一言芳談 九十七
九十七
或人物語云、諸宗の學生(がくしやう)、公請(くじやう)に随つて、御(おん)佛事いまだ始まらざるほど、自他要事を相談す。一条院の御時などまでは、一向(いつかう)、後世門(ごせもん)の事なり。顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か。白河院の御時よりは、法文の沙汰なり。鳥羽院の御時にいたるまでは、ひとへに世間の沙汰なり。則ち我等出仕の時なり。然うして其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世(たうせい)は其程(それほど)の事もなきか。
〇公請に、禁裏公家方へ召されて參る事なり。
〇御佛事、内裏にて御祈禱御國忌(こくき)などある事なり。
〇いまだはじまらざるほど、ほどは時なり。
〇一条院、人王六十六代。
〇一向、ひたすらなり。
〇顕密、天台、眞言等なり。
〇白河院、七十一代の帝。
〇沙汰は、砂を洗ひ出すごとく、互に言うて、よく義理をつくるを沙汰といふなり。(句解)
〇鳥羽院、七十四代。
〇世間の沙汰なり。竹窓随筆云、古之學者賓主相見、纔入門、便以一大事因緣選相研究。今群居雜談、率多世諦。漫遊千里、靡渉參詢。遐哉。古風不可復矣。嗟夫。
〇論義日記、其日々々の論義を記すなり。
[やぶちゃん注:「公請」僧が朝廷から、法会や講義に召し出されること、また、その僧をも言う語。読みは辞書類及びⅠ・Ⅱに随った。Ⅲでは「こうしやう」と振っているが採らない。
「一条院の御時」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の在位は寛和二(986)年~寛弘八(一〇一一)年。
「一向」一途に。全く以って。
「後世門の事」浄土という存在及び浄土へ至るための要諦。
「顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か」天台真言の僧であっても、仏門にある以上は、かの「後世門の事」を学ぶ必要があったからでしょうか。「出離」は元来は、現世という穢土の迷いを離れて、解脱の境地に達することを言うが、ここでは単に仏門に入ることを言っていると思われる
「白河院の御時」白河天皇(天喜元(一〇五三)年~大治四(一一二九)年)の在位は延久四(一〇七三)年~応徳三(一〇八七)年)
「法文の沙汰」読み上げる経文類についての議論。
「鳥羽院の御時」鳥羽天皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の在位は嘉承二(一一〇七)年~保安四(一一二三)年。彼の天皇即位は一条天皇の退位から九十六年後、以上は凡そたった百年余りで、公請の前の高僧による講筵が、敬虔な浄土及びそこに至るための厳かな階梯の諭しから、愚かな人智による語義論へと変わり、後にはその議論さえさえも定式化されて内容がなくなり、遂には、その儀式化された経論の内容を記すだけになり(後注参照)、果ては現在のように、この穢土のただの世間話をするまでに致命的に変質してしまったことを述べる。
「我等出仕の時」私が公請によって召され、宮中にて仏事を修していた頃。されば、本条の話者は匿名化されているものの、平安末期の法主クラスの高僧の高弟であった可能性が高いと考えてよいであろう。
「其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世は其程の事もなきか。」Ⅱの大橋氏注の「論義」の注に『論義は仏教教義を問答議論することで、のちには法会の一つの型として伝えられた』とあるから、ここは、
尤も、その我らが出仕致いて御座った頃までは、型通りばかりに法論が演じられ、その内容を儀式上、公請に於ける前段論議の日録としてばかり記していたに過ぎぬ。されど今は、その程度のことさえも、これ、しておらぬのではあるまいか。
と完膚なきまでの堕落を述べて終わるのである。]