があらはれ。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の底本の校訂本文。実際の「月に吠える」初版では、二箇所の「萌」は「萠」、「ふるへ」は「ふるえ」である。また、「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)・「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月第一書房刊)・「現代詩人全集」(昭和四(一九二九)年十月新潮社刊)・「萩原朔太郎集」(昭和一一(一九三六)年四月刊新潮社新潮文庫版)では、

 地面の底の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ
さみしい病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみに
うらうら草の莖が萌えそめ
鼠の巣が萌えそめ
巣にこんがらかつてゐる
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し
冬至のころの
さびしい病氣の地面から
ほそい靑竹の根が生えそめ
生えそめ
それがじつにあはれふかくみえ
けぶれるごとくに視え
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに
さみしい病人の顏があらはれ。

と、多くの読点が除去されている。私はこの読点除去を採らない。朔太郎は仮名遣や語彙に拘った(但し、誤字や誤用も多い)以上に、私は彼の句読点が、彼の詩想の内在律を表現するための、極めて重要な「装置」として用いられていると考えているからである。]

白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎 (「地面の底の病氣の顏」初出形)

 白い朔太郎の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ、
白い病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみで、
うらうら草の莖が萠えそめ。
鼠の巢が萠えそめ、
巢にこんがらかつて居る、
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し、
冬至のころの、
さびしい病氣の地面から、
ほそい靑竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかく見え、
けぶれるごとくに見え、
じつにじつにあはれふかげに見え。

地面の底のくらやみに、
白い朔太郎の顏があらはれ
さびしい病氣の顏があらはれ。

[やぶちゃん注:『地上巡禮』第二巻第二号 大正四(一九一五)年三月号所収。後に「月に吠える」の巻頭を飾ることになるこの原形が「朔太郎」という詩人の名をそのままに詠んでいたことを知る者は、恐らく朔太郎のファンであっても思わず、たじろぐものと思う。朔太郎はやはり、只者ではないのである。――実は前の「竹」の注で述べた、『真に詩的な世界に遊び得る感性を持ち、青春そのものが、否、人間存在そのものが、実は反社会的非社会的性質を帯びていることを敏感に嗅ぎ分けることの出来た少数の生徒の誰彼』が、まさに私の朔太郎の「竹」の、初出版及び決定稿版のブログでの公開を見、本詩をリクエストして来た。これはもう、即座にせずんばならず――]

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 竹

光る地面に竹が生え、
靑竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纖毛が生え、
かすかにけぶる纖毛が生え、
かすかにふるへ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
靑空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。「月に吠える」冒頭の「竹とその哀傷」の四番目に位置する、恐らく、最も人口に膾炙する萩原朔太郎の「竹」の詩である。「竹とその哀傷」には、この一つ前、三番目にやはり、「竹」という同題の詩が配されているが、かつて高校の国語教科書などに採録されたのは、圧倒的にこちらである。私も何度か教授したが、私は好きな詩であるだけに、授業するのが嫌だった。美事に病的なイメージは、健全なる高校生の多くには――圧倒的に――変態的な詩人としての朔太郎像を植え付けるのに役立っただけだからである。――真に詩的な世界に遊び得る感性を持ち、青春そのものが、否、人間存在そのものが、実は反社会的非社会的性質を帯びていることを敏感に嗅ぎ分けることの出来た少数の生徒の誰彼だけが――この詩を愛した――]

竹 萩原朔太郎 (初出形)

 

 

 

新光あらはれ、
新光ひろごり。

光る地面に竹が生え、
靑竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纎毛が生え、
かすかにけぶる纎毛が生え、
かすかにふるゑ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、
靑空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

祈らば祈らば空に生え、
罪びとの肩に竹が生え。
          ――大正四年元旦――

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号 大正四(一九一五)年二月号所収。「纎」及び「ふるゑ」はママ。人口に膾炙した次に示す「月に吠える」版とは大きく構成が異なることに着目したい。詩全体が教会の額縁の中にある。それは、丁度、あのタルコフスキイの「ノスタルジア」のエンディングのようである。イタリアはトスカーナ、シエナのサンガルガノ礼拝堂跡の中に、ロシアの田舎屋が出現し、そこに、温泉を蠟燭を灯して渡りきることで地球を救って斃れた「狂人」ゴルチャコフが、同じ志半ばに焼身自殺した「狂人」ドメニコの身代わりの犬ゾイとともに地に「根を張って」居る――。初出形はその額縁のカトリック的響きによって、聖壇画の趣を持っていて、知られた「竹」の先鋭化した「病性」とは全く異なった「相」を呈していることに着目されたい。私はこれはこれで、非常に好きである。]

耳嚢 巻之六 寄雷狂歌の事

 寄雷狂歌の事

 いろいろ狂歌を興じ詠(よみ)しに、寄雷戀といえる題にて或人詠ぜしが、秀逸なりと、人の語りぬ。
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌から俳諧、また狂歌で連関。掛詞と縁語を駆使した超絶技巧的艶笑歌である。
・「寄雷狂歌」は「雷に寄する狂歌」と読む。
・「寄雷戀」は「雷に寄する戀(こい)」と訓じているか。それとも「キライレン」と音で読んでいるか。前者で採った。
・「日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま」分かり易く、仮名遣いを正して書き直す。
 日頃(ひごろ)からねんごろねんごろと鳴りかけて落ちさうにして落ちぬ神樣
「ねんごろねんごろ」は「懇ろ懇ろ」と雷鳴の「ごろごろ」を掛けて、前の「日頃」の「頃(ごろ)」を引きつつ擬音を響かせている。更に「ねんごろと鳴り」は「懇ろと成る」(親しい関係になる)の意を掛ける。「頃(ごろ)」「(ねん)ごろ(ねん)ごろ」「鳴る」「落ちる」「落ちぬ」「神」(雷神)は縁語。最後の「かみさま」は実は雷「神樣」と人妻の意の「おかみさん」(この語は自分以外の妻をも言う)の意の「上樣」を掛けてあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川氏の注には、『意に従いそうに見えて従わない人妻の意』とする。即ち、「落ちる」も雷が「落ちる」に、所謂、「貞淑な彼女も手練手管に遂に落ちた」の「落ちる」、強く迫られて遂に相手の思い通りの状態になる、説得などに負けて相手に従う、の「落ちる」が掛けられている。
――日ごろから……ねんねんごろごろ……と、雷さまの鳴るように、如何にもねんねんごろ、懇ろになり掛けておりながら……これ、落ちそで、落ちぬが……雷(かみ)さまと……恋しい、人の、おかみさん――

■やぶちゃん現代語訳

 雷に寄する狂歌の事

 いろいろな狂歌が興じて詠まれているようであるが、その中でも「雷に寄する恋」と申す題にてある人詠じたものが、これ、甚だ秀逸であると、さる御仁の語って御座った。その歌、
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十(一九五五)年

昭和三十(一九五五)年

秋山の石曳く蟻に聲あらば

みどり子を深き落葉の眠らしめ

鷄頭の十字架の數(かず)月照らす

光るもの遠く小さし稻を刈る

雲に毒刈田に燃えて火が怒る

[やぶちゃん注:「雲に毒」とは多量の放射性物質、所謂、死の灰を含んだ雲の謂いであろう。第五福龍丸事件で知られるビキニ環礁での米軍の水爆実験は前年の一九五四年三月一日に行われた。以下の「雨に毒」の句ではっきりする。]

廻る寒し子の作品の地球儀は

[やぶちゃん注:「廻る」は手製の地球儀であるから「まわる」と読みたい気がする。韻律がぎくしゃくしているが、私は一読、忘れ難い。私には三鬼のかの名句「算術の少年しのび泣けり夏」が自動作用としてオーバー・ラップするからである。]

雨に毒拔け毛を木の葉髮などと

針金となり炎天のみゝず死す

炎天の暗き小家に琴の唄

向日葵の金の傲岸ちよんぎり插す

老斑の手を差し入れて泉犯す

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十九(一九五四)年

昭和二十九(一九五四)年

枝々に燃ゆる寒星子守唄

雀の子裸で梅雨の溝流る

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十八(一九五三)年

昭和二十八(一九五三)年

梅雨晴れ間をんな傾きくしけづる

鯉うねり池の夏雲成りがたし

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十七(一九五二)年

昭和二十七(一九五二)年

春の嵐枝折れ飛んで墓を打つ

柿を食ふ眞顏見てゐし夜の鏡

一言芳談 九十二

   九十二

 敬佛房(きやうぶつばう)云、遁世といふは、稠林(てうりん)に竹を引くがごとく、物にかかへられぬなり。
 同人上洛の時、覺明房(かくめいばう)、證蓮房に語り申して云、むかしの後世者(ごせしや)の振舞(ふるまひ)と、今の後世者の風情(ふぜい)とはかはりて候ふなり。昔の聖どもの沙汰しあひて候ひしは、其人は後世を思ふ心のあるかなきかの體(てい)にてこそ候ひしが、今は學問し候ふべき器量などのあるを、後世者のさねと申しあひて候ふなり、云々。敬佛房の云、後世者のふりは、大にあらたまりにけるにこそ。

〇稠林に、行事鈔云、但以其心邪曲難可拔濟。如稠林曳曲木。故不得入佛法中。
  資持記云、稠林曲木喩其難拔、稠即密也。
〇物に、物とは世上の是非得失の事なり。(句解)
〇上洛の時、高野山より京へのぼられしなり。
〇むかしの後世者(ごせしや)の振舞、むかしは道心の有無を沙汰し、今は學問の利鈍のみを論ずるなり。これ、本を忘れて末をきそふ。佛の御心にたがへる事なり。
〇後世者のさね、天性(てんせい)のその骨(こつ)を得たる人といふ義なり。當世(たうせい)の僧を見るに、師匠も親も道心をおこせとをしへず、同學の僧も名利(みやうり)をのぞむものばかりなれば、後世門の事はつやつやしらず。

[やぶちゃん注:Ⅰでは、二段が分離されて、順序を逆にし、「用心」の中に、十四条を挟んで入れられてある。
「稠林」稠林は樹がよく繁茂している林のことであるが、仏教では、世俗の煩わしい営みが林が茂るように多く盛んなさま、単に在家の生活のことを指す場合が多い。しばしば「塵労稠林」として、衆生や行者の正しい生活や修行を妨げる煩悩が多くあることを密林に喩えていう。この一文はそうした譬えを踏まえて、
――遁世とは、邪見煩悩に満ち満ちた毒虫と饐えた臭気とが入り混じる密林の中に、忽然と、香しい清風が吹き、月影彩香な閑かな竹林を現出させることだ、如何なる周囲のおぞましい対象に抱き抱えられてはいけない――俗臭紛々の俗世の中に清浄隠棲の結界を出現させてこそ、まことの遁世である――
と言っているのと私は読む。因みに、Ⅱの大橋氏の訳は『遁世とは、ちょうど繁茂している林の中で竹を引っぱり歩くようなもので、物に拘束されないことです。』であるが、浅学凡愚の私には、この訳、全く腑に落ちない。
「覺明房」覚明房長西(ちょうさい 元暦元(一一八四)年~文永三(一二六六)年)は法然晩年の直弟で、浄土宗九品寺流の祖。法然が廃捨した諸行についても本願の行に再採用した。伊予守藤原国明の子。建仁二(一二〇二)年に出家して法然の弟子となる。元久元(一二〇四)年の二十一歳の時、法然の「七箇条起請文」に署名している。建永2(一二〇七)年には流罪となった法然に従って讃岐へ赴き、建暦元(一二一一)年、法然とともに帰洛した(法然は翌年入寂)。その後、道元に会って長く禅を学ぶなど諸方に遊学、その教学の裾野は広かった。後も講経と著述に専心、宝治二(一二〇八)年に六十五歳で「総別二願抄」を撰し、弘長元(一二六一)年、七十八歳の折りには住していた洛北の九品寺に住して「観経疏」を講義している(以上は「浄土宗宗務庁」のHP内の「浄土宗大辞典」よりの引用からの孫引き。リンク連絡の要請明記があるのでリンクしない)。
「證蓮房」不詳。「一言法談」の伝本によっては「昇蓮房」ともする。Ⅱで大橋氏は、『伝不詳であるが、仁和寺に住した人で、のち明遍と乗願房の弟子になっているから、当時の一般的風潮からおして、真言から念仏門に転向した人と考えられる』と注されておられる。
「さね」「さね」は「實(実)」で、ある対象が発生する原初の場所、根本の意。
「行事鈔云……」以下を、Ⅰにある訓点を参考に書き下す。
 「行事鈔」に云はく、「但し、以(おもんみ)るに其の心、邪曲にして拔濟(ばつさい)すべきこと難し。稠林に曲木を曳くがごとし。故に佛法中の入ることを得ず。」と。
 「資持記」に云はく、「稠林曲木とは、其の拔き難きに喩(たと)ふ、稠は、即ち密なり。」と。
「行事鈔」唐代の南山律宗の祖である道宣(どうせん 五九六年~六六七年)の著わした「四分律刪繁補欠行事鈔」であろう。
「資持記」宋代の律僧元照(がんじょう 一〇四八年~一一一六年:南山律の允堪(いんたん)の起した会正(えしょう)派に対して資持派を立てた。)の著わした「四分律行事鈔資持記」であろう。]

2013/02/20

教え子からプレゼント!!!

芸術作品の修復士を目指している教え子が、今、フランスからプレゼントして呉れた僕のいっとう好きなシュールレアリスト、イヴ・タンギーの一枚だああっつ!

quatre heures d'été, l'espoir, 1929

夏の4時頃、希望、1929


58880_413819878709582_1320371564_n

異端信條 萩原朔太郎 (未発表詩篇)

 

 異端信條

 

おれは現時の思想界で最も禁物視されて居るセンチメンタリズムの信徒だ

 

技巧に眼をくれるな、生命を見ろ、生命とは眞實の有無だ

 

夢を見ない少年は不具者だ、少年の生命は戀とロマンチツクだ

 

自我の眞實のために時代思想に反抗するものは眞の勇者だ

 

何物にも囚はれるな

 

視えないものを見ようとするのは好い、視えないものを見えるふりをするのは惡い

 

心はいつも貴族であれ、餓ゑても賤民の眞似をするな、乞食をしても土耳古帽子を被れ

 

詩と音樂とは貴族(心靈上の)の遊戲である、斷じて賤民の汗くさい手に觸れさせてはいけない

 

所謂、生活とは遊戲だ、所謂、遊戲とは生活だ

 

地上に於て最も神聖なるものは遊戲である、所謂生活ではない、生活とは賤民の職業だ

 

藝術のための藝術であれ

眞實のための藝術であれ

 

おれは異端だ

汝の眞實のためにも、異端であれ

 

[やぶちゃん注:底本は昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集第三巻の「未發表詩篇」(四一二~四一三頁)の校訂本文に拠った。当該本文には、下に全集編者が校訂を施す前の当該作品の原稿が活字化されているが、それを以下に示す。誤字や歴史的仮名遣の誤り及び句読点等も総てママである。

   *

 

 異端信條

 

おれは現時の思想界で最も禁物視されて居るセンチメンタリズムの信從だ

天才の病氣は自惣れだ、自惣れのない人間に天才はない

 

枝巧に眼をくれるな、生命を見ろ、生命とは眞實の有無だ

 

夢を見ない少年は不具者だ、少年の生命は戀とロマンチツクだ

 

自我の眞實のために時代思想に反抗するものは眞の勇者だ

 

何物にも囚はれるな

 

視えないものを見やうとするのは好い、視えないものを見えるふりをするのは惡い

 

心はいつも貴族であれ、餓えても賤民の眞似をするな、乞食をしても土耳古帽子を被れ、

 

詩と音樂とは貴族(心靈上の)の遊戲である、斷じて賤民の汗くさい手に觸れさせてはいけない

 

所謂、生活とは遊戲だ。所謂、遊戲とは生活だ

 

地上に於て最も神聖なるものは遊戲である、所謂生活ではない、生活とは賤民の職業だ、

 

藝術のための藝術であれ

眞實のための藝術であれ

 

おれは異端だ

汝の眞實のためにも、異端であれ

 

   *

特に着目すべきは第一連に続いて(若しくは二連目として書いたのかも知れない。但し、底本では行空けはない)にある以下の抹消である(誤字と思われるものを補正したものを示す)。

   *

天才の病氣は自惚れだ、自惚れのない人間に天才はない

   *

なお、本詩篇は、推定編年編集になる底本の、総計一五九篇ある未発表詩篇の内の「散文詩・詩的散文」の冒頭から四篇目に配されてあるので、「月に吠える」時代の創作と推定してよかろう。

 

 また、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、『異端信條 (本篇原稿二種四枚)』として、無題の一種が載る。以下に示す。以下、各条の一フレーズが二行目以降に続く場合は、底本では一字下げとなっている。

   *

 

  ○

 

天才の病氣は自惣れ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]だ、自惣れのない人間に天才はない、

枝巧[やぶちゃん注:ママ。]に眼をめくるな[やぶちゃん注:ママ。]、生命を見ろ、生命とは眞實の有無だ

 

夢を見ない少年は不具者だ、少年の生命は戀とロマンチツクだ

 

自我の眞實のために時代思想に反抗するものは眞の勇者だ

 

何物にも囚はれるな

 

見えないものを見ようとするのはいゝ、見えないものを見えるふりをするのは惡い、

 

心は いつも心はいつも貴族であれ、餓え[やぶちゃん注:ママ。]ても賤民の眞似をするな、

 

藝術詩歌と音樂は貴族の遊ギである、決して賤民の汗くさい手にふれしむべからずさせてはいけない、

 

眞實のない人間には他人の眞實が解らない、

 

所謂生活とは遊ギだ、所謂遊ギとは生活だ

 

遊ギが地上に於て最も神聖なるものは遊ギである、所謂生活ではない、

 

藝術のための藝術であれ、

眞實のための藝術であれ

 

おれは異端だ、

汝の眞實のためにも、異端であれ

 

   *]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十六(一九五一)年

昭和二十六(一九五一)年

滿月の荒野ますぐに犬の戀

大旱のきりぎし海へ砂こぼす

産みが打揚げしもの焚く熱砂の上

旱り坂牛の圖體登り切る

月も旱り鎖の端の犬放つ

瀆れし夜明けゆく岬松の芯

麥秋や帽燈弱く集ひ來る

疲労困憊トラウマ増大

9時から1時間待半待ちで税務相談を受けたが、3分の解説でかえって頭がまっ白になり、最後の還付金計算が、ヘンな数字にしかならず、情けなくもまた、並んで待つこと1時間。やっと提出出来た時は既に12時を回っていた。精紳疲労メーター一気に加えて、こういう「社会的人間」であることへの忌わしい憎悪にも等しいトラウマが増大した。
……しかしこれでとりあえず、カタは就いた。……
……「野人」の残すところの飛び越えねばならぬトライアルの直近の障害物は、一つのみとなった。――着実に悪化しつつある糖尿病の数値とどう対峙するか――だけである。

税務署へ突撃

もう面倒だ。厭なことは逸早く終わらするに限る。これより、鎌倉税務署に突撃する。

耳嚢 巻之六 名句の事

 名句の事

 いつの頃にやありけむ、八月の良夜、諒闇にて洛中いと淋しかりしに、攝家宮方の内と聞(きこえ)しが、御名はもらしぬ、
  普天の下そつと月見るこよひかな

□やぶちゃん注
○前項連関:地下の狂歌から堂上の俳諧で連関。
・「諒闇」天皇・太皇太后・皇太后の崩御に当たって喪に服する期間。「諒」は「まこと」、「闇」は謹慎の意、「闇」は「陰」と同意で「もだす」と訓じ、沈黙を守るの意。
・「しもらぬ」底本「しもらぬ」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「普天の下そつと月見るこよひかな」書き直すと、
 普天(ふてん)の下(もと)そつと月見る今宵かな
「普天」は天下。「そつと」は副詞の「そっと」に全国土を意味する「率土の浜(そっとのひん)」(元来は陸地と海との接する果てで、「詩経」の「小雅 北山」に基づく語)を掛けた崩御の追悼吟。
――天子さまのものであらっしゃいます……この大八洲(おおやしま)にある民草は……これ、皆、今宵、黙したままに……そっと……天子さまの率土(そっと)の浜(はま)から……淋しく中秋の名月を見上げるばかり――

■やぶちゃん現代語訳

 名句の事

 いつの頃のことで御座ったものか……八月の中秋の名月の宵のこと、丁度、諒闇にて、洛中、大層淋しく御座った折りのこと、摂関家か宮方の邸(やしき)での吟詠とも聞き及んで御座るが、御名(おんな)は聴き漏らして御座るが、その御詠の発句とのこと、
  普天の下そつと月見るこよひかな

一言芳談 九十一

   九十一

 願生房(ぐはんしやうばう)云、其昔、明遍上人にあひたてまつりて、十八道傳受の次(ついで)に、字輪觀可奉受(じりんくはんうけたてまつるべき)よし所望の處に、上人、示(しめして)云、學生(がくしやう)智者、なこのみ給ひそ。釋迦佛(ほとけ)の因位(いんゐ)にも、學生智者にてはましまさず。爲半偈投身(はんげのためにみをなげ)、爲虎捨命(とらのためにいのちをすつる)道心者にてこそ、ましまししか。然れば、深法(じんぽふ)は無用の事なり。道心こそ大切なれ、云々。是を承つて後、輪觀雖被許之(りんくわんこれをゆるさるるといへども)、不可奉習(ならひたてまつるべからざる)志相催したりき、云々。

〇十八道、眞言初入(しよにふ)の行法なり。印明(いんみやう)の數にて名(なづ)く。
〇字輪觀、阿字觀(あじくわん)のごとく、圓相(ゑんさう)の内に梵字を觀ずる事なり。
〇爲半偈投身、雪山童子(せつせんどうじ)の、生滅々已(しやうめつめつい)の半偈(はんげ)をきゝて、身を羅刹(らせつ)の口に投げ給ひし事、涅槃經(ねはんぎやう)にあり。
〇爲虎捨命、薩埵王子(さつたわうじ)の、餓ゑたる虎をあはれみて、身をほどこして食う(じき)となり給ひしこと、金光明經(こんくわうみやうきやう)に見ゆ。

[やぶちゃん注:「願生房」伝不詳。房名としてはありがちである。
「十八道」十八道法、十八道次第。真言密教では四度加行(しどけぎょう:十八道の行法・金剛界・胎蔵界・護摩法。)を修して伝法灌頂を受けるが、その最初期段階の行法を言う。名称は十八種類の印相(いんぞう)からなる十八契印を用いて修することに由来する。荘厳行者法・結界法・道場荘厳(しょうごん)法・召請法・結護法・供養法の六法からなり、自己の心身の護身浄化が行われ、来臨した諸仏とその行者とが一如に交われるようになるとされる。その後、我入観などを以つて心体は一つとなり、正念誦の法を以つて如来の言葉が語れるようになるなどという。
「字輪觀」真言の観法の一つ。心に月輪(がちりん:全き月。)を見、心を月の如くに清浄にして完全であると観ずるもので、地水火風空の五大梵字や仏菩薩を意味する梵字を一文字一文字、月輪の中に瞑想する。その時、行者の身・口・意は如来の身・口・意と不二一体になるという。
「釋迦佛の因位」釈迦や仏たちが悟りを開く以前の階梯、修行時代。
「半偈」偈文の半分。特に、諸行無常偈の後半の「生滅滅已、寂滅爲樂」を指す。雪山(せっせん)で修業中の釈迦が身を羅刹(らせつ)に与えることを約して聞くことが出来たという。
「爲虎捨命」捨身飼虎。釈迦の前生であった薩捶王子が、飢えた親子の虎に我が身を与えるために崖上から虚空に身を翻らせて墜死し、餓虎の餌食となった話。しばしば仏画に描かれる。
「深法」通常は、「甚深の仏法の奥義、深遠にして無辺な仏の教え」の意であるが、それに「などと呼ばれるもの」と附した方がここは断然、理解し易い。
「金光明経」四世紀頃に成立したと見られる大乗経典で、本邦では法華経・仁王経とともに護国三部経の一つとされる。
「不可奉習志相催したりき」もう、字輪観を習受させて戴こうなんどという気は、これ、全くなくなっておる己れを見出しておりました。]

2013/02/19

安部の発言の正しい謂い

安倍《東京電力福島第一原子力発電所事故について》「前の政権がそう判断したが、とても収束と言える状況ではない。何故なら、収束出来得るような原子力発電所に関わる安全性についての認識は、それ以前の私のかつての政権に於いてすら、全くなかったからである。従って、これほど明白に批判出来ることはないのである。」

ホワイト・デー

僕は今年、誰からもバレンタイン・デーのチョコレートを貰わなかったのだが、思い出して見ると、最初に1970年に貰ってから、僕はずっとチョコレートを貰い続けてきたのだった。――教員時代は仕事柄、生徒からよく貰った。20代の頃は風呂敷包みで2山という時もあった。――亡き母は必ず呉れた。――しかし今年は妻からもなかった。――これは「欲しかった」という謂いではない。――そもそも私はチョコレートが好きではない。貰うと所詮「義理」のそれらを、しかし「義理」で一つは必ず齧っては妻(妻は自分の贈ったそれさえ)や母に体よく消費して貰っていたのであった。――しかし――今年はわくわくしているのだ。――何に?――ホワイト・デーにあげたい人が何人もいるから。――夫を亡くした幼馴染みの「やっちゃん」……母の死後、何かと父の面倒を見てくれている近所のおばさん等々……心から贈れると思うと、これ、何だか、わくわくするんである――ヘンなおじさんだなあ……僕も――

43年の僕の素直な初めての恩返しである――

金銀花 火野葦平

実は昨日来、僕は確定申告のための書類作りという、実に忌わしい作業に時間を潰してきた。あと数欄を埋めるというところの、最後のツメで遂に、数字も金も大嫌いな僕はお手上げとなった。――もう流石に、いい加減――厭――になった。後は、もう、どうなっても構わないという気になった。――実にアホらしい――これで持っていってどうとでもしろ!――と、叫ぶつもりである(私はもともと税務署とは相性がとりわけ悪いのである)――僕のようなたいした金も持たないド素人が、一から最後まで出来ないようなシステム自体が、そもそもおかしい――という気になってくる。

それで投げ出して終わり。

今日は未明から8種の進行形電子化テクストを総て作業した。――いやもう、実に爽快にして痛快――やっぱ、さ――野人に金の計算は――似合わねえよ――

 

   金銀花

 

 こけつまろびつ駈けこんできた者が、日ごろから周章者(あわてもの)の筆頭と目されてゐる河童だつたので、なみゐる仲間たちは、その重大な顏つきにもかかはらず、まづ笑つたのであつた。しかし、笑ひの波が全部に浸透しないうちに、直感と思慮とにするどい者が、たしかに、使者の用向が、その騷擾(さうぜう)に倍する重要な、そして、自分たちにすこぶる關係ぶかい内容を持つてゐるにちがひないことを看破した。

「笑つてはならぬ」

 その重々しく、豫言者のやうにきこえたので、笑ひのどよめきはすぐに止(や)まつた。

 使者の河童は笑はれた口惜しさなどは感ずることのできぬ鈍感者であつたので、この沈默に滿足した。そして、甲羅と膝の蝶番(てふつがひ)とをひきしめ、ぼとついた黄色い嘴を、高角砲のやうに天にむけて、

「新しい金銀花(すいかづら)の畑を見つけたぞ」と、叫んだのである。

 たしかにそれは颯爽としてゐて、勝利の豫感をつたへてゐた。仲間たちの間にはじけるやうな喊聲(かんせい)があがつた。立ちあがり、拍手し、肩をたたき、手を握り、抱きあふ者もあつた。椅子や瀨戸物のかけらを入れた塵箱をかきまはすやうな音がしばらくつづいて、また、沈默がきた。よろこぶには早かつたのである。かれらの思考は飛躍し勝ちで、しばしば順序を忘却する。河童の腦髓の組織は、あらゆる地上の生物のうちで、もつとも非科學的、非體系的であるといはれる。このための失敗は多くの歴史上の事實が證明してきた。千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間、等等、枚擧すれば遑(いとま)がないほどである。しかし、そのかずかずの失敗と教訓も、河童の生來の樂天性を頑強に變更するにいたらない。だからして、どの文獻にも、暗愚なるものは河童である、などと書かれるのである。

 しかし、いまは、金銀花(すいかづら)の畑の存在と、自分たちの幸福とがただちにつながるものでないことを、珍しくも短い時

短い時間に氣づいて、はたと鳴りを靜めたのであつた。

「それは、どこにあるのだ?」

 と、皆を代表して、先刻の分別ある長老が聞いた。

「そ、そ、そ、そ、そ、それは」と、まだ使者の興奮はさめてゐなかつた。「こ、こ、この向かふの、あ、あ、足無山(あしなしやま)の崖のかげに、……」

「距離はいかほど?」

「や、や、約、三千メートル」

「畑のひろさは、われわれの清掃作業に耐へ得る程度かね?」

「耐へても耐へなくても、われわれの死活の問題、一致團結してやらねばならんです」

「それはわかつて居るが、あまりに厖大(ぼうだい)であれば、われわれの能力には限界がある。もとは千を數へてゐた仲間が、金銀花の被害で、いまはもう五分の一しかゐないんだ。しかも、疲弊し、病人もあれば、怪我人もある。われわれにはもう餘力がなくなりつつあるんだ」

「そ、そんな自信のないことをいつてはいけません。放(ほ)つておいたならば、全滅のほかないです。金銀花はわれわれ河童にとつては、人間界の原子爆彈より恐いものだ。人間奴、ひどいことを考へつきやがつた。どこから、この祕密が洩れたのか、裏切者がゐやがるんだ」

「今ごろ、そんなことをいつてみたところで始まらぬ。よろしい、ただちに出動、その金銀花を殘らず刈りとらう。原形のままであれば、まつたく被害はない。災は未然に防がねばならぬ」

 異存のある者はなかつた。

 注進者が道案内に立ち、仲間はこれにしたがつた。行軍の陳列は勇壯とは義理にもいへない。二百匹ほどがたそがれの林間の小徑(こみち)をすぎて行つたが、それは、冬ちかくなつて、羽は破れ、足の蝶番はゆるみ、觸角すら折れた蟋蟀(こほろぎ)の一隊が、どこぞまだ生きのびる餘地はないかと、はかない摸索をつづける姿に似てゐた。隊列はみだれ、肩を借りてゐる者もあれば、這ふやうに足を引きずる者もあつた。多くは無言であつたが、なかには突調子もない陽氣な節で、河童音頭を歌つてゐる者もある。しかし、その聲がはちきれさうな元氣からおのづから溢れてきたものではなく、やけつ鉢からの怒鳴り聲であることは、誰にもすぐわかつた。泣き聲が高調すれば、笑ひ聲にきこえるものである。攻撃に出かけるにもかかはらず、退却する敗殘の列のやうに見えた。

 陽(ひ)が落らて、森は暗くなる。夜目の利(き)く河童は、その點はすこしも困らない。金銀花の被害で、鳥目になつた數匹が、友人の肩に手をかけて、とき折つまづく程度である。河童の一隊のすぎたあとには、蛞蝓(なめくぢ)の這つたあとのやうに、粘液(ねねき)の足跡が、銀の八つ手の葉を散らした亂雜さで、にぶく殘照を反射してゐる。

 まがふかたなき金銀花(きんせんか)のにほひが、風に乘つてきた。鼻孔をひろげられるだけひろげて吸ひこみたいやうな芳香である。凄艷な女性たちへ、愛とささやきとの夢をたぐりよせる茉莉(まつり)花や、玉蘭に類するこのうつとりする香氣、それがいかにして河童たちへの毒となり、生命をおびやかす武器となるのであらうか。傳説の掟のきびしさを知ることは毎々のことながら、河童たちはその攝理を輕々には納得できず、無念さはやる瀨がないのである。人間たちがその方法を發見して以來、河童の世界は大恐慌(きやうくわう)をきたし、實際にその威力に屈伏して、つぎつぎに仲間が減つたのであつた。

 身内のとろけるやうな芳香と、乳白色の細かい花とに、昔は河童たちとて美を感じないでもなかつたのに、それが自分たらを滅ぼす武器となつてからは、もはやただ見るも聞くも胸糞が惡いばかりであつた。なにがきつかけで、さうなつたか。その動機はたれも知らない。ただ、人間どもが金銀花の花瓣を煎じつめた液汁をばらまくことによつて、河童の害を封じ得るといふことを知り、實際にそれをおこなつてきた事實だけが、嚴然としてある。そして、それだけで十分だ。その液汁が體にふれたならば、そこのところから腐りはじめて。まるで、雪だるまが陽にとけるやうに、いかなる措置(そち)も效を奏せず、河童は消滅してしまふのである。河童は死ねば靑みどろいろのどろどろした液體になつてしまふので、河童たちの屍骸は、面積をひろげて、地上にはびこる。すると、そのために、農作物は枯れ、これを啄む犬や猫や鳥は死に、鷄は發狂する。さうして、人間どもはさらに怒りを發して、河童の剿滅(さうめつ)を期し、因果關係ははてしもなかつた。

 ところが、河童たちには、實は、わけがわからないのである。この恐るべき復讐が、なんのために、自分たちに加へられるのか。加へられなければならないのか。河童たらはこの膽無山(きもなしやま)に群棲はしてゐたが、自分たちだけの世界のなかで生活をし、いささかも人間たちと交渉を持つたおぼえはなかつた。他の地方の仲間たちのやうに、人間の尻子玉を狙つたり、角力を挑んだり、馬を水中に引きいれたり、野菜畑を荒したりしたことは、一度もなかつた。そんな必要はさらになかつた。ここにある沼や水流には、食餌が豐饒(ほうぜう)である。遊戲にしたところで、仲間うちだけで結構たのしく遊ぶことができた。地方地方によつて河童の性情も異る。膽無山の種族は、人間たちにすこしも興味を持たなかつたし、したがつて、これと交渉をもちたいと考へたことは、一度もなかつた。その人間から、仇敵として攻撃を加へられ、つぎつぎに仲間が死んでゆく羽目になつたことが、かれらにはどうしても納得がゆかないのである。

 不可解な攻撃に狼狽して、額をあつめて、研究してみたこともあるが、滿足の解答は得られなかつた。理由が一つとして浮かんでこない。

「人間どもから恨みを買ふことは、天地神明に誓つて、みぢんもない」

 結論はいつもそこへきて、それからの論議の展開しやうがない。河童は當惑するばかりである。

「これは、なにかの誤解にもとづいてゐる」

「たれか人間と接觸した者はあるまいな? 山の法則を破つた者はあるまいな?」

「そんな者はない」

「人間どもに使ひを立てて、この理不盡な攻撃の理由を聞きに行つてはどうだらう?」

「人間と口をきくことは、嚴に禁じられてゐる。絶對に祖先の遺訓を破つてはならぬ」

かういふ調子で、何十囘會議をひらいても、議論は堂々めぐり、小田原評定、吐息で終るのが落ちだつた。この間にも實際問題として、金銀花の液汁撒布による仲間の犧牲は相ついで、不安と絶望の空氣は、河童たちのうへを掩ひつくした。そして、かれらの考へ得、なし得る最大のことは、恐るべき武器たる金銀花の絶滅をはかるといふ消極的防禦法にすぎなかつた。ともかくも、地上から金銀花の姿を沒し去る、それのみが救ひだと信じた。早速、この淸掃事業は實施された。着々とすすみ、成功もした。人間どもはその畑の所在を隱さうとはしなかつたので、はじめは、河童たちの方で、人間どものお人よし、馬鹿さ加減を笑つたほどである。ところが、その勝利感が虛妄(きよまう)であつたことの悟りは、意外に早くきた。それはただちに絶望感とつながつて、河童たちを憂鬱にしたのである。金銀花を地上から絶滅することは不可能事に屬する――その認知の打撃は小さくなかつた。人間を嘲笑してゐた河童たちは、逆に、人間どもは魔法使ひではあるまいかと、恐怖するやうになつた。金銀花の淸掃の間斷なさにかかはらず、また地上に金銀花の間斷のない開花があつた。河童の信念がぐらつき、不安と恐怖はいやがうへに增大して、戰慄と變るのである。

 河童たちは巨大な努力を費しながら、その作業は根本のものを忘れてゐた。金銀花の花をちぎり、枝を折り、莖をたふしたけれども、根を掘ることはしなかつた。かれらは誕生の原理については、なんら知るところがないのである。鳥や蛇が卵から生まれ、自分たちが胎内からいでて繁殖することは知つてゐたが、大地に根ざしたものの生長の原理は知らなかつた。したがつて、金銀花は花瓣や枝や莖はとりさられたが、根はつねに殘されたので、ふたたび、そこから莖を出し、枝をひろげ、花をつけた。さうして、人間によつて、呪禁(まじなひ)の液汁がこしらへられ、河童たちのうへにばら撒(ま)かれた。

 人間たちの持つてゐる武器には、河童たちは辟易せざるを得ない。脱れやうがないのである。ポンプの先から霧となつた毒液が、森林のなかに充滿してきて、たちま苦痛が身體を襲ふ。身體が腐りはじめ、溶けはじめる。川にも流れにも、毒液をながすので、もうそこにも棲むことができない。食餌(しよくじ)を奪はれて、飢餓らおとづれる。仲間は減り、のこつた者も、疲弊で病人同樣なり、金銀花除去作業の際に傷つく怪我人もふえる。

 暗愚なるものは河童である。何度それをくりかへしてもあきたらぬほどだ。封建的といつてもよいかも知れない。

 かれらは恐怖にさらきれながらも、頑強に傳説の掟を守り、人間へ復讐しようとしない。防禦に專念してゐるばかりで、攻撃に轉じようとしない。勇氣がないのであらうか。ないやうに見える。しかし、かれらを怯懦(きようだ)といふことはできないのである。あからさまに死にさらされてゐながらも、なほかつ傳説の掟を守らうとする精神こそは、勇氣の最大なものとはいへまいか。たしかにさうにちがびない。さうすれば、河童を勇氣なきものといふことはできない。しかしながら、暗愚なるものといふことはできるのである。

 河童たちは疲れた。そして、人間たらも疲れた。戰ふものが疲れるのは當然である。どちらもがおたがひの執念深きを呪ひあつた。

「金銀花の液汁が河童の害に神效があるなんて、噓ぢやないのか」

 と、今度は、人間の方で合議がはじまつた。

「どうもをかしいな」

「さうだよ。これだけ撒いても、害が減るどころか、ふえる一方ぢやないか」

「河童が怒つたのかも知れんぞ。あの、どろどろの靑苔のやうな汁を、耕作物のうへに撒き散らすのには、往生するなう。折角の作物が全部だめになるわい」

「近來、ことにあれがひどいぢやないか。それに臭うて、傍にも寄りつけん」

「なにか、もつとはげしく利く藥はなからうかなあ? 金銀花ぐらゐぢや、たちのわるい河童どもにや、こたへんのかも知れんぞ。なにしろ、河童といや性惡のどうじれもんぢやからなう」

人間たちの會話は、河童たちにとつて、不可解きはまるものといつてよかつた。一個所として理解することができないのである。なにか、どこかに、まちがつてゐるところがある。そして、その根本のものの食ひちがひが、次々に新たな誤解を生んで、收拾(しうしふ)することができなくなつたのである。

「たれか、人間に害をあたへた者があるか」

と、今度は、河童の方の會議になる。しかし、この研究はすでに何十囘となくくりかへされたことで、小田原評定の結論は、たれひとりとして人間に害を及ぼした者はない、害どころか、交渉ら持つた者はないといふ一點に、つねに落ちつく。噓をついてゐる者はゐないのである。河童は暗愚ではあるけれども、噓はつかない。暗愚とは正直といふことである。

「たれか、人間をおどろかした者はないか」

或るとき、ふと出たさういふ質問に、二三、首をひねつた者があることはあつた。そのうちの一匹が語つたところによると、――或る月のあかるい夜、芒(すすき)と角力(すまふ)をとつてゐた。芒はゆらゆらと月光に銀の頭をふりながら、自分の相手になつてゐた。自分がいくら捻(ね)ぢたふしても、張りとばしても、芒はもとの姿勢に立ちなほる。今度は拳鬪で、芒とたたかつた。自分もすこし醉つてゐたし、いくらやつつけてもふらふらとはねかへる芒が面白くて、いつまでもいつまでも芒と遊び戲れてゐた。そのとき、かたはらで、ばたばたと音がした。鳥の羽ばたきのやうにはじめは思つた。ふりかへると、それは人間で、自分を見ると、ぎやらつといふやうな聲を發して、一目散に逃げ去つた。ばたばたといふのは人間の冷飯草履(ひやめしざうり)の音なのだつた。夢中で芒と遊び呆けてゐて、いつか、消してゐた姿があらはれてゐたものとみえる。しかし、びつくりしたのはこつちの方で、人間と交渉を持つてはならぬといふ山の法則を思ひだすと、こららも一目散に、沼に逃げ歸つたのであつた。

 それから、また一匹の語るところによれば、――そろそろ、夜あけがたのかはたれのうす明りがほの見えるころ、自分はいつもの習慣で、流れの岩のうへに端坐して、詩を口吟(くちずさ)んでゐた。潺湲(せんかん)の音がこころよく耳に入る。流れに浸した足の水かきにやはらかく生ぬるい水が觸れてゆくのが、なんともいへず心地よい。東の空がしだいに明るんでくるのを眺めながら、詩を誦してゐると、恍惚と、一種の三昧境(さんまいきやう)に入つてくる。自分は眼をとぢ、詩を、(その詩は、自分たちの理解者であり、知己であるアシヘイさんの「皿のなかの天」といふ詩なのだが)しまひにはお經のやうに聲高に朗吟してゐると、耳にはげしい水音がきこえ、飛ばちりが自分の顏にかかつた。おどろいて目をあけると、對岸の土堤(どて)を、數人の子供たらが一散になにか喚(わめ)きながら、走り去つてゆく姿が見えた。土橋のうへを通りかかつた子供たちが、自分の姿を見た模樣だ。水音がしたのは、びつくりした拍子に、なにかを川のなかに落したものらしかつた。それはすぐに川底に沈んでしまつたので、なにを落したのか、自分は知らない。自分もいい氣になつてゐて、姿を見られた失敗に狼狽し、あわてて、水中にもぐつた。

 さういへば、自分も、と、人間に倉つた經驗を語りだす者があつたが、衆議は、さういふことは、人間に害をあたへたといふことにはならない、いづれも似たやうな他愛もない失敗談で、と一決した。さすれば、人間の考へかたはとんと腑(ふ)に落ちず、攻撃や復讐を受ける道理がのみこめないのである。

 新しい金銀花(すいかづら)畑の發見に、最後の努力をかたむけるやうに、敗殘の河童の隊が、もう暗くなつた林間の小徑を行つた。隊列はばらばらになり、落伍する者も出たが、ともかく、やがて目的の足無山の崖のかげにたどりついた。月はなかつたが、星あかりに、白い金銀花の花瓣が浮きあがり、芳香があたりいちめんにただよつてゐる。かすかな風があつて、香氣はさらに抑揚を增した。しかし、河童たちには、その花の香も色も胸糞のわるさを誘ふばかりで、たれが指圖するまでもなく、作業はすぐにはじめられた。

 花瓣はむざんに引きちぎられ、襤褸(ぼろ)のやうに、用意の藁苞(わらづと)のなかに投げこまれる。一枝でも殘すことはできないのである。枝と莖とは折られたまま、畑のなかに積みあげられた。疲れた河童たちにとつて、この仕事は樂ではなかつたが、自己の生命と生活とを護る熱意に燃えて、金銀花畑は蠶(かひこ)に食はれる葉のやうに、端からつぶされていつた。花瓣をちぎる音、枝や莖を折る音が、靜かな夜の空氣にこだました。

 これは、たしかに不思議な光景にちがひない。河童たちは注意ぶかく姿を消してゐる。そこで、たれもゐないのに、花が散り、杖が折られる。事情を知らぬ者は妖怪變化(えうくわいへんげ)のしわざと思ふだらう。ところが、河童たちは、またしても人間たちの陷穽(かんせい)に落らてゐたのであつた。

「やつぱり、きやがつた」

「一匹も逃がすな」

 その聲とともに、數人の屈強な若者が、崖の根の楠の巨木のかげからをどり出てきた。彼らの手にはそれぞれ喇叭(らつぱ)のやうな噴霧器がにぎられてゐる。人間の眼に河童の姿は見えないが、金銀花の花や枝や莖のうごきによつて、河童の所在はまがふかたもないのである。彼らは人間のうちでも、智慧と勇氣と義俠とに富む者たちにちがひない。これまで金銀花畑が荒されたことを知つて、かならずこの畑にもくることを豫期してゐたのだ。河童たちがこの崖下の忍冬(すいかづら)畑が囮(おとり)であつたと氣づいたときは、もう遲かつた。ぐるりと畑をとりまいた人間たちは、下等な掛聲を發しながら、荒くれたやりかたで、噴霧器から、毒汁を撒布しはじめた。

 驚愕した河童たちは、脱れるために散らうとしたが、疲弊のため動作が緩慢で、その大部分は毒液を浴びた。ばたばたと重なりあつてたふれた。辛うじて、その場所から脱出した者も、方々で、力つきて、たふれた。

 混亂におちいつた河童たちのなかに、傳説の掟を破らうと決心した者があつた。死と絶望とのあたへた勇氣である。遲い覺醒ではあつたが、眞理を熱望する願ひが、はじめて、すでに苦痛のはじまつた肉體のなかに燃えた。

 かれは、この山の河童の歴史のなかで、人間に口を利く最初の一人であり、そして、最後の一人であつた。かれは、頭の皿を一囘轉させて、人間たちのまへに姿をあらはした。そして、叫んだ。

「あなたがた人間は、いかなるわけで、われわれ河童をかかる無殘な目にあはせるのですか」

 返答は得られなかつた。薄闇のなかに、すつくと立つた異形のものに、びつくり仰天した人間たらは、ぎやらつといふ悲鳴とともに、先をあらそつて逃げだした。勇氣ある者とはいへ、さすがに眼前に、化生(けしやう)の者が立ちあらはれて、怒れるさまに呼號するのを見ては、膽を冷やしたものであらう。たちまち、人間たちの姿は夜の闇に吸ひこまれ、足音が消えた。

 河童は呆然となつた。しばらく、魂を拔かれたやうに立ちつくしてゐた。やがて、力が盡き、空氣を拔かれた風船のやうに、そこへしぼみたふれた。全滅した仲間の姿へ、うつろな眼をやつた。折角、戒律を破つたのに、人間の答はなく、解決は得られなかつた。しかし、かれはなにか滿足してゐた。解體してゆく肉體のなかで、なにかの新しい精神が生まれてゆくやうな、暖かいうごめきを感じた。過失ををかすのは人間の天性であつて、河童の存在がその證明となつたのだと、おぼろげに解することができた。が、存在そのものが罪惡であるといふのは、いかなることであらうか。が、もうそんなことは、河童はどうでもよかつた。頭の皿の水がすつかり流れ出、身體が足のさきから溶けてゆくのを感じながら、意識をしだいに喪失したが、同時に、妙にふわふわと身體が輕くなつて浮くのを感じた。きらめく星が銀河の壯大の流れをはさんで、朦朧となつた視野のなかにしだいに近づき、空氣がつめたくなり、耳元で鳥の羽ばたくのをききながら、あとはなにもわからなくなつた。

 朝になつて、人間たちのぼやきは大きくなるばかりである。勇敢な靑年たちの河童退治、金銀花畑の襲撃はすこぶる不評判である。一匹も退治ることができなかつたばかりではなく、たつた一匹に怒鳴りつけられて、腰を拔かして逃げた。怒つた河童は、あつちにも、こつちにも、これまでになかつたほど大量に、例のどろどろの靑汁を撒き散らした。そのため農作物の被害は甚大で、本年度の供出に支障をきたすことは明瞭だ。またしても罰則を受ける、といふのであつた。かくて、人間たちは金銀花がなんら河童征伐に卓功がないといふ教訓を得て、はじめて、ここに、その栽培を斷念したのである。さうして、新に、河童の害を防ぐ大がかりな對策委員會が設置せられた。

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年の『九州文学』第一一四号五月号に所収されたものが初出であろうか(古書店目録に拠る推定)。

「金銀花」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ Lonicera japonica。常緑の蔓性木本。作品の後半で出るように別名を「忍冬」、「ニンドウ」とも言う。花は五~七月に咲き、甘い香りを有する。参照したウィキの「スイカズラ」によれば『蕾は、金銀花(きんぎんか)という生薬、秋から冬の間の茎葉は、忍冬(にんどう)という生薬で、ともに抗菌作用や解熱作用があるとされる。漢方薬としても利用される。忍冬の名の由来は、常緑性で冬を通して葉を落とさないから付けられた』。また、『「スイカズラ」の名は「吸い葛」の意で、古くは花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことに因』み、『砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラ類の英名(honeysuckle)もそれに因む名称で、洋の東西を問わずスイカズラやその近縁の植物の花を口にくわえて蜜を吸うことが行われていたようである』とする。因みに、 花言葉は本話には皮肉なことに――愛の絆――である。

「千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間」最初の三件は本底本の既出作品に描かれている。

「原子爆彈」この語によって、これまでの「河童曼荼羅」の中で、初めて戦後の作であることが明白な作であることが分かる一瞬であると同時に、本作の寓話の暗い闇の一つのキ・ワードでもある。いや――それは遙かに福島原発の致命的な惨事を遠く寓話化しているように私には読めるのである。……

「茉莉花」双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ属マツリカ Jasminum sambac。インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生し、ジャスミン・ティーやハーブ・オイル、香の原材料として知られる。

「玉蘭」白木蓮のことであろう。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia heptapeta(シノニム Magnolia denudata)モクレンの仲間で白色の花をつける。しばしば、モクレン Magnolia quinquepeta と混同される。モクレン属の中では大型の種類で樹高は一〇~一五メートルにまで成長する、春、葉に先立って大形で白色の花が開き、香りの高いことで知られる。

「どうじれもん」底本では「ヽ」の傍点。小学館「日本国語大辞典」に、方言の動詞「どうじれる」として、子どもなどがすねて悪意地を張ったりすることをいう、とあって、方言採取地として山口県豊浦郡、愛媛県大三島に続いて、福岡県小倉とある。最後のそれである。

「冷飯草履」緒も台も藁で作った粗末な藁草履。

「潺湲」さらさらと水の流れるさま。「せんえん」とも読む。

『アシヘイさんの「皿のなかの天」』火野葦平の河童の詩と思われるが不詳。少なくとも「河童曼荼羅」の中には所収しない模様である(未電子化部分は精査はしていない)。識者の御教授を乞う。

「退治る」は「たいじる」と読み、名詞「たいじ(退治)」の動詞化したザ行上一段活用の動詞。退治する、討ち滅ぼす、の意。]

北條九代記 白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す

 

 

      ○白拍子微妙尼に成る  古郡保忠租逹房を打擲す

 

同三月上旬、暮行く春の名殘とて、長閑に照す日の光、空のけはひものびらかに、野邊の若草長く生(おひ)立ち、山路の木芽も枝茂く、人の心もいとゞ浮(うき)立ちて、見過し難き花の邊(あたり)、賑々(にぎにぎ)しかるべき折柄、なれども、打續(うちつゞき)たる風雨の災變に、東耕西收(とうかうさいしう)の營(いとなみ)宜(よろし)からず、農民も地下人(ぢげにん)も飢餓を憂ふる色深くして、何となく物さびたり。賴家卿は國家の哀愁(すゐしう)する事をば露程とも知召(しろしめ)さず、朝夕(てうせき)遊興の席を列ねて、此外には又、他事なし。比企判官能員が家に植たりける庭の櫻、今を盛(さかり)に、花咲(さき)出でたり。「是を御覽ぜざらんには花の爲(ため)いと口惜(くちをし)かるべし」と申入(まうしいれ)たりければ、「さらば入御(じゆぎよ)あるべし」とて、北條五郞以下、紀内所行景を召(めし)俱せられ、彼(か)の亭に渡らせ給ひけり。饗應様々にて、盃酒とりどりにかざり、もてなす。此比(このごろ)京都より下向せし白拍子微妙(みめう)と云へる者、年廿計(ばかり)にして容顏美しきが、御前に召されて立出でたり。歌の聲、梁塵を飛(とば)し、舞の袖、白雪を𢌞(めぐら)す。賴家卿、頻に感じ給ひて、數々めぐる盃(さかづき)の重なる夜半(よは)も時更けたり。判官能員、申されけるは、「此白拍子は、愁訴の事候ひて、遙(はるか)の山河を凌ぎて、是まで下りて候。是は微妙が讀みたる歌なるを自筆に書かせて候」とて奉りけり。賴家卿、取て御覽ずるに、

 

  片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず

 

手さへ美(うつくし)かりけり。座中、取(とり)渡して是を見るに、その心を知る人なし。觀淸(かんせい)法眼、申されけるは「この歌の心を案じ候らへば、親なくして、行方(ゆくへ)を尋ぬるかと覺えて候。昔、聖德太子、片岡の飢人(きじん)を御覽じて、

 

  科照(しなてる)や片岡山に飯(いひ)に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし

 

と詠み給ひけん歌の言葉を取て、今かく詠じ候やらん」とぞ申されける。賴家卿、「さらば子細を語るべし」とあり。微妙、さめざめと打泣きて左右(さう)なく出さざりしを、度々强(しひ)て問はせ給へば、微妙、申しけるやう、「去ぬる建久年中に父右兵衞尉爲成、思(おもひ)懸けざる讒訴に依て、宮人の爲に禁獄せられたり。月を越えて後に、西の獄舍の囚人等(めしうどら)を奥州の夷(えびす)に給はりて被官となし給ふ。父爲成も其員(かず)にて放遣(はなちつかは)され、將軍家の雜色(ざつしき)追立てて下向せしかば、母は愁歎の思(おもひ)に堪へずして、幾程なく病(やみ)出して、空しくなる。自(みづから)其時未だ七歲なり。兄弟親族もなく、孤子(みなしご)となりて、人の御許(もと)に勞(いたは)り置かせ給ひ、年既に重りて、父の行方戀しき事露忘られず、音に聞ける陸奥(みちのく)のそなたを尋ねて相坂(あふさか)や關の東に赴きて、便(たより)に付きて逢見ばやと思ひながらも女の身なれば、程遠き東路の旅の空輒(たやす)く下り候らはん事、世に叶(かなひ)難く候へば、心にもあらぬ白拍子となり、人の御情(なさけ)に依りてこそ是までやうやう下り候へ」と申しければ、人々、聞き給ひ、「哀なる志かな」と皆、感涙をぞ流されける。いかさま、御使を奥州に遣して尋ね仰せらるべき由、その御沙汰ましまして[やぶちゃん注:底本「汰沙」。訂した。]、其より還御なり給ふ。其後、尼御墓所は御所に参り給ひ、白拍子微妙を召し、舞舞(まひま)はせて御覽あり。聞しに勝りて上手なり。父を戀る志を、殊に感じ覺(おぼし)召すなり。「急ぎ奥州に飛脚を立て、行末を尋ねて取らすべし。其程は此方へ参りて待つべきなり」とて尼御臺所、召連れて歸らせ給ふ。八月五日、奥州飛脚の雜色の男歸り參りて、「微妙が父爲成は既に死去せし」と申す。微妙、聞きて望(のぞみ)を失ひ絕入々々(たえいりたえいり)、泣悲(なきかなし)みけるが、同十五日の夜、壽福寺に行きて、榮西(やうさい)律師の弟子祖達房を師として出家し、持蓮尼(ぢれんに)と號して、父の菩提をぞ弔ひける。尼御臺所、哀がり給ふ餘(あまり)に、深澤の里の邊(ほとり)に庵(いほり)を造りて住ましめられ、「御持佛堂の砌(みぎり)に、折々は參るべし」とぞ仰せ含め給ひける。此白拍子は、日比(ひごろ)、忍びて古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠(やすたゞ)に契(ちぎり)て比翼の語(かたら)ひ水漏さじと、思染(おもひし)みて侍りし所に、保忠、甲斐國に下向しけるが、歸るを待たずして尼になる。さこそは悲しさの餘に男女(なんによ)の道を忘れけん。保忠鎌倉に歸りて微妙が事を尋ぬるに、榮西の門弟祖達総を師として尼に成(なり)たりと語るを聞きて、彼(かの)庵室(あんしつ)に行向ふ。祖達房を捕へて散々に打擲す。近隣、出合ひて取りさへける。尼御臺所より朝光を遣して保忠を宥(なだ)められ、翌日、保忠、御氣色を蒙る。昨日(きのふ)、理不盡の所行を誡(いまし)めらるゝ所なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年三月八日・十五日、八月五日・十五日・二十四日・二十七日の条に基づくが、特に前半は浄瑠璃の義太夫節の如く劇的で臨場感に富む。白拍子微妙の事蹟は前段の私の注を参照されたい。以下、「吾妻鏡」と比較して読み進めてみよう。まずは建仁二年三月八日の条。

 

〇原文

 

八日癸丑。御所御鞠。人數如例。此御會連日儀也。其後入御于比企判官能員之宅。庭樹花盛之間。兼啓案内之故也。爰有自京都下向舞女。〔號微妙〕盃酌之際被召出之。歌舞盡曲。金吾頻感給之。廷尉申云。此舞女依有愁訴之旨。凌山河參向。早直可被尋聞食者。金吾令尋其旨給之處。彼女落淚數行。無左右不出詞。恩問及度々之間。申云。去建久年中。父右兵衞尉爲成。依不讒爲官人被禁獄[やぶちゃん注:「不」はママであるが、訓読では意味が通じないので排した。]。而以西獄囚人等。爲給奥州夷。被放遣之。將軍家雜色請取下向畢。爲成在其中。母不堪愁歎卒去。其時我七歲也。無兄弟親眤。多年沈孤獨之恨。漸長大之今。戀慕切之故。爲知彼存亡。始慣當道。而赴東路云々。聞之輩悉催悲淚。速遣御使於奥州。可被尋仰之由。有其沙汰。盃酒及終夜。鷄鳴以後令還給。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

八日癸丑。御所の御鞠。人數(にんず)、例のごとし。此の御會、連日の儀なり。其の後、比企判官能員の宅に入御す。庭の樹花盛りの間、兼ねて案内を啓(まう)すが故なり。爰に、京都より下向の舞女〔微妙と號す。〕有り。盃酌の際(あひだ)、之れを召し出だされ、歌舞、曲を盡す。金吾、頻りに之れを感じ給ふ。廷尉、申して云はく、

 

「此の舞女、愁訴の旨有るに依つて、山河を凌ぎ參向す。早く直(ぢき)に尋ね聞こし食(め)さるべし。」

 

てへれば、金吾、其の旨を尋ねしめ給ふの處、彼の女、落淚數行(すうかう)、左右(さう)無く詞(ことば)を出さず。恩問、度々に及ぶの間、申して云はく、

 

「去ぬる建久年中、父右兵衞尉爲成、讒に依つて官人の爲に禁獄せらる。而るに西獄(さいごく)の囚人等を以つて、奥州の夷(えびす)に給はんが爲に、之を放ち遣はさる。將軍家の雜色(ざふしき)、請け取り下向し畢んぬ。爲成、其の中に在り。母は愁歎に堪へず、卒去す。其の時、我れ七歲なり。兄弟親眤(しんぢつ)無く、多年孤獨の恨みに沈む。漸くに長大するの今、戀慕、切なるが故に、彼(か)の存亡を知らんが爲に、始めて當道を慣(なら)ひて東路(あづまぢ)に赴く。」

 

と云々。

 

之を聞く輩(ともがら)、悉く悲淚を催す。

 

「速かに御使を奥州へ遣はし、尋ね仰せらるべし。」

 

の由、其の沙汰有り。

 

盃酒、終夜に及び、鷄鳴以後、還らしめ給ふ。

 

   *

 

「廷尉」は比企能員。「官人」は検非違使。続いて、同月十五日の条。

   *

〇原文

 

十五日庚申。今日御鞠。及終日。員百廿三。百廿。百廿。二百四十。二百五十也。其後尼御臺所入御左金吾御所。召舞女微妙。覽其藝。是依令感戀父之志給也。藝能頗拔群之間。爲尋彼父存亡。被遣使者於奥州云々。飛脚歸參程者。可候尼御臺所御亭之由被仰。仍還御之時爲御共。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

十五日庚申。今日、御鞠、終日に及ぶ。員(かず)百廿三、百廿、百廿、二百四十、二百五十なり。其の後、尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。舞女微妙を召し、其の藝を覽る。是れ、戀父の志を感ぜしめ給ふに依つてなり。藝能、頗る拔群の間、彼の父の存亡を尋ねんが爲に、使者を奥州へ遣はさると云々。

 

「飛脚が歸參するの程は、尼御臺所の御亭に候ずべし。」

 

の由仰せらる。仍つて還御の時、御共たり。

 

   *

 

「員百廿三……」以下の数字は蹴鞠の仕儀で蹴り続けられた回数。「使者を奥州へ遣はさる」とあることから、一週間前の頼家の下知が実行されていなかったことが分かる。これは最後の場面で政子が自邸に微妙を引き取ったのが、前段注で示した通り、女好きの頼家から守るためと思われることからも、頼家は父探索をペンディングしておいて、微妙に迫っていたのではなかったかと勘繰らせる場面ではある。

 

 以下、「北條九代記」本文注に戻る。

 

 なお、原典の「吾妻鏡」との大きな違いは、微妙の和歌の披露及びそれを解釈する観清法眼(頼家の側近であるが、北条義時とも関係が深かった人物らしい。詳細不詳)という微妙の数奇な半生を引き出す前段部が配されていることである。但し、この微妙作とする和歌の出典は定かではない。識者の御教授を乞うものである。

 

「梁塵を飛し」梁塵を動かすの意で、歌声が優れていることの譬え。「十八史略」に魯の虞公という歌の名人が歌うと、梁の上の塵までが動いたという故事による。

 

「片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず」

 

――辺土の荒涼とした岡辺に行き倒れとなって横たわる旅人、それは何と、哀れなことか……その旅人は今の私(わたくし)……親を尋ねてやってきたこの里で……無宿人のままに……野垂れ死にする私……

 

「科照や片岡山に飯に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし」「日本書紀」や「万葉集」などに載る、聖徳太子が行き倒れの旅人を見て悲しんだという歌の冒頭部。以下は「日本書紀」推古紀に載るもの。

 

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て

 

 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ

 

 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の

 

 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

 

通釈すると、

 

――片岡山辺(べ)に糧(かて)に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ……なんと、哀れな! そなたも、親なしに生まれようはずもない……そなたにも恋する親があるであろう! そなたを守ってくれるはずの主人はいないのか?……糧に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ、なんと、あわれなことか!……

 

・「しなてる」「級照る」などと表記。「片」の枕詞。「しな」は階段、坂の意味かとも言われる。

 

・「片岡山」現在の奈良県北葛城郡王寺町から香芝市にかけての丘陵地帯。片岡山。歌枕。

 

・「臥せる」「こやす」は上代語で、「す」は上代の尊敬の助動詞で「臥(こ)ゆ」の尊敬語。

 

・「さす竹の」「君」の枕詞。竹が勢いよく茂ることから繁栄を言祝いで「君」「大宮人」「皇子(みこ)」などにかかる。御用達の水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首 聖徳太子」の「補記」に、

 

   《引用開始》

 

【補記】日本書紀巻二十二。推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子が片岡に行った時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を問うても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いでかぶせてやり、「安らかに寝ておれ」と言った。そこで上の歌をよんだという。翌日、皇子は使者をやって男の様子を見に行かせた。使者が戻って来て言うことには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。墓を封じて数日後、皇子は近習の者を召して、「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、使者をやって見させた。使者は戻って来て、「墓に着いて見ましたところ、埋め固めた場所はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、しかばねは無くなっておりました。ただ御衣(みけし)ばかりが畳んで棺の上に置いてありました」と告げた。皇子は再び使者をやって、その上衣を持って来させると、何もなかったようにまた身につけたのである。世間の人々はこれをたいへん神妙に感じ、「ひじりはひじりを知るというが、本当だったのか」と言って、ますます皇子を畏敬したという。

 

 のち、この餓え人は達磨の化身とされ、片岡の地に達磨寺が建立された。

 

 なお拾遺和歌集には、「飢ゑ人のかしらをもたげて御かへしを奉る」として次の歌を載せている。

 

  いかるがやとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ

 

   《引用終了》

 

とある。微妙の作とするものは、この太子の歌をベースとしながら、視点を反転させて、自らを瀕死の旅人に模している。

 

 次に「吾妻鏡」同年八月五日及び十五日・二十四日・二十五日の条を見る。

 

〇原文

 

五日丙子。所被遣奥州之雜色男歸參。舞女父爲成已亡云々。彼女涕泣悶絕躄地云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

五日丙子。奥州へ遣はさるる所の雜色男、歸參す。舞女が父爲成、已に亡(な)しと云々。

 

彼の女、涕泣、悶絕躃地(びやくぢ)すと云々。

 

この「悶絶躃地」は苦しみ悶えて転げまわること。

 

〇原文

 

十五日丙戌。晴。鶴岳放生會如例。將軍家御參宮。

 

入夜。舞女微妙於榮西律師禪坊遂出家。〔號持蓮。〕爲訪父夢後云々。尼御臺所御哀憐之餘。賜居所於深澤里邊。常可參御持佛堂砌之由。被仰含云々。此女。日來古都左衞門尉保忠密通。成比翼連理契之處。保忠下向甲斐國。不待歸來。有此儀。不堪悲歎之故也。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

十五日丙戌。晴る。鶴岳の放生會、例の如し。將軍家、御參宮。

 

夜に入り、舞女微妙、榮西律師禪坊に於いて出家〔持蓮と號す。〕を遂ぐ。父の夢後(ぼうご)を訪(とぶら)はんが爲と云々。

 

尼御臺所、御哀憐の餘りに、居所を深澤の里の邊に賜ひ、常に御持佛堂の砌りに參るべしの由、仰せ含めらると云々。

 

此の女、日來(ひごろ)、古郡(ふるごほり)左衛門尉保忠と密通し、比翼連理の契りを成すの處、保忠甲斐國へ下向す。歸り來たるを待たず、此の儀有り。悲歎に堪へざるが故なり。

 

〇原文

 

廿四日乙未。入夜。龜谷邊騷動。是古都左衞門尉保忠爲訪舞女微妙出家事。自甲州到着。而彼女屬營西律師門弟祖達房。聞令落餝之由。先至件室。稱可尋問子細誓盟。祖達怖畏之餘。奔參御所門前。此間。保忠難休鬱憤兮。打擲從僧等。依之近隣輩難競集。非異事之間。卽分散。又尼御臺所遣朝光。宥保忠給。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

廿四日乙未。夜に入り、龜谷(かめがやつ)邊、騷動す。是れ、古都左衞門尉保忠、舞女微妙出家の事を訪はんが爲、甲州より到着す。而るに彼(か)の女、營西律師の門弟祖達房に屬(しよく)し、落餝(らくしよく)せしむの由を聞き、

 

「先づ件(くだん)の室に至りて、子細に誓盟を尋ね問ふべし。」

 

と稱す。祖達、怖畏の餘り、御所の門前に奔り參る。此の間、保忠、鬱憤を休し難くして、從僧等を打擲(ちやうちやく)す。之に依つて、近隣の輩、競ひ集まると雖も、異事に非ざるの間、卽ち、分散す。又、尼御臺所、朝光を遣はして、保忠を宥(なだ)め給ふ。

 

〇原文

 

廿七日戊戌。今日保忠蒙御氣色。是去夜打擲祖達房從僧之間。依彼憤也。僧徒之法。以人々歸善爲本意之故。無左右令除髮授戒歟。而理不盡所行奇恠之由。尼御臺所以義盛。朝光等被仰之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

廿七日戊戌。今日、保忠、御氣色を蒙る。是れ、去ぬる夜、祖達房從僧を打擲するの間、彼(か)の憤りに依りてなり。

 

「僧徒の法、人々を以つて善に歸するを本意と爲すが故に、左右(さう)無く、除髮授戒せしむるか。而るに理不盡の所行、奇恠。」

 

の由、尼御臺所、義盛・朝光等を以つて之を仰せらると云々。]

 

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力

     四 智力

 

 餌を食ふため敵に食はれぬために、動物が行ふことの中には、人間が知力を用ゐてなすことと程度は違ふが、性質は同じである如くに思はれるものが頗る多い。例へば、猿が番人の隙を覗つて桃林から桃を盜んで行くのも、猫が鼠の出て來るのを待つて根氣よく孔の傍に身構へて居るのも、人間の擧動に比べて殆ど何の相違もない。昔、人間と他の動物との間の距離をなるべく大にしたいと思つた頃には、猿が桃を盜むのと、人が桃を盜むのと、また猫が鼠の穴を覗ふのと、人が鐡砲を持つて兎の穴を覗ふのとを嚴重に區別し、一方は本能の働き、一方は智力の働きと見做したであらうが、虛心平氣に兩方の擧動を比べて見ると、その間に根本的の相違があるものとは決して考へられぬ。今假に自分が猫になつたと想像したならば、鼠を捕へるに當つては、やはり實際猫のする通りのことをするであらう。また假に自分が猿になつたと想像したならば、桃を盜むに當つては、やはり實際猿のする通りのことをするに違ひない。されば、一方のみを智力の働きと見做し、他方は智力の働きでないなどと論ずべ根據は少しもない。かやうに考へると、智力を有するものは決して人間のみに限るわけではなく、動物界には廣くこれを具へたものがある。但し、その發達の程度には種々の階段があつて、或る所まで降ると最早本能と區別することが全く出來なくなつてしまふ。

 猿が桃を盜み、猫が鼠を捕へるのを智力の働きとすれば他の動物のこれに類する擧動も同じく智力の働きと考へねばならず、順次に比べて進むと、終には珊瑚蟲が「みぢんこ」類を捕へて食ふのまでも、智力が與つて居ると論ぜねばならぬことになる。更に一歩進めば、「蠅取り草」が蠅を捕へるのも智力の働きの範圍内に入れねばならぬとの結論に達するが、かくては餘り廣くなつて際限がない。著者自身の考によれば、智力といひ本能といふも、いづれも外界の變化に應じて適宜に身を處する神經系の働きの中で特殊に發達した部分を指す名稱で、その著しい例を互に比較すれば相異なる點が明であるが、程度の低いものの間には決して境界はない。他物に譬へていへば、智力と本能とは恰も相隣れる二つの山の頂のやうなもので、そこに絶頂が二つあることは誰の目にも明に見えて居るが、少しく下へ降りると、山と山とは相連絡してその間になんの境もなくなる。生物はすべて食つて産んで死ぬものであるが、食つて産んで死に得るには、常二外界に對して適宜に應接して、目的にかなうた行動を取らなければならぬ。そして神經系の有る動物では主として神經系がその衝に當るが、動物の種類によつて生活の狀態も大に違ふから、或る種類の動物では神經系の働きは一方に發達して、終に智力と名づくべき程度に進み、他の種類の動物では他の方面に發達して、明に本能と名づくべきものとなつたのであらう。また簡單な反射作用は恰も山の麓に比較すべきもので、本能とも智力とも名づけることは出來ぬが、さればとてまた本能からも智力からも明かな境界線を引いて區劃することは出來ぬ。今日、智力・本能などに關しては學者間に際限なく議論が鬪わされて居るが、著者の見る所によるとその大部分は、本來境界線のなかなかるべき所に強いて境界線を定めようと試み、その境界線をどこの邊に定めようかと、議論しているに過ぎぬやうである。

 なほ一つ例を擧げて見るに、子供の金魚鉢に飼つてある「べんけいがに」と「石龜」とを捕へようとすると、「かに」の方は鋏を上げて、觸れゝば挾むぞと嚇しながら逃げて行き、龜の方は頭も足も引き込めて動かずに居るが、これらの擧動を、人間が淋しい道で人相の惡い男に出遇つた際に、ピストルに手を掛けて相手の顏を睨(にら)みながら摺れ違つて行く擧動、若しくは泥棒が雨戸を抉(こ)じ開けんとする音を聞いて、中から戸を抑へて防いで居る擧動に比べると、その間に性質上の相違があらうとは思はれぬ。隨つて、一方を智力の働きと見做す以上は、他を智力の働きでないといふべき論據はない。かやうに比べて見ると、終には「いそぎんちやく」が體を縮め、「おじぎ草」が葉を下げるのまで順々に引き續いて、どこにも判然たる境界を設けることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「べんけいがに」短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Sesarmops intermedium。海岸の塩性湿地や海岸付近の河原・土手・石垣・森林・叢などに棲息し、本邦では男鹿半島と房総半島以南で普通に見られる。]

Tuarihu

[馬に文字を教へる]

 

[獨逸のクラルといふ人その飼馬ツアリフに文字を教へ各文字に對して左右の前足を以て一定の度數だけ板をたたかしめる 例へばAには左一囘右一囘とかBには左一囘右二囘とかいふやうである 馬は字を指し示されればこれに應じ豫て覺えたる通りの度數だけ板を敲き物を尋ねられれば字を綴り敲いて答へる また數を加へ減じ掛け割るなどの問題に對しても正しい答をする]

 

 さて智力の最も發達した動物はいふまでもなく人間であるが、これは今の譬へでいふと、一方の山の頂に當る。しからば人間に次いで智力の發達した動物は何かといふに、これは腦髓の構造が人間に最もよく似た獸類であつて、その中でも特に大腦の表面に凸凹の多い猿・犬・馬などは智力も相應に進んで居る。今から二十四五年も前の事であるが、ドイツの或る人の飼つて居た悧巧な、ハンスといふ馬が、字讀めば數も算へられるというて大評判であつた。例へば五と七とを加へると幾つかと尋ねると、馬は前足で床板を十二敲いて答へたのであるが、その當時これを調べた心學理者の鑑定よると、馬が足で床板を敲いて丁度答の當る、數まで達すると、尋ねた人が知らずに頭を一ミリメートルの何分の一とかを動かすので、馬は鋭くもこれを識別して敲くことを止めるから、恰も算術が出來たかの如くに見えるのである。實は決して算へる力などがあるわけではないとのことであつた。しかし、この説明には滿足せぬ人があつて、その後更に別の馬を飼つて種々試驗を續けた所が、馬に文字を覺えさせ、これを自分で綴つて人の問に答へさせることも容易に出來るやうになつた。この種類の試驗に就いては、今日では數多く報告があつて、已に馬の外に犬や象に就いて同樣の結果を得て居る。著者は自身にかやうな試驗を行うたことはないが、犬や馬に就いて日常見て居ることから推して、以上の如きことは當然行はれ得べきことと考へて居たから別に不思議にも思はぬが、人間の智力と他の動物の腦の働きとの間に根本的の相違があるやうに論じたい人等は、種々の論法を用ゐて、右樣の働きが智力の結果でないことを證明しようと骨折つて居る。

[やぶちゃん注:この本文にあるハンスの馬(同様の「賢馬」である挿絵にあるクラルのツアリフという馬の話は不詳。識者の御教授を乞う)は丘先生のおっしゃるように、ハンスは真に計算が出来た「賢馬」であったのではなく、『回りの雰囲気を敏感に察知することに長けた』「賢馬」であったことが、ウィキの「賢馬ハンス」に記されてある。そこには『今日ではこのような現象を「クレバー・ハンス効果」と呼び、観察者期待効果』として、後の動物認知学に大きく貢献した「賢馬」であったとある。しかし、それ以下で、丘先生がそうした数を数えることの出来る動物の可能性を極めて計画に肯定してのを奇異に思われる保守的な(人間中心主義的な)読者もいるやも知れぬ。しかし、例えば「日経サイエンス」の「数を数える動物たち〜日経サイエンス2009年11月号より」を参照されたい。そこには近年の研究で、野生のニュージーランドコマヒタキという鳥が、餌を捕獲する際の行動から三とか四といった小さな数を区別出来る能力を生得的に持っており、その後の学習の試行錯誤によって最終的には十二くらいまでの数を識別できるようになるという事実、ヒヨコが算数能力を保持している事実、アカゲザルの計算能力が大学生に匹敵し、しかも反応の素早さでは人間よりも早いという事実、そのアカゲザルはゼロの概念を把握しているわけではないが、それ(ゼロ)という状態が一や二よりも少ないことは理解しているという事実、三十年に亙ってオウムの研究を行ってきたマサチューセッツ工科大学のペパーバーグ氏によれば、『小さな量ならハチでさえ学習によって区別可能にな』り得るると言い、『ある程度の数感覚は無脊椎動物でも学習できるようで,こうした学習を支える何らかの神経構造があるのだろう』と述べておられる。神が人にのみ智を与え給うたと振り上げる御仁は、早々にその拳を納めて、私のブログからご退場なさった方が精神衛生上、よかろうと存ずる。……しかし私は……このハンス……君が……何とも可哀そうで仕方がない……。]

 

 こゝに一つ斷はつて置くべきは、本能でも智力でも、ときどき無駄な働きをすることである。「はまぐり」は介殼が如何に堅くても「つめた貝」には孔を穿たれ、蜂の針が如何に烈しく螫しても「はちくま」といふ鷹には平氣で食はれる如く、防禦の裝置にはそれぞれ標準とするところがあって、例外のものに對しては有功であり得ぬ通り、本能でも智力でもその動物の日常の生活を標準として發達し來つたものから、生活の條件を變へると、隨分目的にかなはぬ働きをする。例へば「走りぐも」は巣を造らず常に草の間を走り廻り、卵を産めば絲を以て繭の形にこれを包み、どこへ行くにも大事に持つて居るが、強ひてこれを奪ひ取つて、代りに紙屑を同じ位の大きさに如めたものを投げてやると、直にこれを抱へ、大切さうに保護して持ち歩く。これなどは、本能が盲目的に働いて無駄なことに骨を折つて居るのであるが、紙屑でも何でも構はず大切に保護するまでに發達した本能こそ、この「くも」の生活に取つては最も必要なものである。智力の方でもこれと同樣に、往々生活の目的のためには何の役にも立たぬ働きをすることがある。或る程度まで智力の發達することは、人間の生活に取つては必要な條件であるが、相應な智力を出し得るまでに腦の構造が進歩すると、これを生活上の必要以外の方面にも働かせる。しかしこの場合には智力が如何程まで有功に用ゐられて居るかは大に疑はしい。如何にしてこの魚を捕へようか、如何にしてかの獸を殺さうかと考へて、網の張りやうや落し穴の掘りやうを工夫し、如何にして甲の蕃社を攻めやうか如何にして乙の集落からの攻撃を防がうかと思案して、槍の穗先の形を改良し、味方同士の暗號を定めなどするのは、すべて智力の働きであるが、かやうなことが出來るまでに腦の構造が進歩すると、退屈のときにはこれを用ゐて種々のことを考へ始め、何でも物の起る原因を先の先まで知らうと務めれば、哲學が生じ、人間以外に何か目に見えぬ強い者がいると信ずれば、宗教が始まり、不完全な推理によつて勝手に物と物との間に因果の關係を附ければさまざまの迷信が現れる。これらはいづれも生存に必要な智力の發達したために生じた副産物であるから、いはば智力の脱線した結果と見なすことが出來よう。その後、物の理窟を考へる力が進めば、脱線の方面にも益々これを用ゐて、哲學も宗教も迷信も盛になり、そのため莫大な費用と勞力とを費して少しも惜しまぬやうになる。有名なエジプトの金字塔の如きも畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ。無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇を用ゐるに至つたまでに、人間の知力が常に生存のために有功であつたことはいふまでもないが、その間に宗教・迷信のために、人間がどの位無駄な仕事をしたかと考へると、これはまた實に驚くべきもので、今日と雖もなほ「走りぐも」が丸めた紙屑を大事に抱へて歩くのと同じやうなことをしながら怪まずにいるのである。

[やぶちゃん注:丘先生の近代の啓蒙家・科学者としての立ち位置と、本書の時代背景から仕方がないことではあるが、私は「哲學も宗教も」「エジプトの金字塔」(ピラミッド)も「畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ」と一蹴しておきながら、科学技術(言っておくがわたしはツールである「科学技術」を純然たる「科学」とは区別して用いている)『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』は『人間の知力が常に生存のために有功であ』ることの積極的な証しとされていることには、強い疑義を持つものである。先生は敗戦の前年に亡くなっておられるが、もし、戦後まで生きておられたなら、私はこの部分を丘先生なら、きっと書き改められた気がするのである。それは『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』の後に、原子爆弾や水素爆弾、そうして平和利用の名のもとに出現した恐るべき原子力発電といったモンストロムの類いを、生物学者である丘先生は、決して肯定なさらないと私は思うからである。

「つめた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

「はちくま」タカ目タカ科ハチクマ Pernis ptilorhyncus。ユーラシア大陸東部の温帯から亜寒帯にかけての地域に広く分布し、本邦には初夏に夏鳥として飛来して九州以北の各地で繁殖する。全長五七~六一センチメートルで♀の方がやや大きい。体色特に羽の色は変異の幅が大きい。通常は体の上面は暗褐色で、体の下面が淡色若しくは褐色である。♂は風切先端に黒い帯があり、尾羽にも二本の黒い帯がある。♀は尾羽の黒い帯が雄よりも細い。参照したウィキハチクマ」によれば、『食性は動物食で、夏と冬にはスズメバチ類やアシナガバチ類といった社会性の狩り蜂の巣に詰まった幼虫や蛹を主たる獲物とし、育雛に際してもばらばらの巣盤を巣に運んで雛に与える。コガタスズメバチのような樹上に営巣するハチのみならず、クロスズメバチやオオスズメバチなど、地中に巣を作るハチの巣であっても、ハチが出入りする場所などから見つけ出し、同じ大きさの猛禽類よりも大きい足で巣の真上から掘り起こし、捕食してしまう。ハチクマの攻撃を受けたスズメバチは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。毒針を問題にしないのは、ハチクマの羽毛が硬質で針が刺さらないためと考えられている。ハチ類の少なくなる秋から冬にかけては、他の昆虫類、小型のげっ歯類、爬虫類なども捕食する』とある。

「走りぐも」鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目キシダグモ科ハシリグモ属 Dolomedes のクモの仲間。網を張らない徘徊性の大型のクモである。参照したウィキハシリグモ」の「習性」の項に、『ハシリグモ類は、非常に活動的で、足が速い。体格が大きいこともあって、追いかけて捕まえるのは難しい。あちこちをうろつくよりも、草の葉の上で待ち伏せている様子をよく見かける。 また、水辺の種では、水面や水中に出ることがよくあり、魚やオタマジャクシを食うことがあることも知られている。“捕食”といっても消化液で獲物の体内を吸い取るだけの多くのクモと異なり、ハシリグモの仲間は物理的に噛み砕いて食べてしまう。このため彼らの食事の後には、獲物の干からびた死骸が残るのではなく、脚や羽根などの残骸が散らばっている状態になる。また、生き餌でなく、死後数日経った死骸であっても漁って食べることがある』。『配偶行動としては、雄が捕らえた獲物を雌に贈る「求愛給餌」が行われることが知られている。雄はまず獲物になる昆虫を捕り、これを糸で包んで雌に渡すことで交接を許される。獲物の大きさによって交接を許される時間が変わるとも言われている』。『雌は卵を糸で包んで卵嚢とし、これを口にくわえて持ち運ぶ。幼生が生まれる少し前になると、低木や草の葉の下に、籠網のような形に糸を組んで、その真ん中に卵嚢をぶら下げる。卵嚢から幼生が出てくると、幼生はしばらくの間、その卵嚢のそばでかたまりになって過ごす。これをまどいということもある。その後、草の葉の上に登り、糸を風に乗せて飛んでゆく(バルーニング)』とある。卵嚢を保守する画像は例えばこれがよい。]

 

 本能とか智力とか違つた名を附けては居るが、詰る所いづれ生存に間に合ふだけの神經系の働きであつて、これらの働きが敵に比して劣つて居ては生存が出來ぬから、代々少しづつ進歩し來つたのであらうが、その進歩の程度はいつも生存競爭に當つて敵に負けぬといふ所を標準とし、決してこれを超えて遙に先まで進むことはない。されば人間の智力の如きも、生存競爭に於ける武器としては漸く間に合つて行くが、素より絶對に完全なものではなく、特に生存競爭以外の暇仕事の方面に向けて働かせる場合には、その結果は頗る當てにならぬものと思はれる。本能によつて働く昆蟲や「くも」は、その境遇を變へて試して見ると盛に無駄な仕事をするが、智力の方もこれと同樣で、當然働かせるべき方面以外に向けて試して見ると、大間違ひの結論に達することがあるから、そのため今後も隨分無駄な骨折りをなし續けることであらう。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 若江嶋 若宮

   若江嶋 若宮

 それより光明寺、六角の井。飯島より小坪道(こつぼみち)あり。若江(わかえ)の嶋(しま)は波打際(なみうちぎは)に、いろいろの形したる岩ども、いくつとなく、ならびたちて景色よし。若宮は、昔、鶴が岡八幡宮、此ところにありしを、賴朝公、今の處(ところ)にうつし玉ふ。その跡を若宮といふ。いたつて絶景の所なり。
〽狂 こゝに
 きて
じゆめう
 のびたる
こゝちせり
 いつもわかえの
  しまの
     けしきに
旅人
「もしもし、物がとひたい。儂(わし)の癖で、うつくしい娘の給仕でなければ、飯がくへぬが、なんと、この辺りに、よい娘のある旅籠屋(はたごや)があらば、をしへてください。」
「うつくしい娘のある内(うち)なら、この先の大きな内へとまりなさい。あすこの娘に給仕をさせたら、さぞかし、飯がうまくくへませう。」
「それはうれしいが、その家は、旅籠屋でござるかの。」
「いやいや、宿屋(やどや)ではない。大盡(じん)の家だから、人はとめますまいが、しかし、『ゆきくれて難儀いたします、どうぞ、とめてください』とたのんだら、報謝(ほうしや)にとめるかもしれぬ。そのかはり、庭の隅に筵(むしろ)でもしいてねさせませうから、その娘に給仕をさせるかはり、娘のくひのこした物でももらつて、あがりなさい。そのかはり、旅籠はとらず、報謝に、たゞとめるでござらう。」
「そんなら、娘に給仕をさせるよりか、たゞとめてくれるなら、錢(ぜに)がいらぬでよいから、そんなら、それにいたそふ、それにいたそふ。」
[やぶちゃん注:絵の右手、闘犬まがいに子どもらが犬を仕掛けて遊んでいるさまが面白い。また、冒頭で当時の「若江嶋」(和賀江島)の様子が語られるが、恐らくは現在よりももっと突兀とした奇岩の奇景があったこと、また、現在よりも遙かに内陸へ湾曲していた由比ヶ浜の、由比の若宮からのその景観が「絶景」と称するほどのものであったことなど、古きよき時代の浜の景観が偲ばれる。後半の小話は、乞食として一夜の宿を乞うというオチで、表面上はたいして面白くもないが、もしかすると、ここには、今までのような何かセクシャルな隠語(符牒)が隠されているのかも知れない(と思うようなった私は一九の猥雑なる詩想にかぶれたのかも知れぬ)。識者の御教授を乞うものである。]

緑なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな 萩原朔太郎

綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四四)年十一月十一日附上田静栄宛書簡(昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集書簡番号七四七)より。死の凡そ七ヶ月前の短歌である。但し、「緣なす」とあるのを「綠なす」に直し、最後の読点を除去した。以下に、書簡全文を示す(踊り字「〱」は正字化し、誤字は後に〔 〕で正字を示した)。

 

 度々御手紙や御詠歌をいたゞき、いつも感慨深く拜見して居ります。特に先日は、わざわざ好物の御見舞まで御持參下され、何とも御厚情御禮の申しやうもございません。

 小生の病氣も、風邪が原因でしたが、それから轉化して紳〔神〕經衰弱症になつてしまひました。今では生理的に大した異狀が無いのですが、紳經衰弱が烈しくなり、戸外に出る事が非常に恐ろしく、一歩も病室から出られません。人に逢ふことは絶對に厭やなので、家人でさへも、用事以外の場合はできるだけ避けるやうにして居る仕〔始〕末です。いつになつたらこの病氣が治るのか、自分ながら到底解りません。何かのチヤンスで、急に心氣一轉したら、明日にでも治るやうな氣がしますが、今の所我ながら心細い次第です。どうも自分の考では、この病氣の原因には、桶〔樋〕口一葉が崇〔祟〕つてゐる如く思はれます。あの退屈な歌を何百首となく、後から後からと持ちこまれたので、それが妙に氣になつて紳〔神〕經を病み出したのが、病氣の前兆のやうに思はれます。もつともその時既に紳〔神〕經衰弱にかかつて居たので、原因と結果が逆になつてたのかも知れません。

 

 御手紙の模樣では、貴女も思想的に大分惱まれて居る御樣子ですが、哲學書に親しまら[やぶちゃん注:「ら」は衍字。]れることは、さういふ際に大へん結構と存じます。僕も靑年時代には、いはゆる「人生の懷疑病」といふ奴にかかり、疑問を解決しようとしようとして、古今の哲學書を片つぱしから濫讀しました。お影で、プラトンを始め、ニイチエ、ベルグソン、シヨペンハウエル、カント、ゼームス等の哲學大要に通じましたが、結局何も得る所はなく、もとの默〔木〕阿彌に終りましたが、とにかく耽讀してゐる中だけは樂しみでした。つまりそれだけ得したわけでした。

 

 この頃よく夢を見ます。數日前には江の島へ遊んだ夢を見ました。小生はよく色彩のある夢を見ますが、江の島の風景が天然色映畫のやうに綺麗でした。

緣〔綠〕なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな、

 

 こんな駄歌をさめて作りました。

 

 今日は少し氣分が好いので手紙をかきました。

                    萩原朔太郎

 上田靜榮樣、

 

上田静栄(旧姓友谷 一八九八年~一九九一年)は女流詩人。大阪生(底本全集の七四七書簡注では山口県生とする)。京城(現在のソウル)の女学校を卒業後、文学を志して上京。田村俊子の内弟子となった。大正一三(一九二四)年に林芙美子との二人誌『二人』を発行し、また、岡本潤や小野十三郎とも同棲するなど、ダダイズムやアナーキズムの詩人たちとの交流の中で詩を書き始める。しかし、その後、『薔薇・魔術・学説』『馥郁たる火夫よ』『詩と詩論』などで活躍していたシュールレアリスト上田保と結婚、モダニズム詩へ向かった。代表作は第一詩集「海に投げた花」(昭和一五(一九四〇)年)。以上は関富士子氏のHP「rain tree」の金属と鉱石の打軋る中へ上田静栄の記載を参照した。書簡中の「桶〔樋〕口一葉が崇〔祟〕つてゐる」というのは、新世社刊の「樋口一葉全集」第五巻(昭和一六年十月刊)の編集を指す旨の注記が底本とした筑摩版全集にある。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十五(一九五〇)年

昭和二十五(一九五〇)年

振り上ぐる鍬を北風來ては砥ぐ

夜の崖の大きさ暗さ蟲絶えて

しゆうしゆうと鉋屑大工透き通る

[やぶちゃん注:「しゆうしゆう」の後半は底本では踊り字「〱」。]

耳嚢 巻之六 桶屋の老父歌の事

 桶屋の老父歌の事

 ある桶や老父、その子に、世の中の人の交(まじは)りを教訓して詠(よめ)る由。
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌シリーズ。標題は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「桶屋の老商歌の事」とある。
・「木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも」「木に竹の無理はいふ」は、性質・内容の異った対象を無理矢理繫ぎ合わせるの意の「木 に竹を接(つ)ぐ」の諺の、筋が通らないことを言う、の意であり、また木は桶の本体、竹は箍の素材であるから「桶」の縁語ともなる。「そこがおや」の「そこ」は桶の「底」に掛けてあり、「おや」は親とその職業の「桶屋(おけや)」の意味にも響き合う。「いはせて桶や」は「言はせて置けや」に、「たが笑ふとも」の「たが」は「誰(た)が」と桶の「箍(たが)」を掛け、また、「たが笑ふ」は「箍が笑ふ」で、桶が朽ちて箍が緩んで水漏れする(「箍が笑う」)の意を掛ける。因みに「箍が笑う」の先には、さらに腐食が進んで、箍を締め直したぐらいでは水漏れが止まらず、腐った一部を補修してもまた、別の箇所から水漏れすることを言うところの「桶が笑ふ」を響かせていよう。カラオケ風に訳そう。
――儂は桶屋なればこそ桶尽くしにて候――
♪木に竹を ♪接ぐよな無理を ♪言うとても ♪桶は大事な底(そこ)が親 ♪言わせて桶(おけ)や ♪箍笑(わろ)うても
市井の無名人の狂歌ながら、和歌嫌いの私でも、技巧も歌意も非常に優れた狂歌であると思う。

■やぶちゃん現代語訳

 桶屋の老父の狂歌の事

 ある桶屋の老父、その子に、世の中での人との交わりの教訓として詠んだ由。その歌、
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも

一言芳談 九十

 

   九十

 

 

 

 法然上人の云、道心をば、ぬすみて發(おこ)したるがよきなり。

 

 

 

〇道心をばぬすみて、元曉(ぐわんげう)法師の持犯要記(ぢぼんえうき)にも内淨外染(ないじやうげせん)をほめられたり。古人眞實に道心ありしは、狂せるがごとくして、名利(みやうり)をいとひ、内行(ないぎやう)まことありけり。

 

 

 

[やぶちゃん注:「元曉」(六一七年~六八六年)「げんげう(げんぎょう)」とも読み、新羅(しらぎ)の華厳僧で新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名は誓幢・新幢、新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、興輪寺の法蔵に華厳を学び、六五〇年に渡唐を図るも、高句麗軍のために失敗、六六一年に再び試みたが、その途次、溜まり水を飲んだところがその溜まっていたものが人の頭蓋骨であったことを知った瞬間、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰った。その後は華厳学の研究に専念し、二四〇巻もの著作を成した。ある日、元曉が街で「誰許沒柯斧
我斫支天柱」という歌を歌った。誰も意味が分からなかったが、武烈王だけは意味が分かって未亡人だった瑤石宮の公主を嫁がせた。その後、元曉は「小姓居士」と名を変え、芸人が与えた瓠(ひさご)に華厳経の「一体無碍人」から採った「無碍」という名を付けて、それをぶら下げて行脚しては歌を作り、仏教を庶民に普及させた。弟子審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都諸寺院で持て囃されるようになり、高山寺にある「華厳縁起」には元暁にまつわる様々な伝説が語られている、という(以上はウィキ元暁を参照したが、一部、表現を勝手に書き換えた箇所がある)。

 

「持犯要記」正しくは「菩薩戒本持犯要記」。

 

「内淨外染」本邦では激しい弾圧を受け続けた日蓮宗の不受不施派などに於いて、身心二元論的な信仰の在り方を述べるのに用いられているようである。即ち、非合法故に外見からの身体は他宗他派に染まっているので外染と言うも、内心は不受不施を堅く信じてやまない故に内浄という。管見した部分的な「菩薩戒本持犯要記」の記載の中には「内淨外染」なり文字列は見当たらなかったが、注の後半から見ても、ここは非常に広義な意で、他者や世間の外界と接する外見の身体は、現実に置かれているところの、よんどころない思想や教派や習俗に染まってしまって気違い染みているように振る舞いながら(まさに前段で私が言った「佯狂」である)、その実、内心は常に南無阿弥陀仏の教えを信じて透明に浄化して澄み渡っている、といった意味合いと思われる。

 

「内行」外に顕わさず、内に秘めて行ずること。]

 

 

2013/02/18

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松葉谷安國寺 普陀洛寺

   松葉谷安國寺 普陀洛寺

 

松葉谷安國寺(まつばがやつあんこくじ)は、日蓮上人、房州よりこゝにこもり、「安國論」をあらはし玉ふところなり。こゝに妙法櫻(めうふさくら)といふ名木(めいぼく)あり。佐竹屋敷、名越道(なごしみち)の方(かた)にあり。佐竹四郎秀義の舊跡なり。日蓮水(にちれんすい)、御猿畑(おさるばたけ)も皆(みな)、この名越坂(なごへさか)のほとりなり。

〽狂 ぢゝばゝのまいりおほきは

 たかさごのまつはかやつの

     そしどうにこそ

参詣(さんけい)

「日蓮さまが、此お寺で『安國論』といふ書物をおかきなさつたといふことだが、儂(わし)の頰(ほう)ぺたへできた、『たんこぶろん』は、いろいろにしても、なをらぬゆへ、「安國論」をおかきなされた祖師さまだから、『たんこぶろん』もご存知であらう。どうぞ、なをりますやうに、とおたのみ申したら、その晩に『たんこぶ』はなをつたが、また、金玉(きんたま)へ『たんこぶ』ができて、金玉がふへたから、金のふへるはめでたい。これも御利益であらうと、お禮參りにまいりました。」

長勝寺(てうせうじ)は名越坂(なごへざか)の西にあり。天照山(てんせうざん)の社(やしろ)、普陀洛寺(ふだらくじ)の觀音(くわんおん)。この先、三浦道寸(どうすん)の城跡(しろあと)あり。

〽狂 此けしきあかず三うらの

  しろあとやうてう

てんせうさんのながめに

「儂は貴樣の見るとほり、酒がすきだから、酒屋を見るたびに酒がのみたいけれど、俺(おれ)ばかりはのまれず、貴樣にものませるから、貴樣だけ、よけい錢がいるゆへ、儂もこらへて、のみたいの辛抱しているが、貴樣、かへるまでは酒をやめてくれぬか。どうだ、どうだ。」

「これは。旦那(だんな)には、おなさけないことを。私(わたくし)、酒は飯よりすきでござりますものを。命にかへてもやめられませぬ。その思(おぼ)し召しなら、いつそのこと、私(わたし)をころしてくださりませ。しかし、そのころす前に、一杯のましてころさるゝは本望(ほんまう)、しんでもいきかはり、しにかはり、幽靈になつて、後引(あとひき)にあらはれます。」

[やぶちゃん注:「妙法櫻」岡部事務所編集の「鎌倉手帳」の「鎌倉寺社巡り その4」にある「安国論寺の妙法桜」に、『安国論寺の御小庵の横に植えられている山桜は「妙法桜」と呼ばれて』おり、『日蓮が持っていた杖を突き刺すとそれが根付いたとされる桜』で、『正式の名称は「市原虎の尾」』と呼称される品種で、『さかさ木で直立には育たず横に広がるという性質を持っている。八重でめしべ一本が杖の形をして外へ飛び出している』『市の天然記念物に指定されている古木』とあって現存する。樹齢七六〇年『ともいわれる古木のため、枯死が心配されて』いたが、『住友林業の研究所によって後継樹の育成が行われて』、平成二三(二〇一一)年にはその苗木が公開されて、境内に植えられた。根付けば三年ほどで花を咲かせるという、とある。リンク先で花も見られる。

「佐竹屋敷」「新編鎌倉志卷之七」に、

〇佐竹屋敷 佐竹屋敷は、名越(なごや)道の北、妙本寺の東の山に、五本骨(ぼね)の扇(あふぎ)の如なる山の疇(うね)あり。其の下を佐竹秀義(さたけひでよし)が舊宅と云。【東鑑】に文治五年七月廿六日、賴朝、奧州退治の時、宇都宮を立ち給ふ時、佐竹の四郎秀義、常陸國より追つて參じ加はる。而して佐竹が所持(持つ所の)旗、無紋の白旗(しらはた)也。二品(にほん)〔賴朝。〕是を咎め給ひ、仍つて月を出だすの御扇(あふぎ)を佐竹に賜はり、旗の上に付くべきの由仰せらる。御旗と等しかるべからざるの故也。佐竹、御旨(むね)にしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹の家これを以て紋とす。此山の疇も、家の紋をかたどり作りたるならん。又【鎌倉大草子】に、應永二十九年十月三日。佐竹上總の入道、家督の事に付て、管領持氏の御不審を蒙り、比企谷に有けるが、上杉憲直(うへすぎのりなを)に仰せて、法華堂にて自害して失ぬ。又其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり。其の祠シ今はなし。此地佐竹代々の居宅とみへたり。法華堂は、比企が谷妙本寺の事なり。

とある。現在の大町にある大宝寺(文安元(一四四四)年創建)の境内が同定されており、その境内には、佐竹氏の守護神社であった多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。これは「其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり」とは無関係なのであろうか?(私には「大多福稲荷大明神」という呼称自体がこの御霊の封じ込めであるように思われるのだが) 更に言えば何故、「新編鎌倉志卷之七」には当時あったはずの大宝寺の記載がない。識者の御教授を乞う。以下、私の「新編鎌倉志卷之七」でのここでの注を転載する。

「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀を参照した)。「文治五年」は西暦一一八九年。「應永二十九年」西暦一四二二年。「佐竹上總の入道」佐竹与義(ともよし ?~応永二十九(一四二二)年)佐竹氏第十六代当主佐竹義篤の弟師義の子で、佐竹山入やまいり家第三代当主。常陸国久米城(現在の茨城県久慈郡)城主。鎌倉府と結託していた佐竹宗家との抗争の果て、応永二十三(一四一六)年の上杉禅秀の乱で禅秀方に参加、持氏方の佐竹義人らを攻撃して乱後も執拗に抵抗を続けたが、鎌倉公方足利持氏の討伐によって、比企谷法華堂で一族諸共に自害した。家督は嫡男義郷、次いで彼の弟祐義が継いだが、宗家との抗争は山入一揆として継続し、与義の死後八十数年後の永正元(一五〇四)年、与義玄孫氏義が滅ぼされるまで続くことになる。本文中に持氏の佐竹討伐の理由を「家督の事に付て」と述べているのは、この宗家との骨肉の抗争を指すようである(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の市村高男氏の記載に拠った)。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に、「佐竹上総介入道山入与義主従十三人の塔の図」がある。参照されたい。「上杉憲直」宅間ヶ谷上杉氏。持氏の側近中の側近であったが、後に幕府軍に敗北した持氏に裏切られて敗死した。

「まつはかやつの」この狂歌のここは、爺婆の「待つ墓」の意を掛けるか。

「儂の頰ぺたへできた、『たんこぶろん』」「たんこぶろん」は「立正安国論」の「あんこくろん」の音に掛けたわけだが、私はこの男の「たんこぶ」が気になるのである。治癒のすぐ後に睾丸に新たな腫瘤が出来たというところからは私は高い確率で、この人物は性病に罹患している可能性が高いように思うのである。軟性下疳菌や梅毒トレポネマの同時若しくは一方の罹患による大豆大のしこりが発生する硬性下疳(げかん)等である。男性の場合は陰茎部などに多く発生するが、口唇部での出現もしばしば見られる。当時の性感染症としては頗る普通に蔓延していた。

「天照山の社」次の項に出る天照山光明寺境内にある稲荷社であろうか。近世の建立。

「三浦道寸の城跡」住吉城址。私はこの今や忘却の彼方に消えつつある、城址を欠かさずに書いて呉れた一九が、何となく好きである。

「後引」飽きることなく現われては、次々に物を欲しがることを言うが、多くは酒についていうから本場面にはぴったりで、またこの語には、酒などを注(つ)いだ際に酒が銚子の口を伝って滴ること、また、その滴りの意もあることから、実に美味い、基い、上手い謂いと言える。]

殺人事件 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。有意な漢字表記の平仮名化が奇妙な饐えた臭いをより醸し出すことに成功している。三つのシーンからなるシークエンスが、初出とこれでは句読点によって微妙にモンタージュが異なるように思われ、また初出の第一連のラスト・カット「九月上旬の殺人。」が第二連のファースト・カットとダブる編集は、如何にも古臭い弁士附きのサイレント映画であるのに対して、ここでは全体が正しくピストルの音のサウンド・エフェクトから始まり、エンディングのいっさんに辷ってゆく曲者の跫音(あしおと)を聴かせてくれる。]

殺人事件 萩原朔太郎 (初出形)

 殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
戀びとの窓からしのびこむ、
床(ゆか)は晶玉。
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれて居る、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いて居る
九月上旬(はじめ)の殺人。

九月上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた、
十字巷路(よつつぢ)に秋のふんすゐ、
はやひとり、探偵はうれひを感ず。

みよ、遠い寂しい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつて行く。
                ――一九一四、八、一二――

[やぶちゃん注:『地上巡禮』創刊号 大正三(一九一四)年九月号所収。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十四(一九四九)年

昭和二十四(一九四九)年

寢臺を鳴らし寢返り墓もなし

死者を夢み夜中の水に手をのばす

病廊を鼠逃るる老婆の死

嬰兒の死白衣を脱ぎて女醫歸る

降る雪を背に雪を這ふ龜なりき

颱風の街に血色の肉のみ賣る

耳嚢 巻之六 祝歌興の過たる趣向の事

 祝歌興の過たる趣向の事

 

 或人、狂歌なども一通りの趣向は面白からず、一ふしあるこそ嬉しけれと、祝歌(いはひうた)を望みしかば、去(さ)る滑稽の人詠(よみ)ておくりしと、

  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿の言祝ぎで連関。但し、この言祝がれる人物が実際に長寿であったかどうかは判然とせぬ。

・「土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて」正字表現で分かり易く書き直すと、

 土左衞門(どざゑもん)に君は成るべし千代(ちよ)よろづ萬代(ばんだい)過ぎて泥の海にて

「土左衞門」は無論、「泥の海」の溺死体であるが、「泥の海」の「泥」で「土」=泥まみれの遺体を掛ける。因みに、水に浮いた水死体を土左衛門と呼ぶのは江戸期からのことで、呼称の由来について、山東京伝の「近世奇跡考」巻一には「案ずるに江戸の方言に溺死の者を土左衞門と云ふは成瀨川肥大の者ゆゑに水死して渾身暴皮(こんしんぼうひ)ふとりたるを土左衞門の如しと戲れゐひしがつひに方言となりしと云」とある。水死の場合、死体は一旦は水底に沈むが、腐敗が始まると体内ガスが発生、更に組織が水を吸ってぶよぶよになり、体が膨満して真っ白になった様態で浮かび上がることがある。この様子が享保年間に色白で典型的なあんこ型体形(締まりのない肥満体)で有名だった大相撲力士成瀬川土左衛門に良く似ていたことからこの名がついたというものである。力士の四股名には伝統名として繰り返し襲名されるものが多いが、この土左衛門はこの成瀬川の後、一度も襲名されることがなかったという(以上の水死体の土左衛門についてはウィキ水死」の「土左衛門」の項に拠った)。

――泥まみれの土左衛門に――貴殿はきっとなるであろう――しかしそれは――千年万年もの――永い永い時が過ぎた――この豊葦原の国が――その上(かみ)の「くらげなすただよへる」泥の海へと戻る時――遠い遠い世になってからのこと……

というぶっとびの長寿の言祝ぎである。しかし、私はこの程度のものでは、凡そ「祝歌興の過たる趣向」とは思わぬ。だいたいが狂歌とはこういうものである。私なら喜んで押し頂き、成瀬川と河童が相撲を取る戯画を添えて床の間に飾るであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 祝い歌とは言えども興が過ぎたるおぞましき趣向の狂歌の事

 

 ある人、

「――狂歌などにても、そんじょそこらに御座る一通りの趣向にては――これ、最早、面白うない。――つ、巧みにヒネリの御座る一首こそ、嬉しいものじゃ。――どうか一つ、かような長寿の祝いの狂歌を――」

と望んだによって、さる滑稽の人、詠みて贈れる、その歌、

  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて

一言芳談 八十九

   八十九

 下津(しもつ)村、慈阿彌陀佛云く、竹原聖(たけはらひじり)がよき也。遠山(とほやま)の紅葉(もみぢ)、野辺(のべ)の一樹(いちじゆ)などの樣に、人目にたつはあしきなり。

〇竹原聖、竹の林は人目たつまじければ、たゞ人知れぬといふ心なり。(句解)
〇人目にたつ、人のうやまひをうけて、自然(じねん)に名聞(みやうもん)になるなり。異をあらはして、衆(しゆ)をまどはすをいましめ給へり。古德も、狂(きやう)をあげ、實をかくせと教へられたり。

[やぶちゃん注:「下津村」旧和歌山県海草郡下津町、現在の海南市下津町。熊野古道の往来地。Ⅱの大橋氏の注に、下津浦『のある紀伊国浜南荘は、藤原摂関領であったが、久安二年(一一四六)高野山の金剛心院に修理料として寄進された』とある。
「慈阿彌陀」不詳。
「竹原聖」とは、本言説のパラドックスとして如何にも風流な響きを残す名ではないか。……私の亡き母は婚姻して「藪野聖子」となったが、母はしばしば幼少期と同じく「藪野聖」と自分でも書き、人もかく「せいちゃん」と呼んだ。しかれば母はその名も正しく藪野の聖=竹原の聖であったのであった――母の生涯は――まさに――竹林の藪の――在野にあって名を隠した理想の――聖テレジア(母の若き日の洗礼名)であったのであった……
「古德」昔の、徳を積んだ人。いにしえの聖(ひじり)。
「たゞ人知れぬといふ心なり」Ⅱの大橋氏注の引用では『たゞ知れぬと云心也』とあって「人」がない。
「狂をあげ」狂人のふりをすること。佯狂(ようきょう)である。]

2013/02/17

雛祭 私のいっとう好きな大鼓と小鼓

これぞ――プエル・エテルヌス……

Goninbayasi3

雛祭 殿と姫

Sinnnou

雛祭 官女

Kanjyo1

雛祭 最上段御殿

Gotenbubunn

雛祭 笛と謡

Goninbayasi2

五人囃子 太鼓と大鼓

Goninnbayasi1

雛祭 五人囃子

Goninbayasi

雛祭 左大臣

Sadaijinn

雛祭 右大臣

Udaijinn

雛祭 仕丁

Sityo

雛人形 調度

この調度類だけは明治末期のもの――細工がとてもいい――
Tyodo

雛人形 全景

僕の妻のもの――僕と同い年の56歳になる人形たち――実に10畳の居間の1/4を占拠する過激派のような雛飾りなんである――


Zen2

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 三 本能 / 本日は雛飾りのためこれにて閉店致します 店主敬白

本日は、雛祭のための雛飾りに入るため、本テクストの公開を最後として閉店致します。悪しからず。

   心朽窩主人藪野直史敬白


    三 本能

 

 動物の中には、人間が智力によつてなすこととよく似たことを、生まれながら自然になし得るものがあるが、本能とは初めかやうな場合に當て嵌めて用ゐた言葉である。例へば、蜜蜂がその巣に規則正しい六角形の部屋を造ること、蠶が蛹になる前に丈夫な繭を造つてその内に隱れること、「くも」が巧に網を張つて昆蟲を捕へること、「ありぢごく」が摺鉢狀の穴を掘つて「あり」を陷れることなどは、いづれもその動物に取つて大切なことであるが、少しも他から習つて行ふのではなく、生まれたままで、何らの經驗もなく、何らの練習もせず直に着手してしかも間違ひなく成功する。これが如何にも不可思議に見えるので、人間の智力などと區別して、この働きを本能と名づけた。特に昔は何とかして人間と他の動物との相隔る距離をなるべく大きくしたいとの考から、人間には智力があるが動物には決して智力はない。動物は如何に巧に目的にかなうた擧動をしても、これは本能によるのであつて決して人間の如くに知惠を働かせた結果ではないと、説いた學者が多かつた。かやうな次第で昔は本能の範圍をきわめて廣くし、動物のなすことならば何でも本能によると見做したが、近來はまた本能の意味を非常に狹くして、その大部分を反射作用の中に入れる人もある。本能といふ言葉の定義に就いては今日なほ議論の最中であるが、こゝには面倒な論を省いて假に經驗にもよらず、智力をも用ゐずに、生活の目的にかなうた行爲を自發的になすことを本能と名づけ、その著しい例を幾つか掲げるだけとする。

[やぶちゃん注:以下に、ウィキの「本能」から、定義・概要・議論史・ヒトの本能・自然主義的誤謬の箇所を引用しておく(記号の一部を変更・省略、一部にリンクを施した)。

   《引用開始》

メリアム=ウェブスター辞書では本能を次のように定義している。「判断を伴わず、環境の刺激によって引き起こされる個体の複雑な反応で、遺伝的で変更がきかない」。しかし本能という用語は歴史的に非常に多くの意味で用いられてきた。現在でもしばしば全く異なる意味で用いられる。従って本能という語が使われた場合、それがどのような意味で用いられているのかを確認する必要がある。動物行動学者パトリック・ベイトソンは代表的な意味として次の九つをあげた。

1 生まれたとき、あるいは発達の特定の段階で存在する性質。

2 学習なしでも存在する性質。おそらくもっとも一般的な用法。

3 遺伝的である性質。高い確率で世代を超えてみられる性質。

4 進化の過程で形成された性質。

5 役に立つようになる前にすでに発達している性質。

6 種・性・年齢などを同じくするグループに共通する性質。

7 動物の行動の一部。例えば狩猟、体を綺麗にするなど。

8 専門化された神経構造を持つ性質。現代神経科学・認知科学ではこの意味で用いられる。例えば顔認識・感情・表情などを司るモジュール。

9 発生的に強靱で、経験からの影響を受けない性質。発生生物学で用いられる。

精神分析では本能を性や攻撃行動に関連する情動として説明する。エロスやデストルドー[やぶちゃん注:フロイトの提唱した死の本能。タナトス。]と呼ばれることもある。

概要

通俗的には母性本能、闘争本能などのように性質を現す語を伴い○○本能という形式で使うことも多い。

専門分野では通常は本能という語の使用は避けられる。動物行動学の他、心理学、神経行動学、神経生理学などの分野では特定の行動に対して本能行動という表現を用いるが、本能の概念とは異なる物である。このばあい対概念は学習行動である。

行動は「本能的なもの」と「非本能的なもの」というように二種類に分けて論じられることが多い。また経験は行動の獲得に、遺伝子は本能に影響を与えると言及される。しかしこのような単純な二分法には動物行動学者からも反対がある。例えばハキリアリは分業化が非常に進んでいるが、分業は与えられた食物によって決まる。同じ遺伝子型が全く異なる行動の表現型を生み出す。望むだけ食事をした母ラットの子は体が大きくなるが、少ない量の食事を与えられた母ラットの子は体が小さい。後者の子ラットは豊富な食事を与えられれば食べ続け肥満となるが、しかし前者の子はそうしない。子ラットの行動(本能)は母胎の状態の影響を受ける。カッコウのオスは幼鳥の時代に遠くで鳴く同種のオスの鳴き声を聞いて求愛のさえずりを学習する。しかし他種のオスのさえずりを学習することはない。このように行動は発達過程で遺伝子、母胎の状況、環境と経験など様々な要因の影響を受け形作られる。したがって、ベイトソンの視点では、行動を学習と本能という二つに分ける事は行動の理解の役に立たない。行動を学習か生まれつきかで二分しない立場は行動生態学などでは標準的である。

これは生物の性質のどのような側面に注目するかの違いでもある。神経行動学などではある神経の構造や働きが行動にどのように影響を与えるかに注目するため、学習の影響を受けない固定的な行動が研究の対象となりやすい。一方で学習そのものも遺伝的な基盤があり、進化によって形作られたいわば「本能」であり、行動生態学の視点ではどの程度学習や経験の影響を受けるかの程度の差でしかない。

議論史

動物行動学の創始者コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンは動物行動の生得性を強調した。これは当時の心理学や動物学の一部で力を持っていた行動主義に対する反発であった。例えばバラス・スキナーは動物の脳には「報酬と罰によって強化される単一の汎用学習プログラム」が作動しているだけだと仮定した。初期の動物行動学者は生得性を単なる現象としてではなく適応、すなわち進化的に形成され生存と繁殖成功に役立つ能力と考えた。適応の視点からは、動物が生まれつき行動に方向性を持っている事は合理的に説明できる。ローレンツの主張した本能は、しかし遺伝決定的な概念であった。アメリカの発達生物学者ダニエル・レーマンはローレンツが発達を無視していると指摘した。ある行動が種に普遍的に見られるからと言って全て先天的に形成されていると考える理由にはならない。例えばカモの刷り込みは本能的だとしても、「何を親と認識するか」は経験の産物である。後にティンバーゲンは生得性を強調しすぎたと述べ、レーマンの視点を支持した。

ヒトの本能

人間に本能があるかどうかはながらく議論の対象であった。しかし前述の通り人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第である。一般的に人間に本能行動はほとんど無いかわずかであると見なされている。また社会学、哲学、心理学の一部では本能を「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつき持っており、変更がきかない」と定義する。この定義の元では性欲や餓えも変更がきくために、本能とは言えないと主張される。極端な行動主義や環境決定論においてはあらゆる種類の「本能」が否定され、行動はすべて学習の結果として説明される。

一方で認知科学、人間生物学(特に社会生物学や人間行動生態学、行動遺伝学)などの分野では人間に本能を認める。ただし本能という語ではなく、生得的、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、モジュールを持つ、と言うような表現を用いるのが通例である。これらの分野で用いられる「本能」は3・4・8の意味のいずれかである。この場合、本能的と見なされることが多い性質には次のような物がある。言語の獲得・利他主義や嫌悪などの感情・ウェスターマーク効果[やぶちゃん注:“Westermarck effect”とは幼少期から同一の生活環境で育った相手に対しては、生長してからは性的関心を持つことが少なくなるとする心理仮説。フィンランドの哲学者・社会学者エドワード・ウェスターマークが一八九一年の自著「人類婚姻史」で提唱したとされる(リンク先のウィキの「ウェスターマーク効果」に拠る)。]・学習バイアス(例えば甘い物はすみやかに好むようになるが、苦みや渋みは好みとなるのに時間がかかる)など。また類人猿と人間では公正さの感覚も本能的であると考えられている。

やや特殊ながら、ほとんど全人類に共通の好意的な挨拶を紹介しておく。まず目を見つめ、眉を少し上げ、数秒そのままで、それから頷くというものである。これは、大人が赤ん坊を見て、あやそうとするときには自然に現れる。ヒューマン・ユニバーサルズも参照のこと。

自然主義的誤謬

本能という語は「戦争がなくならないのは人間に闘争本能があるためだ」のように特定の『好ましくない』とある社会やある立場の人間がみなす行為(攻撃行動、人種差別、性差別など)を正当化する際にも用いられる。また逆に、そのような説明は好ましくない行為を正当化するために行われているという非難を伴うことがある。しかしある性質が本能的であることと、それが倫理的、道徳的に好ましいかどうかは別の問題である。「説明」(○○は本能的である)から「規範」(○○と振る舞うべきである)を引き出すことを自然主義的誤謬、逆に規範から説明を引き出す事を道徳主義的誤謬と呼ぶ。自然に訴える論証も参考のこと。

   《引用開始》

専門分野で「本能」の語使用が避けられるのは、今や寧ろ、その定義の内包や外延よりも、最後に記された自然主義的誤謬が頻繁に発生するからであるように私には見受けられる。]

Koujitusei

[植物の向日性]

 

 植物の種から芽の出るとき、莖になるべき方は必ず上に向つて延び、根になるべき方は必ず下へ向つて伸び、如何に位置を轉倒して置いても、その後に生長する部は必ずこの方角に向く。若し植物にこの性質がなかつたならば、種子から芽生えの生ずるとき、根が空中に向ひ、葉が地中に入り込んで、生活の出來ぬことも屢々あらうから、この性質は植物の生活に取つては極めて大切なものであるが、これなども、經驗にもよらず、智力をも用ゐずしてなすこと故、やはり一種の本能と見なして差支がなからう。また芽生えの植物に箱を被せて光を遮り、たゞ一方にのみ窓を開けて置くと、莖は光の來る方角に向ひ揃つて斜に延びる。これは植物の生活に缺くべからざる日光を出來るだけ十分に受けるに必要な本能であるが、日光といふ刺戟に遇うてこれに應ずる運動をするのであるから、一種の反射作用といふことが出來る。その他植物の葉がなるべく日に當るような位置に向くことも、根が濕氣の多い方へ伸びることも皆本能であつて且反射作用でもある。

Biba

[ビーバー]

 

 動物が餌を捕へ食ふためにさまざまの手段を用ゐることは、前に若干の例を擧げて述べたが、その中の多くは本能による働きである。「くも」が網を張るのも、「ありぢごく」が穴を造るのも、皆生まれながらにその能力を具へて居るので、どこに置いても獨力で巧に餌を取る裝置を造り上げる。これは人間に譬へていへば、恰も工業學校を卒業しただけの學力を、赤子が生まれながら持つて居るわけに當るから、人間からは如何にも不思議に思はれるが、廣く動物界を見渡すとかやうな例は幾らでもある。獸類の中でも北アメリカの河に住む「ビーバー」などは大規模の土木工事を起すので名高いが、これをなすには、まづ多數の「ビーバー」が立木の幹を前齒で囓つて倒し、長さ一米乃至二米位の手頃な材木を幾つとなく造る。次にこれを用ゐて森林の間を流れる河を堰き止めるのであるが、そのためにはこの材木を河底に縱に埋め込み、別に枝を以てその間を繫ぎ、葭の類で空隙を閉ぢ、泥を塗つて堤防を造り終る。出來上つた堤は長さが二〇〇米もあり、高さは二米、幅は四―五米もあるから、獸類の仕事としては隨分驚くべき大きなものである。この堤防のために、河の水は堰き止められ廣い湖水の如き處が出來るが、「ビーバー」の住處としてはこれが尤も都合が宜しい。「ビーバー」は足に蹼を具へた水獸で、敵に遇へば直に水中に逃げ込み、泥で巣を造るに當つても、一方は水中へ逃げ出せるやうに道が附いてあるから、淺い水が廣い面積の處に擴がつて居るのは生活に便利である。「ビーバー」が多數力を協せて堤防を造るのは、即ち自分等の生活に都合の宜しい場處を造るためであるが、これらは動物の本能の中でも隨分著しい方であらう。「ビーバー」は動物園に飼うてあるものでも、材木を與へるとこれを囓つて手頃の大さとし、堤防用として幾つも揃へる所を見ると、この動物の神經系は、現在の境遇の如何に拘らず、先祖代々の因襲に從つて、働くものと思はれる。

[やぶちゃん注:「ビーバー」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor(一属のみ)の、北アメリカ大陸に生息するアメリカビーバー Castor canadensis。他にもう一種、ヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息するヨーロッパビーバー Castor fiber がいる。和名は海狸(かいり/うみだぬき)。]

Sukasidawara

[すかし俵]

Turigamasu

[つりがます]

 

 蝶蛾類の蛹時代は、芋蟲・毛蟲などの幼蟲から、大きな翅を具へた成蟲に形の變る過渡時代で、外面からは實に不活潑に見えるが、内部は極めて忙しい。しかも運動の出來ぬ時期であつて、敵に襲はれた場合に逃げも隠れもせられぬから、多くの蝶蛾類では前以て繭を造つて、豫め自身を護る工夫をする。蠶の繭は單に俵の如き形であるが、他の種類の繭には隨分、形の變つた面白いものも少くない。栗蟲の幼蟲には白色の長い毛が一面に生えて居るので、一名を白髮太郎といふが、これが蛹になる時には、内部のよく見える網狀の繭を造る。俗に「すかし俵」と呼ぶのはこれであるが、空氣の流通を妨げずして、しかも大抵の敵を防ぎ得るやうに頗る巧に出來て居る。また山繭に似た一種の蛾は恰も袋を一端で吊した如き形の「つりがます」と名づける繭を造る。これらはいづれも隨分面白く出來て、考へて見れば實に不思議であるが、路傍の雜木林に普通にあるから、誰も見慣れて不思議とも思はぬ。更に巧妙な繭には次の如きものがある。即ち卵形の繭の一端は閉ぢ一端は開いてあつて、開いた端の孔の周圍からは、硬い絲が筆の穗の如き形に外へ向いて竝んで、孔の入口を閉ざして居る。その有樣は恰も一種の辨の如くで、繭の内から成蟲が出るときには、これを押し開いて何の妨げもなく出られるが、外からは何物も繭の内へ入り込むことが出來ぬ。そして、かやうに巧なものを造るのも本能の働きである。

[やぶちゃん注:「栗蟲」これは蛾の一種で、幼虫がクリの毬(いが)の上から果実に食い入る害虫として知られるところの鱗翅(チョウ)目ハマキガ科ヒメハマキガ亜科クリミガ(別名クリオオシンクイガ)Cydia kurokoiの通称であるが、この種には以下に見るような特異な変態は見られないので、これは丘先生の誤りと思われる。以下の注も参照されたい。

「白髮太郎」「すかし俵」普通、こう呼称するのは鱗翅目ヤママユガ科ヤママユガ亜科 Saturnia 属クスサン Saturnia japonica の幼虫と繭である。以下、ウィキの「クスサン」から引用すると(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、クスサン(楠蚕)『はチョウ目・ヤママユガ科のガの一種。身近に生息する大型の蛾であり、幼虫、蛹に別名がある』。『日本全土の他、中国、台湾にも分布』し、『成虫は開張一〇〇ミリメートル以上、褐色の大きな翅を』持つ。『幼虫はクリ・クヌギ・コナラ・サクラ・ウメ・イチョウ・クスノキなど様々な樹木の葉を食べる。年一回の発生。卵で越冬し、幼虫は四~七月に出現する。幼虫は体長八〇ミリメートルにも及ぶ青白色の大型のケムシで、白色の長毛を生やしているためにシラガタロウと呼ばれる』。『七月前半頃に楕円形の固い網目の繭を作って蛹になり、九月から十月にかけて羽化する。繭は糸を寄り合わせた楕円形のものだが、壁面は網目状に穴が開いているので、スカシダワラ(透かし俵)と呼ばれる』。因みに Saturnia japonica の繭「スカシダワラ」のグーグル画像検索結果はこち。同じく Saturnia japonica の幼虫・成虫の写真を含む(繭の画像は少ない)グーグル画像検索結果はこちらであるが、後者に限っては蛾が駄目な人はクリックすべからず。

「山繭に似た一種の蛾」『「つりがます」と名づける繭』「山繭」とは鱗翅目ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai 及びその亜種を指し、この特殊な繭を形成する蛾はヤママユガ亜科 Rhodinia 属のウスタビガ(薄手火蛾/薄足袋蛾) Rhodinia fugax のことである。ウィキウスタビガによれば、この蛾の繭は『薄い黄緑色をしている下がふくらんだ逆三角形状で木の枝から自らの糸で作った柄を繭の上部に繋いでぶら下がる。また繭に水がたまらないよう繭の下部分には小さな穴が開いている』とあり、『ウスタビガの名前にある「手火」とは、提灯のことで、この木にぶら下がる薄緑色の繭の姿から名付けられた。(一部では、この名は「足袋」から取ったとも言われる。)』とある。なお、ウィキは本種の分類の属表示を『ヤママユ属 Rhodinia』とするが、これは誤りであろう。また Rhodinia fugax の、繭及び幼虫・成虫の写真を含むグーグル画像検索結果は。但し、蛾が駄目な人はクリックすべからず。

「更に巧妙な繭には次の如きものがある。即ち卵形の繭の一端は閉ぢ一端は開いてあつて、開いた端の孔の周圍からは、硬い絲が筆の穗の如き形に外へ向いて竝んで、孔の入口を閉ざして居る。その有樣は恰も一種の瓣の如くで、繭の内から成蟲が出るときには、これを押し開いて何の妨げもなく出られるが、外からは何物も繭の内へ入り込むことが出來ぬ」これはイラガ科イラガ亜科イラガ Monema flavescens の繭(ウズラの卵を四分の一程にしたような形状で、独特の茶色い線の入った非常に硬い殻を持つ。別名スズメノショウベンタゴと呼ばれる)のことを言っているものか。廣野郁夫氏のHPの樹の散歩道 枝先の超硬質オブジェ 空中デザインカプセルの中には何が?に非常に詳しい解説と写真がある。但し、丘先生の説明は、イラガのそれとはちょっと違うような気もする。昆虫は私の苦手とする分野なので、識者の御意見を乞うものである。]

 

 子を産み、育てる働きの方には、本能の最も驚くべき例が少くない。他は後の章に讓つて、こゝにはたゞ一つだけ例を擧げて見ると、琉球八重山産の有名な「木の葉蝶」は、産卵するに當つて、その幼蟲の食物とする「山藍」の生えて居る場處の丁度上に當る樹の枝に産み附けて置くといふことである。これは恐らく山藍といふ草は谷間に生える丈の低い草で、日當りが極めて惡いために昆蟲類の卵の發育するには頗る不利益な位置にあるからであらう。一體蝶類はいづれも、その幼蟲の食する植物に卵を産み附けるもので、紋白蝶ならば大根等に、「あげは」ならば「からだち〔カラタチ〕」などに、それぞれ定まつて居るが、「木の葉蝶」は山藍の葉には産み附けず、丁度その上に當る高い樹木の枝に卵を産み附けて置くと、それから孵つて出た小さな幼蟲は、口から絲を吐き絲にぶら下がつて枝から地上へ降り、丁度その下に生えて居る山藍の葉に達して、直にこれを食ふことが出來るのである。昔ならば慥に造化の妙とでもいうたに違ひない。

[やぶちゃん注:「木の葉蝶」アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科コノハチョウ族コノハチョウ Kallima inachus。インド北部からヒマラヤ・インドシナ半島・中国・台湾・先島諸島から沖縄諸島・奄美群島の沖永良部島と徳之島にかけて分布する。成虫の前翅長は四五~五〇ミリメートルで翅の裏面は枯葉に非常によく似た模様を持つ。模様は個体変異が多く、一匹ずつ模様が異なると言ってもよい。さらに前翅の先端は広葉樹の葉先のように尖り、後翅の後端は葉柄のように細く突出する。一方、翅の表側は藍色で、前翅に太い橙色の帯が入り、裏側とは対照的な鮮やかな配色である。翅の裏側が枯葉に似るため、隠蔽擬態の代表種としてしばしば挙げられるが、疑問を呈する向きもある。例えば、もしも枯葉に似せた姿を擬態として用いるならば、枯葉を背景に羽根の裏を見せるか、枯れ枝に葉のような姿で止まるべきだと考えられるが、この蝶は葉の上で翅を広げるか、太い幹に頭を下に向けて止まるため、枯葉に似せる意味がない、と云う疑義である。現在、沖縄県指定天然記念物(以上はウィキコノハチョウに拠った)。なお、これが実は「隠蔽」擬態ではない、わざと目立つようにしている(最終的にはミューラー擬態)という非常に面白い見解が「神奈川県立生命の星 地球博物館」発行の自然科学のとびらの学芸員高桑正敏「コノハチョウは木の葉に擬態しているのか? ―タテハチョウ類の生存戦略を考える―」にある(リンク先は同誌の電子テクスト)。必読である。

「山藍」双子葉植物綱トウダイグサ目キントラノオ目トウダイグサ科ヤマアイ Mercurialis leiocarpa。但し、前注に示した高桑氏の記載に、『コノハチョウの幼虫の寄主植物として知られているのは、キツネノマゴ科のリュウキュウアイ、シンテンヤマアイ、セイタカスズムシソウ、オキナワスズムシソウなど広義のスズムシソウ属』とあり、この種限定の産卵ではない。なお、高桑氏はこれに続けて、『もし、これらの植物が毒やまずい味の元の成分をもっているとすれば、成虫の体内に捕食者の嫌う物質をもっていると考えてよいでしょう。「世界有用植物事典」をひもとくと、藍の原料として知られるリュウキュウアイについて、解熱、解毒、炎症、皮膚病、虫よけなどに用いる薬用植物であることが記されていました。つまり、幼虫時代にリュウキュウアイを食べたチョウは体内に捕食者の嫌う成分を蓄えている可能性が強いこと、もしそれが事実なら、捕食者にわざと目立つ色彩を見せることが生存上有利になるでしょう。自分がまずいということを、はっきりと知らしめることができるからです』と、ここで、所謂、ミューラー擬態の可能性を示唆されておられるのである。どうです? 面白いでしょう?!]

2013/02/16

交はひの猫や尻尾の暖かし

交はひの猫や尻尾(しつぽ)の温かし

大渡橋 萩原朔太郎 (「純情小曲集」版)

 

 大渡橋

 

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。

 

ああ故鄕にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて齒を嚙めども
せんかたなしや 淚のごときもの溢れ出で
頰(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。

 

[やぶちゃん注:「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)より。「郷土望景詩」の第七番目。初出の句読点の用法は朗読の目安として極めて示唆に富む。また、二連中央部の「しきりに欄干にすがりて齒を嚙めども」はオーバー・アクトで、初出の「しきりに欄干によりて齒嚙めども」に若かない、と私は感ずるものである。二十九年前、私は高校三年生の現代国語の教科書に載るこれを授業したのを忘れぬ。今思えば、二十七歳の私が、この詩を受験を控えた高三の生徒にわざわざ選んで教えたというシチュエーション自体が、今時の公教育の「道徳」観から言えば、如何にもアウトローであると言われよう。そこが、如何にも懐かしいのである。なお、初出同様、以下に同詩集末に附された「郷土望景詩の後に」を示す。]

 

 Ⅱ  大渡橋

 

 大渡橋(おほわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

 

 

大渡橋 萩原朔太郎 (初出形)

 

 大渡橋

 

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社(さうしや)の村より、直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて、荒寥たる情緖の過ぐるを知れり
往(ゆ)くものは荷物を積み、車に馬を曳きたり。
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢えたる感情は苦しくせり。

ああ故鄕にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒を語らん。
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢えたり
しきりに欄干(らんかん)によりて齒嚙めども
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出て
頰につたひ流れてやまず。
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の平野の空は暮れんとす。

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第五巻第六号 大正一四(一九二五)年六月号に所収された「郷土望景詩」十篇の七番目。二連目二行目の「つくせり」は「くくせり」であるが、意味が通じず、「つくせり」の誤植と判断して「純情小曲集」版の「つくせり」に代え、また、同二連の終わりから三行目も「ああれはもと卑陋なり。」であるのを、脱字と判断して同じく「純情小曲集」版の「我」を補った。その他の歴史的仮名遣の誤り(「さうしや」は「そうしや」が、「飢え」は「飢ゑ」が正しい)は総てママ。底本は二連目の中間部の「せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出て」の「て」を「で」の誤植ととっているようだが、「出(いで)て」とも読めると私は判断する。なお、以下に同誌に附された「郷土望景詩の後に」を示す。ルビの「おお」はママ。]

 

   大渡橋

 ◎大渡橋(おおわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず、冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

 

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 比企谷妙本寺 田代觀音

   比企谷妙本寺 田代觀音

 

大御堂(みだう)は、賴朝公、はじめて建立し玉ふ勝長壽院(せうちやうじゆいん)の跡なり。釋迦堂が谷(やつ)は、大御堂の東(ひがし)、北條泰時建立せし釋迦堂の跡なり。文覺(もんがく)の屋敷跡は、この西の方(かた)にあり。この邊、屏風(びやうぶ)山、葛西(かさい)が谷、比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持(もち)なり。この南、坂東(ばんどう)の札所、田代觀音あり。

〽狂 かまくらひ

どれと見へ

    たる

酒のみの

    あと

ひきがやつ

 ちや屋にうかるゝ

「なんと、これから、いつそのこと、裏側(うらがは)から船にのつて、房州の方(ほう)へ、いかふではないか。」

「貴樣(きさま)は獨身(ひとりみ)だから、どこへいつてもよいが、俺(おいら)は妻子(さいし)のあるものだは。内の女房が、俺(おれ)がねれてかへるを、たのしんでまつているだらう。かへしかへし、ひもじい目(め)をせておくのがかわへそうだ。」

「これは、おかしい。なに、お前の嬶衆(かゝあしゆ)がひもじい目をしているものか。今頃は、お前よりわかい男をこしらへて、ちつともひもじい目をすることではないから、氣遣いしなさるな。」

「そんなら、これから、どこへいつてもよいが、儂(わし)が家(うち)をあんじるは、そこばつかり。どうしてまた、俺(おら)が女房のひもじいことのないことを、しつてゐるか合點(がてん)がゆかぬ。」

「それは此前(まへ)、お前が伊勢へいつた時、その留守中、上(かみ)さまが色男をこしらへて、ひもじい目はせぬことを、儂はよく見て、しつているから、それで今度も、そんなことでありませう。」

「そんなら、それでおちついた。さあさあ、これから房州へなりと、どこへなりと出かけるのだ。」

「旅はういもの、つらいものといふが、それは錢(ぜに)なしのことだ。こつちは錢ありだから、おもしろい、おもしろい。」

「なんと、おれが踊(をど)りは色氣があるだらう。それだから、今まで大勢、女の見物(けんぶつ)があつたものを、皆(みな)、どこへか踊りなくしてしまつた。」

[やぶちゃん注:「大御堂」大蔵幕府跡の南方、釈迦堂ヶ谷西の谷。文治元(一一八五)年に頼朝が鎌倉に来て初めて建立した父義朝の菩提を弔うための新寺院、阿弥陀山勝長寿院(大御堂は俗称)があったが、室町時代、鎌倉御所成氏が亡命して間もなく衰亡したものと思われる。

「屏風山」宝戒寺の背後の山。山容が屏風を立てたのに似ていることに由来するという。

「釋迦堂の跡」現在の浄明寺釈迦堂の字地名が残る。大御堂ヶ谷の東の小さな谷の更に次の谷間にあった。北条泰時が父義時追善のために建立、竣工は嘉禄元(一二二五)年。ここにあった本尊清凉寺式釈迦如来像は後に杉本寺に移され、現在は東京都目黒区行人坂にある大円寺にある(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊の白井永二編「鎌倉事典」に拠る)。

「文覺の屋敷跡」文覚は義朝の首を探し出して鎌倉へ持ち帰り、それが勝長寿院へ葬られた。その所縁からか、大御堂ヶ谷入口付近に文覚の屋敷があったと伝えられ、滑川川辺には文覚の座禅窟なるものもあり、この辺りでは滑川は座禅川と呼ばれる。

「葛西が谷」宝戒寺の背後の東南方の地域で、幕府滅亡の東勝寺のあった場所である。

「かまくらひ」は「鎌倉」に、鯨飲馬食の「喰らひ」を掛けるか。

「裏側」は半島の裏側の浦賀に掛けたものであろう。

「比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持なり」妙本寺の池上本門寺住持兼帯については、新編鎌倉志巻之七の「妙本寺」の項及び私の注を参照されたい。

「田代觀音」これは、現在の大町にある坂東巡礼第三番札所安養院観音堂のことを指しているが、その歴史的事実はやや複雑である。それについては、やはり、新編鎌倉志巻之七の「妙本寺」の項及び私の注で考証しているので参照されたい。

「俺がねれてかへるを」底本の鶴岡氏の「ねれて」の注に『老練になる。女陰がやわらかになることも言う。この場合それをかけたしゃれ』とある。失礼乍ら、私が馬鹿なのか、分かったような分からないような注である。主語が「俺が」では、私にはよく分からぬのである。そうした識者の御教授を乞うものである。]

北條九代記 尼御臺政子御鞠を見給ふ 付 判官知康酔狂

       ○尼御臺政子御鞠を見給ふ  判官知康酔狂

同十月下旬、鶴ヶ岡八幡宮の廻廊八足(やつあし)の門、造立供養あり。賴家卿は只、鞠足(きくそく)の遊興に心を蕩(とろか)し身を窶(やつ)し、紀内所行景を世にもてはやし給ふ事又更に類(たぐひ)なし。新玉(あらたま)の春立つ空に返へりて、建仁二年正月より御所の御鞠(まり)は愈(いよいよ)興じて盛(さかり)なり。同夏のころ、尼御臺所は賴家卿の御所に入り給ひ、仰出されけるやう、「紀内所行景とやらん、鞠藝(きくげい)上足(そく)の曲(きよく)を御覽ずべし」とありければ、此會は適(たまたま)千載の一遇たりとて、上下、興に入り給ふ。賴家卿を初(はじめ)て行景以下、此所(こゝ)を晴(はれ)と出(いで)立ち給ひ、日比(ひごろ)に替りて、今日は殊更、御鞠の色定(さだか)に員(かず)も上(あが)らせ給ひけり。日、既に暮れて、燈火を取り、酒宴に及び、白拍子微妙(みめう)とて、舞の上手を召(めし)寄せ、判官知康、鼓を打て舞(まは)せければ、満座、興に催され、數巡(すじゆん)、酒、既に酣(たけなは)なり。知康、銚子を取て、御前に進み、北條五郎時連(ときつら)に酒を勸め、酒狂の餘(あまり)に申しけるやう、「如何に、北條五郎は容儀美(うるは)しく進退閑雅(しとやか)に、諸人に勝れて見えたるに、實名(じつみやう)の甚だ下劣に聞えたり、時連の連の字は錢(ぜに)を貫く貫(つら)の義歟(か)。貫之は歌仙なり。その面影を羨む歟。列々椿(つらつらつばき)の列(つら)ならば、竝木(なみき)の椿を好む義なり。是も萬葉の言の葉なり。旁々(かたがた)以て心得難し。この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟。甚だ奇怪の癡者(しれもの)なり。雜興(ざきよう)を申すも人にこそよるべけれ往昔(そのかみ)、木曾義仲が法佳寺殿を襲ひ奉りて、合戰を致しける時、月卿雲客(げつけいうんかく)、各々見苦しき恥に及びしも、その元は知康が所爲(しよゐ)なりてき。又、義經に一味して、關東を亡(ほろぼ)さんと謀(はかり)しを故賴朝卿深く憤り給ひて、解官追放せらるべき由奏聞を經られし者ぞかし。賴家卿、是等の非道あるを忘れて、親しく近づけらるゝ故に、かゝる事を云散(いひちら)しけり。偏(ひとへ)に右大將家亡後(ぼうご)の御本意(ほんい)に背(そむ)くにあらずや」と、御氣色、殊の外におはせしかば、知康深く恐れ奉り、暫く籠居して出でざりけり。昔、蜀の張奉(ちやうほう)と云ふ者、呉の國に使節として行(ゆき)到る。薛綜(せつそう)と云ふ者、出でてもてなすに、姓字(しやうじ)を以て嘲りて曰く、「犬あるときんば、獨(おほいぬ)たり、犬なきときんば、蜀(にはとり)なり。目を横にし、身を勾(かゞ)めて、蟲、其腹に入る」と云ひしに、張奉、更に對(こたふ)る事能はず、と云へり。蓋(けだし)、是、蜀の字を以て國主を嘲る心なり。呉蜀、爭ひ起りける事は、是等や基(もとゐ)となりにけん。戲謔の詞(ことば)は事に害ありと云へり。この故に、君子は假初(かりそめ)にも戲(たはぶれ)を以て人を嘲らず。知康が戲は誠に小人(せうじん)の行跡(かうせき)かなと心ある輩は彈指(つまはじき)して疎(うと)みけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年十月二十七日、同二(一二〇二)年正月十日・十二日、六月二十五日・二十六日などに基づく。

「今日は殊更、御鞠の色定に員も上らせ給ひけり」普段から顰蹙を買ってばかりおられる頼家卿は、実母であらせられる尼御台様の前にていいところを見せ申し上げなさろうと、この日は殊更、御鞠の色もくっきりと艶やかなものを選ばれ、場庭に出でた行景も、殊の外、美事なる蹴鞠を披露したによって、その得点も普段では見られぬ完璧なもので御座った。

「白拍子微妙」(生没年未詳)は右兵衛尉藤原為成の娘であったが、建久年間に父為成が讒言のために京から奥州へ追放され、母は嘆きのあまり死去、七歳で孤児となった。建仁二(一二〇二)年三月に頼家が比企能員の邸で花見を催した際に召されて、頼家の前で舞を舞ったが、その席で微妙は、父の行方を捜すため、舞の修行を積んで東国へ赴いた事を涙ながらに頼家に訴えた。それを聞いた者は皆、涙して、早速に奥州へ使者を派遣する事が決められた(「吾妻鏡」建仁二年三月八日の条)。その一週間後、政子が将軍御所を訪れ、微妙の舞を鑑賞、その後、微妙は政子の邸に引き取られている(同三月十五日の条)。これは、頼朝と同じく漁色家であった頼家が微妙に手を出すのを未然に防ぐためと考えられる。このシークエンスはこの間にあって、同年八月五日には奥州へ派遣していた探索の使者が帰参、微妙の父が既に死去していた事実を告げられる。世を儚んだ微妙はその十日後、父の菩提を弔うために栄西の禅坊で出家を遂げ、法名を持蓮とした。政子は微妙を哀れみ、深沢の里の辺りに居所を与えている。この前後に起こった彼女に纏わるゴシップについては次の「白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す」を参照のこと。

・「判官知康」平知康(生没年不詳)は貴族、壱岐守平知親の子。検非違使左衛門尉。鼓の名手であったことから鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。元は北面武士で後白河院の信任篤く、院の近臣となった。寿永二(一一八三)年七月に平家が都落ちをし、木曾義仲が入京すると、幾度か法皇方交渉役として義仲を訪れている。「平家物語」では、彼が義仲軍の軍兵の乱暴狼藉を鎮めるように義仲に要請したところ、義仲から「和殿(わどの)が鼓判官といふは萬(よろづ)の人に打たれたか張られたか」と尋ねられて面食らい、法皇に義仲討伐を進言したと記されている。知康は院御所の法住寺殿に兵を集め、公然と義仲に対決姿勢を示し、法皇方は義仲に洛外退去を要求、応じねば追討の宣旨を下すと通告した。怒った義仲は寿永二(一一八三)年十一月十九日、知康が防戦の指揮を執っていた法住寺殿を攻め、法皇方は完膚なきまでに敗れ、後白河院は義仲に捕らえられて幽閉、知康も解官された(法住寺合戦)。後、元暦二(一一八五)年に検非違使に復官し、在京中の源義経に接近するも、義経が頼朝と不和となって都落ちすると同時に、知康も再び解官されてしまう。翌元暦三(一一八六)年、その弁明のために鎌倉へ下向した際、第二代将軍頼家の蹴鞠相手として目を掛けられて留め置かれて側近となっていた。なお、その十七年後の建仁三(一二〇三)年に頼家が追放されて伊豆国修禅寺に幽閉されると、知康は帰洛した(以上はウィキの「平知康」を参照した)。履歴と言い、衒学的な発言や、そそこから彷彿としてくる厭らしい人品と言い、如何にも癖のある男である。生年は不詳ながら、この当時、有に四十代を遙かに越えていたと思われる。

・「北條五郎時連」北条時政三男で、北条政子や義時の異母弟であった鎌倉幕府初代連署として知られる北条時房(安元元(一一七五)年~延応二(一二四〇)年)の初名。名は既出であるが、注してこなかったので、ここで注す。文治五(一一八九)年、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久一〇(一一九九)年に源頼朝が死去し、頼家が将軍に就任するとその側近として随従し、頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、比企氏討伐の折には兄義時と共に迅速な討伐を積極的に主張したことから、実は彼は北条氏一門のためのスパイとしての役割を果たしていたと推定されている。建仁二(一二〇二)年に時房と改名しており、以下に示す通り、「吾妻鏡」では、この話の一件によって頼家から改名を提言され改名したと載る。建仁三(一二〇三)年に比企能員の変によって頼家は追放されるが、時房はこれに連座せず、北条氏の一門として次第に重きをなすようになってゆく。承元四(一二一〇)年、政所別当に就任、建保七(一二一九)年の実朝暗殺の直後には上洛して朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還、承久三(一二二一)年の承久の乱では泰時とともに東海道を進軍して上洛、泰時とともに京に留まって初代六波羅探題南方となっている。元仁元(一二二四)年に兄義時が死去すると、先に鎌倉へ帰還していた執権泰時の招聘を受けて帰鎌、泰時を補佐するために請われて同年に初代連署に就任している(以上はウィキの「北条時房」に拠った)。この当時は、満二十七歳であった。

「列々椿の列ならば」「並んで生い茂った椿の木」の「つら」という意味ならば。

「竝木の椿」如何にも平凡な何処にでもある、見どころのない椿の木。

 

「是も萬葉の言の葉なり」「万葉集」巻一の五四番歌、

   大宝元年辛丑(しんちう)秋九月、太上天皇(おほきすめらみこと)の紀伊國に幸(いでま)しし時の歌

  右の一首は坂門人足(さかとのひとたり)

巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を

を指す。これは紀の牟婁(むろ)の湯(現在の白浜温泉)に持統天皇が御幸した際に、随行した坂門人足が詠んだもの。

●「大宝元年」は西暦七〇一年。

●「巨勢山」現在の奈良県西部御所(ごせ)市古瀬付近にある山。歌枕。

●「つらつら椿」白文の万葉仮名では「列〻椿 都良〻〻尒」とあり、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏注によれば、『原文の字のごとく花の点々と葉間に咲く姿による名。本来「つば木」は「つら木」か。「つらつら」を「つばら」という。今のツバキとも山茶花ともいう。中国の椿は別物。』とあるが、ここでの知康は無論、今の椿の意で採っている。この「つら」の音の畳み掛けは、一種の言霊で、言祝ぎの謂いを持っているようである。

●「つらつらに」よく。つくづくと。

●「思はな」御幸は秋であるから巨勢山に連なり咲く椿のさまを想像して言祝いでいるのである。

 

「旁々以て心得難し」時連は美形であるのに、「連(つら)」という名は、あろうことか、銭を貫く「貫(つら)」の意……まあ、尤も、かの紀「貫」之は歌仙として有名なれば、貴族歌人のかの名声を羨んで、あやかろうとでも思うたものか……いやいや、それとも「つらつら椿」……かの「列(つら)」の意とならば……これまた、どうにも奇っ怪至極……平々凡々たる、見どころもなき椿を、敢えて好む……という意となる。……まあ、しかし、これもまた、「万葉集」の中にある和歌の言の葉では御座るが、の……さても武門の誉れの美青年が……やれ、銭緡(ぜにさし)だの……やれ、文弱歌仙貫之だの……やれ、凡なる椿が好きだの……やれ、「万葉集」だのと申すは……これ、どれもこれも心得難い、と言うのである。如何にも嫌味でペダンチックそのものである。

『……この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟……』の部分、その宴席でのシークエンスとして臨場感のある描かれ方がなされているが、実際には、政子の台詞は、翌日に帰った政子の、自邸での場面になっている。筆者の、このカップリングは美事である。以下、「吾妻鏡」の建仁二(一二〇二)年六月二十五日と二十六日の二日間を続けて見よう。

〇原文

廿五日戊戌。陰。尼御臺所入御左金吾御所。是御鞠會雖爲連日事。依未覽行景已下上足也。此會適可爲千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之處。即屬晴。然而樹下滂沱。尤爲其煩。爰壹岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申尅。被始御鞠。左金吾。伯耆少將。北條五郎。六位進。紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企彌四郎。大輔房源性。加賀房義印。各相替立。立員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勸盃。及數巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勸酒於北條五郎時連。此間。酒狂之餘。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂拔群處。實名太下劣也。時連之連字者。貫錢貨儀歟。貫之依爲哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。將軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日戊戌。陰(くも)る。尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。是れ、御鞠の會連日の事たりと雖も、未だ行景已下の上足(じやうそく)を覽ざるに依つてなり。此の會、適(たまたま)千載一遇たるべきの間、上下、興に入る。而るに夕立降り、遺恨の處、即ち、晴れに屬す。然れども、樹下の滂沱(ぼうだ)、尤も其の煩ひたり。爰に壹岐判官(いきのほうがん)知康、直垂(ひたたれ)・帷(かたびら)等を解き、此の水を取る。時の逸興なり。人、之を感ず。申の尅、御鞠を始めらる。左金吾・伯耆少將・北條五郎・六位進(ろくいのしん)・紀内・細野兵衛尉・稻木五郎・冨部五郎・比企彌四郎・大輔房源性(たいふばうげんしやう)・加賀房義印(ぎいん)、各(おのおの)相ひ替りて立つ。立員(たちかず)三百六十なり。昏黑(こんこく)に臨みて、事(こと)訖んぬ。東北の御所に於いて勸盃(けんぱい)有り。數巡に及ぶ。舞女微妙を召し、舞曲有り。知康、鼓の役に候ず。酒客、皆、酣(たけなは)なり。知康、御前に進み、銚子を取り、酒を北條五郎時連に勸む。此の間、酒狂の餘りに、知康、云はく、

「北條五郎は、容儀と云ひ、進退と云ひ、拔群と謂ひつべき處、實名、太(はなは)だ下劣なり。時連の連の字は、錢貨を貫く儀か。貫之哥仙たるに依つて、其の芳躅(はうちよく)を訪(とぶら)ふか。旁(かたがた)然るべからず。早く改名すべきの由、將軍、直(ぢき)に之を仰せらるべし。」

と云々。

全く、連の字を改むべきの旨、北條、之を諾し申さる。

 以下、語注を附す。

●「樹下の滂沱」蹴鞠をする場庭の木の下の水溜まり。諸本は「滂沱」を「滂池」とするが、誤字と採った。

●「爰に壹岐判官知康、直垂・帷等を解き、此の水を取る」知康は、着ていた直垂と帷子などを脱ぐと、それを水溜りに置き懸けて、その水を吸わせて取り除いたのである。

●「申の尅」午後四時頃。

●「伯耆少將」藤原清基。以下、幾人かを示す。「六位進」盛景。前皇后宮少進。詳細不詳。●「立員」蹴鞠の蹴り数であろうか。「たちかず」と訓示じたが、諸本は「立」を衍字と考えているらしい。

●「芳躅」の「躅」は足跡の意で、よい行跡のこと。古人の行跡や事跡を敬っていう語。

 

〇原文

廿六日己亥。陰。尼御臺所令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊豫守義仲襲法住寺殿。依致合戰。卿相雲客及恥辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義經朝臣。欲亡關東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被經奏聞訖。而今金吾忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御氣色云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日己亥。陰り。尼御臺所、還らしめ給ふ。

「昨日の儀、興有るに似たりと雖も、知康、獨歩の思を成し、太だ奇恠なり。伊豫守義仲、法住寺殿を襲ひ、合戰を致すに依つて、卿相雲客(けいしやううんかく)、恥辱に及ぶ。其の根元は、知康の凶害に於いて起こるなり。又、義經、朝臣に同意し、關東を亡ぼさんと欲するの間、先人、殊に憤らしめ給ひ、解官追放せらるべきの旨、奏聞を經(へ)られ訖んぬ。而るに今、金吾、彼(か)の先非を忘れ、昵近(ぢつきん)を免(ゆる)さる。亡者(まうじや)の御本意に背く。」

の由、御氣色有りと云々。

 

「昔、蜀の張奉と云ふ者、呉の國に使節として行到る。薛綜と云ふ者、出でてもてなすに……」以下の話は「三国志」の「呉志」の「第八 薛綜伝」に載る故事。但し、これには前段があり、その場で張奉が呉の尚書(皇帝への上奏を取り扱う役職)にあった人物の姓名を分解して意地悪い解釈をしてからかったのに反撃したのがこれで、「蜀」の字は「犬」(けものへん)が居ると「獨」――さるくいざる(猿食い猿:猿を食う猿の一種で常に独居し叫び声も一声という。他に「獨」には、子孫のない者などの意もあるから極めて不吉非礼である。)――であり、犬が居ないと「蜀」(とうまる:大型の鶏の一種。蜀鶏。また「蜀」の原義は毛虫や青虫でもある。)――である。「蜀」とは、「目」を邪まにも殊更に横にし、身を醜く「句(かが)」めて、その腹中には「虫」がさえ居ると答えた。答えに窮した張奉が「では呉とは何か」と問われると、「口」がなければ「天」になり、「口」があると「呉」で、万邦に君臨して天子の都である、と答えたという(以上は、個人サイト「極私的三國志」の三國志 余話〇四」揶揄や綿貫明恆氏の文人閑居文字 第六(1)等の記載を参考にさせて戴いた)。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十三(一九四八)年

昭和二十三(一九四八)年

 

拳(こぶし)もて胸打つ猿の寒の暮

 

冬濱に老婆夜明けの火を燃やす

 

冬濱に犬の頭骨いつまである

 

死が近し端より端へ枯野汽車

 

誕生日眠れぬ貝が音を立つ

 

蛙田に蛙の祭日蝕下

 

[やぶちゃん注:『天狼』六月号所収。昭和二三(一九四八)年五月九日に日本では部分蝕が観測された(礼文島では金環蝕)。]

 

蠅しかと交むを待ちて一撃す

耳嚢 巻之六 長壽の人格言の事

 長壽の人格言の事

 

 松平上野介の家士に山川文左衞門といへる男、百歳餘になりて近頃みまかりしが、老病の床中へ、予がしれる醫をまねきて、我も最早此度(このたび)限りなるべき、壽算殘る事なければ、藥も用ひべき心なけれど、孫など彼是(かれこれ)すゝめて事六ケ敷(むつかし)ければ、是も又尤なる故、なじみの甲斐に藥を調じ給はるべしといひしゆゑ、藥を與へけるに、彼(かの)老翁申けるは、さて人も長壽をねがひしは常なれど、長壽も程有(ある)べし、素より人の禍福にはよれど、我身は子をも先立(さきだ)て、今(いま)孫に養はれて不足もなけれども、いにしへの知音(ちいん)はみな泉下(せんか)の人となり、中年の知る人も殘るものなく、何をかたり何を咄さんとしても、我のみしりて人しらず、誠やしらぬ國にあぶれぬるも同じ事にて、心にも身にも樂しと思ふ事はなし、しかれば死したるも同じ事なりと語りしと、彼老醫の語りけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。九つ前の「長壽莊健奇談の事」の中川軍兵衛(享年一二一歳)からこの山川文左衛門(享年一〇〇余歳)へ長寿譚で連関するが、軍兵衛のそれが精力絶倫でポジティヴであったのに対し、この文左衛門の述懐は痛くネガティヴである。個人の持って生まれた性格の相違ででもあろうが、私は断然、文左衛門派である。

・「松平上野介」出雲国松江藩の支藩である広瀬藩。藩庁として、かつての出雲の中心地であった現在の安来市広瀬町に広瀬陣屋が置かれていた。寛文六(一六六六)年に松江藩初代藩主松平直政次男近栄(ちかよし)が三万石を分与され立藩した藩。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時の藩主は第七代直義(ただよし 宝暦四(一七五四)年~享和三(一八〇三)年)か、第六代藩主近貞の長男で第八代藩主となった直寛(なおひろ 天明三(一七八三)年~嘉永三(一八五〇)年)の何れかである。

・「誠や」「誠」は感動詞、「や」は間投助詞。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿の人の格言の事

 

 松平上野介の家士に山川文左衛門と申す御仁、百歳余になって、近頃身罷って御座ったが、老衰の病いが進んだその床(とこ)の辺(べ)に、たまたま私の知っておる医師を招き、

「……我らも最早……この度(たび)は……遂に限りとなったと知れる……寿命……これ……残りなければこそ……薬なんど用いんと欲する気持ちは……これ……全く以って無い……じゃが……孫なんどの……かれこれと療治を勧むること……これ……如何にも難儀なことじゃ……じゃが……孫の身になって考えてみれば……これもまた……尤もなることゆえ……馴染みの甲斐に……一つ……お茶濁しにて……よう御座るによって……調じては下さる……まいか……」

と申すによって、当座の痛みや覚醒の対症なる薬を調じて与えたと申す。

 されば少し、落ち着いたによって、意識もやや聡明となった、かの老翁、

「……さて、人が長寿を願うは、これ、常のことなれど、長壽も『程』というものが、これ、あるべきことにて御座る。……

……もとより、各人の生涯に受くるところの、禍福の度合いにはよれど、……我が身は実子にも先き立たれて、今はその孫に養われて御座る。……そのことに不足なんどは、これ、あろうはずも御座ない。……

……じゃが、古えの知音(ちいん)は、これ、皆、泉下(せんか)の人となり、……中年の知れる人もこれ最早、没して残る者もおらずなって、……

……何を語り、何を話さんとしても、……

……これ、我らのみ知りて、他人には丸で一向に分からぬことばかり、……

……他人にとってはこれ、……遠い遠い、昔々の、……そのまた昔の話としか、映らぬ。……

……ほんに!……

……これ……我ら……見知らぬ異国に流浪して御座るも……同じ事にて……

……心にも身にも……楽しいと思ふことは……

……これ……全く……御座ない……

……しかれば……我らは……

……死したるも同じことにて……御座るのじゃて…………」

と語ったと、かの老医の語って御座った。

耳嚢 巻之六 いぼをとる呪の事

 いぼをとる呪の事

 

 いぼ多く出來て、愁ふる人あり。多少にかぎらず、雷の鳴る時、右光り音を相圖に、みご箒(はうき)にてはけば、必ずなをる事奇々妙々なりと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。呪(まじな)いシリーズであるが、これ、実は十三話前の「いぼをとる呪の事」

 

 いぼをとる呪の事

 

 雷の鳴る時、みご箒(はうき)にて、いぼの上を二三遍はき候得(さふらえ)ば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。

 

の話柄のほぼ同内容の重出である。……百話の致命的な残念な瑕疵で御座る、根岸先生……どうなさってしまわれた?……

・「いぼ多く出來て」これは、所謂、魚の眼とは異なり、一般的に手足や顔にできる疣で、削ったりしても増殖し、放置してもどんどん増えるタイプの疣を指している。これは尋常性疣贅(ゆうぜい)と呼ばれる、ヒトパピローマ・ウイルス二型・二十七型・五十七型の感染で生じるウィルス性皮膚疾患である。

・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣(いぼ)を取る呪いの事

 

 疣が多く出来て、非常に悩む人がままあるが――さても、その疣の発生の多少に限らぬのであるが――雷の鳴る時、その雷電がピカリ!――一閃し――ドッシャン! ガラガラッツ!――と音がしたのを合図に――すかさず!――稈心箒(みごほうき)を以って掃けば――必ず治ること、これ、奇々妙々で御座る――と、さる人の語って御座った。

2013/02/15

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 瑞泉寺 天台山

   瑞泉寺 天台山

 

大塔(とう)の宮の土(つち)の牢(らう)は、二階堂村の山際にあり。二階堂は永福寺(ゑいふくじ)の跡、礎(いしずへ)ばかり、のこれり。瑞泉寺(ずいせんじ)は、土の牢の東北(ひがしきた)にあり、錦屏山(きんびやうさん)といふ。本尊、釋尊。一覽亭の跡、この山上、座禪窟(ざぜんくつ)の上にあり。天台山(てんだいさん)は、一覽亭の北の山をいふ。高山(こうざん)なり。

〽狂 見と

 れつゝ

人はうご

   かぬ

ざぜんくつ

にほんいちらん

 ていのけしきに

旅人

「さては、こゝは昔、大塔の宮さまの土の牢か、こんな所にはいつてござつて、御窮窟であつたらう。儂(わし)がわかい時、ふとしたことから、おこつて、座敷牢へいれられたことがあつたが、それでも親といふものは、ありがたいもので、

『あれが獨りでさみしからう』と女(おんな)を一人くれたから、ほかに所在(しよざい)はなし、それから夜晝、子をこしらへることにばかりかゝつてゐて、毎年、うませたものだから、子がふへると、親父(おやぢ)がまた、

『あの子が不憫な。座敷牢がせまからう』

といつて、路地(ろじ)の隅に小屋をかけて、皆(みな)、そこへやられて、皆、そこで、その子どもをそだてるに、だんだん子どもが大きくなつて、後には路地へはひだして、そこらぢうへたれるものだから、長屋の奴等(やつら)が、小言(こゞと)をいふには、

『いまいましい。この頃は、溝板(どぶいた)の上が人間の糞(くそ)だらけで、ふんづけるにこまる。いつそのこと、あの子どもを炭俵(すみだわら)へでもいれて、すてゝしまへ』

と、ある晩に長屋の奴が二人、頰被(ほうかぶ)りして、子どもすてやうと、そこらをまごついたものだから、子どもが見つけて、強氣(がうぎ)にほへるから、

『だれかきたそうな。泥棒(どろぼう)ではないか』

と、儂が小屋から、ぬつと出たら、

『そりやこそ、親犬(おやいぬ)が提燈(てうちん)もつて出てきたは』

とにげたから、おかしかつた。」

[やぶちゃん注:「天台山」の「台」の表記は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」に拠った。

「大塔の宮の土の牢」「大塔の宮」は後醍醐天皇の皇子護良(もりよし/もりなが)親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年)のこと。天台座主であったが元弘の乱(元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が起こした二度目の鎌倉幕府討幕運動)が起きると還俗して参戦する。以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐・村上義光らとともに十津川・吉野・高野山などを転々としながら二年に亙って幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼしたりしたが、当初から足利尊氏と関係が悪く、討幕後の建武の新政で征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたものの、尊氏は勿論、父後醍醐(この不和は討幕戦の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まるとされる)やその寵姫阿野廉子とも反目して、遂には尊氏暗殺のために兵を募り辻斬りを働いたりした。その結果、征夷大将軍を解任、更に建武元(一三三四)年冬には皇位簒奪を企てたとして父の意を受けた名和長年・結城親光らによって捕らえられ、鎌倉へ護送、鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟直義の監視下に置かれた(この皇位簒奪疑惑は現在では濡れ衣であったと考えられている)。翌年、北条時行による中先代の乱が起きた際、一時的に関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、二階堂ヶ谷にあった東光寺に幽閉されていた護良親王が、万一、時行に奉じられた不都合を警戒した直義が家臣の淵辺義博に殺害させた(以上はウィキの「護良親王」に拠った)。「新編鎌倉志卷之二」に既に、

大塔宮土籠 大塔宮(おほたふのみや)の土籠(つちのろう)は、覺園寺の東南、二階堂村の山の麓に有り。二段の石窟なり。内は八疊敷ばかりもあり。

とあり、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されてはいる。しかし、古記録では土牢は登場せず、あくまで屋敷内への軟禁であったと思われ、「鎌倉攬勝考卷之七」でも植田孟縉は、土牢説を『妄説』として退けており、この「復元」された土牢も、郷土史研究家の間では頗る付きで評判が悪い、ということだけは、付け加えておきたい。

「永福寺(ゑいふくじ)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「えうふくじ」とルビし、現在の廃寺の呼称でも「ようふくじ」である。

「錦屏山(きんびやうさん)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「きんへいざん」とルビし、現在の呼称でも「きんぺいざん」である。

「所在はなし」「所在無し」は、することがなくて退屈、手持ちぶさただ、の意。どうもしかし、この冗談は如何にも変なシチュエーションで、私は生理的に何だか不快で、笑えない、「おかし」くない、寧ろ、いやな話である。]

戰場での幻想 萩原朔太郎 (「宿命」版)

 戰場での幻想

 機關銃よりも悲しげに、繫留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、毒瓦斯よりも沈痛に、曳火彈よりも蒼白く、大砲よりもロマンチツクに、煙幕よりも寂しげに、銃火の白く閃めくやうな詩が書きたい!

[やぶちゃん注:「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)より。初出よりも、よりそのままの状態で比喩を投げ出したままにした結果、詩想の先鋭さはより噴出していると言える。但し、この決定稿が、初出で朔太郎の訴えたかったはずの――「敵意と感傷にみち」ている「詩」を書きたいのだ!――という死を賭した絶叫として「宿命」の読者に聴こえたかどうかは、これ、やや疑問である気がする。特に「大砲よりもロマンチツクに」という比喩は寧ろ、仮想の戦場の持っていたはずの血や肉の臭いを払拭してしまい、人によっては詩人の虫のいい身勝手な懇願のように思われてしまう、この現実の朔太郎の肉声が響いて終わるというのを、少なくとも私は好まない。そういう意味で初出のコーダ「見よ、鐡製の兜を被つて、兵士は銃の先に劍を突けてる。」の方が遙かに――詩となってる――と私は思うのである。]

戰場での幻想 萩原朔太郎 (初出形)

 戰場での幻想

 機關銃よりも悲しげに、曳火弾よりも靑白く、繫留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、そして毒瓦斯よりも沈痛に、敵意と感傷にみちた詩が書きたい!
 見よ、鐡製の兜を被つて、兵士は銃の先に劍を突けてる。

[やぶちゃん注:『セルパン』第十七号 昭和七(一九三二)年一月号所収。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十二(一九四七)年

昭和二十二(一九四七)年

百姓のゆまりや寒の土ひびく

簑蟲や簑の中なる眞暗闇

簑蟲の簑の枯葉の枯れ極まる

簑蟲の簑を引きづる音の夜

[やぶちゃん注:「引きづる」はママ。]

簑蟲の眠りの長さ夜の長さ

寒淸き天より鳶の逆落す

  有名なる街

廣島に尽きも星もなし地の硬さ

廣島の夜陰死にたる松立てり

廣島や石橋白きのみの夜

廣島や物を食ふ時口開く

廣島や卵食ふ時口ひらく

廣島の遠き聲どつと笑ふ

廣島が口紅黑き者立たす

廣島に黑馬通り闇うごく

廣島に林檎見しより息安し

廣島や林檎見しより息安し

[やぶちゃん注:「廣島や卵食ふ時口ひらく」及び「廣島や林檎見しより息安し」の改稿は自註句集「三鬼百句」(昭和二三(一九四八)年現代俳句社刊)のもので、その他の八句は同年の『俳句人』五月号「有名なる街」句群の総てである。]

砂曇り沖に冬日の柱斜め

きりぎりす空腹感に點を打つ

炎天の女の墓石手に熱く

墓地を出で西日べたつく街に入る

書を賣るは指切るごとし晩夏の坂

耳嚢 巻之六 肥後國蟒の事

 肥後國蟒の事

 

 享和元酉年初夏九日の事なりし。肥後國天草郡井手村に熊藏といへる百姓、廿四歳になりけるが、其身大兵(たいひやう)にて小ぢからもあり、近郷にて角力(すまふ)取けるが、俗説ににが身(み)とかいふものならん、蛇などをとらへ慰し事もありける由。卯月九日、井手村と鬼の池境(さかひ)、谷間の田地へ肥(こや)し入(いれ)んとしける折節、山間より凡(およそ)三四間(げん)もあるべき蟒(うはばみ)出(いで)て熊藏を呑(のま)ん氣色なれど、深田なれば急に迯(にげ)ん事もかなわず。詮方なく擔(にな)ひし桶の棒にて五六度力を入れたゝきけるに、鐡か石をうつ如く音して、かの棒をも取(とり)落しけるに、彼(かの)蟒熊藏が肩へ來懸り候を、だかへけるが、凡三四拾貫めもあるべき盤石(ばんじやく)の如くなるを、角力をとりし覺へあれば、其度々に三四度も請(うけ)てはゝづし、請ては突(つき)落しければ、渠も少し猶豫(いうよ)しけるゆゑ、蟒にむかひ、我等親兄弟もあれば、村方へ歸り暇(いとま)乞ひなして勝負せん間、必(かならず)此所(ここ)に待(まち)居べしと、高聲(こわだか)にのゝしりければ、蟒も心得し體(てい)故、急ぎ宿へ歸り、しかじかと咄し脇差を帶し、右場所へ行けば、村方のものも銘々鎌棒やうのものを持(もち)、五六十人も追々罷(まかり)越し、山影に隱れ、蟒出(いで)ば打殺さんとひしめきける故、熊藏も聲をあげ、約束の如く勝負に來りしと、罵り呼ばりけれど、熊藏が、親兄弟に對面して來らんと云ひし孝義(かうぎ)に伏しけるか、又は同志をかり催し來(きたら)んとの事を察し恐れて出ざるや、かいくれ行方(ゆくへ)しれず。彼が最初に出しあたりは草木も押たをし、土石も崩れ損じける由。天草郡富岡町の旅宿荒木市郎左衞門といへるもの、御普請役松本左七え語りしとて、其有さまを繪に書(かき)て、御勘定所にて取ざたせしを見しまゝに、記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:可愛い鶉から悍(おぞ)ましき蟒ではあるが、動物奇譚で連関する。

・「享和元酉年初夏九日」享和元・寛政十三年辛酉(かのととり)の年の四月九日。新暦に直すと西暦一八〇一年五月二十一日。この年は、二月五日に改元している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから凡そ三年前の比較的ホットな怪異譚である。

・「肥後國天草郡井手村」現在の熊本県天草郡五和町(いつわまち)大字井手。天草下島の北部の山村。

・「にが身」これは、ある対象や生物が「苦手」とする、常人とは異なった優位な不思議な力を持つ人の意。小学館の「日本国語大辞典」には、「苦手」の項に、『その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕えられるなどという』力であることを例示し、「苦身(にがみ)」の項には、以上の苦手の能力を持っている人として、この「耳嚢」の本文を例示してある。

・「鬼の池」現在の天草郡五和町鬼池。井手の東北で、下島の北端部早崎瀬戸に面した近海地帯である。

・「三四間」約五・四五~七・二七メートル。

・「深田」水気の多い低級な沼の如き泥田・汁田の類い。

・「三四十貫目」約一一二・五~一五〇キログラム。

・「富岡町」現在の天草郡苓北町(れいほくまち)富岡。井手の西方、下島北西端の天草灘に面する苓北町は数百年にわたって天草の中心地であった。天草全土が「苓州」と呼ばれていたことから、苓北と名付けられた。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部にある町ということからその名がついた。鎌倉時代初期の元久二(一二〇五)年に志岐光弘氏が志岐六ヶ浦の地頭となり、坂瀬川・志岐・都呂々(とろろ)・富岡を含む天草下島の北部一帯を約四百年の間、統治し続けた。戦国末期には全盛期を迎え、キリシタン大名志岐麟泉がイエズス会の宣教師を招いて布教を許し、キリシタンを受け入れた(これを通じて麟泉は南蛮貿易を行おうとしたが実現はしていない)。江戸期にはこの富岡に代官所が置かれて、約二七〇年間、天草全土の郡政を治め、天草の政治・経済・文化の中心地として繁栄した(以上はウィキの「苓北町」に拠った)。

・「御普請役」底本の鈴木氏注に、『普請奉行の下役にもあるが、ここは御勘定の下役であろう。支配勘定の次で、不審役元締が班長格』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 肥後国の蟒(うわばみ)の事

 

 享和元年酉年の初夏、四月九日のことであった。

 肥後国天草郡井手村に熊藏と申す百姓、当年とって二十四歳になる者、その身、大兵(たいひょう)肥満にて、人並み以上に腕力もあって、近郷にては相撲(すもう)なんども取っては右に出る者は、これ、ない、と申す力自慢で御座った。

 また――俗に申すところの――にが身(み)――とか言うところの、不可思議なる者ででもあったものか――邪悪なる蛇なんどでも、平気で素手にて捕えては猫でもあやすが如く玩ぶを常として御座ったと申す。

 さて、卯月九日のこと、井手村と鬼の池の境(さかい)にあった谷間の田地へ、熊蔵、肥やしを施さんとした折から、山間より凡そ三、四間(げん)もあろうかという蟒(うわばみ)が、これ、

――ズゥワワアアァーーーッツ!

と現われ出で、今にも熊蔵を一と呑みに致さんとする勢いであったと申す。

 その時、熊蔵の立っておったは、これ、深田の中であったがゆえ、咄嗟に逃れ出づることも叶わず、仕方のう、担って御座った肥え桶の天秤棒を摑んで、五、六度、力を込め、蟒の太い体を、これ、打ち叩いてみたが、

――カーン! カカーン!

と、これ、まるで鉄か石を打つが如き音のみ致いて、そのあまりに硬きによって、

――ビーーン! ビビィーーーン!

と手に響き伝わって参るその震えに、つい、かの天秤棒をも取り落してしもうたと申す。

 するとすかさず、かの蟒、熊蔵の肩の辺りへ、

――ズルル! ドッスン!

と、襲い掛かって御座ったによって、熊蔵、

――グワッ!

と抱き抱(かか)えたところが、これまた、凡そ三、四十貫目もあろかという盤石(ばんじゃく)の如き重さであったと申す。

 熊蔵、相撲の覚えもあったれば、その襲い掛かって来るたび毎に、これ、三度も四度も――斜(しや)に受け止めては脇へと外し、正面よりがっぷりと受けては前方へと突き落したによって――かの蟒も一時、身を引いて間合いを取って御座るように見えたがゆえ、熊蔵、蟒に向かって、

「――我ら、親兄弟もあれば、村方へとたち帰り、暇ま乞いをなした上にて、改めて勝負せんとぞ思う! 必ず、ここにて待ちおるがよい!」

と、声高(こわだか)に叫んだところ、蟒も心得た体(てい)に見えたがゆえ、急ぎ、村へとたち帰ると、しかじかのことありと話し、脇差を帯びて、かの元の深田へとたち戻ったと申す。

 ただ、この時、村方の者どもも、話を聴いて、めいめいに鎌や棒のようなる物を握って、五、六十人も熊蔵のあとから加勢として従い、深田近くの山陰に隠れては、蟒が出でたれば打ち殺さんものと、犇めいて待ち構えて御座った。

 熊蔵、声を上げ、

「――約束の如く勝負に来たったり!」

と、大声で呼ばわったれど、

……熊藏が、親兄弟に対面(たいめ)して立ち戻ると言うた、その孝行と礼儀に伏したものか……

……または、熊蔵が同志を駆り立てて立ち戻ったことを察し、うち負くるを恐れて出でずなったものか……

……ともかくも、蟒は、これより、とんと姿を消してしまい、遂にその後も現わるることなく、正体も行方(ゆくえ)も、これ、知れずなった、と申す。

 その蟒が最初に出た深田辺りは、これもう、一面に草木が押し倒され、棚田の周囲の土石も、これ、悉く崩れ壊(くわ)えて御座ったと申す。

   *

 以上は、天草郡富岡町にて旅宿を営むところの荒木市郎左衛門と申す者が、当時の御勘定下役の御普請役にあった松本左七へ語った記録ということで、その有り様を絵に描(えが)いたものも添えた文書が、江戸の御勘定所所内にても、所内の役方の者どもが取沙汰致いて御座ったを、私が披見したままに、ここに記し置いたものである。

ブログ440000アクセス記念及び純粋野人初年56歳記念 正宗白鳥 芥川龍之介

ブログ440000アクセス記念及び私の純粋野人初年56歳の記念として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に正宗白鳥「芥川龍之介」を正字正仮名で公開した。

ブログ・アクセス440000突破

昨夜、日附の変わる直前にブログ・アクセスが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、440000を突破した。これより、記念テクスト公開作業に入る。

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃   西行

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃   西行

2013/02/14

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十一(一九四六)年

昭和二十一(一九四六)年

夕風や毛蟲たゆたふ道の上

[やぶちゃん注:同年『現代俳句』九月号所収。]

奈良の道白しとあゆむ夜の梅雨

夜の塔あるべき方や栗の花

ところてん濹東奇譚また讀まむ

嵯峨の道蜥蜴は失せてわが殘る

秋の梵鐘仰ぐや手紙まろめ捨て

魂迎ひひそかに待てる魂ありて

鳴きしざりつつ空蟬とならぶ蟬

夜の桃をひとの愛人指もてむく

奈良の坂暑しドラムを練習す

2013/02/13

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 杉本觀音

   杉本觀音

 

金澤より、また鎌倉へもどる道に、基氏の屋敷跡、右の方に杉本(すぎもと)の觀音、大藏山(そうさん)といふ、坂東巡禮の第一番札所なり。こゝに滑(なめり)川あり。靑砥左衞門(あをとさへもん)の錢(ぜに)をおとせし古跡なり。また、杉本の東(ひがし)に淨妙寺(じやうめうじ)、鎌倉五山の内(うち)、禪宗の大寺(てら)也。稻荷山(とうかさん)といふ。こゝに直義(たゞよし)の木像あり。

〽狂 富(とみ)ならで

 第一ばんの

すぎもとはあたり

 札所(ふだしよ)のくわん

  おんに

     こそ

旅人

「儂(わし)は、この間、妻子(さいし)にわかれ、力(ちから)がおちて、いつそのこと坊主にならうと思つて、頭を半分そりかけたが、いやいや、坊主にならずとも、これなりで西國巡禮でもしよふと思つて出かけましたが、かはつたことには、とかく毎日ためして見るに、晝前(ひるまへ)はすること、なすこと、間がよくて、晝過ぎからは、どうも仕合(しあ)はせがわるいは、どうしたことだと、よくよくかんがへて見たら、その筈(はづ)のことがある。儂の頭(あたま)が、右の鬢先(びんさき)からそりおとして、半分坊主になりかゝつてやめたものだから、頭が半分しろく、半分くろいものだから、六曜(よう)の内の先勝日(せんしやうにち)といふものになつたからのことさ。なんと、ものはあらそわれぬものじやないかへ。」

「向かふへゆく年增(としま)の尻(しり)つきが、むつちりとして、どうか、鹽梅(あんばい)がよさそうだ。どふぞ、この順禮に御報謝(ほうしや)してくださるまいか。」

[やぶちゃん注:「基氏の屋敷」公方屋敷跡。浄妙寺東、明王院との間の現在の小字で芝野(しばの)の辺りを指すとされる。「新編鎌倉志卷之二」には、ここを足利尊氏の旧宅とし、子の基氏を始めとする関東管領が屋敷としたとする。

「杉本の觀音、大藏山(そうさん)といふ」「新編鎌倉志卷之二」には「大藏山(だいざうさん)」とルビし、現在も「だいぞうさん」と呼称しているものと思われる。

「靑砥左衞門の錢をおとせし古跡」現在、浄妙寺前の滑川(この辺りから上流は胡桃川と呼ぶ)の浄明寺三丁目に架かる橋を青砥橋と呼んで(地名は漢字表記が寺名とは異なる)、この辺りを青砥藤綱の屋敷跡と比定している。彼の有名な滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させた逸話は、現在のもっと下流の東勝寺橋辺りとも言われるが、そもそも青砥藤綱自身の実在が怪しいので比定地はどこでもよいという気が私はしている。

「淨妙寺、鎌倉五山の内、禪宗の大寺也。稻荷山といふ」鶴岡氏は山号を「稻荷山」を「とうりさん」と判読されているが、正しく「とうか」と書いてあるように私には読める。癖のある崩しの「か」と「り」は実際、判読し難い。

「こゝに直義の木像あり」「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」「新編相模国風土記稿」総てに、開山塔(祖塔)である光明院に源(足利)直義像があるとするのであるが、現存しないと思われる。足利直義は浄妙寺境内の西北にあった延福寺(廃寺)に兄尊氏によって幽閉され、文和元・正平七年(一三五二)年に病死した(兄による毒殺ともされる)。直義の五輪塔と呼ばれるものが浄妙寺境内に現存する。

「六曜」正しい歴史的仮名遣は「ろくえう」。暦注のうち、先勝・友引・先負(せんぶ)・仏滅・大安・赤口(しゃっこう)の現在も使われている六種。古く中国で時刻の吉凶占いとされたが、十四世紀の鎌倉末から室町にかけて日本に伝来したとされ、その名称や解釈・順序も少しずつ変化し、日の吉凶占いとして取り入れられるようになった。

「先勝日」六曜の日の吉凶占いの一種。「先んずれば即ち勝つ」の意。万事、急ぐことが良いとされて、「午前中は吉、午後二時より六時までは凶」とされる。]

耳囊 卷之六 野州樺崎鶉の事

 

 野州樺崎鶉の事 

 

 野州樺崎鄕(かばさきがう)の鶉(うづら)は鳴(なく)事なし。其(その)隣鄕(りんがう)は音(ね)を立てる事の由、土老のいへる。いつの頃にや、樺崎何某(なにがし)といへる人、其地を領し、鶉を好みて數多(あまた)飼置(かひおき)、金銀紅糸(こうし)をちりばめる籠に入れて寵愛せしが、或時彼(かの)鶉にむかひて、鳥類にても汝は仕合せなるものなり、かく金銀をちりばめし器に入て心を盡して飼置(かひおか)ば、嬉しかるべき事也と戲れしに、其夜の夢に鶉來りて、いかなればかく心得給ふや、金銀をちりばめし牢を作りて御身を入置(いれおか)ば、心よき事なるべきやといふと見て、夢覺めぬ。樺崎何某感心改節(かいせつ)して、鶉を愛する事を思ひ止り、飼置ける鳥を不殘(のこらず)籠を出し、再必音をたつる事あるべからず、音をたてば又捕(と)られんと教化して放しけるが、夫れより此の一鄕の鶉は、音をたてざると、かたりし。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:感じさせない。ウィキの「ウズラ」によれば、本邦では室町期には既に籠を用いて鶉を飼育していたとされ、江戸に入ると、武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われて慶長期から寛永にかけてをピークに大正時代まで行われた、とある。一方また、聞きなし(鳴き声を日本語に置き換えた表現)が「御吉兆(ごきっちょう)」と聞こえることから珍重され、古くから鳴き声を楽しむ愛玩鳥として大名や商人達の間で飼われていたらしい(後半はaikoukai2氏の「鶉の鳴き声 – YouTubeから。声も聴ける)。なお、鳴かない鶉というのはいないはずである。♀は鳴かないという記載がネット上には支配的だが、♀も♂ほどはっきりとはしないが鳴くようである。個体差があるようだが、呟くように「ほよほよ……」、たまに興奮すると「ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ!」とクレッシェンドで鳴くことがあるという飼育者の方と思われる投稿記事があった。

 

・「野州樺崎鄕」底本の鈴木氏注は、『不詳。栃木県(下野国)足利市樺崎町』(かばさきちょう)『の辺か。』とされ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『野州糀崎鄕』とあるのを長谷川氏注では、『糀崎は樺崎か。栃木県足利市樺崎。』と同じ場所を同定されておられる。因みに樺崎は足利市所縁の地であったが、戦国時代になって足利氏の衰退とともに忘れられた。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 

・「鶉」キジ目キジ科ウズラ Coturnix japonica 。中華人民共和国北東部・日本(主に本州中部以北)・モンゴル東部・朝鮮半島・シベリア南部などに繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部・日本(本州中部以南)・東南アジアなどへ南下し越冬する。全長二〇センチメートル、翼長九~一〇センチメートル強。上面の羽衣は淡褐色であるが、繁殖期の♂は顔や喉・体側面の羽衣が赤褐色。草原・農耕地などに生息し、秋季から冬季にかけて五~五〇羽の小中規模の群れを形成することもある。和名「うづら(うずら)」は「蹲る(うずくまる)」「埋る(うづまる)」の「ウズ・ウヅ」に接尾語「ら」を付け加えたものとする説がある。食性は雑食で、種子・昆虫などを採餌する。卵生で一夫一妻。五~十月に植物の根元や地面の窪みの枯れ草を敷いた巣に七~十二個の卵を産む。♀のみが抱卵し、抱卵期間は十六~二十一日、雛は孵化してから二十日で飛翔できるようになり、一、二ヶ月で自立生活を始め、生後一年以内に性成熟する。古歌に詠まれ、「古事記」「万葉集」などにも詠んだ歌があり、狩猟された物や家禽として飼育された物は主に食用とされてきた。日本では平安時代に既に本種の調理法を記した書物がある(以上は主にウィキの「ウズラ」に拠ったが、和名由来の一部は個人的に補正した)。

 

・「樺崎何某」姓氏としては不詳。

 

・「改節」自身の言動のけじめたる節(せつ)を改めること。

 

・「再必」「さいひつ」と音読みしているか、「ふたたびかならず」と訓じているか。呼応の副詞のように下に否定を伴って「二度とは~しない/するな」の意味になりそうな語ではあるが、一般的ではない。更に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『爾(なんじ)必ず』となっており、これは「爾必」(なんぢかならず)の書写ミスと読んだ方がしっくりくる。それで訳した。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 野州樺崎鶉の事 

 

 下野国樺崎郷(かばさきごう)の鶉(うずら)は鳴かぬ。

 

 その近隣の郷(さと)の鶉は、普通に鳴き声を立てるのに、ここ樺崎の鶉だけは、これ、一向に総て鳴かぬ。

 

 その謂われを土老が物語って御座った由。 

 

……いつの頃であったか、この地は樺崎何某(なにがし)と申す御仁(ごじん)が領して御座ったが、殊の外、鶉を好み、数多(あまた)飼いおき、金銀紅糸(こうし)を鏤(ちりば)めた、それはもう、美麗なる竹籠に入れて、寵愛致いて御座ったと申す。……

 

……さても、ある日のこと、樺崎何某、

 

――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――

 

と鳴いておる籠内の鶉に向かって、

 

「……鳥の類いにても、汝は幸せものじゃて。……このように金銀を鏤(ちりば)めたる美しき入れ物の中に入(い)って……我らが心を尽くして飼いおくのであるから、の。……こんなに嬉しきことは、これ、世に二つとは、ないことじゃ。……」

 

と、戯れに語りかけて御座った。……

 

――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――

 

……ところが、その夜の夢に、鶉の来たって、

 

「御吉兆! 御吉兆!……一体……どのような御料簡にて……お一人で……かくも合点なさっておらるるのでしょうか?……さても……金銀紅糸を鏤めし牢屋をお作りになって……その中へ殿御(とのご)自身の身を……これ入れおいたと致さば……殿は……『心持ちよき』とお感じになられまするか?……御吉兆? 御吉兆?……」

 

と。言うたか、と見えて、夢が醒めたと申す。……

 

――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――

 

……翌朝のこと、樺崎何某、この霊夢に感心も致し、また、己れの誤った節をも、ここに改め、鶉を愛玩することを思いとどめ、飼いおいた鳥は、これ、残らず籠から出だいた上、

 

「――汝ら、向後、決してその鳴き声を立てること、これ、あってはならんぞ。『御吉兆』の声を立てたれば、また、かつての我らの如き心ない好事(こうず)の輩(やから)に捕まることとなれば、の――」

 

と、含めるように鶉に教え諭して、徐(おもむ)ろに、解き放ったと申す。……

 

……鶉らは……これ、如何にも、のびのびと嬉しそうに……叢(くさむら)の方(かた)へと……一声(いつせい)の音(ね)も挙げず……埋もれて行って御座ったと、申す。……

 

……さても、それより、この樺崎の郷(さと)の鶉は、これ、音(ね)を立てぬと……語り伝え御座るじゃ。……

 

西東三鬼 拾遺(抄) 戰中作品 中年や焚火育つる顏しかめ

  戰中作品

 

中年や焚火育つる顏しかめ

 

[やぶちゃん注:底本に『「俳愚伝9」に初出。正確な製作年不明』とある。「俳愚伝」は昭和三四(一九五九)年四月から翌年三月まで『俳句』に連載したもの。底本全集中では、この一句のみが戦中作品である。沢木欣一・鈴木六林男共著「新訂俳句シリーズ・人と作品13 西東三鬼」(桜楓社昭和五四(一九七九)年刊)からの孫引き(同書六八頁)であるが、「凡愚伝 9 弾圧家族」(『俳句』昭和三四(一九五九)年十二月号に、この句『を得た時、私の新しい出発の、内心の芽が発見できたように思われた。「中年感情」を基盤としようと私はつぶやいた。戦争は終つた。いつの間にか私は俳句を作り始めていた』とある。戦中(厳密には昭和一五(一九四〇)年八月から昭和二〇(一九四五)年末までの空白期)の沈黙について、前掲書には、『三鬼は神戸に来てから〈防空壕の中に、一本の蠟燭と数冊の俳書を置き〉〈蕉門の古句を読み〉ながら、執念をもやしていたのであろう。それは〈私は昭和十五年以来俳句をお上から封じられて作らなかったのですが、内心では作ったし、書いてもおきました〉』と記す。三鬼は昭和十五年八月三十一日の所謂、「京大俳句」事件によって検挙されたが(二ヶ月の留置後、起訴猶予)、その二年後の昭和十七年十二月、突如、東京の妻子を捨てて出奔、神戸へ移住した。出奔の理由は不明であるが、一説に「京大俳句」事件の累が親族(特に二人の実兄)に及ぶことを恐れたことを一因とするかともされる。ただ三鬼が終生、遂に最初の妻子の家庭へは戻らなかった。これは三鬼という男の一種複雑奇怪な対人関係――特に女性との――の方にこそ、三鬼出奔という闇はあったようには思われる。なお、私は三鬼没後十六年後に発生した噴飯物のスキャンダル、作家小堺昭三による『「京大俳句」事件三鬼スパイ説』(昭和五八(一九八三)年に数少ない死者の名誉回復裁判で三鬼遺族側が勝訴している)は、少なくとも、私のこの「三鬼句集」で語る価値など全くない妄説と考えている。興味のあられる方は、例えば個人ブログ「昭和・平成の俳句(現代はどう詠まれたか)」の「(七)没後二十年後の裁判」 没後二十年後の裁判などを参照されたい。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十五(一九四〇)年

昭和十五(一九四〇)年

ともすれば寒夜わが口唾を吐く

  獨樂

きちがひの少女なり獨樂廻り澄む

冬蓄薇きちがひの貌に向きひらく

冬の鏡にきちがひ少女のかくすところ

寒き窓きちがひ少女うしなはず

[やぶちゃん注:以上四句は同年『俳句研究』二月号。後の「現代俳句・第三巻」(昭和一五(一九四〇)年六月刊)の中の「西東三鬼集『空港』」に所収された。]

  鴉よ

鵠よ荒園の風ふたりにも吹く

突く女冬の大腸を足元に

冬園に突けり十箇の爪光る

枯園に一滴の涙光り落つ

[やぶちゃん注:以上四句、『俳句研究』二月号所収のもの。]

  牡蠣

空港なりライタア處女の手にともる

戀ふ寒し身は雪嶺の天に浮き

計算の零(ゼロ)るいるいと牡蠣の前

牡蠣に酢を喇叭隊來て消え行けば

牡蠣啜りをはり紙幣を數へゐる

[やぶちゃん注:以上五句は『天香』四月号所収のもの。]

  鯉

地下室の鯉黑し見つゝ憂き男女

女の前に戻し冬の胡瓜嚙む

處女の背に雪降り硝子夜となる

手を別つ寒き竝木は根の如し

寒夜明るし別れて少女馳け出だす

冬景をまつすぐに女風と來る

寒い橋を幾つ渡りしと數ふ

人と並び落暉北風身にひびく

別離の顏冬の落曙に向き背く

  夜間飛行

春のホテル夜間飛行に唇(くち)離る

空港に兄と花束夜明けくる

少女指せば晝月ありぬ春の終

中學生屋根に哄笑し春終る

初夏太陽點々道の鋲にある

[やぶちゃん注:以上十四句は昭和一五(一九四〇)年六月刊の「現代俳句・第三巻」の中の「西東三鬼集『空港』」に所収された昭和十五年分から。]

  五月の河

半身に五月烈しく河臭ふ

河暑し油と友の顏流る

河黑し暑き群集に友を見ず

暑き河に憤怒の唾を吐き又吐く

唾滴れ怒れる汗は黑き河に

[やぶちゃん注:以上五句は『天香』六・七月合併号所収。]

2013/02/12

北條九代記 江馬太郎泰時德政

      ○江馬太郎泰時德政

同十月二日の夜に入て、觀淸法眼(くわんせいほうげん)、竊(ひそか)に江馬太郎殿の亭に來りて申しけるやう、「去ぬる月二十二日、中野五郎能成に仰(おほせ)談じ給ひける事、具(つぶさ)に言上せられし所に、申も違へたる事もや候ひけん、頼家卿、仰せけるは、祖父(おほぢ)と父を差置きて若輩の身ながら諷諫を奉る條、且(かつう)は上(かみ)を輕(かろし)め且は我を侮(あなづ)る故なりと、御氣色、損じて見え給へり。太郎殿は暫(しばらく)、御所勞と稱して在國し給へかし。御氣色、強(あながち)に月を歷ず、只(たゞ)一旦の御事なるべし」と云ひたりければ、泰時の仰(おほせ)には、「某(それがし)全く諷諫を奉るにあらず。愚意の及ぶ所、聊(いさゝか)、近習(きんじゆ)の仁に相(あひ)談ずる計なり。罪科に處せられんには、在國に依るべからず。但し、火急の用事ありて、明朝、必ず、伊豆の北條に下向すべし。貴所(きしよ)の仰に付いて構(かまへ)出づるにあらず候」とて、旅の雜具(ざふぐ)、蓑笠まで見せられしかば、觀淸、又、申すべき旨(むね)もなく、座を立ちて歸りけり。さる程に太郎泰時は翌日、北條に下向あり。此所は去年も田畑存亡し、春より以來(このかた)、人民(にんみん)糧(かて)乏(とぼし)く、耕作の計(けい)を失ひ、種植(しゆしよく)を營む力(ちから)なし。郷民等(がうみんら)、連署(れんじよ)の狀をさゝげて、米五十斛(こく)を借り參(まゐら)せ、當年の秋、返納すべき由をうけがふ。然る所に去月の風雨に、國郡、大に損亡して、饑餓に望む者少(すくな)からず。借(かり)申したる米穀を返し參せんは中々思(おもひ)も寄るべからず。この分にては代官の爲、一定(ぢやう)強く譴責せらるべし。兎角、妻子共に逐電して、當座の難を遁るべき歟と申す由、泰時、聞給ひ、この愁(うれひ)を救はん爲に、態(わざ)と下向を企てられ、連署の者共を召集め、その前にして、證文を燒(やき)捨てられ、「重(かさね)て豐年なる時節にも返納の沙汰あるべからず。惜したる米は皆々、汝等に取(とら)するなり」とて、剩(あまつさへ)酒飯(しゆはん)を出して、その上に人別(にんべつ)に米一斗づつ下されたりければ、各(おのおの)是を賜り、且は喜び、且は涙を流し、皆手を合せて、この殿の御子孫、御繁昌し給へとて、御前を立ちてぞ歸りける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年十月二日・三日・六日の条に基づく。

〇原文

十月大二日己夘。霽。入夜。觀淸法眼潜參江馬太郎殿舘。申云。去月廿二日。被談仰能成事。具達聽。但紕繆相交歟間。閣父祖被諷諌申之條。違御氣色之由。慥見其形勢也。然者。稱御所勞。暫可令在國給歟。先々見他上。御氣色強不歷旬月。只一旦事也云々。亭主仰云。全非諷諌申。愚意之所覃。聊相談近習仁許也。於被處罪科者。不可依在國歟。但有急事。明曉欲下向北條。兼令出門畢。就今告非構出。稱恥貴房推察。召出旅具〔至蓑笠等。悉在此中〕等。令見給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日己夘。霽る。夜に入り、觀淸法眼、潜かに江馬太郎殿が舘に參じ、申して云はく、

「去ぬる月廿二日、能成に談じ仰せらるる事、具さに聽に達す。但し、紕繆(ひびう)相ひ交はるかの間、父祖を閣(さしお)き、諷諫し申さるるの條、御氣色に違ふの由、慥かに其の形勢を見るなり。然れば、御所勞と稱して、暫く在國せしめ給ふべきか。先々の他の上を見るに、御氣色、強ちに旬月を歷(へ)ず、只だ一旦の事なり。」

と云々。

亭主、仰せて云はく、

「全く諷諫を申すに非ず。愚意の覃(およ)ぶ所を、聊か近習の仁に相ひ談ずる許りなり。罪科に處せられんに於ては、在國に依るべからざるか。但し、急の事有りて、明曉、北條へ下向せんと欲し、兼ねて門を出でせしめ畢んぬ。今の告に就きて構へて出るに非ず。貴房の推察を恥づ。」

と稱して、旅具〔蓑笠等に至るまで、悉く此の中に在り。〕等を召し出し、見せしめ給ふと云々。

・「觀淸法眼」版本によっては「親淸法眼」とある。詳細不詳。

・「江馬太郎」及び「亭主」は北条泰時。当時未だ十九歳で、後の彼の「父祖」とは祖父時政(当時は従五位下遠江守で御家人初の国司職にあった)と父義時で、父義時は三十八歳、子の泰時とともに未だ叙せられていなかった。

・「紕繆」は誤り・間違い・誤謬の意。

 続いて同年同月六日の条を示す。

〇原文

六日癸未。江馬太郎殿昨日下着豆州北條給。當所。去年依少損亡。去春庶民等粮乏。央失耕作計之間。捧數十人連署狀。給出擧米五十石。仍返上期。爲今年秋之處。去月大風之後。國郡大損亡。不堪飢之族已以欲餓死故。負累件米之輩兼怖譴責。插逐電思之由。令聞及給之間。爲救民愁。處被揚鞭也。今日。召聚彼數十人負人等。於其眼前。被燒弃證文畢。雖屬豊稔。不可有糺返沙汰之由。直被仰含。剩賜飯酒幷人別一斗米。各且喜悦。且涕泣退出。皆合手願御子孫繁榮云々。如飯酒事。兼日沙汰人所被用意也。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日癸未。江馬太郎殿、昨日、豆州北條へ下着し給ふ。當所、去ぬる年、少き損亡に依つて、去ぬる春、庶民等、粮(かて)乏しく、央(なか)ば耕作の計を失ふの間、數十人、連署狀を捧げ、出擧米(すいこまい)五十石を給はる。仍つて返上の期(ご)は今年の秋たるの處、去ぬる月、大風の後、國郡、大いに損亡し、飢ゑに堪へざるの族(やから)、已に以つて餓死せんと欲するが故に、件(くだん)の米を負ひ累ぬるの輩(ともがら)、兼ねて譴責を怖れ、逐電の思ひを插(さしはさ)むの由、聞き及ばしめ給ふの間、民の愁ひを救はんが爲に鞭を揚げらるる處なり。今日、彼の數十人の負人(おひびと)等を召し聚め、其の眼の前に於いて、證文を燒き弃(す)てられ畢んぬ。豊稔(ほうじん)に屬すと雖も、糺返(きうへん)の沙汰有るべからざるの由、直(ぢき)に仰せ含められ、剩へ飯酒幷びに人別(にんべつ)一斗の米を賜ふ。各々且つは喜悦し、且は涕泣(ていきふ)し退出す。皆、手を合はせて御子孫繁榮を願ふと云々。

飯酒のごとき事は、兼日(けんじつ)に沙汰人、用意せらるる所なり。

・「出擧」とは、律令制に於いて農民に対して稲の種籾(たねもみ)や金銭・財物を貸し付け、利息とともに返還させた制度を言う。

・「五十石」一石十斗で、一俵は四斗で約六〇キログラムであるから、一石は一五〇キログラム、「五十石」は凡そ七五〇〇キログラムにもなる。

・「負人」年貢を負う人の意。

・「沙汰人」代官(この条の以上の注は、しばしば参考にさせて貰っている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の注を参考にさせて戴いた。]

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 二 反射作用

    二 反射作用

 

 外界の變化に應じて適宜に身を處することは、素より如何なる生物にも必要なことで、この働きのない生物は到底生活する資格がないが、神經系のない生物は全身を以てこのことを行ひ、神經系のある生物では主として神經系がその衝に當たり、神經系に明かな幹部の具はつてある動物では、主として幹部がこれを司どることになつて居る。但し神經の發達には無數の階段があつて、一歩一歩進み來たつたもの故、神經系のあるものとないものとの間にも、神經系に明かな幹部のあるものとないものとの間にも、決して判然たる區別はないから、以上の働きがいづれの部分で行はれるか、確と斷言の出來ぬ場合も無論あるべき筈である。

 さて食はれぬために外界の事情に應じて適宜に身を處する働きには、また種々の行ひ方がある。例へば人間に就いて見ても、眠つて居る人の足の先へ火の附いた線香を持つて行くと、忽ち足を引き込めるが、覺めた後に尋ねて見ると何も知らぬ。また眼の前へ急に尖つた刀の先を突き附けると直に眼を閉ぢるが、これも決して危險であるから眼瞼を閉ぢて内なる眼球を保護せずんばなるまいと考へた結果行ふのでなく、刀の先が見えたと思ふころには、眼瞼は已に獨りで閉ぢて居る。かくの如く外界から刺戟が來たときに、全く知らずに若しくは知つて考へる隙もなしに、直にこれに應じた運動をするのを反射作用と名づける。また生まれた許りの赤ん坊の口に乳首を入れると、直に吸つて呑むが、これは誰に教へられたのでもなく、自分で習つたのでもなく、生まれながら自然にこの能力を具へて居るのである。かやうに自然に持つて生まれた能力によつて、よく外界の事情に應じた働きをなし得ることを本能と名づける。またかくすれば、かくなるべき筈と考へ、目的に相應した手段を工夫して、自身でよく承知しながら行ふことは皆智力の働きで、人間が日々骨を折つてわざわざ行ふ仕事の大部分はこの類に屬する。生物の行爲を觀察すると、その多くは以上の三種類の型のなかのいづれかに相當するが、その間の區別は決して判然たるものではなく、いづれに屬せしめて宜しいか分らぬ場合も頗る多い。特に反射作用と本能との間には殆ど區別が附けられぬ。例へば赤子の口に乳首を入れてやれば直に吸ひ著くのは、持つて生れた本能によるが、その働きはやはり一種の反射作用である。畢竟反射作用とか、本能とか、智力とかいふ言葉は、人智の進むに從ひ必要に應じて一つづつ造つたもので、各々若干の著しい行動に冠らせた名稱に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「反射」という語は生物学上は無条件反射を示し、その「種」が先天的に持っている反射行動を指す。これに対して後天的に獲得された、その「個体」の反射行動を条件反射(conditioned reflex)という。丘先生は「三種類」として「本能」を挙げておられるが、先生御自身が「その間の區別は決して判然たるものではな」く、「人智の進むに從ひ必要に應じて一つづつ造つたもので、各々若干の著しい行動に冠らせた名稱に過ぎ」ない、とおっしゃられている如く、現在の一般的な生物学上の概念から言えば、「本能」とは「複雑な無条件反射」と言える。しかしながら、「個体」の学習した同じ種類の条件反射がくり返して形成されるような環境が存在する場合には、生物と環境との持続的な結合が生じ、生命物質のなかにその痕跡を残すに至り、獲得された環境への適応の仕方が遺伝し、その種に定着される場合がある。条件反射が無条件反射に転化し、それ以前の無条件反射を変化させるのである。即ち後天的な条件反射が、本能をも変化させることがあるということである。その点からも丘先生の謂いは古くて新しいと言えるのである(この部分は一部、私の遺体が解剖されることになっている慶應義塾大学医学部解剖学教室の、船戸和弥先生無条件反射と条件反射記載を参考にさせて戴いた)。]

 

 まづ反射作用に就いて考へて見るに、これにも簡單なものから複雜なものまで種々の程度があるが、わざわざ自然と異なつた狀態に置いて試みる場合の外は、すべて自身の安全を圖るに必要な働きをするやうに思はれる。醫者が脚氣の患者を診察するとき、膝の下を手で輕く打つて脚が跳ねるか否かを試みるが、これなどは反射作用の最も簡單な例で、健康な人ならば膝の下の腱の刺戟を受けると、直に腿の前面の筋肉が收縮して我知らず脚部が動くのである。しかし普通の人間が普通の生活をして居るときには、膝の下の腱に醫者が手で打つのと同じやうな刺激を受けるといふ機會は殆どないであらうから、これに應じて脚部を跳ね上げる反射作用の働きがあつても何の役にも立たぬ。これに反してなほ少しく複雜な反射作用になると、皆何らか生活上の功用がある。例へば鼻の孔に紙撚を入れて内面の粘膜を刺戟すると、反射作用で直に嚔(くさめ)が出るが、これなどは鼻の中に異物の入る來たつた場合にこれを除き去るために必要である。子供の鼻の孔が詰まつて空氣の流通が惡くなると、注意が散漫になり、學業の成績も次第に下落するとさへいはれるから、鼻の内を掃除するための反射作用は生活上隨分大切なものであらう。また急いで食するとき飯粒が氣管の方へでも入ると、咽頭の内面の粘膜を刺戟するため、反射作で直に咳をするが、その結果として咽頭内の異物は口から吐き出される。肺病患者が常に咳をするのも、肝の組織がだんだん壞れて粘液となり、喉頭まで出てきて絶えずこれを刺戟するからであるが、咳は氣道を掃除する働きとして生活上必要なものである。強い光に遇へば眼の瞳が小さくなり、暗い處へ行けば瞳が大きくなつて、適當量の光線を眼球内へ入れるのも時機にかなうた反射作用であるが、生活上更に大切な反射作用は即ち呼吸の運動である。呼吸は或る程度までは故意に加減することが出來るが、平常は外の事をしながら知らずに呼吸して居る。そして、その行はれるのは、肺内に溜る炭酸瓦斯が肺の内面を刺戟して、反射作用で肋間筋や横隔膜を收縮せしめる結果である。睡眠中に絶えず呼吸の行はれるのはそのためである。されば、若しこの反射作用がなかつたならば、人間は素より他の多くの高等動物も一日も生活は出來ぬ。

[やぶちゃん注:「異物の入る來たつた場合に」はママ。「入り來たつた」の誤植であろう。講談社学術文庫版も「はいりきたった場合に」とある。]

 

 實驗研究の結果によると、物を知る働きは大腦の司どる所の如くに思はれるが、若し大腦に限るとすれば、大腦を切り去つた動物は物を知る力がない筈であるから、そのなすことは皆反射作用に依ると見做さねばならぬ。所が蛙などで試して見ると、大腦を切り去つても、隨分複雜な働きをする力が殘つて居る。生理の實驗としてどこの學校でもよくやることであるが、大腦部を切り去つた蛙を平らな板に載せて置くと、行儀よく坐つていつまでも動かずに居るが、少しづつ板を斜にすると、平均を失はぬやうに體の姿勢を少しづつ變じ、板が著しく斜めになつて、滑り落ちる危險が生ずると、徐々と匐ひ出して上方に進み、板の緣まで行つて、安全に坐れる處で止まる。また大腦部を切り去つた蛙の皮膚の一點に薄い酸類を塗つて見ると、直に手足をその處へ向け、曲げたり伸ばしたり、種々に工夫して、これを拭ひ去らうと努める。これらの擧動は、いづれもよく目的にかなうたことで、若し人間がこれをしたならば、見る者は必ず意志により智力を働かせてして居るものと見做すに違ひない。かくの如く反射作用はその複雜なものになると、殆ど智力を用ゐてする運動と同じ程度のことが出來るが、これらは恐らく皆その動物の生活中に、敵に食はれぬためか、餌を食ふためか、または子を産むためか、子を育てるためか、何かの際に直接若しくは間接に役に立つことで、且その動物の生活に取つて必要な程度までに發達して居るのであらう。

[やぶちゃん注:生物で通称、脊髄ガエルと呼ばれる実見である。私は昔から、この実験や図譜には何故か、頗る嫌悪を覚えるのである。如何なる解剖も平気な私が、である。私は、この私の不思議な特異的事実を何時か、自己分析したいと思っている。仮説は大歓迎だ。宜しくホームズになってみて呉れ給え。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 金澤 能見堂

   金澤 能見堂

 金澤は六浦(むつら)の庄(せう)の内(うち)にして、瀨戸橋(せとばし)より東(ひがし)をいふ。この地、風流の處(ところ)にして、八景の眺め、いふばかりなし。こゝに金澤山稱明寺(きんたくさんせうめうじ)といふ眞言宗の大寺(てら)あり。金澤文庫の跡は、當寺の境内、阿彌陀院の後ろにあり。靑葉(あをば)の楓(かへで)、西湖(さいこ)の梅(うめ)、普賢象(ふげんぞう)の櫻、皆、境内の名物なり。能見堂、稱名寺の西北(にしきた)にありて、地藏院といふ。巨勢金岡(こせのかなおか)が筆すて松あり。この地より金澤八景、一目(ひとめ)に見ゆるなり。
〽狂 ふうけいはのうけん
       どうに ふで
すてしまつしまにさへ
      おとらざりけり
「なるほど、よい景色だ。儂(わし)が前方(まへかた)、安藝(あき)の宮島へいつて、宿(やど)屋の二階に獨り、てうど、このやうに景色をながめて酒をのんでゐると、宿の女房、年頃(ごろ)二十四五で、うつくしい奴(やつ)が、十二三ばかりになる娘をつれてきていふには、
『貴方(あなた)は先程、家(うち)の女子(おなご)の三味線(さみせん)の糸(いと)を買(か)ひにつかはされましたが、三味線をおひきなさるでござりませう。妾(わたくし)も好きでござります。なんぞ、ひいておきかせなされてくださりませ』
といふ。その愛嬌(あいきやう)は、こぼるゝばかり。こゝで俺(おれ)が三味線をひくとおもしろからうけれど、生得(せうとく)、こつちは三味線はしらぬものだから、いろいろ斷はりをいつてもきかず、
『なに、ご存知のないことがござりませう。三味線の糸を買ひにつかはされたからは、是非とも、おねがひ申します』
といふ。こんなこまつた事はない。なるほど、女をたのんで三味線糸を買ひにやつたは、儂(わし)が入れ齒をつないだ糸がきれたから、その入れ齒をつなぐ糸にするのだものを、まさか色氣もなく、そうもいわれず、
『あの糸は、脇差(わきざし)が鞘(さや)ばしるから、その留(と)めに、紙捻(こより)ではきれるから、あの糸で鯉口(こいくち)をしばつたのさ』
といふと、そこにゐる娘つ子が、
『なに、妾(わし)がさつき見たら、あのお客さまが、あの糸で、入れ齒をつないでござつた』
と、この娘に臺座後光(だいざごくわう)、ぶちまけられて、儂は、その上(かみ)さまの手前、まことに面目(めんぼく)なくて、儂が侍(さぶらひ)ならば、腹でもきらねばならぬところでござりました。」
[やぶちゃん注:「臺座後光」「台座後光を仕舞う」の意。これは、仏像から台座と後光とを取り去ると全く威厳がなくなってしまうところから、人が面目や地位などを失うことを言う。]

猫 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 猫

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病氣です』

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。「みかづき」の下線は底本では「ヽ」の傍点。私は三十数年前、高校教師になりたての頃、学校でのさる劇団の芸術鑑賞会で、一人の女優がこの詩を朗読するのを聴いた。彼女は、この擬音部分を、如何にもな、ありきたりの猫の擬音で済ませた。それを聴いて私は、その女優に激しい嫌悪を覚えた。その、かあーっときた瞬間に、横で同僚が「やぶさんの方が上手いんじゃない?」と呟いた。私の怒りがふっと解けた。忘れ難い思い出である。]

猫 萩原朔太郎 (初出版)

 猫
        ――光るものはし屍臘の手――

まつくろけの猫が二疋、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
いとのやうな三ケ月がかすんで居る。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
            ――一五、四、一〇――

[やぶちゃん注:『ARS』第一巻第二号 大正四(一九一五)年五月号所収。「臘」は「蠟」が正しい。「いと」の下線は底本では「ヽ」の傍点。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十四(一九三九)年

昭和十四(一九三九)年

走る軍馬闇の蹄鐵火を發す

馬走る闇の銃火を前に後に

砲音の壁を撫で落ち女の手

軍票を油燈(ランプ)に透し女の眼

腦底の銃彈が機體と落下した

肩章や眞鍮の數字拾はれた

戰場の空で天使や記者が泣いた

戰死記事の袋の中にみのる果實

[やぶちゃん注:以上の四句は同年『京大俳句』五月号掲載句。]

武器商人の聲なき笑富士の天に

武器商人の缺伸の顏が着陸す

武器商人醉はず造花の奧の奧に

[やぶちゃん注:以上の四句は『京大俳句』十月号掲載句。]

  神戸の獅子

瀧の前處女青蜜柑吸ひ吸へといふ

瀧靑し合ひ離れ合ふ眼に落つる

神戸の獅子吠えたり別れ寢るホテル

神戸の獅子吠えて愛しき周期來る

訓練空襲しかし月夜の指を愛す

[やぶちゃん注:以上の四句は『京大俳句』十二月号掲載句。後の「現代俳句・第三巻」(昭和一五(一九四〇)年六月刊)の中の「西東三鬼集『空港』」に所収された。]

耳嚢 巻之六 火事用心の事

 火事用心の事

 

 寛政丁巳(ひのとみ)に梓行(しかう)せし畸人傳(きじんでん)といふは、格別用に足る事もなし、閑田庵(かんでんあん)主人の作にて、色々奇と思ふ事を書(かき)て、唯(ただ)耳目の慰めなれど、又教へになるべき事もひとつふたつあり。それが中に、京都大火の節、藏ども多分燒(やか)せ古物財賓を失ひしに、火事の心得を書し所に、都(すべ)て火災後、藏へは早く立戻り、あたりの火を片付て水を打(うち)、戸前(とまへ)へも水打(うち)てはやくひらくべし、さなければ、火氣籠りて燒(やく)る事あり、且(かつ)柳ごりの大ぶりなるを、其身の上に應じ貯(たくはへ)、連尺(れんじやく)を付(つけ)ておけば、其内へ入るものを詰(つめ)て、壹人にてかつぐ程なれば、持(もち)除くに便(びん)なり、慾に任せ、番袋(ばんぶくろ)等へ入れてかつぎ出しても、持なやみつかれて、はては捨(すつ)るもの多しと書(かけ)り。是等は心得にもなるべき事なり。又或るもの、野遊(のあそび)旅行の用とて、兩懸(りやうがけ)をこしらへ、火口附木(ほくちつけぎ)やうの品、京の事なれば薪(まき)やうのものも少し入(いれ)て貯へしが、彼大火の節、大いに用をなして、家内兩三日はうへざりしといふなどは、面白き故、此所に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。それにしても根岸、かの「続近世畸人伝」を「格別用に足る事もなし、閑田庵主人の作にて、色々奇と思ふ事を書て、唯耳目の慰めなれ」なんどと評するは、これ、本「耳嚢」へこそ鏡にて返し申さうず――と私なら反論するであろう。根岸君、「予のものはただの私的な覚書で、板行などしておらん」とのたもうかも知れんが――いや、やはり、ちょいと思い上がって御座るようにしか見えんわい――

・「寛政丁巳」寛政九(一七九七)年。

・「梓行」板木を彫って書物を板行すること。出版。刊行。昔、中国では梓(あずさ)の木材を板木に使ったことに由来する。

・「畸人傳」「近世畸人伝」伝記。正続二編。正編は伴蒿蹊(ばんこうけい)著・三熊花顚(みくまかてん)画で、続編は三熊花顚原著・蒿蹊加筆訂正したものである。正編は寛政二(一七九〇)年の、続編は寛政一〇(一七九八)年の板行。正続ともに五巻で、近世初頭から執筆の寛政期に至るまでの故人となった有名無名の畸人約二〇〇人を撰した伝記集。武士・商人・職人・農民・僧侶・神職・文学者・学者から下僕・婢女・遊女・乞食などに及ぶ多彩な人物を所載する。中江藤樹や貝原益軒など有名人は言うに及ばず、この書によって後世に名を残すこととなった人物も多い(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここには「寛政丁巳」九年とあるが、後者の続編のことを指している。

・「閑田庵主人」は歌人で作家であった伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)。名は資芳(すけよし)、別号は閑田蘆。近江八幡の商家の出で、八歳で本家の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。十八歳で家督を継いで家業に専念したが、三十六歳で隠居剃髪して著述に専念した。著書に「閑田耕筆」「閑田次筆」。「近世畸人伝』は彼の代表作で十七~十八世紀の江戸期を知るに有益な伝記集である(以上はウィキの「伴蒿蹊」に拠った)。前注に示した通り、正確には「続近世畸人伝」は彼の著作とは言い難く、誤りである。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

・「京都大火の節」は天明八(一七八八)年正月晦日の京の大火のこと。以下は「続近世畸人伝」の巻四「雇人要助」に載る。以下、「国際日本文化研究センター」のデータベースから当該部全文を引く(但し、恣意的に正字化し、漢文訓読をしたと思われるカタカナ漢字交じり部分の一部は順列を正して読み易くした)。

   《引用開始》

下京に治良兵衞といへる者、人ト爲リ正直にして、假初にもいつはりをいはず。子一人持たりしが、十三歳の比、隣リの錢をいさゝか取て來ることありければ、勘當せんことを催せども、十五未滿のものは廳にも取上給はぬならひなれば、せんかたなく思ひ煩ふ間ダに、大坂の人來りたりしに、かくと語りければ、さらばわれにえさせよといひて引つれかへりぬ。其あくる年、妻もうせければ、つらつらおもへらく、まづしくてなまじひに小家をもつ故に、時有リて人の物をも借事あり。人の物をかりては一日も心安からずと、家具殘らず賣拂て、わづかの借財をそれぞれにかへし、名をも要介と改て、上京のある寺へやとひ人となりて行しが、かく正直なるものなれば、寺のまかなひとしけり。やうやう年老六十になりしかば、いつまで人につかへて有べき。家をもち手脚をのばしてこゝろよく臥たるこそよからめと、勸る人あるにより、其事をはかる間、ふと思ひよりて、此年までいまだ江戸を見ず、一目見てかへり、其後ともかくもたのみ參らせん、といひて、少しの路費などたくはへもちて旅立。草津の驛まで行キて宿り、朝とく出て、目川といふ里にて、京に大なる火有と噂とりどりなれば、引かへし京に歸りてみれば、一面の紅火世界也。是天明八年申正月晦日の大火也。 おのがありし寺も早跡なく燒うせたれば、いかにともせんすべなく、丸太町の河原に暫彳てありしに、もとより相識人の疊、戸、障子などこゝに運ぶにあひて、其雜具をまもる事をたのまれて居たるに、頓て若き男走り來て、えもいはずきらびやかなる箱の大なるに、眞紅の綱かけて結びたるを携へ、しばしたのみ參らすよしいひて走り去ル。其男何か懷より小サきもの落せしを見し故、行てみれば金也。拾ひ上て夫レをもあづかりける。其日もあけの日もそこにくらして、火もやうやう靜ぬれば、戸、障子の主より人をおこせて運びぬるが、其箱も金もとりにきたらず、誰ともしらねば、さだめて煙にかこまれて死やしけん、とせんかたなく覺えて、先金の包をときて所書もや、とみれどそれはなし。されどすこし心當の名見えしかば、もしやと尋ね行しに、其所の金にてありしかば、さは此箱も其家の物にてあらんといへれど、それはしらぬよしにて、彼金の謝禮に金五兩參らせんと出しけれど、かつてうけず。其代りには此箱のぬししるゝまでは宿かし給へとて、そこに有ながら、人の行來多き所にかたげてありきしに、三日といふに、黑谷門前にてある侍見とがめて、其箱はいづくよりいづくへ持行ぞといふ。さてこそとうれしく、われ河原にて此箱をたのまれて預りしが、其人誰ともしらず。返し所なきにわびて、かく持ありき尋給ふ人をまちし也。内のものをさし給へ、あはゞかへし申さんといふ。中のものはえしらず、まづはわが殿へ來り給へとて伴ひしが、やごとなき御方也。此殿の稱號、又男のありし寺、かの金をかへせし家の名など、憚りて記さず。さて奧より小折紙にて、其品々を書出し給へるが、金銀をのべたる葛屋の香爐、銀の茶碗、一角の獅々の形したる墨臺、大小刀の七所拵の金物二タ通、古鏡三つ、壇道齋が持たる硯など、これかれの品物、凡五十餘品也。誠にたがふ所なしとて返し奉れば、御褒美の品、御衣など迄かづけ給りしかど、固く辭してうけ奉らず。所はいづこの者ぞ、と尋給へば、しかじかのよし申シ、此御箱さへ返し奉れば、明日にも江戸へ罷立候はんよしを申す。さらば某ノ侯のもとへ着ケよとて御消息をたまふ。其御文をもちて下り、其邸に尋よりけるに、かのよしをもこまごまと仰ありしかば、やがて休息所を賜ひぬ。其日、靑侍一人つくづくと要介が顏を見るもの有しが、夜に及びて、ひそかに其休息所に來り、若シ以前は下京におはして治良兵衞殿とは申さゞりしか、といふ。要介、いかにもしかり、いかにしておのれがむかしの名所をしらせ給ふやととふ。其事にて侍ふ、おのれは幼名七之助にて、十三の時浪花へやり給ふ後も、かしこの若者と心を合せ、さまざまあしきことをのみせしかば、かの所にも住佗たる比、堺の邊に東雪といへる僧、此地に下りたまふ供にやとはれて下りけるが、道すがらのやどりやどりにて、さまざまの物語に、身の上をも明し侍りしかば、心を盡して御教訓にあづかり、其後、心を改め、此御家へ參りても十七年に及び、今は不肖ながら侍になり、御おぼえも大かたならず候に付ても、唯明暮二タ親の御事のみ心に掛り、神佛に祈りしが、四年のさき主の御用にて京へのぼり侍し時、下京の住給ひしあたりを尋ねしかども、御ゆくへしられず。殘多キながら、日數限有て罷下りしが、はからずもふたゝびめぐり逢奉ることのうれしさよとて、涙せきあへず、明の日は侯にもかくとしらせ奉りしかば、親子ともめしつかふべきよし仰ありて、父は厨の長になど仰有しを、京にも約クせしことあれば、かへりのぼり度よしを申して、とかくせしほどに疝を病みて醫療殘る所なく、もとよりあたゝかに着、口にかなふ食を喰ひなど、孝養せられて、つひにこゝにて終れり。彼子が立身故に家名もたしかに殘れり。此家名も憚りてこゝにもらしぬ。 爲リ人ト正直淳朴にて、彼箱を返し奉り、其報ひをも辭し申せしにより、はからぬ邸に參り、捨たる子にめぐりあひ、殘る所なく介抱せられて身まかれり。もし京にて病たらば、災後の家もさだかならぬ時にて、親族もなく、いか斗の侘しさならんに、正直の德忽チあらはれたりといふべし。

(追記)

花顚因にいふ、此天明壬申歳の大火、正月晦日朔日、兩日、洛中洛外あまねく燒亡せるは、ためしまれなることなり。これは予雨月庵の記といふものに錄し、又諸家の記錄も多ければこゝにはもらしぬ。閑田子も亦、かぐつちのあらびといふ筆記せしを、何ものかかすめとりて、他の語をもまじへて俗文にうつし、花紅葉都噺とかいへるものを印行せり。其ころ諸家、和漢の文章此災をしるせるもの多し。 されども平日心得置べき火災の備へを記して、人のためにす。

○柳骨折の比よきに、れんじゃくをかけて、笈のごとく仕立るものを用意し置べし。大家には數あるべし。小家にても一つはあるべし。急火といふ時、物をいれて背に負べきため也。或人、蚊帳を袋にして衾夜着の類を入て持しが、門につかへてくるしむうち、火近くなりしかば、捨てにげたり。又車長持といふもの便なるに似たれども、寶永大火の時に辻々にせきあひ、老人女子などそれに隔られあやまちするもの、死たるものも多かりしとぞ。凡大きなる器はかへりて益なく障り多し。

○予がしたしき人、銅にて作りし三つ套の鍋、木碗、磁器、酒器、箸などを片荷とし、味噌、鹽、醤油、米、酒などを又片荷にしたるものを作り、擔厨と名づけて、春秋、山野遊行に携へ興ぜしが、此大火に東山に遁れてあるときゝて行訪ひしが、此たびは此擔厨にて十七人心よく凌たりと話せり。是は不意に用をなせるものなれども、變は計るべからぬものなれば、乏からぬ人はかうようの備へも有たきものなり。

○火にあひては倉より外にたのむものなし。然るに倉に火の入ルは大やう下の石垣燒て、其氣、内の柱につたふ故なり。石垣はひきくし、ぬりごめにするがよしと見ゆ。又倉を閉る時釣瓶車繩などを口に入て閉べし。若開きて火ある時、速に水を汲べきため也。凡ソ火さへ鎭まらば頓に戸を開べし。久しき時は火氣こもりて内より燒出す也。閑田子云、此大火に二三日、四五日をへて倉燒出し所多し。是京師の人、火事にうとければなり。江戸にては居宅燒はつればそのまゝ倉にかゝり、先、戸をすこし開き水をうちこみ、漸々にひらくよし也。江戸は火早き所ゆゑ、人々馴て倉をやくこと稀也。足駄一足持て遁るべし。足駄なれば少しの火をも踏べく、釘のたぐひにあしを損ることもなし。閑田子またついでにいふ。急火に倉の窓の目ぬりする土なくば、塀をくづして其土をもてぬるべし。又倉なき人は雜具の携べからざるものは、地に置て、其上へ塀を覆ひ置て遁べし。大かた燒ず。時にあたりて此働をせし人ありしと、昔相識ル老人かたられし。手近きことも變にあたりては心づかぬもの也。治に居て亂をわすれずといふごとく、つねに心がけあるべきものなり。

   《引用終了》

「草津の驛」は草津宿は東海道五十三次の五十二番目の宿場。現在の滋賀県草津市。「目川の里」は現在の滋賀県栗東市目川。「柳骨折の比よきに」柳行李の程よい大きさのものに、の意。――これを読んだだけでも、「耳嚢」よりは、遙かにプラグマティクで、有益な書でありますぞ、根岸殿!――

・「連尺」「連索」とも書く。物を背負うのに用いる道具。肩に当たる部分を麻繩などで幅広く編んだ荷繩や、それを木の枠に取り付けた背負子(しょいこ)などを指す。

・「番袋」雑物を入れる大きな袋。武家では武士が宿(とのい)の際に衣類などを入れた袋を指す。

・「兩掛」旅行用の行李(こうり)の一種。挟箱(はさみばこ)や小形の葛籠(つづら)を棒の両端に掛けて肩に担いだものを言う。

・「火口」火打ち石で発火させた火を移し取るもの。麻などの茎を焼いた炭、また茅花(つばな)などに焔硝(えんしょう:硝酸カリウム。)を加えたものが用いられた。火糞(ほくそ)とも言った。

・「附木」火附け木。檜・松・杉などの薄い木片の先に硫黄を塗りつけたもの。火を他へ移したり、火口に移した火をこれに点けて燃え立たせたりする。

・「京の事なれば薪やうのものも少し入て貯へしが」この部分、何故、特異的に「京の事なれば」薪が非常用に必要なのか、意味不明である。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火事の用心の事

 

 寛政丁巳(ひのとみ)の年に板行(はんぎょう)した「近世畸人伝」とか申すものは――格別、実用に足ることも御座ない――何でも、閑田庵(かんでんあん)主人とか申す者の作にて――まあ、いろいろと奇なり、と思うことを書きて――そうさ、ただ、耳目の慰めと致すような雑文集なれど――されどまた、日常の教えになるようなことも、これ、一つ二つは、御座った。

 その中(うち)の一つに、天明壬申(みずのえさる)の京都大火の折り、洛中の蔵なんど、大方焼けて、古物(こぶつ)やら財宝やら、数多(あまた)、焼失致いたが、その火事の際の心得を書き記した条に、

 

◎一般に火災後は、土蔵へは速やかに立ち戻り、辺りの火を早急に消火し、燃え残った燃焼性の瓦礫などを撤去、十分に水を打って、土蔵の戸の前へも十二分に水を打ってから、素早く戸を開かねばならない。さもないと、火気が土蔵内に充満して、自然発火を起こすことがあるからである。

◎且つ、軽量である柳行李(やなぎごおり)の大振りなものを、その所持している財物の実際量に応じて事前に準備しておき、連尺――背負うための荷繩や背負子(しょいこ)の類い――を、やはり事前に、その柳行李に装着しておけば、その行李の内へ入るだけのものを詰めおけば、これは、一人でも担ぐことが可能なので、火事の際に持ち出だすのには、極めて便利である。欲を出して、大型の番袋(ばんぶくろ)などへ、入るだけ入れてぱんぱんに膨れ上がったそれを担ぎ出そうとしても、持ち悩んで疲れ、果ては諦めて火事場に捨てざるを得なくなる場合が多い。

 

と書いて御座った。これらの事実は、火災及びその予防の際の心得になりそうな事柄ではある。また、

 

◎ある者は、遊山・旅行用として専用の両懸けを拵えておき、その中に常時、火口(ほくち)・附木(つけぎ)といった品々や――京のことであるから――薪(まき)のようなものも、少し入れて常備しておいたが、かの大火の折りには大いに役に立って、家作を焼かれなどして避難致いた者でも、家内の者どもとともに、火災後三日間ほどの間は野外にて煮炊きなんど致し、餓えずに済んだ。

 

という部分などは、実に面白い記載であるによって、ここに記しおくものである。

2013/02/11

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十三(一九三八)年

昭和十三(一九三八)年

靑キ胎兒硝煙古ク地ニ積ル

胎兒蹴ル彈道街ノ空通ル

聽ク胎兒戰車ガアガアト闇ノ闇

胎兒痩セ荒野ニ鐵ノ花盛ル

胎兒老ケ無人地帶ハ犬ノ糞

[やぶちゃん注:ここまで『京大俳句』三月号。]

胎兒老ケ無人地帶ハ犬ノ夜

[やぶちゃん注:「現代俳句・第三巻」(昭和一五(一九四〇)年六月刊)の中の「西東三鬼集『空港』」所収の句形。]

垂直降下(ヘルダイヴ)人體宙ニ噴カレ立ツ

敵空へ少年兵離陸速度百粁時

速力線射チツゝ天ニスレチガフ

[やぶちゃん注:「ゝ」はママ。]

老兵(ラオピン)と鴉びしよ濡れ樹の上に

砲彈裂け老兵が無し晴れたる日

機關銃花ヨリ赤ク闇ニ咲ク

大塊古き塹壕を覗き見る

塹壕に眼窩大きく殘されし

耳嚢 巻之六 守財翁可嘆笑事

 守財翁可嘆笑事

 神田邊に、さまで富饒(ふねう)にもあらざれども、吝しよくなる老人有。子といふ者もなく、姪(おい)なるものを養ひしが放蕩にして、若年の常として彼(かの)老父の心に叶はず、勘氣して追出しけるが、幼年より召仕(めしつか)ひし下人、深切になしけるが、或夜盜賊入り、彼老人を捕へ、金錢可差出(さしだすべし)とて胸に刀を拔(ぬき)つけせめはたりけれど、金錢は無之(これなき)よしを答(こたへ)れど、彼賊不聞入(ききいれず)せめけるを、二階に臥(ふせ)りし下人、階子(はしご)の下(お)り口より見て、これを救わんとしけれど、主人にあやまちあらんと見合(みあはせ)しが、密かに屋根傳へに下へおりて、銅盤(かなたら)ひを叩きけるゆゑ、あたりよりもかけ集(あつま)り、盜賊も驚ろきて迯(にげ)去りしが、彼老人大きに喜び、彼下人が働きにより金も無恙(つつがなく)、財寶も不被奪(うばはれず)、誠に禮の申べきやうなしと賞しけるが、右下人を悴(せがれ)にもいたすか、又は別に身上(しんしやう)にても爲持(もたせ)候やと人も思ひ、下人も心に思ひしが、何の沙汰もなくしばらく過ぎて、彼下人を呼び一包をあたへ、誠に盜人(ぬすびと)入りし時、汝がはたらきにて活命(かつめい)せし段、うれしくも忝しとて、聊のよしにて與へける故、少くも十金廿金も呉候やと思ひしが、包(つつみ)をひらき見しに、鳥目貮百文にてありし由。彼下人も、あまりにあきれて、かたじけなき由禮謝して、暇(いとま)をとりいづちへか行ぬ。彼老人も無程(ほどなく)、年積りて病死なしけるに、子供とてもなければ、家藏も所持のもの故、せ話するものありて、彼勘當せし姪立歸り、跡相續なせし由。誠(まこと)守財の愚翁とは、かゝるものをやいふらんと、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。敢えて言うなら、使用単語の「豐饒」と「富饒」とで連関する。
・「守財翁可嘆笑事」は「しゆをうたんしやうすべきこと(しゅをうたんしょうすべきこと)」と読む。
・「吝しよく」吝嗇(りんしょく)。
・「姪」本字には兄弟姉妹の娘の意の「めひ(めい)」以外に、兄弟姉妹の男子、「をひ(おい)」=甥の意もあり、後文の内容から見ても、ここは「甥」である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「おい」とルビする。
・「銅盤(かなたら)ひ」の内、「たら」の部分は底本のルビ。「かな」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に拠った。
・「鳥目貮百文」江戸中期の相場で仮に一両(四分)を現在の貨幣価値で八万円とすると、一分は二万円、一貫文は一分で、一貫文は一〇〇〇文であるから一文は二十円となる。但し、ビタ銭である「鳥目」は価値が下がるので、凡そ四分の一の五円。従って鳥目の二百文は現在の千円ほどの価値しかない。しかも本話柄は江戸後期であるから、一両の価値はさらに下がって五万円程になるから、もっと下がって六二五円にしかならない。これではもう、子どもの小遣銭である。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭奴愚昧翁の失笑せざるを得ぬ事

 神田辺に、さして裕福にてもあらねど、吝嗇(りんしょく)なる老人があった。
 子という者とてもおらず、甥なるものを養ってはおったが、これがまた放蕩者にて、若気の至りの常として、かの老人の心にも叶わず、遂には、その怒りに触れ、その甥なる者は追い出されてしもうた。
 さても老人には、幼年より召し使(つこ)うておった下人、これ、如何にも誠心を以って仕えておる者が、あった。
 ある夜、老人宅に盜賊が押し入り、かの老人をとりひして、
「金――出さんかい!」
と、抜き身の小刀(さすが)を胸に突きつけて責めたてたが、
「金は――ない!」
と執拗(しゅうね)く否みたれど、かの賊、聞き入れず、さらに痛く責めたてたところを、二階に伏せっておった下人が、この様子を階子(はしご)段の降り口より偸み見、
『これは一大事! お救いせねば!』
と思うたものの、
『下手に出て、ご主人さまに万一のことがあっては、なるまい!』
と、助太刀は見合わせ、密かに屋根伝いに外へ降りて、庭先にあった金盥(かなだらい)を、
――ガン! ガン! ガン! ガン! ガガンガ! ガン!
と叩いたによって、近隣の衆も駈け集(つど)って参ったゆえ、盜賊も驚いて、これ、すたこらさっさと、逃げ去ったと申す。
 されば、かの老人、大いに喜び、下人に、
「……そなたの働きにより、金も恙なく、財宝も奪われず、誠に礼の申べきようもない!」
と口を極めて褒め讃えたによって、近隣の衆も、
「……これはもう、あの下男を悴(せがれ)にでも致すか、または、別に相応の金子を分けて一軒を持たするか……」
と噂致し、また、下男自身も口に出さねど、同様の思いを致いておったれど……
……それ以後、老人より、これ、何の沙汰もなく……
……大分、時も過ぎた忘れた頃になって、老翁、かの下人を呼びつけた。
 老人、徐ろに、
「――いや――誠に盜人(ぬすびと)が押し入った折りには――汝が働きにて、これ、命拾い致いた段――まっこと! 嬉しくも忝いことであった!」
という、ご大層な言いとともに、
「――これは些少にてはあるが……」
とて、一包を恭しう授けたによって、下人は、
『少くとも、十両や二十両は、これ、包んで下すって御座ろうかのぅ!』
と思いつつ、その場で拝むように包みを開いて見たところが、
――中にあったは……ビタ銭二百文……
「…………」
かの下男も、あまりにことに呆れ果て、
「……忝のう……御座る……さても……我ら……思うところあれば……これにて……お暇ま仕ることと……致しやす……ナガ、ナガと……ありがとう……ご、ぜ、え、や、し、た!」
と、恨みを込めた慇懃無礼で型通りの礼謝を致いたかと思うと、ぷいと出でて、何処(いずこ)ともなく、立ち去った、と申す。……
 その老人も程のう、老々にて病死致いたによって、子どもとてもなきに、家産も幾分かは所持致いておったがゆえ、仲に入(はい)って世話する者のあって、かの勘当致いておった甥を立ち帰らせ、跡目相続を致させた由。

「……いや、まっこと――『守銭奴愚昧翁』とは――かかる輩のことを、申すので御座ろう……」
とは、さる御仁の語って御座った話。

2013/02/10

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 一 神經系

      一 神經系

 

 植物の全部と動物中の最下等のものとには特に神經と名づくべきものはないが、それ以上の普通の動物には必ず身體の内に、特に外界からの刺戟に感じ、これを他の體部へ傳達する力を具へた組織がある。この組織は「ヒドラ」・「さんご」等の如き下等の動物では、「くも」の巣の如くに薄く全身に擴がつて居るに過ぎぬが、それより以上の動物になると、次第に明になつて白い絲の如き形に現れ、更にその中に幹部とも名づくべき部分を區別し得るやうになる。幹部といふのは、人間でいへば即ち腦や脊髓ことで、これと身體の各部とを連絡する細い絲が所謂神經である。それ故、神經なるものは稍々高等の動物では一端は必ず幹部に連なり、他端は身體のいづれかの部分に終つて居る。外界に變化が起れば、先づ身體の外面にある眼・耳・鼻・口・皮膚等が刺戟を受け、神經はこれを幹部に傳達する。次に幹部は更に別の神經を通じて或る筋肉に刺戟を傳へ、筋肉が收縮して身體を適宜に運動させる。かやうに、普通の動物が外界の變化に應じて適宜に身を處して行くには、外界からの刺戟を受け附けるための感覺器官と、これを處理判斷するための神經系幹部と、幹部よりの命令に從うて收縮し運動するための筋肉とを要するが、これらのものを互に連絡するのは神經である。されば神經は恰も電信の針金のやうなもので、眼・耳・乃至皮膚の内にある發信器と、幹部内の受信器との間、若しくは幹部内の發信器と筋肉や腺の内にある受信器との間に張られてあることに當る。また神經系の發達せぬ動物は恰もまだ電信のない未開國のやうなもので、各部の間の通信には或は烽火(のろし)を擧げ、或は旗を振り、または飛脚を走らせ、駕籠を飛ばせなどして、それ相應に間に合はせて居るのに比較することが出來やう。

[やぶちゃん注:「ヒドラ」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科のヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra に属する淡水産無脊椎動物の総称。ウィキの「ヒドラ」によれば、『長い体に長い触手を持つ、目立たない動物である。これらは淡水産で群体を作らず、浅い池の水草の上などに生息している。体は細い棒状で、一方の端は細くなって小さい足盤があり、これで基質に付着する。他方の端には口があり、その周囲は狭い円錐形の口盤となり、その周囲から』六~八本ほどの長い触手が生え、体長は大型個体でも約一センチメートル。但し、『触手はその数倍に伸びる。ただし刺激を受けると小さく縮む。触手には刺胞という毒針を持ち、ミジンコなどが触手に触れると麻痺させて食べてしまう。全身は透明がかった褐色からやや赤みを帯びるが、体内に緑藻を共生させ、全身が緑色になるものもある』。『足盤で固着するが、口盤と足盤をヒルの吸盤のように用いて、ゆっくりだが移動することもできる』。ライフ・サイクルは『暖かな季節には親の体から子供が出芽することによって増える。栄養状態が良ければ、円筒形の体の中程から横に小さな突起ができ、その先端の周辺に触手ができて、それらが次第に成長し、本体より一回り小さな姿になったとき、基部ではずれて独り立ちする。場合によっては成長段階の異なる数個の子を持っている場合もあり、これが複数の頭を持つと見えることから、その名の元となったギリシア神話のヒュドラを想像させたものと思われる。また、強力な再生能力をもち、体をいくつかに切っても、それぞれが完全なヒドラとして再生する』。この無性生殖が基本で、一般に無性生殖の出芽の代表例としても知られるのであるが、水温の急激に変化(八℃程度)が起こると雌雄に別れて有性生殖を開始する。卵巣と精巣を体表に形成、受精卵を雌の体内に残して各個体は老化して死ぬ。この時に出来た受精卵は強い耐乾燥性能を備える(孵化する日数は十三日~一〇〇日と広いばらつきを示が、これは一度に孵化して、万一、悪条件であった場合に絶滅するのを回避する働きがある)。ヒドラはクラゲ型の生活形態を形成しないと考えられているが、『一般にヒドロ虫類では生殖巣はクラゲに形成され、独立したクラゲを生じない場合にもクラゲに相当する部分を作った上でそこに形成されるのが通例であり、ヒドラの場合にポリプに形成されるのは極めて異例である』とある(有性生殖の部分は個人ブログ「生物史から、自然の摂理を読み解く」のヒドラの有性生殖」をも参照した)。

『「くも」の巣の如くに薄く全身に擴がつて居る』クラゲなどの刺胞動物では神経細胞(上皮筋細胞)が体表にあって分散型のネットワークを形成、中枢神経(丘先生の言う「幹部」)が分化しない。これを散在神経系と呼ぶ。]

Hidora

[ヒドラ]

 

 前に名をあげた「ヒドラ」といふ動物は體の構造が極めて簡單で、恰も湯呑コップ、または底のある竹の筒の如き形を呈し、口の周圍から生えて居る數本の絲のやうな指で食物を捕へて食ふが、別に肛門といふものがないから、不消化物はまた口から吐き出してしまふ。沼や池の水草に附著して居る普通の淡水産動物で、常に「みぢんこ」などを食つて居るから、採集も飼育も極めて容易い。二叉の針で口の處を抑へながら、細い硝子の棒で尻の方から突くと、恰も嚢を裏返す如くに「ヒドラ」の柔い身體を裏返すことが出來るが、かやうにすると、この動物の外界に對する内外の位置が顚倒するから、宇宙が「ヒドラ」の腹の内に入つたともいへる。著者は幼年の頃「ヒドラ」に宇宙を呑ませてやるというて、屢々これを裏返して遊んだが、かくしてもそのまゝ置けば自然に舊に復して、また平氣で「みぢんこ」などを食つて居る。かやうな簡單な動物であるから、その神經系の如きも極めて憐なもので、僅に少數の神經細胞が、身體の諸部に散在しているに過ぎぬ。珊瑚・「いそぎんちやく」の如き海産動物も神經系の發達の程度は略々これと同じである。但し「くらげ」類になると、常に浮遊して居るから、眼・耳の始ともいふべき簡單な感覺器も具はり、神經組織も幾分か發達して、傘の周邊に沿うて細い輪の形に現れて居る。

[やぶちゃん注:「憐な」は「あはれな」と訓じている。]

Ebisinkeikei

[「えび」の神經]

 

 神經系の幹部の形狀は動物の種類によつて根本から違ふものがあるから、すべてを一列に竝べて、これを高等かれを下等と斷定するわけには行かぬ。誰も知つて居やうな普通の動物だけに就いていうても、相異なる型が三つは慥にある。即ち一つは「えび」・「かに」・昆蟲類などのもの、一つは「たこ」・「いか」・貝類などのもの、一つは獸類鳥類より魚類までを含む脊椎動物のものであるが、その中、「えび」・「かに」昆蟲等では身體が多くの節からなつて居る通り、神經系の幹部も各節に一つづつあつて、これが神經よつて恰も鎖のごとくに前後互に連なつて居る。また「たこ」・「いか」などは身體に節がない如く、神經系の各部の方も一塊となつて、食道を取り卷いて居る。これらは、いづれも人間の腦・脊髓などとは根本から仕組が違ふから、形の上からは比べて論ずることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:『一つは「えび」・「かに」・昆蟲類などのもの』一般に梯子形神経系“ladder-like nerve system”である。これらの節足動物では環形動物に似た体節制と、そこからの発展としての異規体節化(環形動物のように概ね同一の体節の繰り返しによってその体が構成されているのを同規体節制というが、体の各部分で体節の様子や付属肢の形などにそれぞれ役目に応じた分化が見られるのを異規体節制という)が明確に見られ、神経系もそれがに伴って分化している。参照したウィキの「はしご形神経系」によれば、『一般に頭部は口の前後の複数体節が融合して形成されるが、神経系においても脳は複数の神経節が融合して形成される。ここでも口の後方では数節分が癒合している例が多』く、『そこから食道を囲んで食道神経環があり、そこから体の後ろに一対の腹神経索が伸び、各体節に神経節と横の連絡がある。これがはしご的な部分であるが、実際には互いに接近している上、神経節の部分では互いに密着している例が多く、はしご形であることは、それらの間の部分でそこに間隙があることで判断できる程度である。多足類など同規体節的な性質の強いものではこの部分が長く、はしご形が比較的強く残るが、甲殻類や昆虫、クモ類では神経の集中がより強く、はしご形の残る部分が少なくなっている』とあるように、実は、中枢神経として体を前後に走る神経索が左右一対あって、そこに一定間隔で神経節があり、それらが左右の神経連絡によって繫ぎ合わされている、つまり、縦の神経索二本が一定間隔で横の連絡を持ち、全体がはしごの形に見えるということから梯子形神経系と呼称するものの、実際には梯子らしい形が見て取れるわけではなく、縦走する神経索がごく近接する例や、互いに融合しているケースが少なくない。従って梯子形というのはあくまで神経系モデルの分類上の大まかな概念表現と見るべきである。これらは謂わば、中枢神経形成の果てに微小脳を形成した点で特徴的である。

『一つは「たこ」・「いか」・貝類などのもの』これらのグループも梯子形神経系に属するが、ウィキの「はしご形神経系」によれば、『軟体動物では、基本的な構造としては環形動物に近い神経系を持つ。つまり周食道神経環から後方へ神経索が対をなして伸びる形である。ただし体節ごとに神経節があるのではなく、神経節は口の上(脳にあたる)、口の下、およびその後方に四対あるのが基本の形である。神経索は二対あり、各所で横の連絡を持つから、全体としてははしご形に近い形である』。『多板類と無板類ではこの基本形に近い構造が見られる。多板類の場合、口の後ろで消化管を取り囲む周食道神経環から体の後方へ走る神経索は体の左右に二対ずつあり、外側を側神経幹、内側を足神経幹という。これらの間には互いに横の連絡を取るように神経連合が発達するため、全体としては三本のはしごを密着させたような形を取る。なお、単板類の場合、内側の足神経幹の対の間には連絡がないため、左右に一対のはしごが並んだようになっている』。『このことは多板類の殻や鰓、体表の毛の配列にも体節的な特徴があることと並んで、軟体動物が体節制を持つ祖先から由来したとの考えの基礎となった。発生面では環形動物との共通点が強いこともあって、このことはほぼ定説的に考えられたこともある。しかし、その後の系統学的検討からは、軟体動物の祖先が体節を持っていたとの判断はでていない。むしろ、無脊椎動物の多くで、体軸方向に走る神経索は左右に対をなす例が多く、両者の間に連絡ができた場合、はしご形になってしまう、という風に見た方がよいかも知れない』。『なお、これ以外の軟体動物では、体軸方向に著しく短縮化が生じており、神経系の形が大きく変形している。腹足類の場合、頭部付近の口球神経節、脳神経節あたりまでははしご形の形がある程度維持されるが、以降は短縮され、また多くの群ではこの間にねじれを生じて形が複雑になっている。前腮類では足神経幹の間のはしご状がわずかに見られる場合もある。二枚貝類では』四対乃至『三対の神経節とその間の神経連鎖が見られる。堀足類でも神経索がごく短縮しているものの神経節の配置はほぼ認められる』とある。特にこれらの内、イカ・タコは謂わば、中枢神経形成の果てに巨大脳を形成した点で、先の節足動物群などの、同じ梯子状神経系のグループでありながらも、大きく異なった特徴と言えるであろう。

『一つは獸類鳥類より魚類までを含む脊椎動物のもの』中枢神経系は背面中央に一本で管状、前方部分が脳に分化するタイプの管状神経系である。]

Namekujiuo

 

[なめくぢうを]

 

 次に脊椎動物を見ると、これにも最も簡單なものから最も發達したものまでさまざまの階段がある。この類では必ず身體の中軸に一本の脊骨があつて、その背後に神經系の幹部が通つて居るが、最も下等の脊椎動物になると、これに腦・脊髓といふ區別がない。例へば淺海の底の砂の中に居る「なめくぢうを」の類では、身體の中軸の背側に長い紐の形の神經系の幹部はあるが、全部脊髓の如くで、特に腦と名づくべき太い部分が見當らぬ。元來腦なるものは脊髓の續きで、たゞその前端の著しく發達した部分に過ぎぬから、腦がなければ、神經系の幹部は全く脊髓のみから成つて居る如くに見える。腦があれば、これを包み保護するための頭骨も要るが、「なめくぢうを」の如き腦のない動物では無論頭骨も發達せぬから、身體の前端に特に頭と名づくべき部分がない。それ故、動物學上では、この類を無頭類と名づける。かやうに腦はないが、この動物の生きて居る所を見ると、なかなか運動も活潑で、特に速に砂の中へ潜り込むことなどは頗る巧である。さればこの動物の神經系の幹部は、簡單ながらもこの動物の日常の生活に對して、用が足りるだけの程度には發達して居るものと考へねばならぬ。

[やぶちゃん注:「なめくぢうを」は原始的な脊索動物で、脊椎動物の最も原始的な祖先に近い動物であると考えられる生きた化石。脊索動物門脊椎動物亜門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科のナメクジウオ属 Branchiostoma(生殖腺は体幹の左右両側にある)及びカタナメクジウオ属 Epigonichthys(生殖腺は体幹の右側のみ)に属する生物の総称。日本近海にはナメクジウオ Branchiostoma belcheri・カタナメクジウオ Epigonichthys maldivense・オナガナメクジウオ Epigonichthys lucayanum・ゲイコツナメクジウオ Asymmetron inferum の四種が生息しており、愛知県蒲郡市三河大島と広島県三原市有竜島がナメクジウオの生息地として天然記念物に指定されているが激減しており、絶滅が危惧されている希少種である。主に参照したウィキの「ナメクジウオ」によれば、体長は三~五センチメートル程で、『魚のような形態をしている。体色は半透明。背側と腹側の出水口より後方の縁はひれ状にやや隆起してひれ小室と呼ばれる構造が並び、それぞれ背ひれ、腹ひれと呼ばれる。後方のひれ小室を伴わない部分は尾ひれとして区別される。神経索の先端には色素斑や層板細胞、ヨーゼフ細胞と呼ばれる光受容器をもつほか、神経索全体にわたってヘッセの杯状眼と呼ばれる光受容器がある。閉鎖血管系』(リンク先の模式図の7)『をもつが、心臓はもたず、一部の血管が脈動することで血液を循環させている。体の前半部にある鰓裂』(リンク先の模式図の10)によって『水中の酸素を取り込んでいる。鰓裂は水中の食物を濾こしとる役割も果たしている』。『頭部から尾部にかけて、筋肉組織でできた棒状組織である「脊索」をもつ。多くの脊椎動物では、発生過程において脊椎が形成されると「脊索」は消失するが、ナメクジウオ(頭索動物)は生涯にわたって「脊索」をもち続ける。また脊椎動物と異なり、頭骨や脊椎骨はもたない。脊索の背側に神経索』(リンク先の模式図の3)を持っており、神経索の先端は脳室(リンク先の模式図1)『と呼ばれ、若干ふくらんでいるが、脳として分化しているとは見なされない。かつては食用とされた』。『全世界の暖かい浅海に生息している。体全体を左右にくねらせて素早く泳ぐことができるが、通常は海底の砂のなかに潜って生活している。ホヤなどと同様、水中の食物を濾過することで摂食している。体内に緑色蛍光タンパク質を持ち、特に頭部が明るく発光する。雌雄異体であり、精子と卵を体外に放出し、体外受精を行う』。古生代カンブリア紀のバージェス動物群(五億一五〇〇万年前)の一種として発見されたgenus Pikaia ピカイアはナメクジウオによく似ていることから、これが脊椎動物のもっとも古い先祖と言われたこともある。しかし、それよりやや前の澄江(チェンジャン)動物群(約五億二五〇〇万年前から約五億二〇〇〇万年前のカンブリア紀前期中盤に生息していた、化石の発見地である中国雲南省澂江県の名を冠した動物群)から発見された、最古の魚類のルーツとされるミロクンミンギア genus Myllokunmingia(中文名は昆明魚)の仲間ハイコウイクチス Haikouichthys『が当初は頭索類ではないかと言われたが、頭に当たる構造が確認されたことで脊椎動物と考えられるに至った。したがって、それらの系統の分岐はさらに遡ると考えられる』とある。]

Ssakananonou

[魚の腦

(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]

Waninonou

[「わに」の腦

(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]

Torinonou

[鳥の腦

(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]

Usaginonou

[兎の腦

(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]

Inunonou

[犬の腦

(い)大腦 (ろ)小腦]

 

 普通の魚では脊髓の前端に續いて明な腦があるが、これを人間の腦などに比べると、その形狀が餘程違ふ。人間の腦ならば、腦の大部分をなすものは所謂大腦であつて、小腦はたゞその後端の下面に隱れて居るに過ぎぬが、魚類の腦では大腦は甚だ小さくて、腦の前端の附属物の如くに見え、小腦の方が、遙にこれよりも大きくて、腦の後部の大半をなして居る。そして腦の中央部にあつて、恰も腦の如くに見える左右一對の大塊は何であるかといふに、これは視神經葉若しくは中腦と名づけるもので、人間の腦では、大腦の小腦との間の割れ目を開いて覗かなければ見えぬ程の小さな隱れた部分である。かやうな次第で、魚の腦にも人間の腦にも、同じだけの部分が具はつてはあるが、各部の發達の程度に非常な相違があつて、人間で大きな大腦は魚類では頗る小さく、人間で小さな中腦は魚類では甚だ大きい。尤も腦全體の重量が人間では體重の四十分の一もあるに反し、「まぐろ」などでは僅に三萬分の一にも當らぬから、實際の大きさをいへば、魚類の中腦は決して人間のよりも大きなわけではなく、たゞ他の腦部に比して大きいといふまでである。實驗觀察によると、大腦は知・情・意等の所謂精神的作用を司どり、小腦は全身の運動の調和を圖るといふやうに、腦の各部分には、それぞれ分擔の役目が違ふから、各部の大きさの著しく違ふ動物では、その作用にも種々の相違のあるべきは言ふを俟たぬ。蛙の類では大腦が稍々大きいが、やはり大腦と視神經葉と小腦が前後に一列に竝んで居る。圖に示した「わに」の腦は、蛙の腦に比してたゞ大腦が少しく大きいだけである。また鳥類では、大腦が更に大きく、その後緣は小腦と相接し、そのため視神經葉は左右へ壓し出され、腦の側面に丸く食み出して居る。

[やぶちゃん注:「視神經葉若しくは中腦」は狭義の脳幹(下位脳幹)のうち、最も上の部分であって、更に上には第三脳室、下には橋、両外側には間脳がある。滑らかな動きを可能にする錐体外路性運動系の重要な中継所を含むほか、対光反射・視聴覚の中継所・眼球運動反射・姿勢反射(立ち直り反射)・γ運動ニューロン活動(随意運動中の筋紡錘の感度の調節機能)の抑制・歩行リズムの中枢をも含む(以上は主にウィキ中脳」に拠る。リンク先にはヒトの脳での立体的な中脳の位置を画像で見られる)。]

 

 獸類の腦はすべての動物の中で最も大きく、且大體に於ては全く人間の腦と構造が一致して居る。たゞ大腦の發達の程度には種々の階段があつて、その低いものでは大腦の表面が平滑で少しも凸凹がないが、その高いもの程表面が廣くなり、それがために大腦の表面には廻轉・裂溝などと名づける雲形の複雜な凸凹が生じ、終に人間に見るやうな形のものとなる。二三の例を擧げて見れば、兎や鼠などでは腦の表面は殆ど平滑で、囘轉も裂溝もないが、馬でも鹿でも大腦の表面には若干の溝があつて稍々複雜に見える。犬では更に廻轉が多く、猿の類では餘程人間の大腦に似て來る。特に猿の中でも猩「しやうじやう」〔オランウータン〕などのやうな大形の種類では、大腦の表面にある廻轉・裂溝の配置が、大體に於いては人間のとよく似て居て、一々の部分を互に比較することが出來る。近來大腦の働きを實驗的に研究するには、生きた動物の頭骨を切り開いて腦を露出せしめ、その表面の各部を弱い電氣で刺戟して、その動物の知覺と運動とに如何なる結果が現れるかを調べるが、歐米の學者が競うて「しやうじやう」〔オランウータン〕の類をその材料に使ひたがるのは、全くその腦が人間の腦によく似て居て、研究の結果を直に人間に當て嵌めることが出來るからである。

[やぶちゃん注:「しやうじやう」は猩々で現在のオランウータンのこと。現在の哺乳綱サル目ヒト上科ヒト科オランウータン亜科オランウータン属 Pongo に分類される、

スマトラオランウータン Pongo abelii

ボルネオオランウータン Pongo pygmaeus

の二種を指す。約一三〇〇万年前にヒト亜科とオランウータン亜科が分岐したと考えられている。以前はオランウータン一種から構成され、基亜種ボルネオオランウータンと亜種スマトラオランウータンとの二亜種に分かれていたが、両者は遺伝的・形態的・生態的に異なる点が多く、飼育下では交雑が可能であるものの、雑種個体は純血個体に比べて寿命が短く、幼児死亡率が高いことが報告されていることから、現在では別種とするのが適当と考えられている。属名Pongo は、十六世紀にアフリカ大陸で発見された人のような怪物(ゴリラもしくは原住民と考えられているもののコンゴ語)に由来し、また、オランウータンという名はマレー語で「森の人」の意。元来は海岸部の人が奥地に住む住民を指す語だったが、ヨーロッパ人によって本種を指す語と誤解されたことに由来するという(以上は主にウィキオランウータン」に拠った)。]

 

 以上述べた通り神經系の幹部の形狀や、その發達の程度は、動物の種類によつて大に違ふが、若し同じ構造を有するものは作用も相同じと假定すれば、魚類より人間までを含む脊椎動物の腦脊髓の働きは、性質は大抵相同じで、たゞその程度に相違があるものと考へねばならず、また「かに」・「えび」や「たこ」・「いか」などでは神經系の幹部の形狀が根本から違ふが、これは同じ目的を達するために、相異なる形式を取つたと見なすべきもので、恰も同じく空を飛ぶ機械に、飛行船もあれば飛行機もあり、また飛行船の中にも瓦斯嚢に硬い骨のあるものもあればないものもあり、飛行機の中にも單葉もあれば複葉もあり、なほ別に工夫すれば子供の玩具の竹の「とんぼ」と同じ理窟を應用した航空機も出來るのと同じことであらう。そしてその目的とする所はいづれも、外界の變化に應じて適宜に身を處するといふことであつて、その働きの程度は各種の動物の現在の生活狀態に從つて、それぞれ間に合ふ位の所を限りとして居るのである。

沖を眺望する 萩原朔太郎 (「靑猫」版)

 沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない
なんといふさびしい海岸だ
かうしてしづかに浪を見てゐると
浪の上に浪がかさなり
浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ
ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ
空にうかべる島と船とをながめ
私はながく手足をのばして寢ころんでゐる
ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ
沖に向つて眺望する。

[やぶちゃん注:詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)より。初出の「松の木」のマルチ・キャメラ風の重合画像が整理されると同時に、直截的感覚を示す「つめたい」「さびしき」という形容詞を捨象して中間部をきりっと締めることに成功した。終曲の後ろから二行目も、初出の「幽靈」という即物的にして陳腐な換喩を抽象的でより夢幻的な「かげ」に変えたことが成功している。この「幽靈」は四音で、この四音によって、初出はここで朗読が停滞し、如何にもだらだらとした張りのないものとなっている。実際に朗読すると、この四音と二音が、詩の生死を分けているのが分かる。そして、最終章は鮮やかに斧を入れた。「遠く悲しく……眺望して居るのだ」という如何にもな内的感情の弁解口調の緩んだ時制が、禁欲的な現在形で、巖頭にあって風波に髪を靡かせている、『絶対の孤独』を直感させるところの厳しい詩人の横顔をのみクロース・アップする。]

沖を眺望する 萩原朔太郎 (初出形)

 沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない
なんといふさびしい海岸だ
かうしてしづかに浪を見て居ると
浪の上に浪がかさなり
浪の上に白い夕方の月が浮んでくるやうだ
つめたい砂の上を風が吹いて通るやうだ
われひとり出でて松の木をながめ
さびしき海岸の松の木をながめ
空に浮べる島と舟とをながめ
私はながく手足を伸ばして寢ころんで居る
ながく呼べどもかへらざる幸福の幽靈を求め
沖に向ひて遠く悲しく眺望して居るのだ。

[やぶちゃん注:『感情』第二年第二号 大正六(一九一七)年二月号。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 朝比奈切通 六浦

   朝比奈切通 六浦

 

 それより金澤(かなざは)にいたるに、大倉にいでゝ、北條(ほうじやう)の屋敷跡、賴經將軍御代(だい)の館の古跡、賴朝公屋敷跡方(かた)の橋をすぎて、朝比奈(あさひな)の切通(きりどほし)にいたる。この先、侍從(じじう)川をすぎて、照手姫身代(てるてひめみがはり)の觀音あり。鎌倉より切通まで一里、これより金澤へ一里。

〽狂 あさひなの

ちからならねど

  たび人も

ひけるかすみを

 きりどほしみち

「なんと、此切通(きりとほし)は朝比奈がきりぬいたといふこと、そして、門をもやぶつたといふは力のつよい人。しかし、儂(わし)も六十になるが、筵(むしろ)をやぶることに骨はおれぬから、どうぞ、筵よりか、何處(どこ)ぞの娘の糸立(いとだて)をやぶりたいが、かみさん、お前に娘の糸立があるなら、やぶらせなさい。」

「娘の糸立より、妾(わし)の筵はどうでござる。妾(わし)の筵は、やぶらずとも、もふ、とうからやぶつてござるから、そんなに骨は、おれませぬ。」

 六浦(むつうら)をすぎて、金澤の三島明神の社(やしろ)、琵琶島辨才天より東屋(あづまや)といふ見晴らしよき茶屋にいりてあそぶ者、遊山(ゆさん)、蛤採(はまぐりと)りの慰みあり。こゝの庭の生簀(いけす)に、いろいろの魚(さかな)、鰭(ひれ)ふりあそぶ樣(さま)、海の魚(うを)のいきたるは都會(とかい)の人の目にはめづらしく見へたり。

〽狂 いつかはと

 まちしねがひも

    かなざはの

 あづまや

   に見る春の

        八けい

「さあさあ、お客だよ、お客だよ。奧のお座敷はあいているか。なんでも、うつくしい揃(ぞろ)ひの女中(ちう)方(がた)ばかり。その代(か)はり、そうぞうしいばかりで、たんとの錢(ぜに)もなるまいけれど、よもや、食ひ逃げはあるまい。なんでも、揃ひの着物で、金をつかひそうにはみえても、頭(つぶり)には鼈甲(べつこう)と見せて、今はやりのびいどろだから、その氣でいきなさい。」

[やぶちゃん注:この話柄の前半部と絵の右半分は朝比奈切通の中間点にあった茶屋の様子を活写したものである。朝比奈旧道が実際の街道として機能していた昭和三〇(一九五五)年頃までは、この茶屋はあったやに聞いているが、そうした写真や絵図は見たことがないので非常に貴重な一枚である。

「大倉」鶴岡八幡宮の東の地域、最東は朝比奈切通、南は滑川、北は瑞泉寺一帯までを総称する広域地名であるが、ここはその中でも鎌倉幕府の前期の大蔵幕府が置かれた跡地を指している。現在の清泉女学院小学校のある周辺二〇〇メートル四方が大倉幕府跡に比定されている。

「北條の屋敷跡」新編鎌倉志七」冒頭にある「寶戒寺幷葛西谷圖」を参照されたい。現在の宝戒寺周辺及びその東方は旧北条高時邸であり、ここを言っているが、この辺りから、実地踏査が行われていないのか、どうも名所旧跡に叙述順序や謂いが微妙におかしい感じを私は受ける。

「賴經將軍御代の館の古跡」これも前の「北條の屋敷跡」と同所。新編鎌倉志七」冒頭にある「寶戒寺幷葛西谷圖」を参照。「北條屋敷幷賴經以後將軍屋敷跡」とある。

「賴朝公屋敷跡方(かた)の橋」この「賴朝公屋敷」は大倉幕府跡の内、現在の頼朝の墓の下にある本来の頼朝を祀った法華堂跡の南部分の田畑を古く頼朝屋敷と呼称していた。「新編鎌倉志卷之二」冒頭にある「賴朝屋敷」の図を参照されたい。

「この先、侍從川をすぎて……」幾ら何でもこの省略はひどい。一九はこのルートを歩いていないと私は読む。

「鎌倉より切通まで一里」鶴岡八幡宮から朝比奈切通までは凡そ四キロメートルあり、正しい。

「これより金澤へ一里」朝比奈切通から金沢八景まで凡そ四キロメートル弱で、正確である。

「糸立」糸を入れて補強した渋紙。勿論ここは、処女膜の隠喩。

「東屋にいりて……」タイアップ広告部。新編鎌倉志卷之八の「瀨戸橋」の注に私が引いた「江戸名所圖會」の「瀨戸橋」の図に、この東屋の活況が窺える。是非ご覧あれ。

「さあさあ、お客だよ、お客だよ。……」以下、東屋の女将さんの台詞と思われるが、なかなか辛辣で慧眼の持主である。もしかすると、この頃、東屋の女将は姐御肌の毒舌の名物女将だったのかも……なんどと想像すると、これ何だか、面白くなってくる。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和一二(一九三七)年

昭和一二(一九三七)年

  病再び發しぬ。眠れぬ夜々
  わが胸を壓するはわが墓なり。

山の樹の靑きを樵れよわが墓に

わが墓の草實る頃骨朽ちむ

山の雷わが墓に來てうちくだけ

[やぶちゃん注:『傘火』二月号の連作三句。肺浸潤の再発らしいが、年譜には記載がない。]

  黑

兵隊が征くまつ黑い汽車に乘り

黑い道喇叭鼓隊に灼け爛れ

僧を乘せしづかに黑い艦が出る

黑雲を雷が裂く夜のをんな達

眞夜中の黑い電柱抱いて嘔く

[やぶちゃん注:『京大俳句』八月号。「旗」の「黑」三句の初出形。]

耳嚢 巻之六 梅田枇杷麥といふ鄙言の事

 梅田枇杷麥といふ鄙言の事

 八十に及ぶ老翁の語りけるは、しれる老農、梅田枇杷麥(うめたびはむぎ)といふ事を申(まうし)ける故、何の事やと尋(たづね)ければ、梅實(うめのみ)能(よく)實(み)のる時は田作(たつくり)よろしく、豐饒(ぶねう)なり。枇杷の實よく結べば麥作よく出來るといひしが、數年其言に當(あて)て考ふるに違はざる由、右老翁の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:「鄙言」は「ひげん」で、ここでは世俗の言い伝えであるから呪(まじな)いの同族で、二つ前の呪いシリーズと連関する。「梅田枇杷麦」は「日本国語大辞典」にもしっかり載る俗諺で(ただ、同辞典の引用例もこの話)、ここに示されたように、梅の実が良く稔る時は米が良く出来、枇杷の実が良く稔る時は麦が良く出来る、という農村の俚諺である。底本の鈴木氏注に、『梅米枇杷麦という所もある。中国でも、梅実少なければ秣亦少なしとか、樹に梅無く、手に杯無しなど、同様のことわざがある』と記しておられる。「秣」は「まぐさ」と読む。
・「豐饒」は「ふねう(ふにょう)」「ほうぜう(ほうじょう)」と読んでもよい。

■やぶちゃん現代語訳

 「梅田枇杷麦」という俚諺の事

 八十になんなんとする老翁が語ったことには、その者の知音(ちいん)の老農、
「梅田枇杷麦(うめたびわむぎ)――」
ということをしばしば申すゆえ、
「何のことじゃ?」
と訊いたところ、
「――梅の実のよう稔る時は、これ、田の出来が宜しく、豊饒(ぶにょう)――枇杷の実のよう結ぶ時は、これ、麦がよう出来る――ということじゃ。」
と答えた。

「……ここ数年の様子、その謂いに当てはめて、よう考えて見申したが、これ、その通りにて、間違い御座らんだわ。」
とは、これを語って御座った老翁の語りで御座る。

2013/02/09

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 鶴岡八幡宮

   鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は、鎌倉の中央にあり。古へは、由比の濱にありしを、賴朝公、こゝにうつし玉ふ。すべて造營善美(ぜんび)をつくし、本宮(ほんぐう)、應神天皇、神功皇后。武内社(たけのうちのやしろ)。賴朝の社、白旗(しらはた)明神といふ。そのほか、末社おほし。石段の下に大木(ぼく)の銀杏(いてう)の木あり。昔、當社の別當、阿闍梨公曉、この銀杏の木の蔭にかくれて、實朝公をうちたること、吾妻鏡に見へたり。
〽狂 掃溜へおりしならねど
   寉が岡庭に
 まじはる
    宮居たうとき
「なるほど結構なお宮で、ありがたい神樣ではないか。昔、この神前で靜御前(しづかごぜん)が法樂(ほうらく)の舞をしたといふことだが、法樂とは茶を焙(ほう)じるものではないか。それをもつて舞をするのかへ。」
「なにといふ。茶を焙じるのは『ほうらく』ではない。あれは、『焙烙(ほうろく)』さ。」
「それそれ、焙烙よ。大阪では鯨の油をとったあとの身處(どころ)を、『炒(い)り殼(がら)』といつて賣りにくるが、その炒り殼へ醬油をかけて飯(めし)の菜(さい)や酒の肴にするが、なかなかよいものだから、儂(わし)が京へいつたとき、宿屋にゐると、外(そと)へ、
『いりがらや、いりがらや』
とうつてきたから、
『これこれ、その「炒り殼」をかつてください、唐辛子醬油(とうがらしじやうゆ)をかけて酒の肴にする』
といふと、宿屋の女どもがわらひだして、
『あれはどうして、くはれるものではござりませぬ。茶を焙じるものでござります』
といふから、それはと、とびだして見たら、焙賂賣り。なぜ、これを『炒り殼や、炒り殼や』とうつてあるくときいたら、
『イヤ、「いりがら」とは申しませぬ。これは、「炒瓦(いりがはら)」といつたのでござります』
といつたから、大笑ひいたしました。
[やぶちゃん注:「賴朝の社、白旗明神といふ」現在の鶴岡八幡宮境内末社の白旗神社。頼朝を祭神とする。元は本宮の西側に白旗社としてあったが、明治一九(一八八九)年に実朝を祀る柳営社と合わせて現在地へ移転鎭祭された。社伝によれば、頼朝には没後の翌正治二(一二〇〇)年に、白旗大明神の勅号が下賜され、政子が創建したとする(一説に頼家とも)。
「寉」鶴。
「法樂の舞」楽に合わせて舞を舞って神仏を楽しませること。奉納の舞い。
「炒り殼」鯨の脂身を細かく切り、炒って脂を除いたものを干した食品。但し、これを「いりがら」と呼ぶの寧ろ、関東で、上方では「ころ」という方が一般的であるようだ。牧村史陽編「大阪ことば辞典」(講談社学術文庫版)の「コロ」には、『まっこう鯨の皮を炒って油を取り、乾かしたもの。いりがら。同じコロでも、東京あたりでは塩づけにした生皮をそのまま使うが、関西ではこれを加熱して堅くなるまでアブラをぬく。三陸の鮎川・女川など捕鯨基地でつくつていた。大根・竹輪・ひろうす』(がんもどき)『・小いも・とうふなどとかんとだき』(おでん。関西では「おでん」は豆腐田楽を指す)『にする。三馬の『浮世風呂』(文化)二編巻上に「御当地のすつぽん煮すつぽん煮といふはな、どないな仕方ぢゃと思うたら、あほらしい、マァ、吸物ぢゃと無うて、上(かみ)でいふ転熬(ころいり)ぢゃさかい、塩が辛うて、トトやくたいぢゃ」とあるように、もとは鯨に限らず、こうしたものをすべて』「転熬(コロイリ)」『といったのである』とある。この牧村氏の記載では、あたかも「コロ」=「鯨の炒り殻」は近代捕鯨以降に知れるようなった製品の如く読めるが、本話でもはっきりと「鯨の油をとったあとの身處」とあるから、思いの外、この「コロ」=「鯨の炒り殻」の歴史は古いことが知れるではないか。
「かつてください」「売って下さい」と同義。若しくは、宿の女中に「買って下さい」と頼んだとも取れる。]

北條九代記 紀伊所行景關東下向 付 北條泰時傷歎

      ○紀伊所行景關東下向  北條泰時傷歎
同八月十一日、早朝より、四方、雲閉ぢて暗き事、夜陰の如く、大雨降(ふり)出でて、潟(そゝぐ)かと覺ゆ。谷々(やつやつ)より落(おつ)る水に、大河小河一(ひとつ)になりて、淵瀨も見えず。午尅(うまのこく)に及びて大風吹き起り、大木を堀(ねこじ)にし、頑石(ぐわんせき)を轉(まろば)し、郷里(がうさと)の家々は悉く潰したり。浦濱の船共は、或は覆り、或は破損(われそん)ず。鶴ヶ岡の宮寺廻廊八足(やつあし)の門以下、その外所々の佛閣塔廟、凡(およそ)萬にして一宇も全き所は更になし。下總國葛西郡(かさいのこほり)の海邊(かいへん)は、潮(うしほ)漲(みなぎ)り、波高く揚り、農民漁者の家共を引(ひき)漂はし、一千餘人は潮(うしほ)に溺れて失せにけり。同じき二十三日に又、大雨大風、去ぬる十一日の如し。兩度雨風の災に依(よつ)て、五穀、損亡して、庫倉(こさう)、破壊(はゑ)す。民家困窮し、飢餓の者、巷(ちまた)に充つ。強盗起りて物騷しく、然るべき人の家に思(おもひ)も寄らず込入て、財寶を奪ひ、米穀を偸(ぬす)む。昨日までは富(とみ)榮えたる輩、或は洪水に家を流して住所(すみどころ)を求め、或は寶を失うて食物なし。號哭(がうこく)の聲、日夜を云はず、洋々として耳に充(み)てり。哀(あはれ)なりける世の中なり。賴家卿は是をも知り給はず、鞠(まり)の曲(きよく)を好み出でて、日毎の翫(もてあそび)とし給ふ。猶(なほ)其(その)奥旨を知らんが爲に、仙洞へ申さしめ、この藝堪能の者、北面の中に一人下さるべしとなり。豫(かね)て調練の功を累(かさ)ねんとて北條五郎時連(ときつら)、少將法眼觀淸(のほふげんくわんせい)、富部(とべの)五郎、大輔房源性、比企彌四郎、肥多(ひたの)八郎を詰衆(つめしゆ)と定めて、百日の鞠を初めらる。同九月七日、仙洞の勅許に依て、鞠足(きくそく)の達者紀内所(きないどころ)行景を鎌倉に指(あし)下さして、鞠(まり)の師となし給ふ。賴家卿は大に悦び給ひて石壺(いしのつぼ)にして對面あり、御盃を行景に下され、「前庭(ぜんてい)の籬(まがき)の菊、玉杯に浮ぶ。永く萬年を契るべし」との上意ありて、自(みづから)銀劍を取て行景に下されけり。是より日毎に御鞠遊しけるに、その員(かず)日に添へて增(まさ)り給ふ。萬事を忘れて現(うつゝ)御心なく、只此藝の長じさせ給ふをのみ能(よき)事に思(おぼし)召す計なり。江馬(えまの)太郎泰時、竊(ひそか)に中野五郎能成(よしなり)に語られけるは、「蹴鞠は是(これ)幽玄の藝なり。君、賞翫し給ふ事誠に餘義なし。然るに去ぬる八月、兩度の風雨に神社、佛閣、民屋に至るまで大方(おほかた)、破壊(はゑ)顚倒し、五穀豐(ゆたか)ならずして、國郡(こくぐん)飢饉す。人民愁へて、手足を措(おき)難し。かゝる折柄は少(すこし)は御愼(おんつゝしみ)もおはしまし、國政をも聞召され、理世安民(りせいあんみん)の御惠(めぐみ)を御心に懸けさせ給はば、尤も有難き御事なるに、左樣の御志(こゝろざし)は露(つゆ)計もましまさで、剩(あまつさへ)京都より放遊(はういう)の輩(ともがら)を召下し、世の費(ついえ)、人の歎(なげき)を顧(かへりみ)給はず、恣(ほしいまゝ)の御振舞こそ宜からね。貴殿は近習の人をなれば、御機嫌を伺ひて、諷諫(ふうかん)せらるべし」とぞ仰せける。能成、甘心(かんしん)して、「畏(かしこま)りて候」とて退出せられけり。
[やぶちゃん注:「紀伊所行景」は「きないどころゆきかげ」と読む。この人物について私は、ここに記された以外の情報を持たない。本話は、「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年七月六日、八月十一日、九月七日・九日・二十二日などに加え、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、浅井了意作「将軍記」の巻二の「建仁元年七月」「九月七日」などに基づいており、『本話の前後にも、国土の飢饉と災害の中で頼家が蹴鞠に耽る様が繰り返し批判的に描かれる。これは『吾妻鏡』にも、頼家の政治について「近日事において陵廃し、先蹤を忘るるがごとし。古老の愁ふるところなり」(建仁元年九月十五日、鶴岡放生会の項)、また「政務を抛ち、連日にこの芸(注:蹴鞠)を専らにせられ、人皆当道に赴く」(同年月二十日)等の批判的言説があり、また『将軍記』にも、泰時の言葉として「只此鞠をもてあそびて諸人のうれへをしろしめさず、右将軍の御世とは万事略義に衰ゆく也」』とあり、一貫している「北条九代記」に於ける愚君としての頼家についての批判的描写は、両書の言説を踏まえているとあって、特に「吾妻鏡」にあっても最早、頼家への批難が顕在化していることが明確に示されてある。
「凡萬にして一宇も全き所は更になし」「一千餘人」は、何れも「吾妻鏡」建仁元年八月十一日の条の「凡万家一宇無全所」「下総國葛西郡海邊潮牽人屋。千餘人漂没」の記載に基づく誇張表現。
「葛西郡」旧葛飾郡の西部。中世、武蔵国と下総国に跨る形になった葛飾郡域は非常に広大であったため、太日川(後の江戸川)を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称するようになった(但し、通称で正式な郡名ではない)。
「豫て調練の功を累ねん」京から名人が来る前に、事前に練習を積んで、教授を受けるに恥ずかしくない程度までは実力をつけておかねばなるまい、という頼家の提案である。
「詰衆」本来は室町時代に将軍の傍に就いて夜伽した者を言うが、ここは蹴鞠連としてこの六名を選抜、百日の間、ぶっ通しで常時、自分の傍に居させて、蹴鞠の特訓を各人に命じ、監視したことを言うのであろう。増淵氏は『鞠を詰め寄せる役』という注を附しておられるが、詰衆にはそのような蹴鞠用語としての特別な意味があるのであろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十一(一九三六)年

昭和十一(一九三六)年

 

ボロの旗天から埀れて日が暮れる

 

[やぶちゃん注:『傘火』六月号所収の「戦死」連作八句の掉尾。]

 

  靑子昇天

 

昇天せりてつぺん靑きマストより

 

昇天せり霧笛のこだま手にすくひ

 

昇天せりつばさに潮の香をひそめ

 

昇天せり穢土には凡愚詩をつくる

 

[やぶちゃん注:『旗艦』一月号。四句連作の喜多靑子(きたせいし)追悼句。]

 

  木馬館今もあり

 

さむき夜のおんがく褪せて木馬館

 

木馬めぐり星辰まどにふるびたる

 

くらき人木馬と老いてうづくまる

 

のがれゆく木馬の影を影が追へる

 

とこしへの木馬の輪廻凍てゆける

 

[やぶちゃん注:『京大俳句』一月号。五句連作。この「木馬館」とは、恐らく、浅草木馬館のことと思われる。ウィキの「通俗教育昆虫館」(木馬館の前身の旧正式名称)によれば、明治四〇(一九〇七)年に昆虫学者として有名な名和靖(なわやすし)が日露戦争勝利記念に昆虫館を建設したいと考え、東京市に「昆虫知識普及館」の建設を申請、土地を貸与され、同年四月二十一日に「通俗教育昆虫館」の名で開館した。開館当初こそ人気があったものの、すぐに経営は行き詰まり、後に浅草喜劇の俳優曾我廼家五九郎の援助を得て、それまでの木造から鉄筋コンクリート二階建ての建物へと改築、大正七(一九一八)年には根岸吉之助率いる根岸興行部に経営が移って、大正一一(一九二二)年には昆虫の展示は二階部分のみとなり、一階には木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」、やがて「木馬館」となった。昭和六(一九三一)年には昆虫展示が消え、大衆演劇の舞台となって、現在も存続している。]

 

銀簪を發止と星のその響き

 

[やぶちゃん注:『傘火』三月号の「星と或る家族」の連作五句の四句目。]

 

滿月できちがひどもは眠らない

 

月夜です閑雅な鳥は留守でした

 

  僕は

 

盗汗ふくまつはる詩魔を惡みつゝ

 

[やぶちゃん注:「盗汗」は「ねあせ」で、寝汗のこと。『旗艦』三月号所収。]

 

  絶對安靜

 

雪降れり妻いつしんに釘を打つ

 

小腦を冷やしちいさき猫とゐる

 

水枕がばりと寒い海がある

 

盗汗ふくまつはる詩魔を惡みつゝ

 

不眠症魚はとほい海にゐる

 

汽笛とべり窓の乳白曉ちかき

 

[やぶちゃん注:『京大俳句』三月号。知られた「旗」の句の初出形(四句目は既出であるが採録した)。表記やその他、有意な差がある(なお、以下の「磔刑の唄」の再校形も参照のこと)。前年昭和一〇(一九三五)年十一月、三鬼は胸部疾患で入院している(朝日文庫版三橋敏雄氏の解説には肺浸潤とある)。但し、発表一ヶ月後の四月には全治した旨の記載が底本の年譜にある。]

 

  磔刑の唄

 

小腦を冷やしちいさき魚を見る

 

夕刊の來ぬ夜ましろき檢温器

 

水枕ガバリと寒い海がある

 

仰向の磔刑あをく夜を燃ゆ

 

不眠症魚はとほい海にゐる

 

汽笛とべり窓の乳白朝遠き

 

[やぶちゃん注:『天の川』三月号。前の「絶対安静」句群の再校形。]

 

  レントゲン寫眞

 

   肺臟

 

降る雪ぞ肺の影像(ヒルム)を幽らく透き

 

   肋骨

 

雪つもる影像(ヒルム)の肋かぞふ間も

 

   坐骨

 

骨の像こゞし男根消えてあはれ

 

   びつことなりぬ

 

春夕べあまたのびつこ跳ねゆけり

 

[やぶちゃん注:『京大俳句』四月号の連作四句。]

 

船めざめ月より蒼き日を航ける

 

[やぶちゃん注:『天の川』五月号の「北海」連作五句の巻頭。]

 

螢賣る少年森の坂上に

 

[やぶちゃん注:『京大俳句』五月号の「井の頭公園」連作五句の掉尾。]

 

議事堂を背に禁苑の兵を視る

耳嚢 巻之六 奇藥を傳授せし人の事

 奇藥を傳授せし人の事

 

 宗(そう)對馬守家來に仙石主税(ちから)といへる人、朝鮮の勤番に渡海して彼(かの)國に在番せし頃、虎狩ありと聞(きき)て見ん事を好みしに、或る日虎を狩る由、案内にまかせ高き所に錢炮を携居(たづさへゐ)たりしに、虎狩出(かりいだ)され勢ひ猛(まう)に馳(はせ)來りしに、鐡炮を放す間なく飛びかゝりしを、玉を放ち尚(なほ)筒にて打(うち)て虎は殺しけるが、虎の爪(つめ)目へ當りしや、兩眼ともに腫れ上り誠(まこと)盲目ならんとせしを、朝鮮にても、對州の役人右の始末故(ゆゑ)大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに、或貧醫來りて藥を與へけるに、早速快(こころよく)、眼氣(がんき)元へ服しければ大ひに悦び、厚く禮謝して若干の金銀をあたへて、眼藥(がんやく)にかゝる奇法ある事、何卒本國へ土産にしたき間、右法傳授を乞ひけるが、必(かならず)外へ洩(もら)しなと堅く誓ひて傳授せし故、本國へ歸りて、何の眼にても右藥一法を與へしに、快氣する事神(しん)のごとくなり。主税が武術の師に、伊東寸朴とて眞刀(しんたう)流の術をなしけるが、子共とてもなく、主税はしばしば世話になりし故、一生のたつきにもせよかしと右眼藥の法を傳授せしが、寸朴年老(おい)て武州秩父にて身まかりし由。彼寸朴命終(めいしゆう)のころ、厚く世話をなして介抱せし佛師ありけるが、此法寸朴にて絶(たえ)ん事を歎き、彼佛師が深切(しんせつ)にめでゝ、かたく他傳を禁じ傳法なしけるが、佛師彼法を受持し、佛師細工のため上總の濱方へ至りし時、大勢眼の藥をあたへしにいへざるはなし。皆々驚き稱しけるが、或漁父眼を損じ年ごろ歎きけるを、彼藥を與へ快氣しける。殊外(ことのほか)悦びて、何も謝禮なすべきのよすがなしとて、家に傳はる脚氣(かつけ)の奇法を佛師へ禮傳なしけるにぞ、又彼脚氣の藥を拵へ、右病(やま)ふの人へ與へけるに、是も又奇々妙々なりければ、さる醫家にて、俗體にては醫者とも見へずとて佐脇朝運と名乘せ、專ら右兩藥にて所々療治なしける由。當時北組の町與力、島左次右衞門方に寄宿して、とし頃五十歳計(ばかり)の由。左次右衞門え未(いまだ)尋ね候事はなけれども、面白き行(ゆく)たて故、人の語るまゝを享和三年の春、記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:魚の眼取りの民間療法から、多分に民間薬っぽい朝鮮伝来の眼病薬と上総漁師の脚気薬の伝来譚で連関。序でにひょんなことから門外不出の霊薬二品を伝授された仏師が、遂には頭を丸めて医師となったという綺譚であるが、これは古くは神霊神仏を自在に掘り上げる聖が神妙な療治を成した訳で、当たり前と言えば当たり前ではある。恐らく、朝鮮の虎から上総の浜辺へのロケーションの面白さや、それぞれの伝来経路の過程の妙が話柄の主体であろうが(題名が伝授した人であって、された人ではない点で)、明らかに最後、根岸は仏師が医師になったそれをも面白がっている。仏師のテクノクラート化が進んでしまった江戸期にあっては、このような感覚が一般的であったのかも知れない。

・「宗對馬守」宗氏(そうし)は対馬府中藩藩主の家系。府中藩は対馬国(現在の長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(現在の佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名を対馬の地名を取って厳原(いづはら)藩とも呼んだ。ウィキの宗氏によれば惟宗(これむね)氏の支族であったが、室町中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになったという。十二世紀頃、『対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った』。『南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した』。『対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった』。『戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている』。『関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主とな』った、とある。最終記載の享和三(一八〇三)年以前の有意な時間が経過しており、主人公の仏師は五十歳としても最長三十年まで遡っても、それよりも更に前に最初の話柄は設定されているので、この藩主の特定は不能である。

・「朝鮮の勤番」倭館(わかん:中世から近世にかけて李氏朝鮮王朝時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以前は複数箇所に存在したが、江戸期には釜山にのみ置かれて日本側は対馬府中藩がここで外交通商を行った。)に対馬藩から出向した役人。ウィキの「倭館」によれば、この当時の倭館は草梁倭館又は新倭館と呼ばれ、延宝六(一六七八)年に現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、総面積は十万坪もあった(同時期の長崎出島は約四千坪であるから、その二十五倍に相当する大きなものであった)。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋・開市大庁(交易場)・裁判庁・浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。『倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった』。また、享保一二(一七二七)年に雨森芳洲(あめのもりほうしゅう:近江国出身の儒者。中国語・朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通商実務に携わり、朝鮮名を雨森東と言った。)が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時四〇〇人から五〇〇人程度は滞在していたと推定されている、とある。同記載には、慶長一四(一六〇九)年に『締結された己酉条約によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた』とあるが、本話から見ても、この頃にはそうした禁足は緩んでいたものと思われる。しかし、この本来は外出禁止であるところが、虎狩りに出た事故とあっては、これ、やはり、相当にまずいのであろう。だからこそ、「朝鮮にても、對州の役人右の始末故大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに」なのである。わざわざ「朝鮮にても」としたのは、役人があわよくば、藩に知らせずに現地での内々の処理をしようと慌てふためいた印象がある。

・「服しければ」底本は「服」の右に『(復)』と正字を傍注する。

・「眞刀流」神道流(下総国香取の飯篠家直(いいざさいえなお)長威斎の創始とされる室町時代に起こった流派で分派が多い。天真正伝神道流)や新当流(近世に常陸鹿島の塚原卜伝が創始した鹿島新当流。卜伝流)の流れを汲む一派か。「寸朴」という名からは新当流の一派であろう。

・「行(ゆく)たて」「行立」で、事のなりゆき。いきさつ、の意。

・「左次右衞門え未尋ね候事はなけれども」当時、根岸は南町奉行であった。直接の支配ではないものの、町奉行組織の部下である。

・「享和三年の春」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、凡そ一年前のホットな記録である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇薬を伝授した人の事

 

 宗(そうの)対馬守殿の御家来衆に、仙石主税(ちから)と申す御仁が御座って、朝鮮倭館勤番に当たって、渡海して、かの朝鮮国に在番致いて御座った折り、虎狩りがあると聴いて、是非とも狩りの実際を見たいものじゃと思い、ある日のこと、また、虎を狩るとのことなれば、案内(あない)にまかせて同道致し、高き所に鉄砲を携えて潜んで御座った。ところが、虎が狩り出だされて、勢い、猛ったままに、主税殿のあった所へ、これ、まっしぐらに走り込んで参った。有意の距離にて鉄砲を撃つ暇(いとま)も、これなく、あっという間に、虎は主税殿に飛びかかった。されば主税殿、殆んど虎の腹に筒先を突き刺したが如くにして――ズバン!――と一発放ち、なおも、鉄砲の筒をもって何度も何度も打擲(ちょうちゃく)致いたれば、何とか虎を殺して御座ったが、虎の両の手の爪が主税殿の両眼を抉らんとしたものか、両眼ともに腫れ上がり、まっこと、全盲になろうかという由々しきことと相い成って御座ったと申す。

 現地の対馬の役人どもも、この由々しき事態の出来(しゅったい)に、これ、大いに驚き慌てふためき、いろいろと現地の医師なんどを探し求めては療治させたが、これ、一向に効き目がない。――在番の家士が禁足の倭館の外へ出で、しかも、虎に襲われて鉄砲を発砲なし、しかも、両眼を失明するとなっては、これ、藩にも累が及ぶこととも成りかねぬと、これ皆々、途方に暮れて御座ったと申す。

 そんな折り、とある、みすぼらしい朝鮮人の医師が、この噂を聴いて倭館へと訪ねて参り、自ずと調合した薬を主税殿の眼に用いたところ、即座に軽快致し、素人が見ても、眼の充血や曇りも失せて、元通りに復して御座ったゆえ、本人はもとより、倭館の者一同、大いに悦んだと申す。

 さても、主税殿、この医者に厚く礼謝をなして、若干の金銀をも与えた上、徐ろに、

「……眼薬(がんやく)に、このような奇法のある事、これ、本邦にては聴いたことが御座いませぬ。……何卒、本国帰参の土産と致したく存じますればこそ……どうか、この調法、これ、御伝授下さらぬか?」

と切に乞うたところが、

「――必ず――他へ洩らしてはなりませぬぞ。――」

とのことなれば、堅く誓って伝授を受けたと申す。

 さて、主税殿、対馬へと帰って後、誰彼(たれかれ)となく、また、如何なる眼の病いにても、この伝授された薬一包を与えたところが、誰(たれ)にても、何にても、これ快気致すこと、不可思議なる神霊の力の如くで御座ったと申す。

 さても、主税殿の武術の師に、伊東寸朴(すんぼく)と申し、真刀(しんとう)流の剣術の師範が御座ったが、師には老いて後に養い呉るる子供とてもなく、また、主税殿も、何かとこれ、寸朴殿に、しばしば世話になって御座ったゆえ、

「……お師匠さま。……憚りながら、向後の生計(たつき)の一助となさって下され。」

と、かの眼薬の調剤法を伝授致いたと申す。

……そうして、また、時が経って、その後のことじゃ。

 この寸朴、流浪致いて、年老い、武蔵国は秩父にて身罷たと申す。

 ところが、かの寸朴、命終の砌り、厚く世話をなして介抱し呉れた懇意の仏師が御座ったが、

「……この神妙の眼薬の秘法……この身一代にて絶ゆること……まっこと、惜しきことじゃ……」

と歎き呟いたを、その仏師も心より、

「……本(ほん)に、その通りで御座りますのぅ。……」

と、請けごうて御座ったゆえ、

「――固く、他伝は、これ、ならぬぞ。――」

と、仏師へ伝法をなしたと申す。

 かくして、この仏師、かの奇妙の眼薬の調合法を受持致いて後、仏像細工の請いを受け、上総国の海岸地方へ参った折り、漁師町なれば陽の照り返しに、大勢の眼病を訴うる者が御座ったれば、かの眼の薬を施して御座った。すると――これ、治らぬ者は一人としておらぬ。されば、皆々驚き、褒め称えざる者は、これ一人として御座らなんだと申す。

 しかして、ここに、ある漁夫、甚だ眼を悪う致いて、漁にも支障を来たすほどになっておったれば、永年歎いて御座った。そこで仏師が、かの薬を与えたところが、瞬時に快気致いたと申す。

 漁夫はこれを殊の外、悦び、

「……何にも、謝礼致しますに相応しきもの……これ、御座いませぬが……」

と申しつつ、かの漁夫の家に代々伝わると申す脚気(かっけ)快癒の奇法を、この、仏師への礼として伝授致いたと申す。

 さてもまた、この仏師、その脚気の薬を拵えては、また、脚気を病んでおる人へ施して御座った。すると――これもまた、奇々妙々に脚気を全快させたと申す。

 さればこそ、その神妙の眼薬と、神妙の脚気の薬の噂を聴きつけた、さる本物の医師と懇意となり、

「……そのような仏師の俗体にては、これ、医者には見えねば……一つ、法体(ほったい)致すがよろしかろうぞ。……さればこそ、医師らしい号も必要じゃ、の。……うん――佐脇朝運(さわきちょううん)――と申すは、これ、どうじゃ?」

ということと相い成って、

――佐脇朝運

として、専ら、かの二つの薬を以って所々(しょしょ)にて療治をなしておると申す。

 当時の北町奉行所支配の町与力で御座った島左次右衞門方に寄宿しており、見た感じは五十歳ばかりの男と申す。

 左次右衞門は知れる者では御座るが、未だ尋ねみる機会は、これ、御座らねども、何とも、そこに至るまでの経緯(いきさつ)が、如何にも面白う御座ればこそ、以上は、人の語ったままを、享和三年の春に、記し置いたものにて御座る。

蛙の死 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

蛙の死

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

かわゆらしい、

血だらけの手をあげた、

月が出た、

丘の上に人が立つてゐる。

帽子の下に顏がある。

幼年思慕篇

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。朗読の観点から言うと、初出は「可愛いらしい」及び「血だらけの手をあげた。」の末尾の句点が「かわゆらしい」及び「血だらけの手をあげた、」よりもよく、こちらは「丘の上に人が立つてゐる。」の「ゐる。」が「居た、」よりも時制とモンタージュの効果が格段によい。また、末尾の「幼年思慕篇」という添書も朗読では読了後に有意な沈黙を置いて発すると、非常に効果的である。以上から私は、本詩の朗読には両者をカップリングした、

 蛙の死

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

可愛いらしい、

血だらけの手をあげた。

月が出た、

丘の上に人が立つてゐる。

帽子の下に顏がある。

幼年思慕篇

を薦めたい。私は詩の朗読とは朗読する俳優による翻案であると思っている。従って、私にとってはこうした操作も当然の如く、あり、なのである。]

蛙の死 萩原朔太郎 (初出形)

 蛙の死

蛙が殺された、
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしよに、
可愛いらしい、
血だらけの手をあげた。
月が出た、
丘の上に人が立つてゐた、
帽子の下に顏がある。

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第六号 大正四(一九一五)年六月号。]

2013/02/08

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 序

      第七章 本能と智力

Zourimusi

[ざうりむし]

 

 動物が生活して居る間は、餌を食ふため敵に食はれぬためにも、また子を産み子を育てるためにも、まづ外界の狀況を知り、外界に變化が起れば直にこれに應ずる策を講ぜねばならぬが、主としてこの衝に當たるものは神經系である。素より神經系の判然と發達して居ない生物でも、生きて居る以上は多少この能力がなければならぬが、神經系の發達したものに比べれば、その働きが遙に鈍い。例へば一滴の水の中にも無數に棲息し得る「アメーバ」や「ざうりむし」の如き微細な動物には、別に神經と名づくべき器官はないが、光に當てれば薄暗い方へ逃げ、酸素を與へればその方へ寄つて來る。即ちこれらの蟲も、外界の變化を感じ、外界の現狀を知り、不快の方を避けて心持ちの好い方へ移らうするが、これは神經系の發達した動物ならば、皆神經を用ゐて行ふ働きである。たゞ「アメーバ」や「ざうりむし」には特に神經系といふものがなく、全身の生きた物質を以てこれを行つて居るに過ぎぬ。また植物でも「おじぎさう」の如きは感覺が頗る鋭敏で、一寸觸れても直に葉が閉ぢて下る。米國産の「蠅取草」は、葉の表面に蠅が來てとまると、忽ち葉を閉ぢてこれを捕へ殺して食ふので有名である。しかも面白いことには、これらの植物に麻醉藥をかがせると、恰も睡つた如くになつて少しも動かぬ。その他「ひまわり」の花が朝は東を向き夕は西を向き、「かたばみ」の葉が晝は開き夜は閉ぢるなど、外界の變化に應じて姿勢を異にするものは幾らもあるが、植物には特に神經と見做すべきものはないから、これらの運動はたゞ身體の生きた組織の感覺力に基づくことであらう。

[やぶちゃん注:「衝」は「しよう(しょう)」で、大事な任務。

「おじぎさう」マメ目マメ科ネムノキ亜科オジギソウ Mimosa pudica。知られるように、偶数羽状複葉のオジギソウの葉は触れると、小葉が先端から一対ずつ順番に閉じて、最後に葉全体がやや下向きに垂れ下がる。この一連の運動は、ものの数秒で行なわれる。また、これとは別に他のネムノキ類同様、葉は夜間になると閉じて垂れ下がる。これを就眠運動という(ウィキオジギソウ」に拠った)。

「蠅取草」北アメリカ原産の食虫植物で別名ハエジゴクとも呼ばれる双子葉植物綱ウツボカズラ目モウセンゴケ科ハエトリグサ Dionaea muscipula。英名“Venus Flytrap”(女神の蠅取り罠)は、二枚の葉の縁の棘を女神の睫毛に見立てたもの。以下、参照したウィキハエトリグサから引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『食虫植物と言えば、虫をぱくぱく食べるような印象があるが、実際には多くは粘着式や落とし穴式で、ほとんど動かない。はっきり動くものはほとんどなく、あってもムジナモのように小柄であったり水中生活をしているものが多いので、虫を能動的に捕らえる瞬間を肉眼ではっきり確認できる食虫植物は、実質的にはこの種だけと言って良い。ただし能動的とは言っても虫をおびき寄せる性質はないため、昆虫駆除の役にはほとんど立たない』。『ハエトリグサの葉は二枚が二枚貝のように、重なるように生えており、その葉の縁には多くのトゲが並んでいる。葉の内側には三本ずつ(四本のものもある)の小さな毛(感覚毛)が生えている』。『昆虫などの獲物が二回または二本以上の感覚毛に同時に触れると、約〇・五秒で葉を閉じる。葉が閉じると同時に周辺のトゲが内に曲がり、トゲで獲物を閉じ込めてしまう。葉を閉じるのに必要な刺激が一回ではなく二回なのは、近くの葉や雨の水滴などが触れた時の誤作動を防いだり、獲物を確実に捕えるための適応と考えられている。また、一回触れた後、もう一回触れるまでに二〇秒程度以上の間隔があると、葉は半分程度しか(もしくは全く)閉じない。この時間を記憶し、リセットする仕組みについては、まだ解明されていない』。『一日ほどたつと葉は完全に閉じられ、トゲは逆に外に反り返り、葉の内側で捕まえた獲物を押しつぶし、葉から分泌される消化液でゆっくりと獲物を溶かす。およそ十日で養分を吸収し、葉はまた開いて獲物の死骸を捨て、再び獲物を待つ。葉には寿命があり、一枚の葉が捕らえる回数は二~三回くらいである。また葉を閉じる行為は相当なエネルギーを消費するため、いたずらに葉を閉じさせ続けてしまうと、葉はおろか株全体が衰えて終いには枯れてしまう』。『他の食虫植物同様、彼らにとっての捕虫は生存に必要なエネルギーを得るためではなく、肥料となる栄養塩を獲得するのと同じ行為である。だから、捕食しなくとも一般の植物が肥料不足になったのと同じ状態ではあるが、光合成で生産した糖をエネルギー源にして生き続けることはできる。また、ハエ以外の昆虫はもちろん、ナメクジのような昆虫以外の小動物も捕食する』。

『「ひまわり」の花が朝は東を向き夕は西を向き』これは双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒマワリ Helianthus annuus の生長に伴う向日運動であって、完全に開いた花は基本的に東を向いたまま、殆ど動かなくなる。

「かたばみ」双子葉植物綱カタバミ目カタバミ科カタバミ Oxalis corniculata。夕方になると葉を閉じる就眠運動を行う。茎や葉に蓚酸を含み、噛むと酸っぱく、これが名前の由来説としては腑に落ちる。昔はこの成分を利用して真鍮製の仏具や鉄製の鏡をカタバミで磨いて、艶出しをした。]

Haetorigusa

[アメリカ産蠅取草]

 

 抑々動物體における神經系の役目は、外界からの刺激によつて外界の事情を知り、これに應じて身を處するにあるが、實際身を處するに當つて働くのは、主として筋肉である。しかもこれだけの働きは、必ずしも神經系と筋肉とがなければ出來ぬといふわけではなく、ある程度までは神經・筋肉なしに行はれて居る。但し、これを神經系の發達した動物に比べて見ると、その程度に雲泥の差があることは、恰も野蠻人は誰でも自分で家を造り得るが、文明國の專門技師が建てた大建築物とは到底比較にならぬのと同じ理窟であらう。その代り建築家以外の文明人は鉋の持ちやうさへも知らず、速に小家を建てる手際に於ては遠く普通の野蠻人に協はぬ如く、神經を具へた動物の神經以外の組織は、「アメーバ」や「ざうりむし」等の如く、刺激に應じて適當に身を處することは到底出來ぬ。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十(一九三五)年

昭和十(一九三五)年

舗道の陽は遠退き卓の菊饐ゆる

朱蜻蛉浮きては風の色となる

花賣女聖誕祭(ノエル)をくらく常の處に

氷下魚釣る夜明けの海霧(ガス)は月孕み

刺靑(いれずみ)のマリとてひとり死にしのみ

失へるナイフや錆びん靑の朝

地球儀を辷る蛾の影靑の夜の

空にごる街あゆみつかれ今日五、一五

道につぶれわが干支の鼠今日五、一五

[やぶちゃん注:同年『京大俳句』六月号所載。「誕生日」の四句連作の三・四句目。三鬼は明治三三(一九〇〇)年五月一五日生まれであった。昭和七(一九三二)年の五・一五事件の時は、満三十二歳、この年は三十五歳であった。]

栗の花けぶらひけもの夢を見る

玻璃天井高しこだまがあざわらふ

手がそよぐ憑かれ狂へる無數の手

[やぶちゃん注:同年『京大俳句』八月号所載。「東京株式取引所」の五句連作の二・三句目。]

行間の虛空に白き蝶滿てり

まなぞこに映るは父ぞ吾子生きよ

[やぶちゃん注:同年『京大俳句』十一月号所載。「Ⅰ ひとり子病篤し」の四句連作の最終句。この「ひとり子」とは前年に堀田きく枝との間に生れた次男直樹と思われる。]

紙芝居草の黄ろき陽と去りぬ

子のゑがく柩車に黑き人坐せり

[やぶちゃん注:同年『京大俳句』十二月号所載。「子を見舞ふ」の六句連作の四句目。]

萩原朔太郎 死なない蛸 (「宿命」版)

 死なない蛸

 

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、靑ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。

 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。

 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。

 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。

 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。

 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

 

[やぶちゃん注:「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)より。「そこに」下線部は底本では「◎」の傍点。ルビは「潮水(しほみづ)」以外にはない。「虚妄の正義」所収のものは初出と同じく、第三段落の途中の「おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。」で改行されている。朗読上の観点から言えば、この改行は絶対に残すべきものであった。決定稿で「缺乏と」を「不滿」に附したのは素晴らしい。朗読してみると、この部分が強烈なコーダとなっていることがよく分かる。以下に、「宿命」の巻末にある「附錄 散文詩自註」の内の「死なない蛸」を示す。]

 死なない蛸 生とは何ぞ。死とは何ぞ。肉體を離れて、死後にも尚存在する意識があるだらうか。私はかかる哲學を知らない。ただ私が知つてることは、人間の執念深い意志のイデアが、死後にも尚死にたくなく、永久に生きてゐたいといふ願望から、多くの精靈(スピリツト)を創造したといふことである。それらの精靈(スピリツト)は、目に見えない靈の世界で、人間のやうに飲食し、人間のやうに思想して生活してゐる。彼等の名は、餓鬼、天人、妖精等と呼ばれ、我等の身邊に近く住んで、宇宙の至る所に瀰漫(びまん)してゐる。水族館の侘しい光線がさす槽の中で、不死の蛸が永遠に生きてるといふ幻想は、必しも詩人のイマヂスチツクな主觀ではないだらう。

死なない蛸 萩原朔太郎 (初出形)

 

私は教師時代、この詩を好んで朗読していたものだった――死なない蛸とは――確かに惨めな生きものとしての私、そしてあらゆる人間存在そのものであった――少なくとも私にとっては――



 死なない蛸

 

 或る水族館の水漕で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、靑ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。

 だれも人々は、その薄暗い水漕を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子(ガラス)窓の漕(をけ)にたまつてゐた。

 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を醒(さま)した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。

 どこにも餌食がなく、食物(くひもの)が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから。最後にそれがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ、他の一部から一部へと。順々に。

 かくして蛸は、彼の身體(からだ)全體を食ひつくしてしまつた。外皮(そとがは)から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。

 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水漕の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(こすゐ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。

 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後(あと)ですらも、尚且つ、永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の漕の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。 

 

[やぶちゃん注:『新青年』第八巻第五号 昭和二(一九二七)年四月号。総ルビであるが、読みの振れるもの及び特異な個所のみのパラルビとした。「そこに」下線部は底本では「●」の傍点。「漕」及び「潮水(こすゐ)」というルビはママ。「外皮」を私はずっと「がいひ」と朗読し続けていたことが悔やまれる。]

 

耳嚢 巻之六 魚の眼といえる腫物を取呪の事

 魚の眼といえる腫物を取呪の事

 

 うほの目なほらざるに、なめくじをとりて、魚の目の腫物の上へ乘せおくに、なをる事奇々妙々の由。ためし見しが無相違(さうゐなき)と、同僚の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前までの呪(まじな)いシリーズで連関。なお、不思議なことに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版(中巻)では、長谷川氏の附した巻頭の目録(同版の巻六には目録がないので長谷川氏が新たに起こしたものである)には、確かに「魚の眼といへる腫物を取(とる)呪の事」とちゃんとあるにも拘わらず、本文がない。それについての注記もなく、更に、岩波文庫同下巻末に長谷川氏が附した総目録には、これまた、載らない。

 さて、この療法、眉唾かと思いきや……例えば、ブログ記事では、実際に今、行って効果があると記しておられる!……そのブログ主の細君の行ったという施術内容を見ると……何匹か捕獲してきたナメクジを割り箸で一匹取り出して魚の眼にこすりつける――ナメクジは箸に摘まれてこすり付けられ、透明の粘液を一生懸命出し続ける――暫くそれを続けていると、次第にナメクジは小さくなって死ぬ――こうした行為を二~三匹分(恐らく連続して)行うと、魚の眼は粘液でてかてかに光るようになる――数日経つと硬かった魚の眼は正常な皮膚と同じように柔らかくなってきて――遂には魚の目は無くなっていた――その後、再発したとは細君は言わないので完治したものと思われる――このことに気を良くした細君は魚の眼に悩んでいる人に逢うと必ず、このナメクジ療法を薦めるのだそうだが、一〇〇%嫌がってやる人がいない――『ほんとに良く効くのですが残念なことです』とあるのである。……私も永年、指に出来たそれを抱えているのであるが……しかし……やはり私は躊躇するのである。気持ちが悪いから――では、ない。実は少なくとも、現代のナメクジやカタツムリからは、海外から侵入したと考えられている広東住血線虫などの寄生虫感染のリスクがあるからである。御存じない方のために言っておくと、今の幼稚園や小学校ではカタツムリを直には触らせないのである。これは教師時代の脱線でよく話したことであるが、ウィキカタツムリ」から引用しておこう。『種類にもよるがカタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持っていることがままあり、触れた後にしっかり石鹸や洗剤で手や触れた部分を洗わなければ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部などの各粘膜及び傷口から感染する恐れがある。また、体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると、中枢神経系で生育しようとするために眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多いので、罹患者は死亡または重い障害が残るに至る可能性が大きい。これら線虫類をはじめ寄生虫の多くは乾燥にも脆弱なので、洗浄後は手や触れた部位の皮膚をしっかりと乾燥させることも確実な罹患予防に繋がる』。……如何かな? 本邦では実際の死亡例はないようであるが、激しい突発性頭痛といった症例の濃厚な真犯人として同定されているケースは既にあるのである。……しかし一方で私は……でんでんむしにも触れない/触らない世界というのも……何だか、殺伐としてる、という気も、これ、しないでは、ないのでは、あるが……。

・「魚の眼といえる腫物を取呪の事」「取呪」は「とるまじなひ」と読む。「いえる」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 魚の眼という腫れ物を取る呪いの事

 

 執拗(しつこ)い魚の目で治らぬ場合、蛞蝓(なめくじ)を採って、その魚の目の腫れた上へ乗せておくと、治ること、これ、奇々妙々である由。

「試してみ申したが、これ、まっこと、相違御座らぬ。」

とは、同僚の話で御座った。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 雪の下 段蔓

    雪の下 段蔓

 鎌倉、柑州鎌倉郡(こほり)にあり。鎌倉の里ともいふ。八幡宮の前の町を雪の下といふ。茶屋、旅籠屋(はたごや)おほし。鎌倉一見(いちけん)の人は、こゝにて案内(あんない)をとりてよし。段蔓(だんかつら)といふに一の鳥居あり。これより濱邊まで二の鳥居、三の鳥居あり。琵琶橋(びわはし)あり。この邊、尊氏の屋敷跡、本覺寺(ほんかくじ)、妙隆寺(みやうりうじ)、親王(しんわう)屋敷跡あり。
〽狂 出來(でき)秋のいねをかるてふ
               かまくらや
  これほうねんの
         ゆきの下町(したまち)
「さてさて、これはこまつたことをした。儂(わし)はあとの立場(たてば)へ肝心の水筒(すひづゝ)をわすれてきた。とりにもどるには、これから、また一里ばかりも後(あと)へかへらねばならず、人をたのんでとりにやれば、錢(ぜに)がいる。はて、こまつたものだ。おもひきつて、人をたのんでやらうか、たゞしは、俺がとつてこやうか、これは、どうしたものであらう。」
「もしもし、お前のわすれたといひなさるは、この水筒の事かへ。これは妾(わたし)の水筒だから、今、妾が後(あと)へもどつて、とつてまいりました。」
「さては、お前の水筒であったか。それで私はおちついた。それが、ひよつと私の水筒かと思つて、先(さつ)きにから大きに氣をもんだが、お前のでよかつた。」
「これは、おかしや、お前のでよかつた、も。おのづからお前は、下戸(げこ)で酒は嫌ひでゐながら、どうしてこの水筒を、もちなさるものか。」
「それそれ、よくかんがへて見れば、儂は酒は嫌ひであつたに、そこにはさつぱり氣がつきませなんだ。昨夜(ゆうべ)の宿(やど)でも、褌(ふんどし)をほしたなりで、今朝(けさ)、わすれて出やうとして、立(た)ちしなに氣がついて、すぐにとつて、袂(たもと)へいれて出かけて見ると、褌は一つ、しめてゐるものを、これは、したり、これは他人(ひと)のであつた。沮喪(そゝう)な事をしたと思ふところへ、後(あと)から追手(おつて)の者がきて、『曲者(くせもの)、まて、御家(おいへ)の重寶(てうほう)源氏(げんじ)の白旗(しらはた)をうばひとりたる曲者、そうそうこつちへわたせ』といひ
[やぶちゃん注:この本文、最後の『いひ』の後に『▲』の接続記号があるが、続く文が見当たらない。
「一の鳥居」当時は、現在の鶴岡八幡宮の鳥居の名数の順列とは逆で、この一の鳥居は現在の三の鳥居(太鼓橋の手前の鳥居)である。また、浜直近にあった三の鳥居は当時、別名「大鳥居」とも呼ばれた。
「琵琶橋」鎌倉十橋の一。一の鳥居と二の鳥居の間にある。現在の下馬四ツ角のガソリン・スタンドの南で、現在は暗渠となっている。
「尊氏の屋敷跡」巽荒神の東南(当時、既に畑地となっていた)。「新編鎌倉志卷之五」の「尊氏屋敷」で考証したが、現在の鎌倉駅ホーム北鎌倉側(北部)駅外軌道附近に相当する。なお、鎌倉には他に足利尊氏の屋敷跡と称するものが浄妙寺の東方(公方屋敷)及び長寿寺の南にもある。
「親王屋敷跡」現在の小町にある宇津宮(うつのみや)稲荷の境内。宇津宮辻子(ずし)幕府跡に比定されている。宇津宮辻子とは若宮大路の二の鳥居直近の南側(現在の鎌倉市小町二丁目付近)にあった辻子(京都の「逗子」と同じく、通り抜けの出来る小道)で、若宮大路とその東側の小町大路(現在の通称「小町通り」とは若宮大路を隔てて反対の位置であるので注意)の間を東西に結んでいた。名称は鎌倉幕府の有力御家人であった宇都宮朝綱ら宇都宮氏の鎌倉での居館がこの界隈にあったことに由来する。鎌倉幕府の御所は第三代執権北条泰時によって、それまでの大倉から、この宇都宮辻子に南面する北側の地に移転されて、宇都宮辻子幕府と呼ばれた。ここが拡張されながら幕府滅亡までの政庁(若宮大路幕府)があったとも言われる(なお、移転の一因は嘉禄元(一二二五)年の夏に幕府の中核を成していた第一世代の北条政子や大江広元が相次いで死去、その流れからの心機一転を図ったものとも言われる)。移転は同年十二月で九条頼経はここで元服を迎え、翌年嘉禄二(一二二六)年に第四代将軍に就任した。ここにはその後、第六代将軍宗尊親王以下、第七代惟康親王、第七代久明親王、第八代守邦親王までの四代の親王将軍が居したことから、古く鎌倉では親王屋敷跡と呼ばれたもののようである(但し、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」には、この呼称を載せない)。
「これは、おかしや、お前のでよかつた、も。おのづからお前は、下戸で酒は嫌ひでゐながら、どうしてこの水筒を、もちなさるものか。」この台詞部分は、鶴岡節雄氏の「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」では、完全に脱落している。判読には困難を極めた。特に『も。おのづから』の部分は自信がない。識者の御教授を乞うものである。]

一言芳談 八十八

   八十八

 敬日上人云、遁世に三の口傳あり。一には同宿。二には同じ體(てい)なる後世者どもの庵をならべたる所に不可住(ぢゆうすべからず)。三には遁世すればとて、日來(ひごろ)の有樣をことごとしく不可改(あらたむべからず)、云々。

〇有さまをあらためぬとは、數ならぬ身ほど深山のおくもなし、人のしらぬをかくれ家にして、とよめる心なるべし。(句解)

[やぶちゃん注:謡曲「紅葉狩」の前シテ紅葉見物の上臈(実は鬼)の台詞に「げにや數ならぬ身ほどの山の奥に來て 人は知らじとうちとけて 獨り眺むるもみぢ葉の 色見えけるか如何にせん」とある。]

2013/02/07

さびしい人格 (「月に吠える」版)

 さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの祕密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病氣したをさな兒の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるへる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。

ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、蟲けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都會の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして、
人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。現在、本詩篇の第一連の後ろから四行目は「ありとあらゆる人間の生活(らいふ)の中で」と平仮名のルビが振られるものが一般的に知られているし、私も無批判にそう朗読し続けてきたが(しながら実は気障で厭な感じが付き纏っていたのだが)、実はこれは昭和三(一九二八)年三月に第一書房から刊行された「萩原朔太郎詩集」にのみあるルビである。従って、この「生活」は創作時の朔太郎の詩想にあっては、あくまで「せいかつ」と読むべきものであったと考える。向後、本詩を朗読される方は、あくまで「せいかつ」と詠むことをお薦めするものである。]

さびしい人格 萩原朔太郎 (初出形)

――私は二十歳の頃――その人から――「あなたは……この詩なの……」――と言われたものだった――さうして――五十も半ばとなった老いさらばえた私は――「私は……今もこの詩なのだ……」――と独り呟くのである――



 さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ
わが見知らぬ友よ、早くきたれ
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐやう
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさふ
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居やう
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居やう
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて
母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はそう
ありとあらゆる人間の生活の中で
おまへと私だけの生活について話し合はふ
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよはい病氣したおさな兒の胸のやうだ
わたしの心はおそれにふるえる、せつないせつない、熱情のうるみに燃えるやうだ

ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた
けはしい坂路をあほぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい淚をながした
あほげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた

自然はどこでも私を苦しくする
そして人情は私を陰欝にする
むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ 都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙
またその建築の屋根をこえて、つばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ

よにもさびしい私の人格が
おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る
わたしの卑屈な、不思議な人格が
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして
人氣のない椅子の片隅にふるえて居る

[やぶちゃん注:『感情』第二年一月号 大正六(一九一七)年一月号。仮名遣の誤り及び一部の漢字の略字体表記は、総て、ママである。]

耳嚢 巻之六 長壽壯健奇談の事

 長壽壯健奇談の事

 

 細川越中守留守居を勤(つとめ)、九十三にて致仕なしける中川軍兵衞といへるは、明和九年か、其翌年にか死したる由。予が許へ來れる秋山玄瑞、年若きより知人にて、死しける頃は壽算百廿二歳の由。玄瑞懇意の儘、いかにして斯(かく)長壽壯健なるや、養生の道もあらば、教へ給へと問ひしに、何も養生の道ありとも不覺(おぼへず)、人は大酒大食を禁じ、淫事を除き候得(さふらえ)ば、隨分長生なるべしとかたりし故、御身は淫事はいつの頃より禁じ給ふやと尋(たづね)ければ、六十四五より淫事を止(とどま)りしといひけるに、玄瑞も大きにあきれ、かゝる壯健の生れもありしと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:呪(まじな)いではないが、びいどろ接ぎの奇法から長寿の奇法(読めば、それは万人には通用しない話で、要はバッキンバッキンの精力絶倫な上に、とんだ長大なテロメア爺さんであったというオチであるのだが)で軽く連関しているようには見える(リンク先は生物学用語としてのウィキの「テロメア」)。

・「細川越中守」岩波版の注で長谷川氏は、当時は肥後熊本藩第八代藩主細川斉茲(なりしげ 宝暦五(一七五五)年~天保六(一八三五)年)とされておられるが、これは本「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の当時の謂いである。彼が藩主になったのは天明七(一七八七)年であり、後文に「明和九年か、其翌年にか死したる」とあり、明和九年は西暦一七七二年であるから、本話中に於ける当代は、その先代である第七代藩主細川治年(はるとし 宝暦八(一七五八)年~天明七(一七八七)年)となる。二人とも官位は越中守であった。

・「留守居」諸藩に於いて藩主不在の際に居城又は江戸藩邸を預かる職を留守居と称したが、ここは江戸藩邸にあって幕府と藩との間の連絡交渉に当たり、他藩の動向を探ることを職掌とした大名留守居であろう。

・「中川軍兵衞」津々堂氏のHP「肥後細川藩拾遺」の新・肥後細川藩侍帳【な】の部の「中川吟之助」という家臣の項に、

 中川休翁 名は元藝、郡兵衛と称す。知行高百五十石藩に仕へ留守居役を勤む。

                     明和九年十月二十七日没、年百七。

とある人物と見て間違いない。これだと明和九年は西暦一七七二年であるから、生年は寛文六(一六六六)年となる。

・「秋山玄瑞」既出。根岸の知音で脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿にして壮健なる御仁の奇談の事

 

 熊本藩細川越中守治年殿の江戸留守居役を勤め、九十三歳にて致仕なされた中川軍兵衛と申す御仁は、明和九年か、その翌年辺りに亡くなられた由。

 私の元へしばしば来たる秋山玄瑞殿は、若き頃よりのこの軍兵衛殿と知人であった由なるが、軍兵衛殿、亡くなられた頃は、これ既に、百七歳で御座った由。

 生前のこと、玄瑞殿、懇意なれば、軍兵衛殿に、

「……如何に致さば、かくも長寿壮健であらせられるるものか? その養生の秘訣など御座らば、是非ともお教へ下され。」

と乞うたところ、軍兵衛殿は、

「……いや、これと申し、何も、養生の秘訣なんどというものが御座ったとも、これ、覚えませぬな。……ただ、そうさ、世間にも申すが如、人は大酒大食(おおざけおおぐい)を禁じ、淫事を避け候えば、随分と長い生き致すものにて、これ、御座る。……」

と語られたゆえ、玄瑞殿、

「……因みに、御身は、その、淫事は、これ……何時の頃より、自らに禁じなされたものか?」

と訊ねたところが、

「……そうさの……六十四、五よりは、淫事は止め申した。」

と申したによって、玄瑞殿も、これ、大きに呆れ果てて言葉も出ず御座ったとの由。

 

「……いやはや、かかる、とんだ壮健の生まれも、これ、あったものにて御座いまする。……」

とは、玄瑞殿の直談。――

一言芳談 八十七

   八十七

 

 或人、時料(ときれう)斷絶のよしをききて、入興(じゆきよう)の色ある事、意(こゝろ)に云(いはく)、世をのがるゝありさまは煙(けぶり)絶えて、かすかなるこそ本意にてあれ、云々。

 

〇時料(ときれう)斷絶、食事をいとなむべき料足のなきことなり。

〇律には三時の食をわかち、日中かぎり時齋をせしなり。こゝも時とすれば、二時食の事か。(句解)

〇入興、一段おもしろく興あることに思ふ儀なり。兼好ある時、齋料(ときれう)たえて、よねたまへ、ぜにもほしといふ折句の歌を頓阿におくりしことあり。

 

[やぶちゃん注:久々の無名の遁世者の言葉である。

「時料」「時」は斎(とき)で、仏家に於いて食すべき時の食事の意。寺院や道場での食事のこと。インド以来の戒律によって午前中に食べる一回のみが正しい斎(とき)であるが、午後の食すべき時ではない時刻の非常の飲食については、非時(ひじ)と言った。勿論、実際には足らないので、普通は非時が常にあった。「句解」の注は、その非時用の飲食物が絶えたかと注しているのであるが、私には言わずもがな、それこそ、全く喰わねば死ぬる故、「常識的」「理論的」「当たり前」に非時用のものであろうと解釈する、本「一言芳談」の痩せ細った人智を無化するコンセプトからは、邪道そのものの解であると断ずるものである。こういう敷衍的解はあるべきではないというのが私の見解である。無論、だからこそ興がることが出来るというのは事実ではあるであろう。しかし、これはモノクロ映画をカラーライズして興がるのと同じ、モラトリアムを推奨して見せかけの遁世を慫慂するのと同様、いや、「こゝろ」の静が学生と結婚すると考えるのと同じくらい下世話なお節介の噴飯ものの解釈である。寧ろ、次の兼好と頓阿のエピソードの方が、注として上手いと言うべきであるように思われるが、あなたは如何?

「兼好ある時、齋料たえて、よねたまへ、ぜにもほしといふ折句の歌を頓阿におくりしことあり」は、頓阿の私家集「続草庵和歌集(しょくそうあんしゅう)」巻第四に載る兼好と頓阿の沓冠(くつかぶり/くつかむり/くつこうぶり:和歌の遊び・技巧である折句(おりく)一種で、ある語句を各句の初めと終わりとに一音ずつ詠み込むものを言う。)の和歌の贈答を指す。

  世中しづかならざりし比、兼好が本より、よねたまへぜにもほし、

  といふ事をくつかぶりにおきて

 よもすずしねざめのかりほた枕もま袖も秋にへだてなきかぜ

   返し、よねはなし、ぜにすこし

 よるもうしねたくわがせこはてはこずなほざりにだにしばしとひませ

これは、

 もすずざめのかり袖も秋だてなきか

と、各句の初め(下線)に「よねたまへ(米給へ)」と置き、各句の終わり(囲み)に、下から「ぜにもほし(銭も欲し)」と沓冠して、「米給へ、錢も欲し」と言い送ったのに対し、頓阿が、

 るもうしたくわがせこてはこずほざりにだにばしとひませ

と、各句の初めに「よねはなし(米は無し)」と置き、各句の終わりに、下から「ぜにすこし(銭少し)」と沓冠して、「米は無し、錢少し」と返したもの。参照させて戴いた、私がしばしば利用させて頂いており、また、腰越状」リンク、榛原守一氏の「小さな資料室」の資料162 兼好と頓阿の「沓冠の歌」の贈答(『続草庵集』より)の、二首の現代語訳も引用させて戴く。

   《引用開始》

 

秋になって夜も涼しく感ぜられるようになったころ、粗末な庵(いおり)にさびしく独り寝をしていると、手枕をしている手にも両方の袖にも、隔てなくひんやりとした風が吹き通ってきて、思わず寝覚めてしまったことであるよ。(男の立場で詠む)

 

独り寝をする夜も、つらいことです。憎らしいことに、いとしいあの人は、来る来ると言いながら、結局は訪れてくれないのです。ほんのちょっと、形だけでもいいから、訪ねてきてくださいよ。(女の立場で詠む)

 

   《引用終了》

頓阿(とんあ/とんな 正応二(一二八九)年~建徳三・文中元/応安五(一三七二)年)は俗名二階堂貞宗。出家後、二条家の嫡流藤原為世に師事して二条家歌学を再興、為世門の四天王の一人として知られた歌僧で二条良基の師範であった。晩年は西行の旧地双林寺に草庵を結び、二条為明のあとを継いで「新拾遺和歌集」を完成させた。]

2013/02/06

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 佐助稻荷 岩屋堂

  佐助稻荷 岩屋堂

 

 それより佐々目谷(さゝめがだに)、今小路(いまかうじ)をすぎて、右の方に天狗堂あり。左の方(かた)に巽(たつみ)の荒神(くわうしん)。勝(かつ)が橋(ばし)をわたりて、左の方には佐助稻荷の宮、右の方へゆけば岩屋堂、松源寺(しやうげんじ)、淨光明寺(じやうくわうめうじ)、いたつて大寺(てら)にて、境内ひろく、見處(どころ)おほし。

〽狂 名(な)どころは

きびつの

 銕にあらね

    とも

なりひゞき

    たる

かま

 くらのさと

「儂(わし)は、このやうに身をやつしてあるきますが、儂はこれでも敵討(かたきうち)でござる。儂が嗅(かゝあ)を朋輩(ほうはい)の男奴(をとこめ)が、つれてにげたから、その女敵(めかたき)をうたねば、國へかへられぬから、それで、このやうに姿をやつしてあるきますが、先(さき)の男は儂よりかよつぽどつよい男だから、ひよつとめぐりあつたところで、儂が返討(かへりうち)になつてはつまらぬから、どうぞ、めぐりあはぬやうにおもつて、敵(かたき)は西國(さいこく)にをるといふことをきいたから、それで儂は、わざと東國(とうごく)をたづねてあるくが、それでも、どうも心遣(こゝろつか)ひで、ひよつと、どういふことで、その敵にあふまいものでもない、とおもつたが、昨日(きのう)、國の者に途中であつてきいたら、その敵の男は、この頃、天竺(てんぢく)の四日市(よつかいち)へひつこしたといふことだから、それをきいて、やうやう心がおちついたから、うれしい。」

「そんなら、その男ばかり天竺へひつこして、女は東海道の岡崎(をかさき)にゐると見へるな。何故といふに、貴樣、女敵討ちなら、岡崎の女郎に違ひはない。はて、女敵女郎衆(しゆ)はよい女郎衆といふから。」

[やぶちゃん注:「佐々目谷(さゝめがだに)」「ささめがやつ」が正しい。佐助ヶ谷と長谷の間に位置する。

「今小路」寿福寺門前にある勝ヶ橋から南へ向かう道の巽荒神までの部分を呼称する。

「天狗堂」現在、佐助ヶ谷の東側の丘陵の南端付近を天狗堂山(てんぐどうやま)と呼ぶが、古くは愛宕神社が祀られていたと伝えられるが、新編鎌倉五」で既に『昔し愛宕の社(やしろ)ありけるとなり』となっているから、これは単なる丘陵の出崎の名である。

「松源寺」現在の窟不動の東にあった真言宗の寺院であるが、廃寺で現存しない。新編鎌倉志卷之には、

〇松源寺 松源寺(せうげんじ)は、日金山(にちきんさん)と號す。銕(てつ)觀音の西、巖窟堂(いはやだう)の山の中壇にあり。本尊は地藏、運慶が作。相傳ふ、賴朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金に祈つて、我、世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。

とある、この松源寺は鶴岡八幡宮寺社僧の荼毘所であったと伝えられており、明治の廃仏毀釈までは存在したことが知られている。この地蔵はその後、各地を転々とした末、昭和初期に横須賀にある東漸寺に安置され、現在に伝わる。地蔵胎内墨書銘によって寛正三(一四六二)年、仏師宗円による造立であることが分かっている。「伊豆日金」とは現在の静岡県熱海市伊豆山にある走湯権現日光山東光寺のこと。

「名どころはきびつの銕にあらねともなりひゞきたるかまくらのさと」分かり易く書き直すと、

 名所は吉備津の銕(てつ)にあらねども鳴り響きたる鎌倉の里

で、ここは釜鳴神事で知られる吉備津の釜に、鎌倉の「かま」を掛け、「鳴り響く」を引き出し、更に当時、釜の素材である鉄の産地としても知られた吉備津の「銕」=鉄を謂い、狂言の「鐘の音」の鎌倉の梵鐘を利かせて「鳴り響く」に二重に掛けているものと思われる。

「天竺」は先の「西國」に洒落たもの謂いであろう。

「そんなら、その男ばかり天竺へひつこして、女は東海道の岡崎にゐると見へるな。何故といふに、貴樣、女敵討ちなら、岡崎の女郎に違ひはない。はて、女敵女郎衆はよい女郎衆といふから」の部分は、江戸期に流行った俗謡「岡崎女郎衆」の「岡崎女郎衆はよい女郎衆」の歌詞に引っ掛けた茶化しである。この俗謡は非常に単純で「おかざき/じょろうしゅー/おかざきじょろうしゅー/おかざきじょろしゅは/よいじょろしゅー」というもの。東海道には大規模な遊女街を抱えた宿場が二つあり、一つが三島女郎衆と称された三島宿、今一つが岡崎女郎衆の岡崎宿(現在の愛知県岡崎市中心部)であった。しかしこの「女郎衆」とは何れも幕府公認の遊郭ではなく、江戸で言うところの非公認の岡場所で、表向きは遊女ではなく飯盛女であった。岡崎宿にはこうした旅人を相手に色を売る沢山の飯盛女たちがおり、この俗謡もそうした女たちを謡ったものであった(ここの部分は岡崎女子短期大学准教授上田信道「岡崎発の『蝶々』~学校唱歌の源流をめぐって~」PDFァイルの中の記述を参考にさせて戴いた)。性悪男が東海道を下って四日市へ逃げたとなれば、お前さんの元嬶の不義の女は、岡崎辺りで体よく売り払われて、飯盛り女にでも沈んでいるのが関の山だ、といった謂いであろうか。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和九(一九三四)年

昭和九(一九三四)年

 

  横濱風景

 

異人墓地梢の海も雪ぐもる

 

異人墓地雪むらさきに夕づける

 

   *

 

草萌ゆるこみちのカタヒもの食へる

 

   *

 

裸馬ぽくぽく畑は日闌けて葱坊主

 

裸馬ぽくぽく遠に櫟の芽が光り

 

[やぶちゃん注:二句ともに「ぽくぽく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

裸婦の畫の美き丘と谷春の灯に

 

裸婦の畫の瞳妖しも春の灯に

 

裸婦の畫の薔薇匂ひけむ房に滿つ

 

  椅子ふかく

 

眼に偸む裸婦の圖春の灯を吸へる

 

裸婦の圖の褐(カチ)髮春の灯にみだれ

 

裸婦の圖の美き丘と谷春の灯に

 

もり上りせまる裸婦の圖春の灯に

 

夜の春を裸婦の圖のふと息吹けむ

 

   *

 

鞦韆の美き脚漕げりひたすらに

 

鞦韆に崎の巨船消えしてふ

 

鞦韆ゆ紅の靴降り吾がまへに

 

鞦韆の振子とまれり手をあたふ

 

   *

 

夜の春をめぐる木馬は傷みたり

 

徒らにおほきく妻の石鹼玉

 

黄砂降るあかゞねの月鐡骨に

 

  「にんじん」を詠む

 

[やぶちゃん注:ジュール・ルナールの「ん」であるが、これは恐らくジュリアン・デュヴィヴィエ監督のロベール・リナン主演になるフランス映画「にんじん」(一九三二年)の鑑賞吟と推定する。本邦では、この昭和九(一九三四)年に公開されている(リンク先は私の岸田国士訳の電子テクスト)。初出誌は『走馬燈』の同年六月号であり、「薄月や」までが同誌での同時発表である。ただ、どこまでが『「にんじん」を詠む』の連作かはっきりしないが、「月落ちぬ」の句までは「にんじん」の映像や原作と確かに合致すると私は判断する。]

 

春曉のシーツ濡れをりすべもなし

 

鷓鴣を締むおそるゝ眼かたく閉づ

 

牡丹蔓裾にひきて嫁あそび

 

葡萄呉るゝ大いなる掌の名附親

 

月落ちぬこゝろ觸れたる父と子と

 

蒼澄める朝の空へ松の芯

 

峽深き日はうつうつと杉の花

 

薄月や接木のいのちかよひそむ

 

疫(え)病む子に禍つ闇ぬけ白蛾來ぬ

 

疫病む子はまどろみ白蛾すでにあらぬ

 

熱を病む手足がへんに伸びてゆく

 

熱を病む骨がしだいにやはらかく

 

熱を病むおのれが鳴らす齒の音を

 

   *

 

かのといきまつよひぐさにいまもきく

 

   *

 

白芥子のひそかなる香に眼をつむる

 

疫病む子を窺ふ白蛾闇を負ふ

 

くちふれて新樹の闇に溺れゆく

 

  海濱風景

 

惡童のみな貌美くて濱に古り

 

惡童に羞ぢらふ胸乳波に浸し

 

惡童のくち笛ひしと浪の娘に

 

惡童のコーラス沖に雲の下に

 

惡童らインクの色の沖に去る

 

白きもの海月となりてくつがへる

 

波を出て月光の襯衣ひたと着る

 

   *

 

祭果てし廣場の芥風は秋

 

   *

 

黑煙けふなき空へ踊りの手

 

   *

 

  東北凶作地を憶ふ

 

夜を飢えて覺むるに雪の海あらぶ

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和八(一九三三)年

   拾遺(抄)

[やぶちゃん注:平成四(一九九二)年沖積舎刊の「西東三鬼全句集」を底本とし、私の琴線に触れるものを編年に選んで、恣意的に正字化して示した。]

昭和八(一九三三)年

寢がへれば骨の音する夜寒かな

秋風や五厘の笛を吹く子供

女のいぢらしさ 萩原朔太郎 (「宿命」版)

 女のいぢらしさ

 

「女のいぢらしさは」とグウルモンが言つてる。「何時(いつ)、何處(どこ)で、どこから降つて來るかも知れないところの、見たことも聞いたこともない未來の良人を、貞淑に愼(つつ)ましく待つてることだ。」と。

 家の奥まつた部屋の中で、終日(ひねもす)雀の鳴聲を聽きながら、優しく、惱ましく、恥かしげに、思ひをこめて針仕事をして居る娘を見る時、私はいつもこの抒情味の深い、そして多分に加特力教的な詩人の言葉を思ひ起す。

 いぢらしくもまた、私の親しい友が作つた、日本語の美しい歌を一つ。

 

  君がかはゆげなる机卓(つくゑ)の上に

  色も朱(あけ)なる小箱には

  なにを祕めたまへるものならむ。

  われ君が窓べを過ぎむとするとき

  小箱の色の目にうつり

  心おをどりて止まず。

  そは やはらかきりぼんのたぐひか

  もしくは、うら若き娘心を述べつづる
  やさしかる歌のたぐひか。(室生犀星)

 

 若い未婚の娘たちは、情緒の空想でのみ生活して居る。丁度彼女等は、昔の草双紙に物語られてる、仇敵討ちの武士みたいなものである。その若く悲しい武士たちは、何時(いつ)、何處(どこ)で、如何にして廻り逢ふかも解らない仇敵(かたき)を探して、あてもなく國國を彷徨(さまよ)ひ歩き、偶然の奇蹟を祈りながら、生涯を疲勞の旅に死んでしまふ。

 昔のしをらしい娘たちは、かうした悲しい物語を、我が身の上にひき比(くら)べ、行燈の暗い灯影で讀み耽つた。同じやうにまた、今日(けふ)の新時代の娘たちが、活動寫眞や劇場の座席の隅で、ひそかに未來の良人を空想しながら、二十世紀の草双紙を讀み耽つて居る。その新しい草双紙で、ヴアレンチノや林長二郎のやうな美男が扮する、架空の人物を現實の夢にたづねて、いぢらしくも處女(をとめ)の胸をときめかして居る。そして目算もなく、計畫もなく、偶然の廻合のみを祈りながら、追剝の出る街道や、辻堂や笹原のある景色の中を、悲しく寂しげに漂泊して居る。昔の物語の作者たちは、さうした悲しい數數の旅行の後で、それでも、漸く最後に取つて置きの籤(くじ)をひかせて、首尾よく願望を成就させた。だが若し、現實の人生がさうでなければ! そもそも如何に。女のいぢらしさは無限である。

 

[やぶちゃん注:詩集「宿命」より。「りぼん」は底本では「ヽ」の傍点。]

女のいぢらしさ 萩原朔太郎 (初出形) / ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」創始

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」を創始する。底本は特記しない限り、この「女のいぢらしさ」同様、昭和五一(一九七六)年刊筑摩書房版全集を用いる。
――私の惨めな人生の旅立ちは萩原朔太郎であったし、その行き着く果ての、人気のない北の外れの、如何にもうらぶれた終着駅もまた、萩原朔太郎である――

 

 

 女のいぢらしさ

 

 女のいぢらしさは。とグウルモンが言つてる。何時、何處で、どこから降つて來るかも解らないところの、見たことも聞いたこともない未來の良人を、貞淑に愼ましく待つてることだと。
 部屋の奥まつた中に座つて、終日針仕事をして居る娘を見る時、私はいつもこの抒情的な、そして多分にカトリツク敎的な詩人の言葉を思ひ起す。若い未婚の娘等は、結婚の空想でのみ生活して居る。丁度彼女等は、昔の草双紙に物語られてる、親の仇討の武士みたいなものである。その若く悲しい武士たちは、何時、どこで、如何にして逢ふかも解らない仇讐を探して、あてもなく國國を彷徨し、遇然の廻合を祈りながら、生涯を疲勞の旅に終つてしまふ。もし彼の讀者を滿足さすべく、作者が取つて置きの籤を出して、最後に仇討の熱望を滿足させてやらなかつたら、これほどにも荒唐無稽で、心細く、夢幻的な感じのする物語はないであらう。
 若いしほらしい娘たちは、かうした悲しい草双紙を、熱心に行燈の下で讀み耽つて居た。同じやうに今日新時代の娘たちが、活動寫眞や音樂會の座席に於て、心ひそかに未來の良人を空想しつつ、いぢらしくも二十世紀の草双紙に讀み耽つて居る。その新しい草双紙で、今もまた昔のやうに、彼等は空想の讐仇を探ね、目算もなく計畫もなく、遇然の廻合のみをたよりとして、辻堂や笹原のある景色の中を、悲しく夢幻的に漂泊して居る。

 

[やぶちゃん注:『セルパン』第十一号・昭和七(一九三二)年一月号に掲載。詩集「宿命」の「女のいぢらしさ」の初出形。「遇然」及び「しほらしい」はママ。底本は昭和五一(一九七六)年刊筑摩書房版全集第二巻に拠った。但し、そこに編者注があり、『初出は改稿されて『苑』(第三號・昭和九年九月號)に継嗣された。本文はそれに據っている』とあり、以上は本当の初出形とは異なることになる。しかし、筑摩版全集には本当の初出が載らない。甚だ不審である。【本記事は「運命」正規表現版の同詩篇の電子化に伴い、二〇二二年一月二十一日に不全箇所を訂正した。】]

耳嚢 巻之六 びいどろ茶碗の割を繼奇法の事

 びいどろ茶碗の割を繼奇法の事

 

 紫蘭の根をすりて、糊となし繼(つぐ)に、はなれざる事奇妙の由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:これで呪(まじな)いシリーズの五連発。これだけ纏まった記載は特異で、表現の統一も図られており、一気に記したものと思われる。

・「びいどろ茶碗」「AGC旭硝子」公式HPのガラスの起源と歴史」によれば、本邦では紀元二〇〇年代の『弥生時代の遺跡から、まが玉、くだ玉といった装飾品が多数発見されていて、これらが日本で最古のガラスといわれている。古代から中世にかけては、仏教の隆盛にともなって、仏像や仏具、七宝にガラスが使われ、徐々に普及していった』。天文一八年(一五四九)年、『ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたが、このとき持ってきたガラスの鏡や遠めがねが、日本で最初の西欧ガラスとされている。鎖国時代はポルトガルやオランダ、イギリスからさまざまなガラス器が渡来し、「ビードロ」「ギヤマン」と呼ばれて人々に大いに珍重され』、一五七〇年代(元亀元・永禄十三年から天正七年頃)『にはガラス製造法も伝えられ、徳利や風鈴、彩色ガラスの灯ろうなどガラス細工づくりも盛んになったらしい。独特のカットをもつガラス器「切子(きりこ)」も生まれ、なかでも薩摩切子の皿、丼、コップ、茶碗、江戸切子の鉢やくしが人気を集めた』とある。

・「紫蘭の根」単子葉植物綱ラン目ラン科シラン Bletilla striata は日本・台湾・中国原産の地生蘭で、日向の草原などに自生する。地下にある偽球茎は丸くて平らで、前年以前の古い偽球茎が幾つも繋がっている。花期は四月から五月、花は紫紅色。ラン科植物には珍しく、日向の畑土でも栽培可能で乾燥にも過湿にもよく耐え、観賞用として庭に植えられることが多い。ラン科植物の種子は一般的に特別な条件が無いと発芽しないものが多いが、本種の種子はラン科としては異例に発芽し易く、普通に鉢に播くだけで苗を得られる場合がある。無菌播種であれば水に糖類を添加しただけの単純な培養液上でもほぼ一〇〇%近い発芽率を示し、苗の育成も容易。偽球茎は白及(びゃくきゅう)と呼ばれ、漢方薬として止血や痛み止め、ひび・あかぎれ、慢性胃炎に用いられる(おや?……この呪(まじな)いって……もしかして、類感呪術?)。しばしば英語圏では「死人の指」と呼ばれると言及される記載が見受けられるが、それは英語の“long purple” のことで、実際には全くの別種である双子葉植物綱バラ亜綱フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属エゾミソハギ Lythrum salicaria を指している。この誤りはシェイクスピアの「ハムレット」に登場する台詞を、明治期に翻訳した際の誤訳に基づくものと考えられている(以上はウィキシラン」及びミソハギ」を参照した)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 びいどろ茶碗の割れを継ぐ奇法の事

 

 紫蘭(しらん)の根を擂(す)って、糊として継ぐと、ぴったりくっ付くこと、これ、絶妙の由、さる御仁の語って御座った。

一言芳談 八十六

   八十六

 

 播磨上人、衣裳を思ひ煩ひて、高野を退出す。大門の辺(ほとり)にて、鹿の冬毛に生ひかはりたるを見て、立ちかへりて住山(ぢゆうせん)、云々。

 

〇播磨上人、性空か。又播磨の生れにて高野にこもりし人か。

〇決疑抄下云、一切衆生受生時、第八識具衣食住三事如野鹿食草衣皮栖野邊外不尋自無乏。既知因果必然理。勿近諂人門。唯可任天運報。况又捨身命歸佛法、諸天善神擁護、除諸災難令福祐自在。故云無貧三寶也。

〇鹿の毛を見てとは、古語に、僧は野鹿のごとし、貧三寶なしと云(いへ)り。もしはこれらの文を、おもひあはされける哉(や)。(句解)

 

[やぶちゃん注:「播磨上人」不詳。標註の「性空」(?~寛弘四(一〇〇七)年)は現在の姫路市にある天台宗書写山円教(えんきょう)寺の開山として知られる平安中期の僧。当初は日向霧島山や筑前背振山などで修験道を修したが、後に書写山に移り、寛和元(九八五)年に国司藤原季孝の助力を得て法華堂を建立、翌年来山した花山法皇に御願寺の請願をなし、永延元(九八七)年に許されて円教寺を開創。花山法皇以外にも具平親王・源信・寂照(大江定基)・和泉式部といった人物が結縁を求めて訪れ、貴族社会の大きな関心を集めた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。源信との接点はあるが、高野でのこのような事蹟は確認出来ない。また何よりもここまでの「一言芳談」の話者で、法然を遙かに越えて過去に遡るケースはなく、彼とは思われない。大橋氏はⅡの注で、『法然上人の弟子播磨の信寂房かも知れない』とする。この人物は法然入寂の、その建暦二(一二一二)年の高弁がによる「摧邪輪(ざいじゃりん)」及び翌年の続篇「摧邪輪荘厳記」によって「選択本願念仏集」を論難したのに対し、「慧命義」を著わして反駁した高弟で、彼なら文脈からも本話に相応しい。

「衣裳を思ひ煩ひて」寒気の厳しい(現在でも一月の平均気温は摂氏マイナス五度の氷点下)冬の高野山を考えると、冬物の衣類がなく心細くなって。

「大門」表参道の入口に当たる高野山一山の総門。現在の九度山町にある慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となるが、開創当時は現在の位置から五〇〇メートル程下の九折谷の谷底に、木の鳥居としてあった。現在のものは宝永二(一七〇五)年の再建になるもの。

「住山」そのまま高野に戻った。

「決疑抄下云……」をⅠの訓点を参考に私なりの読みで書き下す。

「決疑抄下」に云はく、『一切衆生受生の時、第八識に衣食住の三事を具すること、野鹿(やろく)の草を食(は)み、皮を衣(き)、野邊を栖かとして、外、尋ねずして自(おのづ)から乏しきこと無きがごとし。既に因果必然の理を知る。諂(へつら)ふ人の門に近づくこと勿れ。唯だ天運の報い任すべし。况んや又、身命を捨て、佛法に歸すれば、諸天善神、擁護して、諸災難を除き、福祐自在ならしむ。故に貧しき三寶無しと云ふなり』と。

但し、この「決疑抄」とは、元天台僧である公胤(こういん 久安元(一一四五)年~建保四(一二一六)年)が建久九(一一九八)年の法然の「選択本願念仏集」に対し、これを論難した「浄土決疑抄」のことと思われ、引用書としてはやや異色である。但し、公胤後に法然に会って法門を聞くに及んで俄然、念仏に帰依したとされるので奇異ではない。なお彼は村上源氏出身で、父は中院右少将源憲俊、俊寛は従兄弟、園城寺(三井寺)に入って叔父行顕に天台・密教を学び、阿闍梨となり、寿永二(一一八三)年には律師に任じられている。で後鳥羽上皇の信望も厚く、また、幕府将軍家の深い帰依を受けて度々鎌倉に下向、後には北条政子の願いで頼家遺児の公暁を弟子として預かってもいる(以上は主にウィキ公胤に拠った)。]

2013/02/05

アウシュビッツの少女

Czeslawa――彼女はアウシュビッツに1942年12月13日に送られ、1943年3月12日に亡くなった。14歳だった――

Brasse1obitarticlelarge


生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 五 死んだ眞似

   五 死んだ眞似

 

 エソップ物語の中に、大の友達が森の中で熊に出遇うたとき、逃げ後れた一人が地上に横たはり、死んだ眞似をして無事に助かつたといふ話があるが、實際動物の中には死んだ餌は食はぬものがある。かやうな動物に出遇うたときは、動くことは頗る危險で、一時死んだ眞似をして居ればその攻撃を免れることが出來る。小さな動物には、常にこの方法を用ゐて食はれることを免れて居るものが決して少くない。昆蟲類を採集する人は誰も知つて居るであらうが、甲蟲などにも指で摘むと忽ち足を縮めたまゝで、轉がしても落しても少しも姿勢を改めず、全く死んだ通りに見せるものが幾らもある。また「くも」の類にも捕へると直に死んだ眞似をして、足を縮めて動かぬものが頗る多い。これらは、いづれも捕へられさうになつても、逃げもせず隱れもせず單に靜止するだけであるから、採集者の方からいふとこの位都合のよいことはない。

[やぶちゃん注:この知られたイソップの「熊と旅人」の寓話について、ウィキの「熊と旅人」には以下のようにある。二人の男が旅をしていた。ある大きな森の中の道を歩いていると、目の前に一頭の熊が現われた。一人の男はすぐに近くの大木に攀じ登ったが、もう一人の男は逃げ遅れ、仕方なく地面に倒れて死んだふりをした。熊はその男の耳元に口を当てていたが、しばらくすると森の奥に姿を消した。木の上の男は、安心したので降りて、逃げ遅れた男に「熊は君の耳に何か囁いていたようだが、何て言っていたんだね?」と訊ねたところ、男は答えた。「ああ、言っていた。危ない時に友達を捨て、自分だけ逃げるような薄情な相手とはもう別れろ、とね」。これは『友人は大切にせよ、自分だけいい目を見ようとするな』という教訓が主眼で『旅人が死んだふりをして熊をやり過ごす逸話は、単なる設定にしか過ぎなかった』。『それにもかかわらず、後世、本来の教訓は忘れられ、「熊に出会ったら、死んだふりをすると助かる」、という誤解が一人歩きするようになった。このために死傷した例も報告されている。熊は肉食獣であり死体も食べるため、熊の前で死んだまねをするのは自殺行為と言える』とある。一般に、死んだふりは論外であるが、では何故、これほどまでにそうした俗信が広まったかについては、知られた本話以外の要因もあるようだ。エキサイトニュース二〇〇八十一十六「熊にあったら死んだフリ」はなぜ広まったのかという記事に、『NPO日本ツキノワグマ研究所代表の米田一彦さんに聞いてみたところ、「なかなか良い質問です」として、その回答があるという『生かして防ぐ クマの害』(農山漁村文化協会)を紹介してくれた』とあって、当該書(米田一彦氏著一九九八年刊)に熊による殺傷事件は北海道の開拓時代には沢山あり、そのうち、歴史上で日本最大の事件が、大正四(一九一五)年に起こった北海道の苫前村で起こったものだという。これは、一頭のヒグマが、二晩のうちに胎児を含めて七人を殺し、三人に重軽傷を負わせ、しかも、犠牲者の多くを食ったという事件で、ヒグマが何度も襲ってくるなか、六日目でようやく射殺されたのだ。ところが、この事件では無傷で生き残った十一歳の男子と六歳の女子がいたという。以下のような記述があるという(以下、記事からの孫引き)。「男の子は積んであった俵の間に潜って難を逃れたが、女の子は布団の中で、事件を知らずに眠っていたのだ。小さな女の子に命を残したのは、神の気まぐれだったのだろうか。クマに敵愾心もいだかず恐怖心も与えず、身動きしなかったことが、女の子が助かった理由だろうか」「熊には、自分が倒した自分の獲物に執着し、その獲物を妨げる者を『排除』しようとする習性が強い。そのことが犠牲者を追跡したり、遺骸から離れない執拗さとなって現れるのだ」(以下は記事からの引用。「/」は改行部)。『つまり、たまたま何の抵抗もなく眠っていた女の子が、熊の被害から逃れたというエピソードが広まり、迷信を生むきっかけの1つになったということは十分考えられるよう。/実はこれに近い事件が、明治から昭和初期まで数多くあったともいう』。『歴史的には、「眠っていて助かった子がいた」という記録は確かにあった。とはいえ、やはり「死んだフリ」は有効手段でないのは紛れもない事実。/改めて、「死んだフリ」は危険なので、絶対にやめましょう』とあった。この凄惨な事件は三毛別羆(さんけべつひぐま)事件(又は六線沢熊害(ろくせんさわゆうがい)事件・苫前(とままえ)羆事件とも)と呼ばれ、大正四年十二月九日から十四日にかけて北海道苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町古丹別三渓)の六線沢で発生した、吉村昭の小説「羆嵐(くまあらし)」のモデルとして知られる国内最大の獣害事件である(事件の詳細はウィキ三毛別羆事件を参照されたいが、かなり凄惨であるので閲覧に注意を要する)。なお、それでは具体的な熊に遭遇した際の有効性のある対策を北海道野生動物研究所(所長門崎允昭氏)のHPのもし、熊に遭ったら、どうする!本当の熊対策」講談社発行、アウトドア雑誌「FENEK」二〇〇六年十月号掲載記事)から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)。

 1 必ず鉈を携帯する(武器として実用的な物であること)。

 2 音の出る物(ラジオや鈴など)で常時音を立てて歩くと、辺りの音の異常が感知し難いので、要注意である。それよりも、時々声を出すか、笛を吹いた方がよいと思う。

 3 辺りを充分注視しながら進む。見通せる範囲はもとより、その先の死角部分では、特に歩調をゆっくり遅めて、注視すること。

 4 万が一熊に出会ったら(二〇メートル以上距離がある場合)、走らないで、熊の様子を窺いながら、熊から離れること。

 5 距離が一〇数メートルないし数メートルしかない場合は、その場に止まりながら、話しかけること(最初は普通の音声で、それからは大声で)。そして熊が立ち去るのを待つ。自分も少しずつ、その場から離れてみる。

 6 (私は未経験だが、)側にのぼれる木があればのぼり逃げる。襲ってきたら死にものぐるいで鉈で熊の身体のどこでもよいから叩く。

とある。2のラジオや鈴は一般的にはよく言われるが、このように指摘されてみると、その通りという気がする。ネット記載には他にも、熊の顎の辺りを凝っと見ながら静かに後退するとか、自分が持っているものを熊の目の前に投げて熊がそれに気を取られているうちに逃げるのも有効、とあるが……いざとなったら、「熊の顎の辺りを凝っと見ながら静かに後退する」なんどというのは、これは、なかなか難しいわい。……]

 

 かやうな動物が實際何程まで敵の攻撃を免れ得るかは、自然の生活狀態を詳しく觀察しなければ分らぬことであるが、相手となる動物に就いて實驗して見ても大體の見當は附く。昆蟲類を主として食ふ「ひきがへる」で實驗して見るに、何でも動くものには直に注目するが、動かぬものは少しも顧みない。小さく丸めた紙片も、卷煙草の吸殼でも、絲で吊して上下に動かして見せると、忽ち近づいて來て一口に嚥んでしまふが、毛蟲や甲蟲の如き日頃最も好んで食ふものでも、死んで動かぬやうになつたのは知らずに居る。また「とんぼ」なども常に昆蟲類を食つて居るものであるが、殆ど頭の全部をなす程の大きな眼は所謂複眼であって、幾萬の小單眼が集まつたもの故、動く物體を識別するには特に有功である。博覧會や共進會へ行つて見ても、腦漿を絞つて工夫した巧妙な器械の前には見物人が少くて、單に人形が首を振つて居るだけの下らぬ廣告の周圍には、人が黑山の如くに集まつて居る所から考へると、普通の人間も「ひきがへる」と同樣に、たゞ動くものにのみ注意するやうであるが、死んだ眞似をして居れば、かかる性質の敵からは見逃される望が多い。また小鳥類などは鋭い眼で、絶えず注意して昆蟲を搜して居るから、その攻撃を免れることは容易でないが、中には嘴で觸れて見て、匍ひ出せばこれを啄み、動かなければ死んだものと見做して、捨てて顧みぬものもあるから、死んだ眞似をするものの幾割かは無事に助かることにならう。いづれにしても、この方法は護身のために功を奏する場合が決して少なくない。

[やぶちゃん注:「共進會」明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。明治政府の工業化政策は明治六(一八七三)年の内務省設置以後、財政難や貿易収支の悪化によって工部省の直営事業に対する批判が高まり、民業の育成が緊急の課題として強調されるようになったことから大きく変化した。試験場・学校の経営、民業助成などに当った勧業寮(明治一〇(一八七七)年に勧農局と改称)や各種博覧会事務局が内務省内に設けられ、明治一〇年秋には第一回内国勧業博覧会が上野公園で開催された後、各地方の代表的な物産や技術を一堂に集め、一般の観覧に供するとともに生産者・販売者に優劣を競わせて品質改良・産業振興を図る目的で明治一二(一八七九)年、横浜で開かれた製茶共進会及び生糸繭共進会が最初で、特に殖産興業政策の一環として生糸・茶・織物などを中心に各地で催された。競進会とも(以上は平凡社の「世界大百科事典」と「マイペディア」の記載をカップリングして示した)。]

 

 死んだ眞似をするものは、昆蟲や「くも」のやうな小さな動物のみに限るわけではない。獸類の中でも、狸などは昔から死んだ眞似をするので有名なもので、生捕られてから打たれても擲かれても少しも動かず、少々皮を剝がれても知らぬ顏で我慢するとまでいひ傳へられて居る。そして敵が油斷すれば、その隙を窺つて遽に躍ね起き逃げ出さうとする。「狸寢入り」といふ言葉は、恐らくこれから起つたのであらう。猛獣の中には生きたものでなければ食はぬといふ習性のものもあらうから、狸の計略が功を奏して、巧に助かることも屢々あり得ることと思はれる。

[やぶちゃん注:本段に記されたタヌキの擬死現象について、まず、ウィキの「タヌキ」には、『死んだふり、寝たふりをするという意味の「たぬき寝入り(擬死)」とよばれる言葉は、猟師が猟銃を撃った時にその銃声に驚いてタヌキは弾がかすりもしていないのに気絶してしまい、猟師が獲物をしとめたと思って持ち去ろうと油断すると、タヌキは息を吹き返しそのまま逃げ去っていってしまうというタヌキの非常に臆病な性格からきている。同様の習性を持つことから、擬死を指す表現として英語圏では fox sleep(キツネ寝入り)、それよりさらに一般的なものとして playing 'possum(ポッサムのまねをする)という言いまわしがある』とある。同じウィキの「擬死」には、『ニホンアナグマやホンドタヌキ、エゾタヌキなど、主に哺乳類における擬死の利点』についての項があり、そこには、「擬死の機構」として『動物は自らの意志で擬死(死にまね。death feigning, playing possum)をするのではなく、擬死は刺激に対する反射行動である。哺乳類では、タヌキやニホンアナグマ、リス、モルモット、オポッサムなどが擬死をする。擬死を引き起こす条件や擬死中の姿勢、擬死の持続時間は動物によって様々である』とし、『イワン・パブロフは脊椎動物の擬死の機構を』『不自然な姿勢におかれた動物がもとの姿勢に戻ろうとしたときに抵抗にあい、その抵抗に打ち勝つことができない場合にはニューロンの過剰興奮を静めるための超限制止がかかってくる』と説明している、とある。次に「擬死を引き起こす刺激」として、『拘束刺激は擬死を引き起こす刺激の一つである。カエルやハトなどは強制的に仰向けの姿勢をしばらく保持すると不動状態になる。また、オポッサムはコヨーテに捕獲されると身体を丸めた姿勢になって擬死をする』とある。以下、これらの哺乳類の「擬死の利点」の項。『本種が擬死を行うことによる利点として、身体の損傷の防止と捕食者からの逃避が考えられる。擬死は捕食者に捕えられたときなどに起こる。捕食者から逃げられそうにない状況下で無理に暴れると疲労するだけでなく、身体を損傷する危険がある。捕食者は被食者』『が急に動かなくなると力を緩める傾向がある。このような時に捕食者から逃避できる可能性が生まれる。この機会を活かすためには身体の損傷を防ぐ必要がある』とある。最後に「擬死の特徴」として、『擬死中の動物は、ある姿勢を保持したまま不動になる。その姿勢は動物により様々である。ただ、不動状態のときの姿勢は普段の姿勢とは異なる不自然な姿勢である。 動物は外力によって姿勢を変えられると、すぐに元の姿勢を維持しようして動作する。この動作を抵抗反射(resistance reflex)という。しかし、擬死の状態では抵抗反射の機能が急に低下して、不自然な姿勢がそのまま持続する。このような現象をカタレプシー(catalepsy)という。カタレプシーは擬死中の動物すべてにあてはまる特徴である。 擬死の持続時間は、甲虫類以外は数分から数十分で、擬死からの覚醒は突然起こる。擬死中の動物に対して機械的な刺激(棒で突つくなど)を与えると覚醒する(甲虫類は逆に擬死が長期化する)。 擬死中は呼吸数が低下し、また、様々な刺激に対する反応も低下する。 擬死中の動物の筋肉は通常の静止状態の筋肉と比較してその固さに違いがあり、筋肉が硬直している。そのため、同じ姿勢を長時間維持することが可能となる』と記す。このようなタヌキなどの持つ特異な生態を広義の生体防御システムと捉えるならば(勿論、私はそう考える)、丘先生の、古来、人を化かすと言われた「狸の計略が功を奏」す、「敵が油斷すれば、その隙を窺つて」という見かけ上の謂いも、人間さまが擬死を本当の死として「油斷」しているのであるから、これ、強ちおかしな謂いとは言えない。]

 

 死んだ眞似をすることは、危險に身を曝して僥倖を待つのであるから、必ずしも安全な方法とはいへぬが、或る種類の相手に對しては、最も容易なしかも勞力を要することの最も少い經濟的な護身の方法である。譬へば、言論の自由を許されぬ國で、新思想家が沈默によつて刑罰を免れて居るのと理窟は變らぬ。但し自分が慥に死んで居るか否かを確めるために敵がさまざま檢査する間、少しも生活の徴候を現さずに堪へ忍ぶことは、大なる苦痛であると同時に大なる冐險であるから、どの種類の動物でもこれを行つて利益があるといふわけには行かず、たゞこの方法によって有功に敵の攻撃を免れ得べき望のある若干の種類だけが、專門にこれを行つて居るに過ぎぬ。

 以上種々の異なつた例を擧げて述べた通り、相手を欺くといふことは自然界には極めて廣く行はれて居る。色や形を他物に似せて、自分の居ることを相手に心附かさぬことは、餌を取るに當つても敵を防ぐに當つても同樣有功であるが、これを十分有功ならしめるには、それぞれこの目的にかなうた特殊の習性を具へねばならぬ。例へば、菜の花の色と同じ黄色の蝶が、平氣で赤い牡丹の花に止まるやうでは何の役にも立たず、如何に桑の「枝尺取り」が桑の小枝に似て居ても、枝と一定の角度をなして止まり、體を眞つ直ぐにして少しも動かずに居るといふ習性がなければ、到底敵の眼を眩すことはことは出來ぬ。それ故、このやうな動物を見ると、恰も皆、故意に敵を欺くことを努めて居るかの如くに思はれる。また擬態の如きも、十分功を奏するには種々の條件が具はらねばならぬ。例へば、如何に巧にある味の惡い蝶に似て居ても、その蝶が普通に居らず、隨つて鳥類がその蝶味の惡いことを知らぬといふやうな地方では無論何の功もない。また擬態せられる蝶よりも、これを擬態する蟲の方が多くなれば、この場合にも無功になる虞がある。なぜかといふに、飢に迫つて冐險的になつた鳥、または經驗の乏しい若い鳥が、この蝶を啄むとき、まづ擬態の方を食ひ當てれば、その味の惡くないことを覺えて、悉くこれを食はうとするから、忽ち擬態する蟲も擬態せられる蝶も、共に恐慌を來すに至るからである。なほその他の場合に於ても、詐欺が完全に行はれるには種々の事情がこれに適して居なければならぬが、適當な事情の下に於ては、詐欺は食ふためにも食はれぬためにも、頗る有功な方法である。

 要するに、動物は餌を食ふため、敵に食はれぬためには、あらゆる手段を用ゐて居る。一種毎に就いていへば、或は速力によるもの、或は堅甲によるもの、または勇氣によるもの、囘復力によるものなど、各種に最も適する方法を取つて居るが、全部を通覽すると殆ど如何なる方法でも用ゐられ、生きるといふ目的のためには決して手段を選ばぬ觀がある。そして詐欺はたゞその中の一部分に過ぎぬ。人間社會では武器を以て正面から戰ふのは立派なこと、詐欺で相手を陷れるのは卑劣なことと見做し、その間には雲泥の相違がある如くに感ずるが、全生物界を見渡せば、いづれも同一の目的を達するための異なつた手段に過ぎず、決して甲乙を論ずべきものではない。即ち詐欺で敵の眼を眩すのも、堅い甲で敵の牙を防ぐのも理窟は全く同じことで、詐欺の巧なものと甲の厚いものとは生存し、詐欺の拙なものと、甲の薄いものとは共に亡びる。騙し得たものと騙されなかつたものとが代々助かつて生き殘り、騙し得なかつたものと騙されたものとが飢ゑて死ぬか殺されるかするのは、恰も水が高い處から低い方へ流れるとか、天秤の一方が上れば一方が下るとかいふのと同じく、殆ど自明の理の如くに思はれる。ただ團體を造つて生活する動物では、同一團體の内の個體の間に詐欺が盛に流行したならば、その結果として協力一致が行はれず、全團體の戰鬪力が減じ、敵なる團體に對抗することが困難になつて、終に團體の維持生存ができなくなるが、團體が亡びれば、無論その中の各個體は共に滅亡を免れぬ。全生物界の中で詐欺を行つたために罰の當たるのは、かやうな場合に限ることである。

耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事

 病犬に喰れし時呪の事

 

 病犬(やまいぬ)に喰はれし時、なま大豆を喰ふに、なまぐさき事さらになし。升の角より、右喰れし所へ、たえず水をかくる事なり。なま大豆、なまぐさく覺(おぼゆ)るを度として止(やむ)る事、奇法の由、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:呪(まじな)いシリーズ連関。

・「病犬」「病い犬」。噛み癖のある悪しき性質(たち)の犬、または、狂犬病などの病気にに罹患している犬を言う語である。ここでは狂犬病は含まれないと考えてよい。何故なら、当時も現在も、狂犬病に罹患した犬に嚙まれ、狂犬病に罹患して発症した場合は、治療法はなく、確実に死に至るからである(但し、例えば狂犬病発生地域に行く前に感染前(暴露前)接種=予防接種を行うか、感染動物に噛まれた後(暴露後)、なるべく早く、発症前にワクチンを接種するならば発病を免れる)。即ち、本話では、犬に嚙まれ、狂犬病を除く感染症(重いものでは死亡率五〇%の破傷風から、ブドウ球菌・パスツレラ菌などによる細菌感染症など)に罹患するもの(勿論、単なる咬傷のみも含む)対象となる。

・「升の角より、右喰れし所へ、たえず水をかくる」一見、咬傷部位の洗浄効果があるようには見えるが、どうも升の角というところに、呪術的意味があるようである。丁泰丹氏のブログ「足の裏から宇宙が見える」の大麦小豆二升五銭の記事に、清水榮一著「一回限りの人生」(PHP出版一九九五年刊)に、昔、四国の丸亀に一人の老婆がおり、この老婆の呪いが病気に良く効くということで大評判になった。それは、「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」と三度唱えて病人の患部を擦ると、如何なる病気もたちまち治るというものであった。しかしある時、その施術に立ち会った一人の僧がその呪いが、「金鋼経」の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」(応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし)に基づくものと分かったという記載があった(訓読は私のもの)。大豆に升、万病に効く――何らかの関連がある、かも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  怪しき犬に噛まれた際の呪いの事

 

 「……怪しき犬に噛まれた際、生の大豆を食べましても、全く生臭く感じなくなりまする。……そこで、たっぷりと水を入れた升の、その角の部分から、その噛まれた傷へ、絶えず水を注ぎかける続けまする。……すると……そのうちに、生大豆を食べると普段のように如何にも生臭く感じるようになりまする。……そうしましたら、水をかけるのを止めて、よう御座る。――それで以って悪うなることは、全く御座らぬ。――これ、奇法にて御座る。――」

と、さる御仁の語って御座った。

AKB峯岸みなみの丸刈り謝罪に就いて

AKB峯岸みなみの丸刈り謝罪を見た瞬間、私はナチスの強制収容所に入れられた少女の画像がフラッシュ・バックして非常に不快であった。因みに、私はAKBにも峯岸みなみにも全く思い入れはないのだが、それにしても、恐怖の恋愛狩りをするAKBとは、差し詰め、KGB――ソ連国家保安委員会КГБ(カーゲーベー)――のアナグラムだったのだと、今朝、私は独りごちたのであった。

一言芳談 八十五

   八十五

 

 信澄房(しんてうばう)云、寂林寺にも、六時禮讚(ろくじらいさん)など誦(よ)みて、聽聞に人あつめなどせば、即ち所損(しよそん)たるにてあるべきなり。

 

〇寂林寺、いづくにあるかしらず。

〇所損、人あつまれば名聞もおこり、魔事もあるべし。

 

[やぶちゃん注:「信澄房(しんてうばう)」Ⅰは「しんちようばう」と振る。Ⅱ・Ⅲを採った。伝不詳。

「寂林寺」標註も示す通り、不詳。大橋氏はⅡの注で、『京都東山あたりにあった寺ではあるまいか』とする。

「六時禮讚」浄土教における法要・念仏三昧行の一つで、浄土宗第三祖唐の善導が記した「往生礼讃偈」に基づき、一日を六時に分けて誦経・念仏・礼拝を行うが、その際、それおぞれ六回、別々の独特の拍子や旋律を伴ったらしい。浄土宗では建久三(一一九二)年に法然が大和前司親盛入道見仏の招きを享け、後白河院追善菩提のために八坂の引導寺において別時念仏を修したが、それが六時礼讃の始まりとされるが、「徒然草」第二二七段には、

六時禮讚は、法然上人の弟子、安樂(あんらく)と言ひける僧、經文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦(うづまさ)の善觀房(ぜんくわんばう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、聲明(しやうみやう)になせり。一念の念佛の最初なり。後(のちの)嵯峨院の御代より始まれり。法事讚(ほうじさん)も、同じく善觀房、始めたるなり。

とあるが、「六時禮讚」を「安樂」なる僧が集経して作ったように書くのは誤り。「善觀房」不詳。「後嵯峨院の御代」第八十八代後嵯峨天皇(承久二(一二二〇)年~文永九(一二七二)年)の在位は仁治三(一二四二)年~寛元四(一二四六)年であるから、「六時礼讃」の発生は仁治三(一二四二)年ということになるが、後に示すように、この創始者である安楽坊遵西は建永二(一二〇七)年に、この礼讃によって宮女壊乱の罪を以って斬首されているのだから、兼好の記載は遅過ぎる。「法事讚」は同じく善導による法式の規定。阿弥陀経読誦に先立つ儀礼としての三宝の召請や懺悔の次第、十七段に分かたれた「阿弥陀経」本文とそれに附された各段の讃文の読誦唱和作法次第、読誦後の懺悔・歎仏呪願の儀礼などを記す。Ⅱの大橋氏注には、「法然上人行状絵図」第三十三には、「さだまれるふしなく、をのをの哀歎悲喜の音曲をなすさま、めづらしく、たうたかりけれ」とある、とされ、『現行の作曲は太秦の善観が譜付けしたものとされ、拍子は四拍子、六拍子』の二種があると記されておられる。主に参照したウィキ六時讃」には(この記載も多く大橋俊雄氏の資料を元にしている、以下の引用等も同じ)、この「徒然草」の記載や「愚管抄」によれば、『浄土宗の開祖法然の門弟である安楽坊遵西が礼讃に節を付けたと言われているが、当時は定まった節とか拍子がなかったらしい』とする。また、ここで問題なのは、この遵西が指導した声明『礼讃が大衆の支持を多く得たことから、既存仏教教団の反発を招き』、建永二(一二〇七)年、『後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等の罪で、遵西は斬首され、同年の法然らに対する承元の法難(建永の法難)を招く原因ともなった』事実でもあろう。まさにこれはこの荘厳美麗なはずの声明が、後鳥羽上皇による専修念仏の停止(ちょうじ)・法然門弟四人の死罪、法然と親鸞ら高弟七人の流罪というとんでもない「所損」を引き出したことをこそ意味するのではないか? 私は少なくとも、この信澄房なる僧が、音楽的な耳に心地よい「六時礼讃」の旋律を。直観的に厭うたのだと読む。なお、それでも連綿と現在に伝わるそれは、天台声明を基にした美しい旋律で、後半になるに従い、高音の節が荘厳美麗さを増すもの、という。現代では浄土宗・時宗・浄土真宗が法要で盛んに用いており、また、親鸞の「正信念仏偈」は、この「六時礼讃」にヒントを得て作製された、ともある。信澄房がこの事実を知ったら、果たして、どう思うであろうか?

「所損(しよそん)」Ⅱは「しよぞん」、Ⅲは「ところそんじ」と振る。Ⅰに拠った。損をすること。損失。]

2013/02/04

文化庁eBooksプロジェクト 紀伊國屋書店 Kinoppy の芥川龍之介「河童」は凄い!

文化庁eBooksプロジェクト|紀伊國屋書店 Kinoppy

この芥川龍之介「河童」は凄い! 龍之介の自筆校正用決定原稿の画像附だ。たった一ヶ月間限定の無料ダウンロード――お見逃しなく!

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(4)/ 了

 足で他物を支へて身體を隱す「かに」は、「へいけがに」の外にも幾種もある。その中で最も普通なものは海綿を脊負つて居る「かに」であるが、やはりこの類でも、四對の足の中、後の二對は短くて上向きになり、その先端の鉤狀の爪で常に海綿を引懸けて離さぬやうにして居る。そして海綿の方には、また丁度「かに」の丸い甲の嵌まるだけの凹みがあり、相重なつて、居るときはその間に少しも空隙がない。その上面白いことには、この凹みの内面の兩側には二つづつ小さな穴があつて、足の爪がこれに掛るやうに出來て居る。されば、この「かに」はどこへ行くにも海綿を脊負つたまゝで、若し危いと思ふと、忽ち靜止し、足や鋏を引き込めて恰も海綿だけの如き外觀を裝ひ、巧に敵の攻撃を免れるのである。

[やぶちゃん注:『海綿を脊負つて居る「かに」』軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ科カイメンガニ Chlorinoides longispi 及びその仲間。彼等は、海綿動物門 Porifera の多様なカイメン類だけでなく、刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目 Alcyonacea のウミトサカ類や同八放サンゴ亜綱ヤギ目イソバナ科イソバナ属 Melithaea 等を、かなり贅沢且つ派手に粉飾して擬態している。画像は例えば、ブログ一日一歩の「海の藻屑の写真がよい。]

 

 「へいけがに」でも「海綿がに」でも、足を用ゐてわざわざ他物を背の上に支へて居るのであるが、或る「かに」類は海草や海綿などを自身の甲や足の表面に直に植ゑ附けて姿を隱して居る。海の淺い處で網を引くと、かやうな「かに」は幾らも掛つて來るが、海草などに混じて居ると殆ど眼に附かぬ。「かに」類は昆蟲などと同じく成長する間に度々皮を脱ぐが、脱ぎ換へた當座は無論皮は綺麗である。しかるに外國の水族館で飼育した實驗によると、この類の「かに」は脱皮後直に適當な海草や海綿を選んで、自身でこれを甲に粘著せしめ、暫時の後には再び全身が殆ど見えぬ程に、他物を以て被はれてしまふ。

[やぶちゃん注:「海草」はアマモ等の海産の顕花性の種子植物を指すので、ここは「海藻」(若しくは「海藻や海草」)とすべきところ。

『或る「かに」類は海草や海綿などを自身の甲や足の表面に直に植ゑ附けて姿を隱して居る』短尾下目クモガニ上科クモガニ科クモガニ亜科モクズショイ Camposcia retusa に代表される、クモガニ類に多く見られる、藻や屑を体に貼り付けカムフラージュをしているカニ類。そのシュールでエッシャー的な世界はグーグル画像検索「モクズショイ」をご覧あれ!]

Kumasakagai_2

[熊坂貝]

 

 卷貝の中にも「熊坂貝」と名づけるものがあるが、これも同樣の手段で身體を隱して居る。この貝は摺鉢を臥せたやうな丈の低い卷貝であるが、介殼の外部には一面に他の介殼または小石などを著けて居るから、海底に靜止して居るときには、そこに生きた貝が居るとは到底見えぬ。小石や介殼の破片などが、この貝の介殼の表面に附著して居る有樣は、恰もセメントで固めた如くであるから容易には離れぬ。この貝を澤山集めて見ると、その中には小石のみを著けたもの、小さな卷貝の殼のみを著けたもの、主として二枚貝の破片のみを著けたものなどがあるが、これはいづれもその住んで居る海の底に落ちて居る物が、場處場處によつて同じでないから、各々自分の居る處に普通な物を取つて附けて居るのであらう。

[やぶちゃん注:「熊坂貝」盤足目クマサカガイ科クマサカガイ Xenophora pallidula。和名は平安時代の伝説上の大盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)に由来する。実際には室町後期の幸若舞「烏帽子折」や同名の謡曲及び「熊坂」などで創作されたピカレスク。クマサカガイの、やっぱりシュールでエッシャー的な世界はグーグルの画像検索「クマサカガイをご覧あれ!……しかし、最後の部分、その個体の生息域が、小石から二枚貝から巻貝からあらゆるものが吹き寄せられてくる吹き溜まりであったら、あらゆるものをサイケデリックに附着させている個体がもっとあってよいのに――というより、そうした吹き溜まりである方が多いはずであるのに――画像を見ても、丘先生のおっしゃるように、選択的に、巻貝だけ、二枚貝だけ、それらの中でも特定種だけ、小石だけを選んでいるように見える。これは「各々自分の居る處に普通な物を取つて附けて居る」ようには私には思われないのであるが……? 貝類学の識者に御教授を乞うものである。]

北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍

 

      ○坂額女房鎌倉に虜り來る  城資永野干の寶劍

 

藤澤四郎淸親、今度、越後國鳥坂の軍に勳功あり。資盛が姨母(をば)坂額女房(はんがくにやうばう)を生捕(いけど)り、鎌倉に將(つ)れて參りけり。矢疵、未だ平癒せざりければ、隨分にいたはりつゝ、既に鎌倉に著(つき)しかば、賴家卿、その女房の事を聞召(きこしめ)され、「誠に雄々(ゆゝ)しき大剛の女房なり。その體(てい)を御覽ぜらるべし」とありければ、清親、軈(やが)て相倶して御所に參ず。賴家卿、簾(みす)の内より是を御覽ぜらる。小山、畠山、和田、三浦、以下の御家人侍所に候ぜらる、「その中を通りけるに、この女房、中々わろびれたる色もなく、簾の下(もと)に進みで坐(ざ)す。気色(けしき)、更に諛(へつら)へる有樣なし。凡(およそ)勇武の士に比すとも對揚(たいやう)するに恥づべからず。色黑く顏相(がんさう)荒(あ)れて、眼の光(ひかり)、邊(あたり)を射る。「醜き事は登都子(とうとし)が妻(め)、鴻伯鸞(こうはくらん)が室(しつ)にも替るまじ。※母(ばくぼ)陵園妾(りようえんせう)と云ふとも、是に合せて思ひやるべし」と笑ふ人も有けり。「流石に女性の事なれば、首(かうべ)を刎(はね)るに及ぶべからず。流罪に處せらるべきなり」と仰出されける所に、阿佐利(あさりの)與一義遠(よしとも)、申入れけるやう、「此囚人(めしうど)の女性に於ては義遠に預け下さるべし」となり。賴家卿の仰(おほせ)に、「此女は當時無雙の朝敵なり。是を望み申すの條、所存ある歟と思召(おぼしめ)さる。如何(いかで)思寄(おもひよ)る事のある。子細を言上すべし」となり。義遠、重(かさね)て申しけるは、「全く殊なる所存あるにあらす、只(ただ)同心の契(ちぎり)を結び、壯力(さうりき)の男子を生みて、朝廷を守護し、武家を擁衞(おうゑい)し奉り、忠勤の契を志(こころざし)を永くに傳へ參(まゐら)せんと存する計にて候」と申しければ、賴家卿仰せけるは、「此女の顏形、世に醜しといへども、力量勝れて、心武(たけ)し、恐ろしき所なきにあらず、是を思ふに、誰(たれ)か愛念して契を結ばん、義遠が心は又、更に人聞の好む所を外れたり。蓼を食ふ蟲、苦參を蠹する虫もありけり」と大に笑はせ給ひて、遂に免下(ゆるしくださ)されたり。阿佐利、大に悦び將(つれ)て甲斐國に下向し、夫婦(ふうふ)の語(かたらひ)をぞ致しける。「和田義盛は木曾義仲の妾(おもひもの)巴女(ともゑ)を妻として、其力(ちから)を傳へて、淺比奈義秀(あさひなのよしひで)を生みたり。當時大力(ちから)の剛(がう)の者と世にその隱(かくれ)なし。是は美目善き女なりければ、さもこそあらめ、坂額女房(はんがくのにやうばう)は力量武勇(ぶよう)の種(たね)を繼計(つぐばかり)ぞ、若しその種を繼がざるには善(よき)かづき物なり」と若き人々は笑(わらひ)合へり。彼の女房は越後守平資永が妹なり。資盛が爲には父方の姨母(をば)なれば、俗姓(ぞくしやう)取て恥(はづかし)からずといへども、容顏の餘(あまり)に醜かりければ、然るべき夫(をのこ)の緣もなくて、今日まで有りけるを阿佐利が妻となりけるも、緣の熟す故なるべし。兄越後守資永は往當(そのかみ)、治承五年九月に木曾冠者義仲、義兵を擧げられしに、勅命を承り、當國の軍兵を催し、木曾を攻(せめ)んと出立つ所に、資永、俄に卒中昏倒し、人事を省みずして死にたりけり。從五位下行(ぎやう)越後守平朝臣に任ぜられ、家、甚だ富(とみ)榮え、北陸道の大名にて肩を竝(ならぶ)る人もなし。その先祖は鎭守府將軍平維茂(これもち)の嫡男繁茂(しげもち)七代の後孫なり。然るに、繁茂、生れてその儘、行方(ゆくかた)なく失せにけり。父母、悲(かなしみ)歎きて、四方を尋ね求むれども、更にその有所を知らず。斯(かく)て四年を經て、父母に夢想の告(つげ)ありて、山際の狐塚(きつねづか)より求得たり。狐即ち變じて老翁となり。子を抱(いだ)きて、父母に渡し、一つの刀に插櫛(さしぐし)を添へて云ひけるは、「この兒を大日本の國主になさんと生立(そだ)てしかども、今は早、その位には至るべからず。早くかへし侍るなり。されども本朝に隱れなき名を取るべし、 愼(つゝしみ)なくは家滅びなん」とて搔消(かきけす)如くに失せにけり。この兒、成長(ひとゝな)りて城介(じやうのすけ)に補任(ふにん)せられ、繁茂とぞ號しける。是より七代相繼ぎて、越後國を治め領す。城四郎資永は九郎資國が嫡子として、母は將軍三郎清原武衡が女(むすめ)なり。資永を以て北越の固(かため)と賴まれしに、頓死しければ、平家は力を失ひ、木曾は勢(いきほひ)を增して、信州筑摩河(つくまがは)の邊に打出でしを、資永が舎弟四郎長茂、其跡を繼ぎて、軍兵を卒して、合戰するに、長茂打負て敗北す。文治四年、頼朝の世になりて、降人(かうにん)に出けるを梶原景時に預(あづけ)置かる。右大將家、奥州の泰衡對治の時、囚人(めしうど)を許され、家の旗さして向ひしが、大功を顯(あらは)し、漸く本知(ほんち)を許されける所に、今度、又、叛逆して、資永が嫡子資盛その外譜代の家子、郎從共に悉く滅びて一家皆(みな)、滅したり。資盛、滅びける時節に方(あた)つて野干の與(あた)へし刀も、この時に失せにけり。

 

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「莫」(意味は後の注を参照)。板額御前の後日譚が前半、後半は前話の最後に引用した「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年五月十四日の条の最後の『出羽城介繁成〔資盛が曩祖。〕、野干の手より相傳する所の刀、今度、合戰の刻みに紛失す』の部分の資盛の先祖出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の伝承を、過去の「吾妻鏡」を用いて附記する。読み物としての面白さをよく考えた構成である。但し、ここでの「板額御前」の意外な(いや、美形ならば寧ろ成程と思わせるというべきかも知れない)展開は「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年六月の二十八日と二十九日に基づくが、そこには私が許し難い大きな相違点があり、それは私は断固! 異を唱えずんばあらざる誤りなのである!――それは――

 

◎「吾妻鏡」の板額姐さんは

 (^^

(#^.^#)

「チョー美形!」

……であるのに対して、この……

 

×「北條九代記」の板額御前は

(o)/!

~゜・_・゜~!

「キョーレツ醜女(しこめ)!」

である点である!

 

私は、無論、原典を一二〇%支持するものである。「吾妻鏡」を読んだ昔、とってもいいシーンだなって、何だか、ほっとしたのは、ここだった。それ以来、私は「ばんかく姐御」のファン、BANKAKKU親衛隊なのである! 無論、醜い女であっても、本話柄の展開の妙味は変わらないのであるが、美人であると記しているものを、わざわざ醜い女とするのには、こうした伝承を都市伝説化する後代の人間の嫉妬を感じるのである。ウィキの「坂額御前」には、「大日本史」『など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される』とある。本「北條九代記」も、その流れを汲んでしまった。

 

〇原文

廿八日丙午。藤澤四郎淸親相具囚人資盛姨母〔號坂額女房。〕參上。其疵雖未及平減。相構扶參云々。左金吾可覽其躰之由被仰。仍淸親相具參御所。左金吾自簾中覽之。御家人等群參成市。重忠。朝政。義盛。能員。義村已下候侍所。通其座中央。進居于簾下。此間無聊諛氣。凡雖比勇力之丈夫。敢不可恥對揚之粧也。但於顏色。殆可配陵薗妾云々。

廿九日丁未。阿佐利與一義遠主以女房申云。越州囚女。被定既配所者。態欲申預云々。金吾御返事云。是爲無雙朝敵。殆望申之條有所存云々。阿佐利重申云。全無殊所存。只成同心之契約。生壯力之男子。爲奉護朝庭扶武家也云々。于時金吾。件女面貌雖似宜。思心之武。誰有愛念哉。而義遠所存已非人間之所好由。頻令嘲哢給。而遂以免給。阿佐利得之。下向甲斐國云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丙午。藤澤次郎淸親、囚人資盛の姨母(をば)〔坂額女房と號す。〕を相ひ具して參上す。其の疵、未だ平減に及ばずと雖も、相ひ構へて扶け參ると云々。

左金吾、其の體(てい)を覽(み)るべきの由、仰せらる。仍つて淸親、相ひ具し御所へ參る。左金吾、簾中より之を覽る。御家人等、群參し、市を成す。重忠・朝政・義盛・能員・義村巳下、侍所に候ず。其の座の中央を通り、簾下に進み居る。此の間、聊かも諛(へつら)ふの氣、無し。凡そ勇力之丈夫を比ぶと雖も、敢へて對揚(たいやう)を恥づるべからざるの粧ひなり。但し、顏色に於ては、殆んど陵薗(りやうゑん)の妾(せふ)に配すべしと云々。

・「對揚」相い対すること。

 

   *(以下、非常に長い付属注になるので「*」で区別した)

 

・「陵薗の妾」白居易の新楽府「陵園妾」(「白氏文集巻四」所収)や、その影響下にある無数の和歌群、平安末期に藤原成範によって書かれた説話集「唐物語」の「陵園妾」などに基づく。かの李白の「陵園妾」の奥津城の美女と並ぶ(「配」)飛びっ切りの美人、それもそんな強弓の持主とは到底思えぬような美形であったことを言う。まず、

★「陵園妾」

の詩は長いが、私の好きな詩なので、全篇を示す。

 

  陵園妾

       憐幽閉也

 

 陵園妾

 顏色如花命如葉

 命如葉薄將奈何

 一奉寢宮年月多

 年月多

 春愁秋思知何限

 靑絲髮落叢鬢疎

 紅玉膚銷繫裙縵

 憶昔宮中被妬猜

 因讒得罪配陵來

 老母啼呼趁車別

 中官監送鏁門迴

 山宮一閉無開日

 未死此身不令出

 松門到曉月徘徊

 柏城盡日風蕭瑟

 松門柏城幽閉深

 聞蟬聽燕感光陰

 眼看菊蘂重陽淚

 手把梨花寒食心

 把花掩淚無人見

 綠蕪牆遶靑苔院

 四季徒支粧粉錢

 三朝不識君王面

 遙想六宮奉至尊

 宣徽雪夜浴堂春

 雨露之恩不及者

 猶聞不啻三千人

 三千人

 我爾君恩何厚薄

 願令輪轉直陵園

 三歳一來均苦樂

 

   陵園(りようゑん)の妾(せふ)

             幽閉を憐れむ

 

  陵園の妾

  顏色(がんしよく) 花のごとく 命 葉のごとし

  命 葉のごとく薄し 將に奈何(いかん)せん

  一たび 寢宮(しんきゆう)に奉じてより 年月(ねんげつ)多し

  年月多し

  春愁 秋思 知らず 何の限りぞ

  靑絲の髮 落ち 叢鬢(そうびん) 疎(まば)らに

  紅玉の膚(はだへ) 銷(き)え 繫裙(けいくん) 縵(ゆる)し

  憶(おも)ふ 昔 宮中に妬猜(とさい)せられ

  讒(ざん)に因つて罪を得 陵に配せられ來たりしを

  老母 啼呼(ていこ)して車を趁(お)ふて別れ

  中官 監送して門を鏁(と)じて迴(かへ)る

  山宮(さんきゆう) 一たび閉ざされて 開く日無く

  未だ死せざれば 此の身 出でしめず

  松門 曉に到るまで 月の徘徊し

  柏城 盡日

  風 蕭瑟(せうしつ)たり

  松門 柏城 幽閉深く

  蟬を聞き 燕を聴き 光陰(くわういん)を感ず

  眼に菊蘂(きくずい)を看ては 重陽の淚

  手に梨花を把りては 寒食の心あり

  花を把(と)り 淚を掩(おほ)ふも 人の見る無く

  綠蕪(りよくぶ) 牆(しやう)は遶(めぐ)る 靑苔の院

  四季 徒らに支(し)せらる 粧粉(しやうふん)の錢(せん)

  三朝 識らず 君王の面(おもて)

  遙かに想ふ 六宮(りくきゆう)の至尊に奉ずるを

  宣徽(せんき)の雪夜(せつや) 浴堂の春

  雨露(うろ)の恩 及ばざる者

  猶ほ聞く 啻(た)だに三千人のみならずと

  三千人

  我と爾(なんぢ)と 君恩の何ぞ厚薄(こうはく)のある

  願はくは 輪轉して陵園に直(ちよく)し

  三歳一たび來たりて 苦楽を均しくせしめんことを

 

細かい語注を施していると、永遠に本注が終わらなくなるので、例えば私が原文の底本にした一九五八年刊高木正一注「岩波中国詩人選集 第十二巻 白居易 下」の当該詩の注や現代語訳を参照されたいが(訓読には必ずしも従っていない)、その内容は、讒言によって亡き天子の御陵の守り役として幽閉されてしまった若く美しい宮女がそこで老いさらばえてゆく(「三朝 識らず 君王の面」ここに幽閉されてから既に天子が三代も替わったことを意味する)、その恨みの悲歎を本人の言葉として叙したもので、最後の部分は後宮三千人全員に――どうか、交代で三年一度一夜だけ、ここで御陵の宿直(とのい)をして、私一身が受けているこの地獄のような苦しみと、あなたがたの快楽を平等に分かって下さい――と訴えて終わる。私が気になる部分だけ底本注を参考に注すると、

●「陵園の妾/顏色 花のごとく 命 葉のごとし」……御陵(みささき)の奥津城(おくつき)に……人の宮女……花の顔(かんばせ)……しかし木の葉のように薄命の……一人の女が語り出す……といった感じ。「通鑑」によれば、唐代の制で、宮女の中で子がいない者は、山陵に日夜供奉し、天子が生きている時と全く同様に仕えさせた、とある。

●「知何限」「知」は次に疑問詞を伴う場合、「不知」の意となる。

●「中官」天子側近の宦官。

●「寒食」古く、中国で冬至から一〇五日目。陽暦では四月三日か四日頃に相当する。この日は風雨の烈しい日として、火断ちをして煮炊きをせず、冷たい物を食べた風習に基づく。

●「支(し)せらる」支給される。

●「六宮の至尊に奉ずるを」底本には詩題の脇に高木氏の注で、清の王立名は、『宮女に託して、讒言のため放逐された朝臣の悲運に同情した詩と』釈している旨の記載があり、この「六宮の至尊に奉ずる」ものとは、この解釈によるならば『天子側近の重臣に喩えたものであろう』と注されておられる。

●「雨露の恩」天子の恩沢。お情け。

 

 §

 

次に、原詩のコンセプトを手っ取り早く分かり易く和文訳にして呉れている、

☆「唐物語」の「陵園妾」

であるが、原書を持っているはずなのだが、見当たらない。以下は、個人ブログ「国語史資料の連関」のここから、「国文大観」本の引用を孫引きさせて戴いた(但し、恣意的に正字化し、一部の句読点・記号を追加・省略、和歌を独立させてある)。

 

 むかし、陵園といふ宮の内に閉ぢ籠められたる人ありけり。玉のはだへ花のかたちあざやかにて世にならびなく美くしかりけり。年若かりける時、女御にいつきかしつかれて、うちに參りけるに、親しき、うとき、楊貴妃、李夫人のためしにも勝りなむと思へりけるを、數多の御方々めざましき事になむ思しける。その御いきどほりにや、さまざまのなき事によりて陵園といふ深き山宮に閉ぢ籠められて、明くるめもなき物思ひにやつれつゝ、みめかたちもありしにもあらずなりにけり。父母生きながら別れぬる事をなげき悲しめども、あひ見る事なかりけり、よの常は深き宮の内に心すごくて風の音、蟲のねにつけても、思ひ殘す事なし。かくしつゝ、やうやう春にもなり行けば、よもの山邊に霞たなびき、野邊の早蕨、あしたの雨に萌え出で、心ちよげなるも、我が身の爲には羨ましく覺えて、花のにほひ、薫り渡るにも、獨ねのとこの上心ときめきせられつゝ、哀を添へたる朧月夜のみさし入れども、問ふに音なき影ばかりほのかにて明し暮すに、春過ぎ、夏たけて、暮れにし秋も廻り來にけり。樣々咲き亂れたる白菊の夕の露に濡れたるを見るにも、むかしの重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとゞ抑へがたかりけり。

 

 見るたびに涙つゆけきしら菊の花もむかしやこひしかるらむ

 

この人、山宮に閉ちこめられて後、三代の帝にぞ逢ひ奉りける。

 

   *(「板額御前」の注に戻り、頼家会見の翌日、建仁元年六月二十九日分を示す)

 

〇原文

大廿九日丁未。阿佐利與一義遠主(あさりのよいちよしとほぬし)、女房を以つて申して云はく、

「越州の囚女、既に配所を定めらるてへれば、態(わざ)と申し預からんと欲す。」

と云々。

金吾、御返事に云はく、

「是れ、無雙(ぶさう)の朝敵たり。殆んど望み申すの條、所存有り。」

と云々。

阿佐利、重ねて申して云はく、

「全く殊なる所存無し。只だ、同心の契約を成し、壯力の男子を生み、朝庭(てうてい)を護り、武家を扶け奉らんが爲なり。」

と云々。

時に金吾、

「件の女の面貌、冝(よろ)しきに似たりと雖も、心の武を思はば、誰(たれ)か愛念を遺さんや。而るに義遠が所存、已に人間の好む所に非ず。」

の由、頻りに嘲哢(てうらう)せしめ給ふ。而して遂に以つて免(ゆる)し給ふ。阿佐利、之を得て、甲斐国に下向すと云々。

 

ウィキの「坂額御前」には、この「吾妻鏡」の記載を『「可醜陵園妾」(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)』と読んでいるが、この「吾妻鏡」の底本はどの版本か? 面白いが、採れない。寧ろ、体よく墓地に幽閉されたに等しい悲劇の美女陵園の妾と、幕閣要人の居並ぶ中、叛逆の美貌の女狙撃兵が、聊かも臆することなく、眼差し鮮やかに将軍に会見したことを「配すべし」と述べていると私は採る。また、そこでは身長は何と、六尺二寸(約一八八センチメートル)あったとあり、『坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』とある。――めでたし、めでたし! よかったね、ばんかく姐さん!

 

「登都子」これは「登徒子」の誤り。空海の「三教指帰」などに載り、楚の襄王の臣で好色で、その醜い女に五人の子供を産ませたといい、その後、「登徒子」は好色家の代名詞とされた。

 

「鴻伯鸞が室」にある。後漢の梁鴻(りょうこう)は字を伯鸞(はくらん)と言い、勉学に励んで博学多才の高潔な人物で、扶風平陵県の人であったが、多くの人が自分の娘を嫁にして欲しいと望んだものの、彼は同県の孟光という怪力の持主で、しかも肥満で色黒の醜い女性を妻として、後に霸陵山中に二人で隠棲したという。「蒙求」の「孟光荊釵」の故事(個人のブログ『「ふでの蹟」雑記帳』のこちらの記事を参考にした)。

 

「※母(ばくぼ)陵園妾(りようえんせう)と云ふとも、是に合せて思ひやるべし」「※」=「女」+「莫」。「※母」は本来は「ボボ」と読むのが正しい。中国古代の伝説上の皇帝である黄帝の第四夫人。顔が醜かったが、賢徳をもって知られた人物であったのに、転じて、醜女(しこめ)の意のみが残ってしまった。「※母(ぼぼ)や陵園の妾(しょう)などと言う醜女(しこめ)をも、この坂額の醜さに擬えてイメージして貰えれば、その醜さが分かろうというものである」というのだが、ここ、筆者が坂額の姐御をあろうことか、醜女にしてしまった結果意味が通らなくなった。以上で見た通り、「陵園妾」は美人の囚われ人の謂い以外の何ものでもないからである。

 

「阿佐利與一義遠」浅利義遠(久安五(一一四九)年~承久三(一二二一)年)。源清光十一男。元来、浅利氏は甲斐源氏の一員で、甲斐国八代郡浅利郷を本拠とした。兄の武田信義、安田義定らとともに源頼朝の幕下に参加する。弓の名手であり、壇ノ浦の戦いや奥州合戦においてもその強弓をもって戦功を立てた(ウィキの「浅利義遠」に拠る)。当時、五十二歳であるから、当時としてはもう、老人の部類である。対する坂額御前は、兄の城長茂は仁平二(一一五二)年生れで、正治三年当時で四十九歳であるから、それほど若いとは思われないが、それでも浅利義遠が子を求めんと望んだ以上は、三十代か。

 

「苦參を蠹する虫」「苦參」は「くらら」とも読む。マメ科の多年草のマメ目マメ科マメ亜科クララ Sophora flavescens。「眩草」とも書き、和名の由来は根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる。ウィキの「クララ」によれば、高さ五〇~一五〇センチメートル、花期は六~七月で、茎の先に薄黄色の総状花序をつける。全草有毒で、根の部分が特に毒性が強い。ルピナンアルカロイドのマトリンを含み、これが後述の薬効の元であるが、薬理作用が激しく、量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸困難で死に至る、とある。『根は、苦参(くじん)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があり、苦参湯(くじんとう)、当帰貝母苦参丸料(とうきばいもくじんがんりょう)などの漢方方剤に配合される。また、全草の煎汁は、農作物の害虫駆除薬や牛馬など家畜の皮膚寄生虫駆除薬に用いられる』。『なお、延喜式には苦参を紙の原料としたことが記されているが、苦参紙と呼ばれる和紙が発見された例が存在せず、実態は不明である』としながらも、二〇一〇年一〇月の宮内庁正倉院事務所の調査で「続々修正倉院古文書第五帙第四巻」の一枚目は和紙、手触りや色合いが延喜式での工程や繊維の特徴を持ち、二枚目は、その幻しの苦参紙の可能性が高いと判断している、とある。

 

「和田義盛は木曾義仲の妾巴女を妻として、其力を傳へて、淺比奈義秀を生みたり」「巴女」は巴御前。彼女は義仲の妻と称されることが多いが、便女(びんじょ:武将の側で身の回りの世話をする下女。)であって、妻ではない(義仲は京で松殿基房の娘藤原伊子とされる人物を正妻としている)。従って「妾(おもひもの)」という記載は正しい。一般には、義仲の討死の直前に別れて、消息不明となったとされるが、生きのびたのか、その消息はわからなくなったとされているが、「源平盛衰記」では、『倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされて』おり、『宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り』、九十一歳で生涯を終えた、という後日談が語られる、とある(以上の記載や引用はウィキの「巴御前」に拠る)。また、義仲と別れた際の彼女の年齢については、「百二十句本」で二十二、三歳、「延慶本」で三十歳程、「長門本」で三十二、この「源平盛衰記」では二十八歳としている、とある。

 

「善かづき物なり」(剛勇と武威をその子が継がなかったとしたら、この醜い顔ではとんだ)『よき賜り物ということになるわ!』という、若侍どものひどい揶揄である。

 

「資盛が爲には父方の姨母なれば、俗姓取て恥からずといへども」私が馬鹿なのか、意味が良く分からない。増淵氏は『資盛からいうと父方の姨母(おば)に当たるので、一般に称する姓氏としては恥ずかしくないが、』とするのであるが、この『ので』の接続助詞も、『一般に称する姓氏としては恥ずかしくない』というのも失礼乍ら、今一つ、分かったような分からないような訳文である。「資盛が爲には父方の姨母なれば」の部分は、一緒にいた資盛ではなく、彼女の一族たる城氏は、平国香の次男繁盛の流れを汲む名族で、平氏政権期に於いても越後国を支配、彼女の兄の資永は、その棟梁として保元の乱でも清盛に従って活躍した、検非違使を努めていたこともある北国の親平家豪族の筆頭の家系であったことを言っているものと思われる。そうであるからこそ、その城氏の一族の「俗姓取て恥から」ざる、いや、恥ずかしいどころか、武門の名誉でさえある家柄(但し、寧ろ、親平家豪族であったことが、開幕後は激しくマイナスに働いたが)だから、普通の娘ならば若年より引く手数多であったはずだが、……という謂いであろう。増淵氏の『一般に称する姓氏としては恥ずかしくない』というのは、恰も彼女の婿養子に入ることが前提のような書き方で、私にはよく分からないのである。彼女が若い頃は、城氏と言えば、飛ぶ鳥落す勢いの家系であったれば、凡そ嫁を出す家柄として相手に不足はなかったはずだが……あまりの醜女であったがゆえに……という謂いであろうか。

 

「兄越後守資永」城資永(?~養和元(一一八一)年)助永とも書く。父は城九郎資国。母は「吾妻鏡」には清原武衡の娘とする所伝を載せるが、不詳。城氏一族は十一世紀後半に出羽国から越後国に進出、十二世紀を通じて越後国北部域に勢力を拡げた豪族的武士団。資永はその嫡流で、本拠地は奥山荘(おくやまのしょう:越後国蒲原郡。現在の新潟県胎内市)にあったと考えられている。資永の申請によって治承五(一一八一)年一月、東国の源氏討伐の院宣が下され、信濃国の木曾義仲を討とうとしたが、果たせぬまま病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。

 

「從五位下行」不詳。本来、「下行」とは上位者が下位者に対して米や銭などの物資を与えることを言い、朝廷の官司や幕府・寺社や荘園領主・地頭を問わず用いられ、公務や儀式・仏事・神事を実施するための費用支払をはじめ、下位者の働きに対する給与や食糧支給などに用いらるために実施されたシステムを言う。しかし、ここは官位に附して用いられており、参考にしたウィキ下行」には、『特殊な用法として災害などを理由として租税の損免を行うことも「下行」とも称した』とあるが、ここも租税免除を意味するものか? 識者の御教授を乞うものである。

 

「その先祖は鎭守府將軍平維茂の嫡男繁茂七代の後孫なり。然るに、繁茂、生れてその儘、行方なく失せにけり。……」「平維茂」(生没年不詳)は平安の武将。桓武平氏平国香の次子繁盛の孫。平貞盛の十五男として養子になったので、後に余五将軍とよばれた。従五位上に叙して信濃守・出羽介に任じられて陸奥国を所領本拠とした。自らは鎮守府将軍を称した。「今昔物語集」には藤原秀郷の孫諸任と合戦する維茂の話がある。維茂の子出羽介「繁茂」は、後の越後城氏の祖となった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、長茂・資盛の先祖である出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の話へとシフトする。これはまた、時計が巻き戻って遡る十三年前「吾妻鏡」文治四(一一八八)年九月十四日の条で、囚人であった城長茂が御家人の列に加えられて、頼朝面前に驚天動地のデビューをするシーンに添えられている伝承である。

 

〇原文

十四日丁未。尊南坊僧都定任自熊野參向。是年來給置御本尊。〔大將王像。〕幷御願書。御祈禱積熏修也。二品偏令恃二世悉地給。而城四郎長茂者。爲平家一族。背關東之間。爲囚人所被預置于景時也。是又以定任爲師檀。仍以參上之次。有免許。可被召加御家人之由。頻執申之間。二品被仰可召仕之由。今日定任參御所。被召入簾中。談世上雜事給。御家人等著座侍。〔二行。以東爲上。〕南一座重忠。北一座景時也。爰長茂參入。諸人付目。長七尺男也。著白水干立烏帽子。融二行著座中。參進著横敷。宛簾中於後。自其内。二品御一覽。不被仰是非。定任見此體頗赭面。景時對長茂云。彼所者二品御座間也云々。長茂稱不存知。起座即退出。其後定任不及執申云々。此長茂〔本名資茂。〕者。鎮守府將軍〔余五〕維茂〔貞盛朝臣弟也。〕男。出羽城介繁成七代裔孫也。維茂勇敢不恥上古之間。時人感之。將軍 宣旨以前。押而稱將軍。而以武威雖爲大道。毎日轉讀法華經八軸。毎年一見六十卷〔玄義。文句。止觀。〕一部。亦謁惠心僧都。談往生極樂要須。繁成生而則逐電。乍含悲歎。經四ケ年。依夢想告。搜求之處。於狐塚尋得之。將來于家。其狐令變老翁。忽然來授刀并抽櫛等於嬰兒云。於翁深窓。令養育者。可爲日本國主。於今者。不可至其位云々。嬰兒者則繁成也。長茂繼遺跡。給彼刀于今帶之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日 丁未。尊南坊僧都定任(ぢやうにん)、熊野より參向す。是れ、年來(としごろ)、御本尊〔大將王の像。〕幷びに御願書を給はり置く。御祈禱熏修(くんじいゆ)を積むなり。二品、偏へに二世の悉地(しつち)を恃(たの)ましめ給ふ。而るに城四郎長茂といふ者、平家の一族として、關東に背くの間、囚人(めしうど)と爲り、景時に預け置かるる所なり。是れ又、定任を以つて師檀(しだん)と爲す。仍つて參上するの次でを以つて、免許有りて、御家人に召し加へらる可しの由、頻りに執り申すの間、二品、召し仕ふべきの由を仰せらる。今日、定任、御所に參り、簾中に召し入れられ、世上の雜事を談じ給ふ。御家人等(ら)、侍(さぶらひ)に〔二行、東を以つて上と爲す。〕に著座し、南の一座は重忠、北の一座は景時なり。爰に長茂、參入す。諸人目を付くる、長け七尺の男なり。白の水干に立烏帽子を著け、二行に着座せる中を融(とほ)り、參進して横敷に著き、簾中を後に宛(あ)つ。其の内より、二品御一覽。是非を仰せられず。定任、此の體(てい)を見て、頗る赭面(しやめん)す。景時、長茂に對し云はく、

「彼の所は二品の御座間なり。」

と云々。

長茂、

「存知せず。」

と稱し、座を起ち、即ち退出す。其の後、定任、執し申すに及ばずと云々。

此の長茂〔本名は資茂。〕は、鎮守府將軍〔余五。〕維茂〔貞盛朝臣の弟なり。〕の男、出羽城介繁成が七代の裔孫なり。維茂の勇敢、上古に恥ざるの間、時の人之を感じ、將軍宣旨の以前に、押して將軍と稱す。而して武威を以つて大道と爲すと雖も、毎日法華經八軸を轉讀、毎年六十巻〔玄義・文句・止觀。〕一部を一見す。亦、惠心僧都に謁し、往生極樂の要須(えうしゆ)を談ず。繁成、生まれて則ち、逐電す。悲歎を含み乍ら、四ケ年を經、夢想の告(つげ)に依つて、搜し求むるの處、狐塚(きつねづか)に於いて之を尋ね得、家に將來す。其の狐、老翁に變ぜしめ、忽然として來つて、刀幷びに抽櫛(ぬきぐし)等、を嬰兒に授けて云はく、

「翁が深窓に於いて、養育せめば、日本國の主たるべし。今に於いては、其の位に至るべからず。」

と云々。

嬰兒は則ち繁成なり。長茂、遺跡を繼ぎ、彼の刀を給はりて、今に之を帶すと云々。

 

・「御本尊〔大將王の像。〕」頼朝の持仏。「大將王」は不詳。十二神将の何れかか? 但し、こうした武将の持仏は多くは観音像であった。

・「師檀」長茂は定任を仏道の師と仰ぎ、長茂は定任の檀那(檀家)であったことを言う。

・「悉地」「しつぢ(しっじ)とも読む。梵語“Siddhi”の漢音訳。成就の意で、真言の秘法を修めて成就した悟りの境地を指す。

・「定任、執し申すに及ばず」定任が長茂の推挙を取り消したことをいう。長茂はこの後、文治五(一一八九)年の奥州合戦で景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げて御家人に列せられたのは、前にも見た通り。

・「玄義・文句・止觀」「玄義」法華経の奥深い教義、「文句」は法華経を読み解いた隋代の「法華文句」で固有名詞、「止觀」は天台宗で禅定によって心の動揺を払い、一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして仏法を会得するところの瞑想法である摩訶止観のこと。

・「抽櫛」抜き櫛・挿(さ)し櫛とも言う。頭髪の飾りに挿す櫛。]

耳嚢 巻之六 あら釜新鍋の鐡氣を拔事

 あら釜新鍋の鐡氣を拔事

 

 鍋にても釜にても、其尻へ左のごとく墨にて十字を引(ひき)、其墨の四方とまりへ、西といふ文字を三字づゝ書て用ゆれば、鐡氣出ざる事奇々妙々の由、人の語りぬ。

Kama

□やぶちゃん注

○前項連関:呪(まじな)いシリーズ連関。疣取りから、新品の釜や鍋の鉄気=金気(かなっけ)、金属臭を取り除く方法である。底本には上記のような釜の絵が載るのであるが、これ、訳が分からない。なんじゃこりゃ? である。察するに、鍋の尻、此処の部分に、という意味で鍋を描きながら、その後を描き忘れたという感じか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の、如何にも分かり易い当該の呪いの挿絵を現代語訳の後に載せた。但し、本文には「其墨の四方とまりへ」とあるから、本来なら図の上方(北位置)の「墨の」「とまりへ」も「西」「三字」が恐らくは南位置のそれと真逆で描かれていないとおかしい。

・「出ざる」ママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じであるが、ここは「出づる」でなくてはおかしい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 新釜・新鍋の金気を抜く事

 

 新品の鍋でも釜でも、その尻へ左の如く、墨で十字を引き、その墨の四方の留めの位置へ、西という文字を三字ずつ書いて使用すれば、鉄気(かなっけ)が抜け出ること、これ、信じ難いほどにて、妖しくも奇妙なる事実の由、人が語って御座った。
Kanakenozoki


一言芳談 八十四

   八十四

 

 或云、「比叡(ひえ)の御社に、いつはりて、かんなぎのまねしたる、なま女房の、十禪師の御前にて、夜うち深(ふ)け、人しづまりて後、ていとうていとう、と、鼓(つゞみ)をうちて、心すましたる聲にて、とてもかくても候、なうなう、と、うたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有樣を思ふに、此世の事はとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり、云々。

 

〇比叡の御社、山王權現の事なり。七社の中の大宮二宮を大比叡小比叡といふ。比叡の山ふもとに有り。

〇かんなぎ、巫女と書く。みこの事なり。

〇なま女房、生媚(なまたま)、こびたる義也。

〇なま女房のなまは若の字。(句解)

〇十禪、是も山王七社の第六番目の社なり。

 

[やぶちゃん注:全くの無名人、しかも、恐らくは差別された賤民の女性の言葉が、「一言芳談」のほぼ中間点に突如として出現する。しかし、人間の理智の無効性を剔抉し続けてきた文脈の中、ここに登場する卑賤のホカイビトにして崇高なシャーマンとしても彼女は、正しく「かんなぎ」(巫女)としてのスティグマ(聖痕)を持ったマリアであり、卑小な人智を超越した、聖女の無辺の情=慈悲心のシンボルででもあるかのように私には素直に読めるのである。

「比叡の御社」日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道及び天台宗が融合した神仏習合の神である山王権現で、天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。本邦の天台宗の開祖最澄が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていたことから、帰国した最澄は国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀ったことに始まる。音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、「古事記」には『大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海國の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す』という記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。日枝山(比叡山)の山岳信仰・神道・天台宗が融合した延暦寺の鎮守神が山王権現である。天台宗が日本全国に広まるに連れ、それに併せて鎮守神山王権現を祀る山王社も全国各地に建立され、天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王二十一社に本地仏を定めて山王本地曼荼羅を生み出した(以上はウィキ山王権現」の記載に拠った)。最後の部分の祭祀の拡張についてはⅡの大橋氏注に、『はじめ大宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七社があったが、のちこれに中の七社、下の七社が加えられて二十一社となった』とある。

 大宮(おおみや)は本地は釈迦、

 聖真子(しょうしんし)は宇佐八幡大菩薩で本地は阿弥陀如来、

 客人(まろうど)は白山姫神で本地は十一面観音、

 本話柄に登場する十禅師は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現と見立てたもので、国常立尊(くにのとこたちのみこと)から数えて第十番目の神に当たり、法華経を守護する僧形の春日大明神、本地は地蔵菩薩、

 三宮(さんのみや)は紫雲に乗って法華経を持した女性の姿で本地は普賢菩薩、

とされている。最終的には社内百八社、社外百八社に膨れ上がった(最後の七社は信頼し得る複数の辞書記載を参考にした)。

「かんなぎ」「巫/覡」と書き、古くは「かんなき・かむなぎ」と表記した。神に仕え、神楽を奏して神意を慰めたり、神降ろしをしたりする神職。通常は女性。現在の神子(みこ)の原形。しかし、この部分、「いつはりて、かんなぎのまねしたる、なま女房の」とあるのは、「なま女房の、僞りて巫女の眞似したる」で、格助詞「の」は同格であるから――若い女で、偽って巫女の装束を真似した女で――の謂い。恐らく、女性は一度男に生まれ変わらなければ極楽往生出来ないという変生男子(へんじょうなんし)の発想などによって仏教内にあっても不当に差別されていたから、彼女は誠心の祈願のために、巫女ではないのに、怪しまれないように巫女の格好をして、十禅師の社に、それも人の寝静まった深夜に祈りに参ったのである。

「ていとう」副詞で、鼓を打つ擬音語。

「鼓」ここは小鼓であろう。私は彼女は高い確率で、歌舞音曲に身を売ることを身過ぎとしていた女性芸能者であるように思われる。だからこそ、その巫女の姿や、謠いも上手いのである。

「とてもかくても候、なうなう」「とてもかくても」は「迚も斯くても」で、いずれにせよ、どっちみち、又は、どのようにしてでも、どうあろうと、の意。何れも含意のある謂いであろう。「なうなう」は「喃喃」で、感動詞。呼び掛けの語で、「もしもし」、又は、軽い感動を表すときにいう語で、「ああ」。ここは、

――「もし! 十禅師さま!……もし! 瓊瓊杵尊さま!……何れに致しましても……どのように致しましても……ああっ! 権現さま!……ああっ! 春日大明神さま!……もし! 地蔵菩薩さまよ!……」――

と言ったエクスタシーの祭文である。……暗闇に巫女の白装束……鼓の高いぽんぽんという音(ね)……艶にして妖しい若き女の謠いの響き――

「しひ問はれて」「しひ」は「強ひ」で、巫女に変装した賤女の、意味不明の、祈りに、神人(じにん)などの下級神職が捕えて糾問したのであろう。

「生死無常の有樣を思ふに、此世の事はとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり」生死無常の現世の有り様を感じまするに、この世での我ら、これ、たとえ、どうなっても、一向に構いませぬゆえ、何卒、ただ、只管に――後世をお救い下さいませ――とのみ、申し上げておるので御座います。……]

2013/02/03

一言芳談 八十三

  八十三

 

 禪勝房云く、所詮、淨土門の大意は、往生極樂はやすきことと心得るまでが大事なるなり。やすしと心得つれば、かならずやすかるべきなり。然るを、近代の學生(がきしやう)の異議まちまちなるは、聖教甚深(しやうげうじんしん)なれば邪正わきまへがたし。但(ただし)、上人の仰せには、さしもの事はなかりき。

 

〇やすきことと心得るまでが大事なるなり、他宗の心あれば凡夫の往生がむづかしき事になるなり。愚なる者は、わが身の愚惡に卑下し、心行のつたなきにつきて、往生がむづかしくなるなり。それを思ひ切る時、決定と思へば決定なり。

〇近代、法然上人の御滅後なり。

〇いぎまちまちは、西山・鎭西・深草等の説をいふか。念佛にも觀念・工夫・稱名、義理にも事理、又不二とも説(とく)。これまちまちなり。(句解)

〇上人の仰せ、源空の仰せなり。

〇さしもの事はなかりき、それほど仔細がましき事はなかりしなり。

 

[やぶちゃん注:注はⅡに載って、Ⅰにないもの、Ⅰに載るが明らかにⅠの校訂者森下二郎氏をによって書き換えられたと思われる箇所を補塡・補正した。

「〇いぎまちまちは、……」の注はⅡに拠ったが、そこで「西山」は「靑山」であるのを、大橋氏が誤りとして「靑」の下に『(西)』と補正字を示しておられるものに代えた。浄土宗には法然の弟子鎮西上人の流れを汲み知恩院を本山とする浄土宗鎮西派、同じく法然の弟子西山上人の流れを汲む西山派があり、その西山派は、また、禅林寺(永観堂)を本山とする浄土宗西山禅林寺派と誓願寺を本山とする浄土宗西山深草派の三つがあり、他に、西山派の流れから分派した一遍の時宗、更に親鸞の流れを汲む浄土真宗(現在では西本願寺・東本願寺等、全十一派)がある。ともかくも、ここでは一応、それらの「異議」、法然以降の浄土宗の教学を批判していないが、同時に、いなしているのである。

「聖教甚深なれば」祖師法然の教えが深奥であるため。
「源空」法然。Ⅰはここが『法然上人』となっている。Ⅱに拠った。]

2013/02/02

一言芳談 八十二

   八十二

 

 或云、高野の空阿彌陀佛の、御庵室(ごあんじつ)のしつらひの、びんぎあしげにて、すこし、か樣にしたらばよかりなんと、御たくみありける間、さやうしつらひなさんと申しければ、いやいや、あるべからず、是亦(これまた)、厭離(えんり)のたよりなり、よしと思ひて、心とめては、無益(むやく)なりとぞおほせられける。

 

〇高野の空阿彌陀佛、明遍僧都のことなり。

〇しつらひは、料理の字。(句解)

 

[やぶちゃん注:「御庵室」Ⅱの大橋氏注に、『高野山蓮華谷の蓮華三昧院を指すか』とある。蓮華三昧院(れんげさんまいいん)は五十歳を過ぎてから遁世して高野山に入山した明遍が開創した寺である。

「びんぎあしげにて」「びんぎ」は便宜で、使い勝手がうまくないように感じておられる様子で、の意。

「御たくみ」御思案。

「さやうしつらひなさん」明遍の思案顔を察して、話者であるところの或る人が、「僧都さまのお考えのままに、室内の設えを、お暮らしに不便のなきよう、模様替え致しましょう。」と提案したのである。「句解」の『料理』とは、物事をうまく処理することを言う。

「厭離のたより」「厭離」は「おんり」とも読み、穢れた現世を厭い離れることで、「たより」は、そうした厭離のための手掛かり、頼み、という意。「たより」には実は、対象の造り具合とか、物の配置の意があるので、謂わば、生活の不自由不具合を直さぬことも、これ、穢れた現世を厭い離れる方途としての「配置」である、と言う意も利かせているのかも知れない。

「心とめて」日常生活の暮らし易さなどに執着しては、の意。]

2013/02/01

随分、御機嫌よう

明日早朝、半月リハビリ入院している妻(さい)を甲府の石和温泉まで迎えに行き、笛吹川の上流の温泉に連れてゆく。――では、随分、御機嫌よう――

一言芳談 八十一

   八十一

 

 或人、敬日房(きやうじつばう)に問うて云、稱名は往生の要と知りて、となへ候へども、心には野山(やさん)のことのみ思はれて、口ばかりに唱ふるは、いかゞ候ふべき。答へて云、御房はこれへおはしまさんといふ心にて、立(たち)出であゆませ給ふあひだは、あゆむ足ごとに、これへこれへとばかりおもひ給ふ事、よもあらじ。あらぬことをも思ひてこそ、あゆみ給ひつらめ。されども、あゆむことやまずして、これまでおはしたり。此定(このぢやう)に、極樂に往生せんといふ願をおこして後、彌陀の名號をとなへ給ふ間には、あらぬことをおぼしめすとも、稱名やまずして、命終(いのちをは)るまで行ひ給はば、往生決定なるべし。

 

〇野山のこと、萬(よろづ)の妄念なり。

〇答へて云、此返答のたとへめづらしくしてよくかなひ侍る。智目行足(ちもくぎやうそく)などといふ事もあれば、念佛の行を足にたとふるもいはれあるなり。

 

[やぶちゃん注:「敬日房」Ⅰは『けいにちばう』と振るが、Ⅱ・Ⅲを採った。Ⅱの大橋氏の注に『円海。もと比叡山に住し、のち隆寛律師の弟子となって浄土を学ぶ。弟子に慈信房澄海。著書に』「初心集」がある、と記しておられる。

「此定に」Ⅱ・Ⅲは「このさだめに」と訓じているが、採らない。この「定」は仏教用語の「定め」ではなく、「案の定」と同じで、修飾する語を受けての、その通りであること、を意味するから、このように、の意である。

「智目行足」天台宗の大成者としてしられる「摩訶止観」の作者、隋の智顗(ちぎ 五三八~五九七)が書いたもう一つの名著で妙法蓮華経という題目を注釈した「法華玄義(ほっけげんぎ)」の中に、

 智目行足到淸涼池(智目と行足、淸涼の池に到る)

とある。これは、まことの仏法の「智」の「目」とそれに基づくところの「修行」という「足」さえあれば、清涼なる池(悟りの境地)に到ることが出来るという比喩である(この注は大谷大学公式HPの教員エッセイ「生活の中の仏教用語」の仏教学教授 Robert F. Rhodes 氏の智目行足の記載を参考させて戴いた)。]

★③★北條九代記 巻第三【第3巻】 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇

鎌倉 北條九代記  卷第三

 

      ○改元  城四郎長茂狼藉  城資盛滅亡

  坂額女房武勇

正治三年正月二十二日改元の詔書を關東にくださる。建仁元年と號す。去ぬる三日、京都には朝覲(てうきん)の行幸あり、その行粧(かうさう)きらびやかにして人の目を驚(おどろか)す。春宮(とうぐう)、一の宮も同じく臨幸ましましけり。掃部(かもんの)入道、佐々木定綱、小山朝政(ともまさ)は大番の勤仕(きんじ)として在京致しければ、警蹕(けいひつ)の爲に召供(めしぐ)せらる。各(おのおの)小具足(こぐそく)に小手差(こてさし)して兵伏(ひやうじやう)を帶(たい)す。家子郎從、思ひ思ひに出立(いでた)ち、行列亂らず、鳳輦(ほうれん)の前後に歩(あゆ)ませければ、禁中より仙洞まで道の南方には、見物の諸人、堵(かき)の如し。若(もし)狼藉の者ありて非常の事も出來すべきかとて、辻堅(つじがため)嚴しく置きて、誠に物靜(ものしづか)なる粧(よそほひ)なり。斯る所に、越後國の住人、城(じようの)四郎資國が四男四郎平長茂(たいらのながもち)、俄に軍兵を率して、小山左衞門尉朝政が三條東〔の〕洞院の家を取圍(とりかこ)む。小山は行幸の供奉致しければ、留主(るす)の程(ほど)なり。僅に殘る郎等共、かひがひしく防戰(ふせぎたゝか)ひしに、長茂、引退き、直(すぐ)に仙洞に參りて、四門を閉固(とぢかた)め、關東追伐の宣旨を申し賜るべき由、奏聞(そうもん)すといへども、敢て勅許なかりしかば、長茂、力なく、在番の武士、馳向(はせむか)はん事を恐れて逐電す。佐々木、小山、向ふといへども、早(はや)、其跡を暗(くらま)しめり。關東へ飛脚立てられしかば、すはや、京都に大事起れりとて、鎌倉中の武士等(ら)、上へ下に返したり。制止を加へられしを以て、夜(よ)に入りて靜りぬ。「禁裏、仙洞には偶(たまさか)の行幸、歌詠の御遊(ぎよいう)を妨げ奉るの條、長茂が在所を尋求(たづねもと)めよ」とて、京都畿内の御家人等(ら)に相觸れらる。同三月に、京都の飛脚、鎌倉に参著して申しけるは、「去月二十二日、城四郎長茂竝に一族餘黨、新津(にひつの)四郎以下、吉野の奥にして大衆の爲に討(うた)れて、長茂竝に郎従四人が首級を京都に送りて、大路を渡され、獄門に梟(か)けられし」となり。その場を遁(のが)れし長茂が餘類、城小次郎資家入道、同じき三郎資正、本吉冠者隆衡(もとよしのくわんじやたかひら)も所々にして討れたり。これそこそ珍事なれと思ふ所に、越後國より飛脚到來して、關東に申入れけるは、「城小太郎資盛は城太郎資永が嫡男なり。長茂には甥なりけるが、當國に城を構へ、北陸道の軍兵を招き、叛逆(ほんぎやく)の猛威を振ふ。土佐越後の軍兵等(ら)、是を襲討(おそひう)つといへども、物ともせず、早く討手を下されずは、頗る大事に及び候べき歟」とぞ告げたりける。北條遠江守を初めて、廣元、善信等(ら)評定して、「佐々木三郎兵衞尉盛綱法師西念は古老軍道(こらういぐんだう)の勇士なり。是を大將として、越後國の御家人等(ら)を催し、資盛を誅伐あるべし」とて、上野磯部郷(いそべのがう)に御教書(みけうしよ)を遣(つかは)さる。折節、西念は館(たち)の門外に有て、是を拜見し、内への入(い)らず、馬に鞍置(おか)せて、輕々と打乘り、越後を指して、馳向(はせむか)ふ。郎等、家子(いへのこ)追々に馳(はせ)付きて、楚忽(そこつ)の由を申しければ、西念、打笑ひて、「昔、天慶(てんぎやう)年中に相馬將門(さうまのまさかど)、叛逆(ほんぎやく)の時、宇治の民部卿藤原忠文(たゞぶん)に追討使の宣を賜る。忠文、折節、膳を羞(すゝ)めしが、この宣旨を聞きて箸を抛ち、座を立ちて、参内し、節刀(せつたう)を賜つて、家にも歸らず、直(すぐ)に東國に赴きたりと云ふ。勇士の心ざす所は、是こそ忠勤の道なれや。急げ急げ」とて、駒に鞭を揚げて、三日の間(あひだ)に、越後國小太郎が城廓を構へし鳥坂口(とりさかぐち)に押付(おしつ)け、使を以て、資盛に御(み)教書の趣を觸聞(ふれき)かしむ。資盛は、豫(かねて)より思設(おもひまう)けし事なれば、「是へ御向ひ候へ、一戰を遂げて雌雄を決し候はん」とぞ申し返しける。越後、佐渡、信濃三ヶ國の御家人等(ら)一族郎從、雲霞の如く馳集(はせあつま)る。寄手の大將西念が子息佐々木小三郎、兵衞尉盛季(もりすゑ)[やぶちゃん注:ここ底本では「もりひで」とルビを振るが、後文で「もりすゑ」と正しく振っているので誤りとして訂した。]、先蒐(さきがけ)せんと進む所に、信濃國の住人海野小太郎幸氏、只一騎、盛季が右の脇をかい潜りて馳出(はせい)でたり。盛季が郎等、源五と云ふ者、幸氏が馬の轡(くつばみ)をむずと捕へたり。この間に盛季、先登(せんとう)に進みて、一の箭(や)を射初めける。幸氏、二の矢を放つ程こそありけれ、城の内より、究竟(くつきやう)の兵十七騎、木戸を開きて、打て出でつゝ、散々に相戰(あひたゝか)ふ。寄手、おり重(かさな)りて攻めければ、城兵は手負ひ疵を蒙りて、木戸より内に引入れたり。越後勢、押掛(おしか)けて攻入(せめい)らんとせし所を、城中より雨の如くに射出(いいだ)す矢に、寄手二十六騎、射落(いおと)されて引退く。佐々木盛季、疵を蒙り、そのほか家子郎等共(ども)、痛手薄手(うすで)負はぬものは更になし。然る所に、郷資盛が姨母(をば)坂額御前(はんがくごぜん)とて、女性(によしやう)ながらも、力量、世に勝れ、心、剛(がう)にして、而(しか)も弓は又、百發百中の手利(てきゝ)なり。その出立(いでたち)、童形(どうぎやう)の如くに髪を上げさせ、腹卷を著して、矢倉(やぐら)に上(あが)り、大の矢を打番(うちつが)うて、指詰(さしつめ)々々射出しけるに、この矢先に懸る者、或は胸板を射貫かれ、或は鉢付(はちつけ)の板を裏へ通され、馬を射させ、楯を碎かれ、寄手(よせて)、立足(たつあし)なく、攻口(せめぐち)を引退(ひきしりぞ)く。寄手の中に信濃國の住人藤澤四郎淸親とて大力の強弓(つよゆみ)、精兵(せいひやう)の矢繼早(やつぎばや)あり。この有樣を見て云ふやう、「是程、大勢の軍兵等(ら)、あの女性一人に射立てられ、しどろに亂るゝ事やある。口惜しき事かな。軍(いくさ)散じて後までも、女性の矢前(やさき)に引退きたりと云はれんは、生(いき)ての笑ひ種(ぐさ)、死しての面目(めんぼく)、後代(こうだい)までも失はん、いでいで、味方の軍(いくさ)を進めて參(まゐら)せん」とて、城の後(うしろ)に廻りて、小山の上に驅上(かけあが)り、城中をよくよ見果(みおほ)せ、鋭矢(とがりや)を拔出(ぬきいだ)し、弓に矢番(つが)うて、忘るゝ計(ばかり)、引絞(ひきしぼ)り、拳(こぶし)を固めて、ひようと發(はな)つ。其(その)矢、過(あやま)たず、板額御前の左右の股(もゝ)を貫きて射倒しけり。淸親が郎從十餘人、城塀(へい)を越えて、込入(こみい)りつゝ、姨母(をば)を生虜(いけど)り、閧(とき)の聲を揚げければ、城中には力を落して、寄手は是に色を直(なほ)し、どつと押詰(おしつ)め攻入(せめい)りければ、小太郎資盛、叶はずして、城に火を懸け、腹掻(はらかき)切て死にければ、殘る兵共(つはものども)、思ひ思ひ、落つるもあり、自害するものもあり、軍(いくさ)は既に果てにけり。

[やぶちゃん注:所謂、建仁元・正治三(一二〇一)年正月二十三日から五月にかけて、城長茂ら城氏一族が倒幕を目的として起こした建仁の乱の話柄である。前巻で見たように前年の正治二(一二〇〇)年正月に梶原景時が滅ぼされると、景時の庇護を受けていた城長茂は上洛、京において幕府打倒の兵を挙げ、同時期に本領越後国でも甥の城資盛及び、長茂の妹である坂額御前ら城一族が反乱を起こした、この一連の事件を建仁の乱(若しくは城長茂の乱)と称する。朝覲の行幸及び平長茂が小山朝政の宿舎を襲うシーンは「吾妻鏡」巻十七の建仁元年二月三日・五日。二十二日、三月四日・十二日を、続いて起こった城資盛の反乱と坂額女房の次第は、同巻の建仁元・年四月二日・三日・六日、五月十四日・十七日の記事などに拠るが、作者の創作部分が、

「坂額女房武勇」「坂額」は「はんがく」、「武勇」「ぶよう」とルビを振る。

 まず、幾つかの誤りを「吾妻鏡」建仁元・正治三(一二〇一)年正月二十三日から引用して指摘する。

〇原文

三日甲申。未尅。掃部入道。佐々木左衞門尉定綱。小山左衞門尉朝政。〔爲大番勤仕在京。〕等飛脚參著。申云。去月廿三日。天皇朝覲行幸仙洞。〔二條殿。〕春宮。七條院。一宮同臨幸。爰越後國住人城四郎平長茂〔城四郎助國四男。〕引率軍兵。圍朝政三條東洞院宿廬。朝政供奉行幸留守程也。所殘留之郎從等禦戰之間。長茂引退。即行幸還御以前推參仙洞。閇四門。申可追討關東之宣旨。然而依無勅許。長茂逐電。有淸水坂之由。風聞之間。朝政等雖馳向。不知行方云々。彼使者先到著大官令亭。次參御所。此間。諸人群參。鎌倉中騒動。依被加制止。入夜靜謐云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日甲申。未の尅、掃部入道・佐々木左衞門尉定綱・小山左衛門尉朝政〔大番勤仕の爲、在京す。〕等が飛脚參著し、申して云はく、「去ぬる月廿三日、天皇、仙洞〔二條殿。〕へ朝覲(てうきん)行幸す。春宮・七條院・一宮、同じく臨幸す。爰に越後國住人の城四郎平長茂〔城四郎助國が四男。〕、軍兵を引率し、朝政の三條東洞院の宿盧(しゆくろ)を圍む。朝政、行幸に供奉し留守の程なり。殘留する所の郎從等禦ぎ戰ふの間、長茂、引き退く。即ち行幸還御以前に仙洞へ推參して、四門を閇ぢて、關東を追討すべきの宣旨を申す。然れども、勅許に無き依つて、長茂、逐電し、淸水坂に有るの由、風聞するの間、朝政等、馳せ向ふと雖も行方知れずと云々。

彼の使者、先づ大官令の亭に到著し、次(つい)で御所に參る。此の間、諸人群參し、鎌倉中、騒動す。制止を加へらるに依つて、夜に入りて静謐すと云々。

・「掃部入道」中原親能。

・「大番」京都大番役。鎌倉幕府御家人役の一つで、幕府が守護・有力御家人を通じて召集、主として六波羅探題が統轄して内裏諸門の警備などに当たった。

・「天皇」土御門天皇。未だ満五歳である。

・「仙洞〔二條殿。〕」後鳥羽上皇。

・「春宮」東宮守成親王(後の順徳天皇)。

・「七條院」高倉天皇の妃で鳥羽天皇の生母藤原殖子(しょくし/たねこ)。

・「一宮」「北條九代記」にも出るが不詳。「春宮一宮」で一語と思われない。私の持つ「吾妻鏡」関連書やネット情報でも「一宮」と独立させるも記載がない。増淵氏の訳でも補注がない。建久六(一一九五)年生まれで当時六歳の後鳥羽天皇第一皇女昇子内親王(後に東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となって皇后宮、女院。院号春華門院。中宮九条任子(宜秋門院。九条兼実の娘)所生の唯一の子女)か? 識者の御教授を乞う。

・「大官令」大江広元。

以上から分かるように、本文の次の二箇所は誤りである。

 

「正治三年正月二十二日改元の詔書」の「正月」は「二月」の誤り。

「去ぬる三日、京都には朝覲の行幸あり」自動的に「去ぬる」月も誤りとなり、さらに、この「三日」というのも誤り。前注の補正後の正しい「二月」の前月、正月の二十三日が正しい。「朝覲」は朝覲行幸で、天皇が年の初めに太上天皇・皇太后の宮に行幸して正月の挨拶をすることで、実は多くの場合、本文のように、正月二日又は三、四日に行われた行事ではあったが、吉日を選ぶこともあって一定していなかった。

 

「警蹕」御先払(みさきばらい)。天皇や貴人の通行の際に声を立てて人々を畏まらせ、先払いをすること。また、その「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言った発声の声をも指す。

「小具足」小具足出装(こぐそくいでたち)。鎧下の装束に籠手(こて)・臑当(すねあて)・脇楯(わいだて)のみを着用して、鎧をつけない軽装備の軍装。

「小手差」鎧の付属具の内、肩先から左右の肩先から腕を覆うもの。袋状の布地に鉄金具や鎖を綴じつけてある。前の「小具足」姿に含まれる装備であるが、もしかすると、筆者の江戸前期にあっては、「小具足」と言った場合は、籠手は附けないか、もっと軽装の籠手、例えば手甲(てっこう:紺の布や革で作った手の甲や手首を蔽い保護するもの)であったのかも知れない。ともかくも、この行列の描写は作者のオリジナル部分である。何となく、私には「源氏物語」の一節のような印象を匂わせる。

「兵伏(ひやうじやう)」ママ。恐らくは底本の誤植か、原本の誤字で、「兵仗」、歴史的仮名遣も「ひやうぢやう(ひょうじょう)」で誤りとなる。刀剣弓槍など実戦用の武器や儀仗のこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿(こし)。天皇の晴れの儀式の行幸用の乗物。鳳輿・鸞輿とも呼ぶ。

「城四郎資國が四男四郎平長茂」城長茂(仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)。桓武平氏維茂流城氏の系流。元の名は助職・資職(すけもと)とも。以下、ウィキの「城長茂」などによれば、治承五年(一一八一)年二月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽、家督を継いで、同年六月には兄に代わり、信濃に出兵、資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、長茂は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、一万の大軍を率いていながら、三〇〇〇ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後に奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされた(「玉葉」寿永元年七月一日条)。同年八月十五日、義仲への牽制として、平宗盛によって越後守に任じられたが、九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官や藤原秀衡の陸奥守任官を『天下の恥』『人以つて嗟歎す』と非難している(この頃に助職から長茂と改名)。しかし、翌寿永二(一一八三)年七月の平家都落ちと同時に罷免、結局、越後守としての実体は実現しなかった。その後の経歴は殆んどが不明で、元暦二(一一八五)年の平家滅亡・頼朝の覇権奪取後の、文治四(一一八八年)年前後に囚人として捕えられ、梶原景時に身柄を預けられた。文治五(一一八九)年の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた(この辺りは本作既出の「賴朝卿奥入 付 泰衡滅亡」に詳しい)。ところが頼朝死後の、本作でも詳しく語られた梶原景時の変によって庇護者景時が滅ぼされると、一年後に長茂は軍勢を率いて上洛、ここに見るように京において幕府打倒の兵を挙げ、軍を率いて景時糾弾の首謀者の一人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すよう要求したが、宣旨は得られず、襲った朝政ら幕府軍の追討を受けて、大和吉野にて討死した。享年五十。身長七尺の大男であったとする。

「本吉冠者隆衡」藤原高衡。かの藤原秀衡の四男。兄泰衡は奥州合戦で誅殺されるも、高衡は下河辺行平を通じて降伏、捕虜となった後、鎌倉に護送されて相模国に配流されたが、後に赦免、暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われる(ウィキの「藤原高衡」に拠った)。

「土佐」佐渡の誤り。

「佐々木三郎兵衞尉盛綱法師西念」佐々木盛綱(仁平元(一一五一)年~?)。本文では既出であるが、ここで注する。頼朝直参。近江国佐々木庄を地盤とした宇多源氏佐々木氏棟梁佐々木秀義三男。平治元(一一五九)年の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受けた(当時満八歳)。仁安元(一一六六)年に元服して名を盛綱に改め、十五歳で伊豆に流された義朝遺児頼朝の身辺に仕え、特に「平家物語」にも描かれた、元暦元(一一八四)年十二月、備前国児島で平行盛率いる五百余騎が籠もった城を攻落した藤戸の戦い及びそれを謡曲にした「藤戸」で知られる名将である。開幕後も常に頼朝に近侍し、頼朝死後、建久一〇(一一九九)年に出家して西念と称していた。本件、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられた際には上野国磯部郷にあって満四十八歳であった(以上はウィキの「佐々木盛綱」に拠った)。

「城小太郎資盛」(生没年未詳)は城長茂の兄資永の嫡男。長茂が源頼朝に降伏した後は、資盛は再起を期して越後周辺に潜伏していたと見られる、とウィキの「城資盛」にはある。

「上野國磯部郷」現在の群馬県碓氷郡磯部町。

「御教書」三位以上の公卿又は将軍の命を奉じて、その部下が出した命令書。幕府将軍の場合は関東御教書という。

「楚忽の由」者どもの用意も整わぬ先のあまりに急のお立ちは、失礼乍ら、拙速にては御座いませぬか? の意。

「天慶年中……」新皇を名乗った「相馬將門」=平将門の乱では天慶三(九四〇)年一月十九日に参議藤原忠文が右衛門督・征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立している。但し、藤原忠文(「ただぶみ」とも読む)を晴の出陣の引き合いに出すのは、私にはやや戴けない気がする。何故なら、忠文の事蹟から見ると不吉だからである。実際の忠文は六十八歳の老齢を押して、将門鎮圧のために東国へ向かったが、東国到着前に平貞盛や藤原秀郷らによって既に将門は討伐されてしまい、大納言藤原実頼が彼への嘉賞に反対、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれを不満として辞任を申し出たが許されず、その後、天暦元(九四七)年六月に享年七十五で忠文が没すると、同年十月に実頼娘述子(じゅつし:村上天皇女御。)が、翌十一月には実頼長男敦敏(あつとし)が相次いで死去したため、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利神社が創建されてさえいる御霊でもある。少なくとも、出陣の際の故事としては、やはり戴けないのである。但し、この話柄は「吾妻鏡」の建仁元(一二〇一)年四月六日の条に基づく。以下に示しておく。

〇原文

六日乙酉。晴。入夜。義盛飛脚自上野國歸參。申云。持向御教書於西念之宅折節。西念有門外。乍立拜見之。不能入門内。取所立于門傍之鞍馬乘之。即揚鞭馳向越州云々。郎從等追至于路次。愁楚忽之由。西念云。吾聞。天慶年中。平將門於東國企叛逆之時。以宇治民部卿〔忠文。〕爲追討使。而羞膳之間。聞可有此宣下之旨。戸部抛箸起座。則參内。給節刀之後。不能歸宅。直赴洛外云々。勇士之所志。以之爲善也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日乙酉。晴る。夜に入りて、義盛が飛脚、上野國より歸參す。申して云はく、

「御教書を西念が宅に持ち向ふ。折節、西念門外に有り、立ち乍ら之を拜見、門内に入ること能はず、門の傍らに立つる所の鞍馬(あんめ)を取つて、之に乘り、即ち、鞭を揚げ越州に馳せ向ふ。」と云々。

郎從等、追ひて路次(ろし)に至り、楚忽の由を愁(うれ)ふ。西念云はく、

「吾れ聞く、『天慶(てんぎやう)年中、平將門、東國に於いて叛逆を企つるの時、宇治民部卿〔忠文。〕を以つて追討使と爲す。而るに、膳を羞(すす)むるの間、此の宣下有るきの旨を聞き、戸部(とべ)、箸を抛ちて座を起ち、則ち、參内す。節刀を給はるの後、歸宅に能はず、直(すぐ)に洛外へ赴く。』と云々。勇士の志す所、之を以つて善と爲すなり。」と云々。

・「戸部」は民部卿の唐名。

・「節刀」天皇から出征の将軍や遣唐使に下賜された、任命の印たる太刀。「せちとう」とも呼ぶ。

 

『駒に鞭を揚げて、三日の間に、越後國小太郎が城廓を構へし鳥坂口に押付け、使を以て、資盛に御教書の趣を觸聞かしむ。資盛は、豫より思設けし事なれば、「是へ御向ひ候へ、一戰を遂げて雌雄を決し候はん」とぞ申し返しける。……』以下、ほぼ最後まで「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年五月十四日の条に基づく。

〇原文

十四日癸亥。晴。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道使者參着。捧一封狀。義盛持參御所。善信。行光於御前讀申之。其狀云。日來。城小太郎資盛欲奉謀朝憲。構城郭於越後國鳥坂。近國之際。存忠直之輩。憖雖來襲。還悉以敗北。爰西念可發向之由奉嚴命。件御教書。去月五日到著于西念之住所上野國礒部郷。仍不廻時尅揚鞭。三ケ日之中。馳下鳥坂口。則遣使者於資盛。相觸御教書之趣間。答早可來城邊之由。因茲發勇士等。于時越後。佐渡。信濃三ケ國輩爭鋒競集。西念息子小三郎兵衛尉盛季欲先登之處。信濃國住人海野小太郎幸氏拔於盛季之右方。欲進出。爰盛季郎從取幸氏騎轡。此間。盛季如思進先登射一箭。其後幸氏又進寄。相戰之間被疵。資盛已下賊徒飛矢石不異雨脚。合戰之間。彼及兩時。盛季被疵。郎從等數輩。或殞命。或被疵。又有資盛之姨母之。號之坂額御前。雖爲女性之身。百發百中之藝殆越父兄也。人擧謂奇特。此合戰之日。殊施兵略。如童形令上髮。着腹卷。居矢倉之上射襲致之輩。中之者莫不死。西念郎從又多以爲之被誅。于時信濃國住人藤澤四郎淸親廻城後山。自高所能窺見之發矢。其矢射通件女左右股。即倒之處。淸親郎等生虜。疵及平喩者。可召進之。姨母被疵之後。資盛敗北。出羽城介繁成〔資盛曩祖。〕自野干于之手所相傳之刀。今度合戰之刻紛失云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日癸亥。晴る。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道が使者參著し、一報の狀を捧ぐ。義盛、御所に持參、善信・行光、御前に於いて之を讀み申す。其の状に云はく、

日來(ひごろ)、城小太郎資盛、朝憲(てうけん)を謀り奉らんと欲し、城郭を越後國鳥坂に構へ、近國の際(あひだ)、忠直を存ずるの輩、憖(なまじ)ひに來襲すと雖も、還て悉く以て敗北す。爰に西念、發向すべしの由、嚴命を奉る。件の御教書、去る月五日、西念の住む所、上野國礒部郷に到著す。仍つて時尅を廻らざず、鞭を揚げ、參箇日の中に鳥坂口(とりさかぐち)へ馳せ下る。則ち、使者を資盛に遣はし、御教書の趣きに相ひ觸るるの間、早く、城邊に來るべしの由を答ふ。茲(これ)に因つて、勇士等を發す。時に越後・佐渡・信濃の參箇國の輩、鉾(ほこさき)を爭ひて競ひて集ふ。西念の息子小三郎兵衞尉盛季、先登(せんとう)を欲するの處、信濃國住人、海野小太郎幸氏、盛季が右方に拔きんでて、進み出でんと欲す。爰に盛季の郎從、幸氏の騎の轡(くつばみ)を取る。此の間、盛季思ひのごとく先登に進み、一の箭(や)を射る。其の後、幸氏も又、進み寄つて相ひ戰ふの間、疵を被る。資盛巳下の賊徒、矢石(しせき)を飛ばすこと雨脚(うきやく)に異らず。合戰の間、兩時に及び、盛季が郎從等數輩、或ひは命を殞(おと)し、或ひは疵を被る。又、資盛の姨母(をば)有り。之を坂額御前(はんがくごぜん)と號す。女姓の身たりと雖も、百發百中の藝、殆んど父兄に越ゆるなり。人、擧(こぞ)りて奇特(きどく)と謂ふ。此の合戰の日、殊に兵略を施し、童形(どうぎやう)のごとく、髪を上げしめ、腹卷を著し、矢倉(やぐら)の上に居て、襲ひ致るの輩(ともがら)を射る。これに中(あた)る者死せずといふこと莫し。西念が郎從、又、多く以つて之の爲に誅せらる。時に信濃國の住人藤澤四郎淸親、城の後山に廻り、高所より之を能く見て矢を發(はな)つ。其の矢、件の女の左右の股を射通す。即ち倒るるの處、淸親の郎等が生虜(いけど)る。疵、平愈に及ばば、之を召し進ずべし。姨母が疵を被るの後、資盛、敗北す。出羽城介繁成〔資盛が曩祖(なうそ)。〕、野干(やかん)の手より相傳する所の刀、今度、合戰の刻みに紛失すと云々。

・「鳥坂口」現在の新潟県胎内市羽黒の鳥坂(とっさか)につくられた山砦。

・「西念の息子小三郎兵衞尉盛季」佐々木盛綱の末の方の男子のようである。佐々木系図ではこの盛季以後は、代々野村姓を名乗っているとあり、それは盛季が近江国野村郷を領していたため、という記載が「武家家伝 立原氏にある。盛綱はこの公式戦況報告書で、かなりあからさまな親馬鹿を披露しているのだが、前の出兵の際のエピソードの記録と言い、ちょっと私はやり過ぎで嫌味な感じさえしてくるが、皆さんは如何?

・「海野小太郎幸氏」既出であるが、再注する。「海野小太郎幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。

・「坂額御前」(生没年未詳)資永・長茂らの妹。名は板額・飯角とも表記するが、どうもこの飯角が元の名で、その音「ハンガク」に板額が当てられたものらしい。別に額がのっぺりと広いという意味ではない。彼女については、この直後の「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年六月の二十八日と二十九日の条に意外な(いや、寧ろ成程と思わせるというべきか)展開の後日譚が載り、「北條九代記」もそのために次の一話「坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」を取っている。とってもいいシーンなので続いてお読みあれかし!

・「藤澤四郎淸親」海野幸氏同じく、義仲の嫡男義高(義重)が頼朝の人質となった際に一緒に鎌倉へ下った家臣であったが、義仲敗死後に御家人と認められ人物。幸氏同様、弓の名手として知られた。

・「出羽城介繁成〔資盛が曩祖。〕、野干の手より相傳する所の刀」資盛の先祖である出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の意であるが、この話は、次の「坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」で語られているので、次回のお楽しみ!

 

「先蒐」先駆けに同じい。「蒐」には「狩」の意があるから、おかしくはない。

「指詰々々」「指(さ)し詰め引(ひ)き詰め」。「さす」は矢を弦に番(つが)える意、「ひく」は弓を引き絞る意で、手早く矢を弦につがえて次々と、矢継ぎ早に射るさま。

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »