北條九代記 江馬太郎泰時德政
○江馬太郎泰時德政
同十月二日の夜に入て、觀淸法眼(くわんせいほうげん)、竊(ひそか)に江馬太郎殿の亭に來りて申しけるやう、「去ぬる月二十二日、中野五郎能成に仰(おほせ)談じ給ひける事、具(つぶさ)に言上せられし所に、申も違へたる事もや候ひけん、頼家卿、仰せけるは、祖父(おほぢ)と父を差置きて若輩の身ながら諷諫を奉る條、且(かつう)は上(かみ)を輕(かろし)め且は我を侮(あなづ)る故なりと、御氣色、損じて見え給へり。太郎殿は暫(しばらく)、御所勞と稱して在國し給へかし。御氣色、強(あながち)に月を歷ず、只(たゞ)一旦の御事なるべし」と云ひたりければ、泰時の仰(おほせ)には、「某(それがし)全く諷諫を奉るにあらず。愚意の及ぶ所、聊(いさゝか)、近習(きんじゆ)の仁に相(あひ)談ずる計なり。罪科に處せられんには、在國に依るべからず。但し、火急の用事ありて、明朝、必ず、伊豆の北條に下向すべし。貴所(きしよ)の仰に付いて構(かまへ)出づるにあらず候」とて、旅の雜具(ざふぐ)、蓑笠まで見せられしかば、觀淸、又、申すべき旨(むね)もなく、座を立ちて歸りけり。さる程に太郎泰時は翌日、北條に下向あり。此所は去年も田畑存亡し、春より以來(このかた)、人民(にんみん)糧(かて)乏(とぼし)く、耕作の計(けい)を失ひ、種植(しゆしよく)を營む力(ちから)なし。郷民等(がうみんら)、連署(れんじよ)の狀をさゝげて、米五十斛(こく)を借り參(まゐら)せ、當年の秋、返納すべき由をうけがふ。然る所に去月の風雨に、國郡、大に損亡して、饑餓に望む者少(すくな)からず。借(かり)申したる米穀を返し參せんは中々思(おもひ)も寄るべからず。この分にては代官の爲、一定(ぢやう)強く譴責せらるべし。兎角、妻子共に逐電して、當座の難を遁るべき歟と申す由、泰時、聞給ひ、この愁(うれひ)を救はん爲に、態(わざ)と下向を企てられ、連署の者共を召集め、その前にして、證文を燒(やき)捨てられ、「重(かさね)て豐年なる時節にも返納の沙汰あるべからず。惜したる米は皆々、汝等に取(とら)するなり」とて、剩(あまつさへ)酒飯(しゆはん)を出して、その上に人別(にんべつ)に米一斗づつ下されたりければ、各(おのおの)是を賜り、且は喜び、且は涙を流し、皆手を合せて、この殿の御子孫、御繁昌し給へとて、御前を立ちてぞ歸りける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年十月二日・三日・六日の条に基づく。
〇原文
十月大二日己夘。霽。入夜。觀淸法眼潜參江馬太郎殿舘。申云。去月廿二日。被談仰能成事。具達聽。但紕繆相交歟間。閣父祖被諷諌申之條。違御氣色之由。慥見其形勢也。然者。稱御所勞。暫可令在國給歟。先々見他上。御氣色強不歷旬月。只一旦事也云々。亭主仰云。全非諷諌申。愚意之所覃。聊相談近習仁許也。於被處罪科者。不可依在國歟。但有急事。明曉欲下向北條。兼令出門畢。就今告非構出。稱恥貴房推察。召出旅具〔至蓑笠等。悉在此中〕等。令見給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日己夘。霽る。夜に入り、觀淸法眼、潜かに江馬太郎殿が舘に參じ、申して云はく、
「去ぬる月廿二日、能成に談じ仰せらるる事、具さに聽に達す。但し、紕繆(ひびう)相ひ交はるかの間、父祖を閣(さしお)き、諷諫し申さるるの條、御氣色に違ふの由、慥かに其の形勢を見るなり。然れば、御所勞と稱して、暫く在國せしめ給ふべきか。先々の他の上を見るに、御氣色、強ちに旬月を歷(へ)ず、只だ一旦の事なり。」
と云々。
亭主、仰せて云はく、
「全く諷諫を申すに非ず。愚意の覃(およ)ぶ所を、聊か近習の仁に相ひ談ずる許りなり。罪科に處せられんに於ては、在國に依るべからざるか。但し、急の事有りて、明曉、北條へ下向せんと欲し、兼ねて門を出でせしめ畢んぬ。今の告に就きて構へて出るに非ず。貴房の推察を恥づ。」
と稱して、旅具〔蓑笠等に至るまで、悉く此の中に在り。〕等を召し出し、見せしめ給ふと云々。
・「觀淸法眼」版本によっては「親淸法眼」とある。詳細不詳。
・「江馬太郎」及び「亭主」は北条泰時。当時未だ十九歳で、後の彼の「父祖」とは祖父時政(当時は従五位下遠江守で御家人初の国司職にあった)と父義時で、父義時は三十八歳、子の泰時とともに未だ叙せられていなかった。
・「紕繆」は誤り・間違い・誤謬の意。
続いて同年同月六日の条を示す。
〇原文
六日癸未。江馬太郎殿昨日下着豆州北條給。當所。去年依少損亡。去春庶民等粮乏。央失耕作計之間。捧數十人連署狀。給出擧米五十石。仍返上期。爲今年秋之處。去月大風之後。國郡大損亡。不堪飢之族已以欲餓死故。負累件米之輩兼怖譴責。插逐電思之由。令聞及給之間。爲救民愁。處被揚鞭也。今日。召聚彼數十人負人等。於其眼前。被燒弃證文畢。雖屬豊稔。不可有糺返沙汰之由。直被仰含。剩賜飯酒幷人別一斗米。各且喜悦。且涕泣退出。皆合手願御子孫繁榮云々。如飯酒事。兼日沙汰人所被用意也。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日癸未。江馬太郎殿、昨日、豆州北條へ下着し給ふ。當所、去ぬる年、少き損亡に依つて、去ぬる春、庶民等、粮(かて)乏しく、央(なか)ば耕作の計を失ふの間、數十人、連署狀を捧げ、出擧米(すいこまい)五十石を給はる。仍つて返上の期(ご)は今年の秋たるの處、去ぬる月、大風の後、國郡、大いに損亡し、飢ゑに堪へざるの族(やから)、已に以つて餓死せんと欲するが故に、件(くだん)の米を負ひ累ぬるの輩(ともがら)、兼ねて譴責を怖れ、逐電の思ひを插(さしはさ)むの由、聞き及ばしめ給ふの間、民の愁ひを救はんが爲に鞭を揚げらるる處なり。今日、彼の數十人の負人(おひびと)等を召し聚め、其の眼の前に於いて、證文を燒き弃(す)てられ畢んぬ。豊稔(ほうじん)に屬すと雖も、糺返(きうへん)の沙汰有るべからざるの由、直(ぢき)に仰せ含められ、剩へ飯酒幷びに人別(にんべつ)一斗の米を賜ふ。各々且つは喜悦し、且は涕泣(ていきふ)し退出す。皆、手を合はせて御子孫繁榮を願ふと云々。
飯酒のごとき事は、兼日(けんじつ)に沙汰人、用意せらるる所なり。
・「出擧」とは、律令制に於いて農民に対して稲の種籾(たねもみ)や金銭・財物を貸し付け、利息とともに返還させた制度を言う。
・「五十石」一石十斗で、一俵は四斗で約六〇キログラムであるから、一石は一五〇キログラム、「五十石」は凡そ七五〇〇キログラムにもなる。
・「負人」年貢を負う人の意。
・「沙汰人」代官(この条の以上の注は、しばしば参考にさせて貰っている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注を参考にさせて戴いた。]
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