金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 佐助稻荷 岩屋堂
佐助稻荷 岩屋堂
それより佐々目谷(さゝめがだに)、今小路(いまかうじ)をすぎて、右の方に天狗堂あり。左の方(かた)に巽(たつみ)の荒神(くわうしん)。勝(かつ)が橋(ばし)をわたりて、左の方には佐助稻荷の宮、右の方へゆけば岩屋堂、松源寺(しやうげんじ)、淨光明寺(じやうくわうめうじ)、いたつて大寺(てら)にて、境内ひろく、見處(どころ)おほし。
〽狂 名(な)どころは
きびつの
銕にあらね
とも
なりひゞき
たる
かま
くらのさと
「儂(わし)は、このやうに身をやつしてあるきますが、儂はこれでも敵討(かたきうち)でござる。儂が嗅(かゝあ)を朋輩(ほうはい)の男奴(をとこめ)が、つれてにげたから、その女敵(めかたき)をうたねば、國へかへられぬから、それで、このやうに姿をやつしてあるきますが、先(さき)の男は儂よりかよつぽどつよい男だから、ひよつとめぐりあつたところで、儂が返討(かへりうち)になつてはつまらぬから、どうぞ、めぐりあはぬやうにおもつて、敵(かたき)は西國(さいこく)にをるといふことをきいたから、それで儂は、わざと東國(とうごく)をたづねてあるくが、それでも、どうも心遣(こゝろつか)ひで、ひよつと、どういふことで、その敵にあふまいものでもない、とおもつたが、昨日(きのう)、國の者に途中であつてきいたら、その敵の男は、この頃、天竺(てんぢく)の四日市(よつかいち)へひつこしたといふことだから、それをきいて、やうやう心がおちついたから、うれしい。」
「そんなら、その男ばかり天竺へひつこして、女は東海道の岡崎(をかさき)にゐると見へるな。何故といふに、貴樣、女敵討ちなら、岡崎の女郎に違ひはない。はて、女敵女郎衆(しゆ)はよい女郎衆といふから。」
[やぶちゃん注:「佐々目谷(さゝめがだに)」「ささめがやつ」が正しい。佐助ヶ谷と長谷の間に位置する。
「今小路」寿福寺門前にある勝ヶ橋から南へ向かう道の巽荒神までの部分を呼称する。
「天狗堂」現在、佐助ヶ谷の東側の丘陵の南端付近を天狗堂山(てんぐどうやま)と呼ぶが、古くは愛宕神社が祀られていたと伝えられるが、「新編鎌倉志卷之五」で既に『昔し愛宕の社(やしろ)ありけるとなり』となっているから、これは単なる丘陵の出崎の名である。
「松源寺」現在の窟不動の東にあった真言宗の寺院であるが、廃寺で現存しない。「新編鎌倉志卷之四」には、
〇松源寺 松源寺(せうげんじ)は、日金山(にちきんさん)と號す。銕(てつ)觀音の西、巖窟堂(いはやだう)の山の中壇にあり。本尊は地藏、運慶が作。相傳ふ、賴朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金に祈つて、我、世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。
とある、この松源寺は鶴岡八幡宮寺社僧の荼毘所であったと伝えられており、明治の廃仏毀釈までは存在したことが知られている。この地蔵はその後、各地を転々とした末、昭和初期に横須賀にある東漸寺に安置され、現在に伝わる。地蔵胎内墨書銘によって寛正三(一四六二)年、仏師宗円による造立であることが分かっている。「伊豆日金」とは現在の静岡県熱海市伊豆山にある走湯権現日光山東光寺のこと。
「名どころはきびつの銕にあらねともなりひゞきたるかまくらのさと」分かり易く書き直すと、
名所は吉備津の銕(てつ)にあらねども鳴り響きたる鎌倉の里
で、ここは釜鳴神事で知られる吉備津の釜に、鎌倉の「かま」を掛け、「鳴り響く」を引き出し、更に当時、釜の素材である鉄の産地としても知られた吉備津の「銕」=鉄を謂い、狂言の「鐘の音」の鎌倉の梵鐘を利かせて「鳴り響く」に二重に掛けているものと思われる。
「天竺」は先の「西國」に洒落たもの謂いであろう。
「そんなら、その男ばかり天竺へひつこして、女は東海道の岡崎にゐると見へるな。何故といふに、貴樣、女敵討ちなら、岡崎の女郎に違ひはない。はて、女敵女郎衆はよい女郎衆といふから」の部分は、江戸期に流行った俗謡「岡崎女郎衆」の「岡崎女郎衆はよい女郎衆」の歌詞に引っ掛けた茶化しである。この俗謡は非常に単純で「おかざき/じょろうしゅー/おかざきじょろうしゅー/おかざきじょろしゅは/よいじょろしゅー」というもの。東海道には大規模な遊女街を抱えた宿場が二つあり、一つが三島女郎衆と称された三島宿、今一つが岡崎女郎衆の岡崎宿(現在の愛知県岡崎市中心部)であった。しかしこの「女郎衆」とは何れも幕府公認の遊郭ではなく、江戸で言うところの非公認の岡場所で、表向きは遊女ではなく飯盛女であった。岡崎宿にはこうした旅人を相手に色を売る沢山の飯盛女たちがおり、この俗謡もそうした女たちを謡ったものであった(ここの部分は岡崎女子短期大学准教授上田信道氏の「岡崎発の『蝶々』~学校唱歌の源流をめぐって~」〈PDFファイル〉の中の記述を参考にさせて戴いた)。性悪男が東海道を下って四日市へ逃げたとなれば、お前さんの元嬶の不義の女は、岡崎辺りで体よく売り払われて、飯盛り女にでも沈んでいるのが関の山だ、といった謂いであろうか。]