一言芳談 九十六
九十六
同上人云、今度(こんど)、法印御房を見たてまつるに、日來(ひごろ)の所存をかへたるなり。させる事もなかりける事を、樣(やう)がましく思ひけるなり。誠にほれぼれと念佛するには不如(しかず)と云々。
〇法印御房、明禪法印なるべし。
〇日來(ひごろ)の所存をかへたるなり、日比かの法印の行はさぞめづらしき事ならんとおもひつるに、つきそひてみれば、たゞうちかたぶきて念佛せらるゝばかりなり。さらに奥ふかき樣子もなし。かねての推量にはたがひてあるなり。
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、ここまでの「一言芳談」を読まずに読むと、誤釈される方もあろうかと思われるので、私なりに「標注」を援用しながら現代語訳したい。
――敬仏上人が言われた。
「拙僧は今度(こんど)、初めて明禅法印を見奉ったが、その法印の念仏の有り様(よう)を拝見致いたによって、拙僧、日頃よりの『念仏するということ』に就き、心に思うて御座ったことを、これ、全く変えるに至ったのである。
拙僧は、実は日頃より、
『かの明禅法印の念仏の行は、これ、さぞかし凡百の僧のそれとはうって変わって、珍しくも貴きものにてあるに違いない。』
と思うて御座った。ところが、いざ、法印に付き添うて、ともに念仏を致いてみたところが――
――法印は、ただ――普通に――自然に――俯いて――静かに――優しく――念仏なさるばかりで御座った……。
その瞬間、拙僧は悟った。
……今までは、これといって声を大にして言うべきことにてもあらぬような、ごくごく当たり前のこと――しかし、しかもそれが〈誠〉である――を、如何にも取り立てて特別に奥深きことででもあるかのように――しかし、そう感ずることによってその〈誠〉からは遠く遠く離れてある――思い込んでいたのであった――ということを。……
……そうして、まっこと、己れ自身、弥陀の慈悲に心からうたれて、うっとりとしながら、念仏を致すに、これ、若はない――ということを、な。……」
と。]