金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 由比濱
由比濱
この邊り、すべて由井(ゆゐ)の濱(はま)といふ。こゝに八幡宮の大鳥居あり。御本社まで、この所より十八丁あり。昔、新田義貞(につたよしさだ)、相模入道をほろぼしける時、稻村が崎の海をわたりたりといふ。七里の濱とこの由井の濱の間(あいだ)なり。つねに漁師(れうし)、この所にて網をひき、漁(りやう)をなすところにて、皆、漁師のみ軒をならべて、生業(すぎわい)をなす濱なり。
〽狂 そりたての
あをさか
やきと
見ゆるかな
なみたいらけき
かみゆいの
はま
「なんと、この海といふものは、たいそうなものさ。世界中でとる魚(さかな)も大きなことだが、つきるといふことは、ない。海も大きいが、魚にも大そうなものがある。儂(わし)が金毘羅(こんぴら)へいつた時、肥前の船が、
『先へはゆかれぬ。これは、とんだ所へきあはせた』
と船頭がいふから、
『なぜだ』
ときいたら、
『あの向かふを見なさい、海が一面に眞つ黑になつたは、今度、肥前五島浦(ひぜんごとうのうら)の鯨(くじら)の所から、熊野浦(きまのうら)の鯨の所へ嫁入りがゆく、その行列で、長さが三十間も五十間もある鯨が、幾らも、幾らも、つゞいてとほることだから、この間(あいだ)から、毎日、船の往來がとまつたといふことだ』
といふ。わしも船端(ふなばた)へ出て見たら、むかふの海の中がまつ黑になつて、大きな鯨が、ぞろぞろとならんでとほつたが、先(さき)へいつた鯨が、
『どうだ、後(あと)の鯨が埒(らち)があかぬ。はやく、こぬか。なにをしているのだ』
と、その鯨が、後(あと)へふりかへつて見たばつかりで、其処(そこ)にいた小船(こぶね)が三艘(ぞう)ばかり、どこへか、はねとばされて、なくなつたから、儂の船もそろそろ、脇へにげましたが、あんなめづらしい事は滅多に、ござるまい。」
「なにさ。鯨がそんなにめづらしいものか。儂が此間(あいだ)、江戸の麹町(かうじまち)で大きな鯨を見ました。手足(てあし)をしばつて大道(だいどう)へほふり出してあつたが、たいそうな物ものであつた。」
「なにをいふ。鯨に手足があるものか。」
「あるとも、あるとも。貴樣のいふは海の鯨、儂のいふのは、山鯨(やまくじら)でござる。」
[やぶちゃん注:「十八丁」約一九〇〇メートル。現在の直線距離実測で約一六〇〇メートルでやや短いが、この場合の「この所」とは当時はこの大鳥居(三の鳥居。現在の一の鳥居)の直近に広がっていた由比ヶ浜からを広義に起点としていると考えれば、逆に正しい。]
「そりたての あをさかやきと 見ゆるかな なみたいらけき かみゆいのはま」鶴岡氏は、
そりたての あをさかゆきと 見ゆるかな なみたいらけき なみゆいのはま
と判読しておられるが、これでは意味が採れないように私には思われる。この狂歌の眼目は浜の名称である「由比(ゆひ)」を「髪結(かみゆ)ひ」に掛けて、その内海の穏やかな紺碧の風情を、剃りたての月代(さかやき)の青さに譬えたところにあると私は読む。
「山鯨」猪のこと。肉の食感が鯨肉に似ていることに由来するが、「薬食い」と同様、獣肉食の禁忌を犯すために(この時代に鯨は哺乳類として認識されていないので問題がない)、世間を憚って隠語でかく呼んだ。……私には不思議な記憶がある……恐らく三才位の記憶だ……私は左肩関節の結核性カリエスを患っていた。母と一緒に新宿の東京女子医大に通っていた。駅から病院へは飲屋街の路地を抜けて行くのであったが、そんなある日、朝のそこを通ると、飲み屋の前に、大きな死んだ、手足を縛られた猪がまるまる一匹、横たえられていた。――私は実は豚や猪が、今も大好きだ。動物としても、また無論、食材としてもであるが――私は近づいてゆく……そうして……その冷たくなった猪の腹のお尻の辺りを……指で突いている……その俯瞰のショットと同時に……その「近づいてくる三才の少年の私」と……その「背後に微笑んで立っている二十九の若い美しい母」とを……道路からアオった映像も同時に蘇るのだ――この話は亡き母が、よく私との思い出として語っていたものだったから――私の記憶が操作されてそうした映像演出がなされているのであろうか……でも……もしかすると……「手足をしばつて大道へほふり出してあつた」、あの哀れな猪は――実は私だった――のかも知れない……ねえ、母さん?――]