一言芳談 八十六
八十六
播磨上人、衣裳を思ひ煩ひて、高野を退出す。大門の辺(ほとり)にて、鹿の冬毛に生ひかはりたるを見て、立ちかへりて住山(ぢゆうせん)、云々。
〇播磨上人、性空か。又播磨の生れにて高野にこもりし人か。
〇決疑抄下云、一切衆生受生時、第八識具衣食住三事如野鹿食草衣皮栖野邊外不尋自無乏。既知因果必然理。勿近諂人門。唯可任天運報。况又捨身命歸佛法、諸天善神擁護、除諸災難令福祐自在。故云無貧三寶也。
〇鹿の毛を見てとは、古語に、僧は野鹿のごとし、貧三寶なしと云(いへ)り。もしはこれらの文を、おもひあはされける哉(や)。(句解)
[やぶちゃん注:「播磨上人」不詳。標註の「性空」(?~寛弘四(一〇〇七)年)は現在の姫路市にある天台宗書写山円教(えんきょう)寺の開山として知られる平安中期の僧。当初は日向霧島山や筑前背振山などで修験道を修したが、後に書写山に移り、寛和元(九八五)年に国司藤原季孝の助力を得て法華堂を建立、翌年来山した花山法皇に御願寺の請願をなし、永延元(九八七)年に許されて円教寺を開創。花山法皇以外にも具平親王・源信・寂照(大江定基)・和泉式部といった人物が結縁を求めて訪れ、貴族社会の大きな関心を集めた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。源信との接点はあるが、高野でのこのような事蹟は確認出来ない。また何よりもここまでの「一言芳談」の話者で、法然を遙かに越えて過去に遡るケースはなく、彼とは思われない。大橋氏はⅡの注で、『法然上人の弟子播磨の信寂房かも知れない』とする。この人物は法然入寂の、その建暦二(一二一二)年の高弁がによる「摧邪輪(ざいじゃりん)」及び翌年の続篇「摧邪輪荘厳記」によって「選択本願念仏集」を論難したのに対し、「慧命義」を著わして反駁した高弟で、彼なら文脈からも本話に相応しい。
「衣裳を思ひ煩ひて」寒気の厳しい(現在でも一月の平均気温は摂氏マイナス五度の氷点下)冬の高野山を考えると、冬物の衣類がなく心細くなって。
「大門」表参道の入口に当たる高野山一山の総門。現在の九度山町にある慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となるが、開創当時は現在の位置から五〇〇メートル程下の九折谷の谷底に、木の鳥居としてあった。現在のものは宝永二(一七〇五)年の再建になるもの。
「住山」そのまま高野に戻った。
「決疑抄下云……」をⅠの訓点を参考に私なりの読みで書き下す。
「決疑抄下」に云はく、『一切衆生受生の時、第八識に衣食住の三事を具すること、野鹿(やろく)の草を食(は)み、皮を衣(き)、野邊を栖かとして、外、尋ねずして自(おのづ)から乏しきこと無きがごとし。既に因果必然の理を知る。諂(へつら)ふ人の門に近づくこと勿れ。唯だ天運の報い任すべし。况んや又、身命を捨て、佛法に歸すれば、諸天善神、擁護して、諸災難を除き、福祐自在ならしむ。故に貧しき三寶無しと云ふなり』と。
但し、この「決疑抄」とは、元天台僧である公胤(こういん 久安元(一一四五)年~建保四(一二一六)年)が建久九(一一九八)年の法然の「選択本願念仏集」に対し、これを論難した「浄土決疑抄」のことと思われ、引用書としてはやや異色である。但し、公胤後に法然に会って法門を聞くに及んで俄然、念仏に帰依したとされるので奇異ではない。なお彼は村上源氏出身で、父は中院右少将源憲俊、俊寛は従兄弟、園城寺(三井寺)に入って叔父行顕に天台・密教を学び、阿闍梨となり、寿永二(一一八三)年には律師に任じられている。で後鳥羽上皇の信望も厚く、また、幕府将軍家の深い帰依を受けて度々鎌倉に下向、後には北条政子の願いで頼家遺児の公暁を弟子として預かってもいる(以上は主にウィキの「公胤」に拠った)。]

