金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 淨光明寺 荒居焰魔
淨光明寺 荒居焰魔
淨光明寺(じやうくはうめうじ)の境内、慈恩院(ぢおんいん)に矢拾(やひろい)地藏あり。網引(あみひき)地藏は、この山中(さんちう)にあり。藤原の爲相(ためすけ)の塔、その後ろなり。景淸(かげきよ)土(つち)の牢(らう)は、化粧坂(けわいざか)の山際にあり。
〽狂 あみ引のぢぞうのまへの
ちや屋にきてあとひき
ぢざけのむぞたのしき
「なんでも、旅では、途方もなく錢(ぜに)をとられることがあるから、うつかりとは、のめぬ。それとも貴公方(きかうがた)のお振舞(ふるま)ひなら、うつかりとのんでもよい。」
「なに、旅へ出て、お振舞ひといふことがあるものか。なんでも、割合(わりあい)。先(さつき)に貴公がのんだ甘酒(あまざけ)の八文は、俺(おれ)がだしておいたから、よこしなさい。」
「貴公、きたないことをいふ。そういふと、昨日(きのふ)、渡錢(わたしせん)の二文、よこさつし、よこさつし。」
「イヤイヤ、あれは雪の下の團子(だんご)の錢四文さしひくと、そつちから二文釣りをとらねばならぬ。たつた今、勘定、さつし。それそれ、女がきた。エヘン、エヘン。」
「もふ一合(いちごう)やりたいが、いつそのこと一銚子(ひとてうし)、一銚子。」
それより姫(ひめ)が谷(やつ)、荒居(あらゐ)の焰魔(ゑんま)。口に幼な子の附紐(つけひも)をくわへゐるは、謂われあることなるべし。海藏寺(かいぞうじ)、本尊泣藥師(なきやくし)といふ。昔、この山中にて、毎夜、子どものなく聲あり。その地をほりて、この藥師をえたり。この門前に、底脱(そこぬけ)の井といふあり。
〽狂 たうとさはたぐひあらゐの
ゑんまどうまいらぬ人も
なきやくしなり
「もしもし、上(かみ)さん、荒居の焰魔さまは、これかの。焰魔さまは、お宿(やど)にござりますかへ。」
「今、奧に轉寢(うたゝね)をしてござりました。あそこへいつて、鰐口(わにぐち)をおたゝきなさると、じきにお目をおさましなさります。焰魔さまは、とかく鰐口がおすきで、妾(わたし)の鰐口をたゝいて見たいと、いつそ、妾をおはなしなさいませぬから、
『お前さまは、葬頭(そうづ)川の婆(ばば)さまといふお妾(めかけ)さまがあるから、その鰐口をおたゝきなされ』
といいましたら、
『いや、もふ、あの婆々のは鰐口ではない、木魚(もくぎよ)のやうに、ぼくぼくしていかぬ』
とおつしやりました。」
[やぶちゃん注:本章は以下の注で示した以外にも、海蔵寺の泣き薬師の由来譚など、珍しく踏み込んだ記載が散見される。一九が実際に踏査し、オリジナルに興味を持った一帯であったように見受けられる。
「慈恩院に矢拾地藏あり。」旧淨光明寺の塔頭。「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」に、
慈恩院 本堂の西の方にあり。地藏の立像を安ず。《矢拾地藏》是を矢拾(やひろひ)地藏と云ふ。相ひ傳ふ、源の直義の守り本尊なり。直義一戰の時分、矢種盡きけるに、小僧一人走り來つて、發ち捨てたる矢どもを拾ひ、直義に捧げける。怪しく思ひ、守りの地藏を見ければ、矢一筋錫杖に持モち添へけるとなり。今も錫杖は簳(やがら)なり。又直義の位牌あり。表に、當院の本願、贈正二位大休寺殿古山源公(こさんげんこう)大禪定門の、神儀。裏に、觀應元年二月廿六日とあり。又大塔宮(をほたふのみや)の牌も有しが、此牌は理智光寺にあるべき物也とて、院主是を送り遣し、今彼寺にあり。
とある。「直義一戰の時分」は、伝承では故北条高時の遺児時行の起こした建武二(一三三五)年七月の中先代の乱の時の話とする。さて、この「新編鎌倉志」には、この慈恩院の他に玉泉院・華蔵院の、都合三院の塔頭が現存するとあるが、「鎌倉市史 社寺編」には、「相模国風土記稿」にはないことから、『貞享以後天保までの間に三院とも廃絶したのである』とあり、この一九の叙述はもしかすると、その正式な塔頭としての慈恩院最後の記述であった可能性がある。
「振舞ひ」饗応。ともに旅人であるのに、「おもてなし」とは合点がいかぬ、と言っているのである。
「割合」割り勘。
「銚子」徳利。ここは二合徳利以上の大徳利のこと。
「姫が谷」不詳。浄光明寺から「これより」とあって「荒居の焰魔」(現在の円応寺)というルートから推すと、現在の泉ヶ谷を北へ登った二つの谷の何れかを指すように思われる。現在、この谷戸名は残っていないものと思われるが、如何にも響きのよい名ではある。
「口に幼な子の附紐をくわへゐるは、謂われあることなるべし」円応寺の閻魔は「子育て閻魔」の異称を持つ。円応寺のパンフレット(HATADA氏の「天空仙人ワールド」の「円応寺」よりの孫引き)によれば、『昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけようとした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れ、お堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまり、お堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ばした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事、小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった』とある(一部の表記を訂し、読点を追加した)。――但し、私の訪れた際の遠い記憶では、現在の閻魔像の口からは「幼な子の附紐」はぶら下がってはいないように思う。――ぶら下げておけばよいのに――とも思う。
「鰐口」仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。神社の社殿に使われることもあり、金口・金鼓とも呼ばれる。元来は金属製の梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を二つ合わせた形状で、鈴(すず)を平たく潰したような形状である。上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金(かね)の緒と呼ばれる布を編んだ綱が付属し、これで鼓面を打って誓願成就を祈念する(以上は、主にウィキの「鰐口」を参照した)。勿論、ここでの堂守のシャンな年増女(絵図左手に描かれた粋な女性を見る限り)のこの謂いは、鰐口を女性の会陰のシンボルに掛けている。女性が言っていると思うと、不思議に忌わしい猥雑感が薄まるから不思議である。
「葬頭(そうづ)川の婆さま」「葬頭川」の「そうづ」は「さんず」の訛ったもの、三途の川のこと。この「婆」とは三途の川で渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るとされる鬼女、奪衣婆(だつえば)のこと。ウィキの「奪衣婆」によれば、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた』とある。円応寺には閻魔王を始めとする十王像の他、この奪衣婆の像もある(先のHATADA氏のページで写真が見られる)。
「あの婆々のは鰐口ではない、木魚のやうに、ぼくぼくしていかぬ」打てば美事に嬌声を響かせる「鰐口」とずぼんずぼんと虚ろなる古びた「木魚」を年増と婆の下の塩梅に譬えたものである。相変わらずの下ネタながら、謂いは洒落ていると思う(ほどに猥雑至極の一九に私もかなり免疫になったことを自白する)。]