金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 朝比奈切通 六浦
朝比奈切通 六浦
それより金澤(かなざは)にいたるに、大倉にいでゝ、北條(ほうじやう)の屋敷跡、賴經將軍御代(だい)の館の古跡、賴朝公屋敷跡方(かた)の橋をすぎて、朝比奈(あさひな)の切通(きりどほし)にいたる。この先、侍從(じじう)川をすぎて、照手姫身代(てるてひめみがはり)の觀音あり。鎌倉より切通まで一里、これより金澤へ一里。
〽狂 あさひなの
ちからならねど
たび人も
ひけるかすみを
きりどほしみち
「なんと、此切通(きりとほし)は朝比奈がきりぬいたといふこと、そして、門をもやぶつたといふは力のつよい人。しかし、儂(わし)も六十になるが、筵(むしろ)をやぶることに骨はおれぬから、どうぞ、筵よりか、何處(どこ)ぞの娘の糸立(いとだて)をやぶりたいが、かみさん、お前に娘の糸立があるなら、やぶらせなさい。」
「娘の糸立より、妾(わし)の筵はどうでござる。妾(わし)の筵は、やぶらずとも、もふ、とうからやぶつてござるから、そんなに骨は、おれませぬ。」
六浦(むつうら)をすぎて、金澤の三島明神の社(やしろ)、琵琶島辨才天より東屋(あづまや)といふ見晴らしよき茶屋にいりてあそぶ者、遊山(ゆさん)、蛤採(はまぐりと)りの慰みあり。こゝの庭の生簀(いけす)に、いろいろの魚(さかな)、鰭(ひれ)ふりあそぶ樣(さま)、海の魚(うを)のいきたるは都會(とかい)の人の目にはめづらしく見へたり。
〽狂 いつかはと
まちしねがひも
かなざはの
あづまや
に見る春の
八けい
「さあさあ、お客だよ、お客だよ。奧のお座敷はあいているか。なんでも、うつくしい揃(ぞろ)ひの女中(ちう)方(がた)ばかり。その代(か)はり、そうぞうしいばかりで、たんとの錢(ぜに)もなるまいけれど、よもや、食ひ逃げはあるまい。なんでも、揃ひの着物で、金をつかひそうにはみえても、頭(つぶり)には鼈甲(べつこう)と見せて、今はやりのびいどろだから、その氣でいきなさい。」
[やぶちゃん注:この話柄の前半部と絵の右半分は朝比奈切通の中間点にあった茶屋の様子を活写したものである。朝比奈旧道が実際の街道として機能していた昭和三〇(一九五五)年頃までは、この茶屋はあったやに聞いているが、そうした写真や絵図は見たことがないので非常に貴重な一枚である。
「大倉」鶴岡八幡宮の東の地域、最東は朝比奈切通、南は滑川、北は瑞泉寺一帯までを総称する広域地名であるが、ここはその中でも鎌倉幕府の前期の大蔵幕府が置かれた跡地を指している。現在の清泉女学院小学校のある周辺二〇〇メートル四方が大倉幕府跡に比定されている。
「北條の屋敷跡」「新編鎌倉志卷之七」冒頭にある「寶戒寺幷葛西谷圖」を参照されたい。現在の宝戒寺周辺及びその東方は旧北条高時邸であり、ここを言っているが、この辺りから、実地踏査が行われていないのか、どうも名所旧跡に叙述順序や謂いが微妙におかしい感じを私は受ける。
「賴經將軍御代の館の古跡」これも前の「北條の屋敷跡」と同所。「新編鎌倉志卷之七」冒頭にある「寶戒寺幷葛西谷圖」を参照。「北條屋敷幷賴經以後將軍屋敷跡」とある。
「賴朝公屋敷跡方(かた)の橋」この「賴朝公屋敷」は大倉幕府跡の内、現在の頼朝の墓の下にある本来の頼朝を祀った法華堂跡の南部分の田畑を古く頼朝屋敷と呼称していた。「新編鎌倉志卷之二」冒頭にある「賴朝屋敷」の図を参照されたい。
「この先、侍從川をすぎて……」幾ら何でもこの省略はひどい。一九はこのルートを歩いていないと私は読む。
「鎌倉より切通まで一里」鶴岡八幡宮から朝比奈切通までは凡そ四キロメートルあり、正しい。
「これより金澤へ一里」朝比奈切通から金沢八景まで凡そ四キロメートル弱で、正確である。
「糸立」糸を入れて補強した渋紙。勿論ここは、処女膜の隠喩。
「東屋にいりて……」タイアップ広告部。「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸橋」の注に私が引いた「江戸名所圖會」の「瀨戸橋」の図に、この東屋の活況が窺える。是非ご覧あれ。
「さあさあ、お客だよ、お客だよ。……」以下、東屋の女将さんの台詞と思われるが、なかなか辛辣で慧眼の持主である。もしかすると、この頃、東屋の女将は姐御肌の毒舌の名物女将だったのかも……なんどと想像すると、これ何だか、面白くなってくる。]