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2013/02/15

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 瑞泉寺 天台山

   瑞泉寺 天台山

 

大塔(とう)の宮の土(つち)の牢(らう)は、二階堂村の山際にあり。二階堂は永福寺(ゑいふくじ)の跡、礎(いしずへ)ばかり、のこれり。瑞泉寺(ずいせんじ)は、土の牢の東北(ひがしきた)にあり、錦屏山(きんびやうさん)といふ。本尊、釋尊。一覽亭の跡、この山上、座禪窟(ざぜんくつ)の上にあり。天台山(てんだいさん)は、一覽亭の北の山をいふ。高山(こうざん)なり。

〽狂 見と

 れつゝ

人はうご

   かぬ

ざぜんくつ

にほんいちらん

 ていのけしきに

旅人

「さては、こゝは昔、大塔の宮さまの土の牢か、こんな所にはいつてござつて、御窮窟であつたらう。儂(わし)がわかい時、ふとしたことから、おこつて、座敷牢へいれられたことがあつたが、それでも親といふものは、ありがたいもので、

『あれが獨りでさみしからう』と女(おんな)を一人くれたから、ほかに所在(しよざい)はなし、それから夜晝、子をこしらへることにばかりかゝつてゐて、毎年、うませたものだから、子がふへると、親父(おやぢ)がまた、

『あの子が不憫な。座敷牢がせまからう』

といつて、路地(ろじ)の隅に小屋をかけて、皆(みな)、そこへやられて、皆、そこで、その子どもをそだてるに、だんだん子どもが大きくなつて、後には路地へはひだして、そこらぢうへたれるものだから、長屋の奴等(やつら)が、小言(こゞと)をいふには、

『いまいましい。この頃は、溝板(どぶいた)の上が人間の糞(くそ)だらけで、ふんづけるにこまる。いつそのこと、あの子どもを炭俵(すみだわら)へでもいれて、すてゝしまへ』

と、ある晩に長屋の奴が二人、頰被(ほうかぶ)りして、子どもすてやうと、そこらをまごついたものだから、子どもが見つけて、強氣(がうぎ)にほへるから、

『だれかきたそうな。泥棒(どろぼう)ではないか』

と、儂が小屋から、ぬつと出たら、

『そりやこそ、親犬(おやいぬ)が提燈(てうちん)もつて出てきたは』

とにげたから、おかしかつた。」

[やぶちゃん注:「天台山」の「台」の表記は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」に拠った。

「大塔の宮の土の牢」「大塔の宮」は後醍醐天皇の皇子護良(もりよし/もりなが)親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年)のこと。天台座主であったが元弘の乱(元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が起こした二度目の鎌倉幕府討幕運動)が起きると還俗して参戦する。以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐・村上義光らとともに十津川・吉野・高野山などを転々としながら二年に亙って幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼしたりしたが、当初から足利尊氏と関係が悪く、討幕後の建武の新政で征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたものの、尊氏は勿論、父後醍醐(この不和は討幕戦の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まるとされる)やその寵姫阿野廉子とも反目して、遂には尊氏暗殺のために兵を募り辻斬りを働いたりした。その結果、征夷大将軍を解任、更に建武元(一三三四)年冬には皇位簒奪を企てたとして父の意を受けた名和長年・結城親光らによって捕らえられ、鎌倉へ護送、鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟直義の監視下に置かれた(この皇位簒奪疑惑は現在では濡れ衣であったと考えられている)。翌年、北条時行による中先代の乱が起きた際、一時的に関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、二階堂ヶ谷にあった東光寺に幽閉されていた護良親王が、万一、時行に奉じられた不都合を警戒した直義が家臣の淵辺義博に殺害させた(以上はウィキの「護良親王」に拠った)。「新編鎌倉志卷之二」に既に、

大塔宮土籠 大塔宮(おほたふのみや)の土籠(つちのろう)は、覺園寺の東南、二階堂村の山の麓に有り。二段の石窟なり。内は八疊敷ばかりもあり。

とあり、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されてはいる。しかし、古記録では土牢は登場せず、あくまで屋敷内への軟禁であったと思われ、「鎌倉攬勝考卷之七」でも植田孟縉は、土牢説を『妄説』として退けており、この「復元」された土牢も、郷土史研究家の間では頗る付きで評判が悪い、ということだけは、付け加えておきたい。

「永福寺(ゑいふくじ)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「えうふくじ」とルビし、現在の廃寺の呼称でも「ようふくじ」である。

「錦屏山(きんびやうさん)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「きんへいざん」とルビし、現在の呼称でも「きんぺいざん」である。

「所在はなし」「所在無し」は、することがなくて退屈、手持ちぶさただ、の意。どうもしかし、この冗談は如何にも変なシチュエーションで、私は生理的に何だか不快で、笑えない、「おかし」くない、寧ろ、いやな話である。]

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