さびしい人格 (「月に吠える」版)
さびしい人格
さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの祕密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。
わたしの胸は、かよわい病氣したをさな兒の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるへる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、蟲けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。
自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都會の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。
よにもさびしい私の人格が、
おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして、
人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。
[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。現在、本詩篇の第一連の後ろから四行目は「ありとあらゆる人間の生活(らいふ)の中で」と平仮名のルビが振られるものが一般的に知られているし、私も無批判にそう朗読し続けてきたが(しながら実は気障で厭な感じが付き纏っていたのだが)、実はこれは昭和三(一九二八)年三月に第一書房から刊行された「萩原朔太郎詩集」にのみあるルビである。従って、この「生活」は創作時の朔太郎の詩想にあっては、あくまで「せいかつ」と読むべきものであったと考える。向後、本詩を朗読される方は、あくまで「せいかつ」と詠むことをお薦めするものである。]