一言芳談 九十三
九十三
或云、乞食修行の次(ついで)に、我執名聞(がしうみやうもん)を遁れて、心靜かに後世のつとめをもし、終(おはり)をも取りつべき依所(えしよ)、便宜(びんぎ)の得失などを、かねてよくよく思慮し、見さだめて置くべきなり。後世のこゝろなきものは、この案がなきなり。
〇乞食修行、乞食と佛と説(とき)玉ふ。沙門は頭陀行(ずだぎやう)をするが第一也。我執おのづからやむべき也。(句解)
[やぶちゃん注:Ⅰでは「便宜」に「べんぎ」と振るが、Ⅲを採った。Ⅱ・Ⅲは「依所(ところによつて)」と訓じているが、文脈から自然なⅠを採った。また、Ⅰは「思慮」を「思量」とするが、Ⅱは明らかに「慮」でルビも「しりよ」とあり、Ⅱ・Ⅲを採った。
「乞食修行」托鉢のこと。頭陀行・行乞(ぎょうこつ)とも呼ぶ。僧尼が修行のために経を唱えながら各戸の前に立って食物や金銭を鉢に受けて回ることで、本来は、生活のためのプラグマティクなものではなく、結果としては修行生活に必要最低限度の(即ち、生命維持のためのみという厳密な条件下で)食糧などを乞い受けることになるものの、あくまで信者に功徳を積ませることを主体とした修行者の修行の一形態であった。元はサンスクリット語のピンダパータで、インドの正当にして崇高な修行者が托鉢によって食物を得たことに由来する(「托鉢」という語は中国で宋代から用いられるようになった)。現代の日本では主に禅宗や普化(ふけ)宗などで修行の一つとして実施されているが、一部参考にしたウィキの「托鉢」には、明治五(一八七二)年十一月に托鉢の禁令(教部省第二十五号達)が出され、明治一四(一八八一)年八月には解禁(内務省布達甲第八号)されたものの、『管長の免許証の携帯が義務付けられた。この托鉢免許証の携帯義務の規定は『日本国憲法施行で信教の自由と政教分離が定められたため廃された。しかし、現在においてもほとんどの宗派が、托鉢の鑑札(許可証)、または、問い合わせの際に回答できるよう僧籍番号と届出の一覧制度を持っており、疑義ある場合は問い合わせが可能である』とあり、『現在の托鉢には、集団で自派の檀家の家々(近隣に限らない)を訪問する形態(門付け。かどづけ、と読む。)と、個人で寺院の門前や往来の激しい交差点など公道で直立して移動せずに喜捨を乞う形態(辻立ち。つじだち、と読む。)がある』。『このように日本の仏教における托鉢が本来の目的から外れるようになったのは、日本を含む東アジアに広まった大乗仏教では上座部仏教とは異なり物品の所有を禁止しておらず、その結果として寺院が寄進された荘園等を運営し、その小作料等で寺院を維持する事が可能となったため、維持を目的とした托鉢を行う必要がなくなったからである』と実にプラグマティクに解説してくれている。
「終をも取りつべき依所」臨終即ち極楽往生を遂げるに最も相応しい場所。
「便宜の得失」その時と場所が極楽往生を遂げるに最も相応しい好機であるかどうかという見定め。得失とは損得の意ではなく、成功と失敗の意、極楽往生を速やかに心静かに行えるか行えないかという意であろう。
「この案」前文総てを指す。こうした単純唯一の、欣求浄土する者の基本的な考え方。]