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2013/02/09

耳嚢 巻之六 奇藥を傳授せし人の事

 奇藥を傳授せし人の事

 

 宗(そう)對馬守家來に仙石主税(ちから)といへる人、朝鮮の勤番に渡海して彼(かの)國に在番せし頃、虎狩ありと聞(きき)て見ん事を好みしに、或る日虎を狩る由、案内にまかせ高き所に錢炮を携居(たづさへゐ)たりしに、虎狩出(かりいだ)され勢ひ猛(まう)に馳(はせ)來りしに、鐡炮を放す間なく飛びかゝりしを、玉を放ち尚(なほ)筒にて打(うち)て虎は殺しけるが、虎の爪(つめ)目へ當りしや、兩眼ともに腫れ上り誠(まこと)盲目ならんとせしを、朝鮮にても、對州の役人右の始末故(ゆゑ)大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに、或貧醫來りて藥を與へけるに、早速快(こころよく)、眼氣(がんき)元へ服しければ大ひに悦び、厚く禮謝して若干の金銀をあたへて、眼藥(がんやく)にかゝる奇法ある事、何卒本國へ土産にしたき間、右法傳授を乞ひけるが、必(かならず)外へ洩(もら)しなと堅く誓ひて傳授せし故、本國へ歸りて、何の眼にても右藥一法を與へしに、快氣する事神(しん)のごとくなり。主税が武術の師に、伊東寸朴とて眞刀(しんたう)流の術をなしけるが、子共とてもなく、主税はしばしば世話になりし故、一生のたつきにもせよかしと右眼藥の法を傳授せしが、寸朴年老(おい)て武州秩父にて身まかりし由。彼寸朴命終(めいしゆう)のころ、厚く世話をなして介抱せし佛師ありけるが、此法寸朴にて絶(たえ)ん事を歎き、彼佛師が深切(しんせつ)にめでゝ、かたく他傳を禁じ傳法なしけるが、佛師彼法を受持し、佛師細工のため上總の濱方へ至りし時、大勢眼の藥をあたへしにいへざるはなし。皆々驚き稱しけるが、或漁父眼を損じ年ごろ歎きけるを、彼藥を與へ快氣しける。殊外(ことのほか)悦びて、何も謝禮なすべきのよすがなしとて、家に傳はる脚氣(かつけ)の奇法を佛師へ禮傳なしけるにぞ、又彼脚氣の藥を拵へ、右病(やま)ふの人へ與へけるに、是も又奇々妙々なりければ、さる醫家にて、俗體にては醫者とも見へずとて佐脇朝運と名乘せ、專ら右兩藥にて所々療治なしける由。當時北組の町與力、島左次右衞門方に寄宿して、とし頃五十歳計(ばかり)の由。左次右衞門え未(いまだ)尋ね候事はなけれども、面白き行(ゆく)たて故、人の語るまゝを享和三年の春、記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:魚の眼取りの民間療法から、多分に民間薬っぽい朝鮮伝来の眼病薬と上総漁師の脚気薬の伝来譚で連関。序でにひょんなことから門外不出の霊薬二品を伝授された仏師が、遂には頭を丸めて医師となったという綺譚であるが、これは古くは神霊神仏を自在に掘り上げる聖が神妙な療治を成した訳で、当たり前と言えば当たり前ではある。恐らく、朝鮮の虎から上総の浜辺へのロケーションの面白さや、それぞれの伝来経路の過程の妙が話柄の主体であろうが(題名が伝授した人であって、された人ではない点で)、明らかに最後、根岸は仏師が医師になったそれをも面白がっている。仏師のテクノクラート化が進んでしまった江戸期にあっては、このような感覚が一般的であったのかも知れない。

・「宗對馬守」宗氏(そうし)は対馬府中藩藩主の家系。府中藩は対馬国(現在の長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(現在の佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名を対馬の地名を取って厳原(いづはら)藩とも呼んだ。ウィキの宗氏によれば惟宗(これむね)氏の支族であったが、室町中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになったという。十二世紀頃、『対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った』。『南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した』。『対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった』。『戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている』。『関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主とな』った、とある。最終記載の享和三(一八〇三)年以前の有意な時間が経過しており、主人公の仏師は五十歳としても最長三十年まで遡っても、それよりも更に前に最初の話柄は設定されているので、この藩主の特定は不能である。

・「朝鮮の勤番」倭館(わかん:中世から近世にかけて李氏朝鮮王朝時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以前は複数箇所に存在したが、江戸期には釜山にのみ置かれて日本側は対馬府中藩がここで外交通商を行った。)に対馬藩から出向した役人。ウィキの「倭館」によれば、この当時の倭館は草梁倭館又は新倭館と呼ばれ、延宝六(一六七八)年に現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、総面積は十万坪もあった(同時期の長崎出島は約四千坪であるから、その二十五倍に相当する大きなものであった)。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋・開市大庁(交易場)・裁判庁・浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。『倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった』。また、享保一二(一七二七)年に雨森芳洲(あめのもりほうしゅう:近江国出身の儒者。中国語・朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通商実務に携わり、朝鮮名を雨森東と言った。)が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時四〇〇人から五〇〇人程度は滞在していたと推定されている、とある。同記載には、慶長一四(一六〇九)年に『締結された己酉条約によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた』とあるが、本話から見ても、この頃にはそうした禁足は緩んでいたものと思われる。しかし、この本来は外出禁止であるところが、虎狩りに出た事故とあっては、これ、やはり、相当にまずいのであろう。だからこそ、「朝鮮にても、對州の役人右の始末故大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに」なのである。わざわざ「朝鮮にても」としたのは、役人があわよくば、藩に知らせずに現地での内々の処理をしようと慌てふためいた印象がある。

・「服しければ」底本は「服」の右に『(復)』と正字を傍注する。

・「眞刀流」神道流(下総国香取の飯篠家直(いいざさいえなお)長威斎の創始とされる室町時代に起こった流派で分派が多い。天真正伝神道流)や新当流(近世に常陸鹿島の塚原卜伝が創始した鹿島新当流。卜伝流)の流れを汲む一派か。「寸朴」という名からは新当流の一派であろう。

・「行(ゆく)たて」「行立」で、事のなりゆき。いきさつ、の意。

・「左次右衞門え未尋ね候事はなけれども」当時、根岸は南町奉行であった。直接の支配ではないものの、町奉行組織の部下である。

・「享和三年の春」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、凡そ一年前のホットな記録である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇薬を伝授した人の事

 

 宗(そうの)対馬守殿の御家来衆に、仙石主税(ちから)と申す御仁が御座って、朝鮮倭館勤番に当たって、渡海して、かの朝鮮国に在番致いて御座った折り、虎狩りがあると聴いて、是非とも狩りの実際を見たいものじゃと思い、ある日のこと、また、虎を狩るとのことなれば、案内(あない)にまかせて同道致し、高き所に鉄砲を携えて潜んで御座った。ところが、虎が狩り出だされて、勢い、猛ったままに、主税殿のあった所へ、これ、まっしぐらに走り込んで参った。有意の距離にて鉄砲を撃つ暇(いとま)も、これなく、あっという間に、虎は主税殿に飛びかかった。されば主税殿、殆んど虎の腹に筒先を突き刺したが如くにして――ズバン!――と一発放ち、なおも、鉄砲の筒をもって何度も何度も打擲(ちょうちゃく)致いたれば、何とか虎を殺して御座ったが、虎の両の手の爪が主税殿の両眼を抉らんとしたものか、両眼ともに腫れ上がり、まっこと、全盲になろうかという由々しきことと相い成って御座ったと申す。

 現地の対馬の役人どもも、この由々しき事態の出来(しゅったい)に、これ、大いに驚き慌てふためき、いろいろと現地の医師なんどを探し求めては療治させたが、これ、一向に効き目がない。――在番の家士が禁足の倭館の外へ出で、しかも、虎に襲われて鉄砲を発砲なし、しかも、両眼を失明するとなっては、これ、藩にも累が及ぶこととも成りかねぬと、これ皆々、途方に暮れて御座ったと申す。

 そんな折り、とある、みすぼらしい朝鮮人の医師が、この噂を聴いて倭館へと訪ねて参り、自ずと調合した薬を主税殿の眼に用いたところ、即座に軽快致し、素人が見ても、眼の充血や曇りも失せて、元通りに復して御座ったゆえ、本人はもとより、倭館の者一同、大いに悦んだと申す。

 さても、主税殿、この医者に厚く礼謝をなして、若干の金銀をも与えた上、徐ろに、

「……眼薬(がんやく)に、このような奇法のある事、これ、本邦にては聴いたことが御座いませぬ。……何卒、本国帰参の土産と致したく存じますればこそ……どうか、この調法、これ、御伝授下さらぬか?」

と切に乞うたところが、

「――必ず――他へ洩らしてはなりませぬぞ。――」

とのことなれば、堅く誓って伝授を受けたと申す。

 さて、主税殿、対馬へと帰って後、誰彼(たれかれ)となく、また、如何なる眼の病いにても、この伝授された薬一包を与えたところが、誰(たれ)にても、何にても、これ快気致すこと、不可思議なる神霊の力の如くで御座ったと申す。

 さても、主税殿の武術の師に、伊東寸朴(すんぼく)と申し、真刀(しんとう)流の剣術の師範が御座ったが、師には老いて後に養い呉るる子供とてもなく、また、主税殿も、何かとこれ、寸朴殿に、しばしば世話になって御座ったゆえ、

「……お師匠さま。……憚りながら、向後の生計(たつき)の一助となさって下され。」

と、かの眼薬の調剤法を伝授致いたと申す。

……そうして、また、時が経って、その後のことじゃ。

 この寸朴、流浪致いて、年老い、武蔵国は秩父にて身罷たと申す。

 ところが、かの寸朴、命終の砌り、厚く世話をなして介抱し呉れた懇意の仏師が御座ったが、

「……この神妙の眼薬の秘法……この身一代にて絶ゆること……まっこと、惜しきことじゃ……」

と歎き呟いたを、その仏師も心より、

「……本(ほん)に、その通りで御座りますのぅ。……」

と、請けごうて御座ったゆえ、

「――固く、他伝は、これ、ならぬぞ。――」

と、仏師へ伝法をなしたと申す。

 かくして、この仏師、かの奇妙の眼薬の調合法を受持致いて後、仏像細工の請いを受け、上総国の海岸地方へ参った折り、漁師町なれば陽の照り返しに、大勢の眼病を訴うる者が御座ったれば、かの眼の薬を施して御座った。すると――これ、治らぬ者は一人としておらぬ。されば、皆々驚き、褒め称えざる者は、これ一人として御座らなんだと申す。

 しかして、ここに、ある漁夫、甚だ眼を悪う致いて、漁にも支障を来たすほどになっておったれば、永年歎いて御座った。そこで仏師が、かの薬を与えたところが、瞬時に快気致いたと申す。

 漁夫はこれを殊の外、悦び、

「……何にも、謝礼致しますに相応しきもの……これ、御座いませぬが……」

と申しつつ、かの漁夫の家に代々伝わると申す脚気(かっけ)快癒の奇法を、この、仏師への礼として伝授致いたと申す。

 さてもまた、この仏師、その脚気の薬を拵えては、また、脚気を病んでおる人へ施して御座った。すると――これもまた、奇々妙々に脚気を全快させたと申す。

 さればこそ、その神妙の眼薬と、神妙の脚気の薬の噂を聴きつけた、さる本物の医師と懇意となり、

「……そのような仏師の俗体にては、これ、医者には見えねば……一つ、法体(ほったい)致すがよろしかろうぞ。……さればこそ、医師らしい号も必要じゃ、の。……うん――佐脇朝運(さわきちょううん)――と申すは、これ、どうじゃ?」

ということと相い成って、

――佐脇朝運

として、専ら、かの二つの薬を以って所々(しょしょ)にて療治をなしておると申す。

 当時の北町奉行所支配の町与力で御座った島左次右衞門方に寄宿しており、見た感じは五十歳ばかりの男と申す。

 左次右衞門は知れる者では御座るが、未だ尋ねみる機会は、これ、御座らねども、何とも、そこに至るまでの経緯(いきさつ)が、如何にも面白う御座ればこそ、以上は、人の語ったままを、享和三年の春に、記し置いたものにて御座る。

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