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2013/02/23

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 佐竹天王・本覺寺

  佐竹天王・本覺寺

 

 由井の濱、鳥居の内(うち)にいりて、閻魔川(ゑんまがは)をわたり、身替(みがはり)地藏、辻(つじ)の藥師、逆(さか)川の橋をうちわたり、大町佐竹天王(さたけてんわう)の宮(みや)にいたる。それより大巧寺(きやうじ)、本覺寺(ほんかくじ)にゆきて、中の鳥居前、琵琶橋(びわばし)にいづるなり。

〽狂 旅(たび)はうき身

    がはり地藏(ぢぞう)

 ふしおがむこれも

   他生(たせう)のゑんま

            川かな

「そなたを駕寵(かご)にのせずにあるかするも、我(われ)ら了見(りやうけん)あつてのことだから、大儀であらうけれど、精だしてあるいてください。晩の泊(とま)りに鹽梅(あんばい)のよい處(ところ)を賞翫(せうぐはん)いたすのが、我ら、何より、それが樂しみだ。」

「さやうなら、妾(わたし)は精だしてあるきませうが、貴方(あなた)はお駕籠にめしませ。あまりおくたびれなされたら、晩のお役(やく)にたちますまい。」

「氣遣(づか)いしやるな。こんなことでくたびれることではない。儂(わし)のあるくのは、兩足を擂粉木(すりこぎ)にいたそうと思つての事だ。そうなると、一本の擂粉木が三本になるから、そなたは、さぞ、うれしからう。どうだ、どうだ。」

「旦那さまの擂粉木は、當(あ)てがあるから、よろしふござりますが、つまらぬは、妾(わたくし)の擂粉木でござります。まづ、腰にさした二本の擂粉木と兩足から、都合(つがう)、五本の擂粉木に、お駕籠の衆(しゆう)の擂粉木が二人で六本、それに、兩掛持(りやうがけも)ちの可内(べくない)が擂粉木三本、都合(つがう)、しめて十四本。皆、不用(ふよう)の擂粉木。この致し方(かた)がござりませぬ。なんと、旦那さま、これは、いかゞいたしませう。」

「それは、こうするがよい。來春、大和廻(やまとめぐ)りにゆくから、それまで、まつがよい。その時、その擂粉木は皆(みな)、高野(かうや)へでもおさめてしまうが、よからう、よかろう。」

「これから金澤へいつて網をひかせて、おもいれ、魚(さかな)をとつて、皆の者にも、うまい酒を一杯づゝのませよう。なんと、うれしいか、うれしいか。そのかはり、二杯とは、ならぬぞ。」

[やぶちゃん注:「佐竹天王」は現在の大町にある「お天王さん」の愛称で親しまれている鎮守、八雲神社のこと。後三年の役の際、新羅三郎義光が兄八幡太郎義家の助勢のために奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄ったが、疫病が流行っていたため、京の祇園八坂社の祭神を勧請したのが始まりと伝えられる。室町期には前出の名越にあったとされる佐竹屋敷の祠が合祀されて「佐竹天王」とも称され、江戸期には将軍より朱印が下賜されて、鎌倉祇園社となり、「祇園さま」として尊崇された。明治維新を迎えて八雲神社と改称、明治四四(一九一一)年に大町の村内にある上諏訪・下諏訪・神明・古八幡の四社をも合祀している。神輿四基があり、その内の一つを佐竹天王と称しており、七月の神幸祭の神輿渡御では担ぎながら天王歌を唄うと、白井永二編「鎌倉事典」にある。

「閻魔川」滑川の河口付近での呼称。閻魔堂川とも。現在の円応寺の前身である荒井閻魔堂がかつて川の近くに在ったことによる。現在の山ノ内小袋坂上に移転したのは元禄一六(一七〇三)年の震災による大破後であるから、本書の頃には既に荒井閻魔堂はなかった。

「身替地藏」延命寺の曰くつきの裸地蔵。「新編鎌倉志卷之七」に、

延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈せ、厨子に入、衣(きぬ)を著せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六(すごろく)を爭ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

とあり、編者は光圀の意を汲んで、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと激しい不快感を示して吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らく、この秘所を参拝者に見せることが、割に日常的に行われていたと思われる。現在、okado氏のブログ「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。但し、「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺(にしきでら)町の璉城寺(れんじょう)の光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。それにしてもこれは、一九にとっては絶好の好色ネタにぴったりなのに、全く言及していないのは解せない。後段の艶笑話にも全く影も形ない。一九はこの絶妙の「下ネタ地蔵」を実見しておらず、もしかすると、そのきわどい話も実はよく知らなかったのかも知れない(狂歌で本地蔵を読み込んではいるが、これは一般的な意味での身代わり地蔵の意でしか「身替り」の意を採っていないことは明白)。知っていれば、一九先生、絶好の御当地エロ話として餌食にしなかったはずがないのである。

「逆川」鎌倉一」に、

逆川 名越切通邊より流出て、西の方へ流るゝゆへ逆川と唱ふ。大町の境へ出て、閻魔堂川に合して南流す。

とある。現在の大町四ツ角から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に逆川橋が架橋されているが、この逆川(さかがわ/さかさがわ:現在は後者の呼称が一般的)という名は、この滑川の支流が、地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向(現在は距離にして五〇メートル弱。「鎌倉攬勝考卷之一」の「西の方」というのはこの川の流れる方向としては正しいが、それが「逆川」の由来というのは実は不審である。あえて言うならこの逆橋からは寧ろ北北東に流れが急変すると言える)に流れているために付けられたものである。

「兩掛」は旅行用の行李(こうり)の一種で、挟箱(はさみばこ)又は小形の葛籠(つづら)に衣服や調度品を入れて、棒の両端にかけ、天秤棒で担いだり、二つの荷物を紐で結んで胸と背に振り分けて持った体裁のものを言う。

「可内」武家の下男の通称。「可(べく)」の字は、元来、文中で漢文表現して「可申候(まうすべくさふらふ)」等と必ず上に置く返読文字であったが、それを「無(な)い」で否定して、上に就かない、必ず下に付くの意としたものを「甚内」などの人名に擬えて「内」の字を当てたものである。

「「おもいれ」副詞「思入れ」で、思いっきりの意。]

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