生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 一 神經系
一 神經系
植物の全部と動物中の最下等のものとには特に神經と名づくべきものはないが、それ以上の普通の動物には必ず身體の内に、特に外界からの刺戟に感じ、これを他の體部へ傳達する力を具へた組織がある。この組織は「ヒドラ」・「さんご」等の如き下等の動物では、「くも」の巣の如くに薄く全身に擴がつて居るに過ぎぬが、それより以上の動物になると、次第に明になつて白い絲の如き形に現れ、更にその中に幹部とも名づくべき部分を區別し得るやうになる。幹部といふのは、人間でいへば即ち腦や脊髓ことで、これと身體の各部とを連絡する細い絲が所謂神經である。それ故、神經なるものは稍々高等の動物では一端は必ず幹部に連なり、他端は身體のいづれかの部分に終つて居る。外界に變化が起れば、先づ身體の外面にある眼・耳・鼻・口・皮膚等が刺戟を受け、神經はこれを幹部に傳達する。次に幹部は更に別の神經を通じて或る筋肉に刺戟を傳へ、筋肉が收縮して身體を適宜に運動させる。かやうに、普通の動物が外界の變化に應じて適宜に身を處して行くには、外界からの刺戟を受け附けるための感覺器官と、これを處理判斷するための神經系幹部と、幹部よりの命令に從うて收縮し運動するための筋肉とを要するが、これらのものを互に連絡するのは神經である。されば神經は恰も電信の針金のやうなもので、眼・耳・乃至皮膚の内にある發信器と、幹部内の受信器との間、若しくは幹部内の發信器と筋肉や腺の内にある受信器との間に張られてあることに當る。また神經系の發達せぬ動物は恰もまだ電信のない未開國のやうなもので、各部の間の通信には或は烽火(のろし)を擧げ、或は旗を振り、または飛脚を走らせ、駕籠を飛ばせなどして、それ相應に間に合はせて居るのに比較することが出來やう。
[やぶちゃん注:「ヒドラ」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科のヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra に属する淡水産無脊椎動物の総称。ウィキの「ヒドラ」によれば、『長い体に長い触手を持つ、目立たない動物である。これらは淡水産で群体を作らず、浅い池の水草の上などに生息している。体は細い棒状で、一方の端は細くなって小さい足盤があり、これで基質に付着する。他方の端には口があり、その周囲は狭い円錐形の口盤となり、その周囲から』六~八本ほどの長い触手が生え、体長は大型個体でも約一センチメートル。但し、『触手はその数倍に伸びる。ただし刺激を受けると小さく縮む。触手には刺胞という毒針を持ち、ミジンコなどが触手に触れると麻痺させて食べてしまう。全身は透明がかった褐色からやや赤みを帯びるが、体内に緑藻を共生させ、全身が緑色になるものもある』。『足盤で固着するが、口盤と足盤をヒルの吸盤のように用いて、ゆっくりだが移動することもできる』。ライフ・サイクルは『暖かな季節には親の体から子供が出芽することによって増える。栄養状態が良ければ、円筒形の体の中程から横に小さな突起ができ、その先端の周辺に触手ができて、それらが次第に成長し、本体より一回り小さな姿になったとき、基部ではずれて独り立ちする。場合によっては成長段階の異なる数個の子を持っている場合もあり、これが複数の頭を持つと見えることから、その名の元となったギリシア神話のヒュドラを想像させたものと思われる。また、強力な再生能力をもち、体をいくつかに切っても、それぞれが完全なヒドラとして再生する』。この無性生殖が基本で、一般に無性生殖の出芽の代表例としても知られるのであるが、水温の急激に変化(八℃程度)が起こると雌雄に別れて有性生殖を開始する。卵巣と精巣を体表に形成、受精卵を雌の体内に残して各個体は老化して死ぬ。この時に出来た受精卵は強い耐乾燥性能を備える(孵化する日数は十三日~一〇〇日と広いばらつきを示が、これは一度に孵化して、万一、悪条件であった場合に絶滅するのを回避する働きがある)。ヒドラはクラゲ型の生活形態を形成しないと考えられているが、『一般にヒドロ虫類では生殖巣はクラゲに形成され、独立したクラゲを生じない場合にもクラゲに相当する部分を作った上でそこに形成されるのが通例であり、ヒドラの場合にポリプに形成されるのは極めて異例である』とある(有性生殖の部分は個人ブログ「生物史から、自然の摂理を読み解く」の「ヒドラの有性生殖」をも参照した)。
『「くも」の巣の如くに薄く全身に擴がつて居る』クラゲなどの刺胞動物では神経細胞(上皮筋細胞)が体表にあって分散型のネットワークを形成、中枢神経(丘先生の言う「幹部」)が分化しない。これを散在神経系と呼ぶ。]
[ヒドラ]
前に名をあげた「ヒドラ」といふ動物は體の構造が極めて簡單で、恰も湯呑コップ、または底のある竹の筒の如き形を呈し、口の周圍から生えて居る數本の絲のやうな指で食物を捕へて食ふが、別に肛門といふものがないから、不消化物はまた口から吐き出してしまふ。沼や池の水草に附著して居る普通の淡水産動物で、常に「みぢんこ」などを食つて居るから、採集も飼育も極めて容易い。二叉の針で口の處を抑へながら、細い硝子の棒で尻の方から突くと、恰も嚢を裏返す如くに「ヒドラ」の柔い身體を裏返すことが出來るが、かやうにすると、この動物の外界に對する内外の位置が顚倒するから、宇宙が「ヒドラ」の腹の内に入つたともいへる。著者は幼年の頃「ヒドラ」に宇宙を呑ませてやるというて、屢々これを裏返して遊んだが、かくしてもそのまゝ置けば自然に舊に復して、また平氣で「みぢんこ」などを食つて居る。かやうな簡單な動物であるから、その神經系の如きも極めて憐なもので、僅に少數の神經細胞が、身體の諸部に散在しているに過ぎぬ。珊瑚・「いそぎんちやく」の如き海産動物も神經系の發達の程度は略々これと同じである。但し「くらげ」類になると、常に浮遊して居るから、眼・耳の始ともいふべき簡單な感覺器も具はり、神經組織も幾分か發達して、傘の周邊に沿うて細い輪の形に現れて居る。
[やぶちゃん注:「憐な」は「あはれな」と訓じている。]
[「えび」の神經]
神經系の幹部の形狀は動物の種類によつて根本から違ふものがあるから、すべてを一列に竝べて、これを高等かれを下等と斷定するわけには行かぬ。誰も知つて居やうな普通の動物だけに就いていうても、相異なる型が三つは慥にある。即ち一つは「えび」・「かに」・昆蟲類などのもの、一つは「たこ」・「いか」・貝類などのもの、一つは獸類鳥類より魚類までを含む脊椎動物のものであるが、その中、「えび」・「かに」昆蟲等では身體が多くの節からなつて居る通り、神經系の幹部も各節に一つづつあつて、これが神經よつて恰も鎖のごとくに前後互に連なつて居る。また「たこ」・「いか」などは身體に節がない如く、神經系の各部の方も一塊となつて、食道を取り卷いて居る。これらは、いづれも人間の腦・脊髓などとは根本から仕組が違ふから、形の上からは比べて論ずることは出來ぬ。
[やぶちゃん注:『一つは「えび」・「かに」・昆蟲類などのもの』一般に梯子形神経系“ladder-like nerve system”である。これらの節足動物では環形動物に似た体節制と、そこからの発展としての異規体節化(環形動物のように概ね同一の体節の繰り返しによってその体が構成されているのを同規体節制というが、体の各部分で体節の様子や付属肢の形などにそれぞれ役目に応じた分化が見られるのを異規体節制という)が明確に見られ、神経系もそれがに伴って分化している。参照したウィキの「はしご形神経系」によれば、『一般に頭部は口の前後の複数体節が融合して形成されるが、神経系においても脳は複数の神経節が融合して形成される。ここでも口の後方では数節分が癒合している例が多』く、『そこから食道を囲んで食道神経環があり、そこから体の後ろに一対の腹神経索が伸び、各体節に神経節と横の連絡がある。これがはしご的な部分であるが、実際には互いに接近している上、神経節の部分では互いに密着している例が多く、はしご形であることは、それらの間の部分でそこに間隙があることで判断できる程度である。多足類など同規体節的な性質の強いものではこの部分が長く、はしご形が比較的強く残るが、甲殻類や昆虫、クモ類では神経の集中がより強く、はしご形の残る部分が少なくなっている』とあるように、実は、中枢神経として体を前後に走る神経索が左右一対あって、そこに一定間隔で神経節があり、それらが左右の神経連絡によって繫ぎ合わされている、つまり、縦の神経索二本が一定間隔で横の連絡を持ち、全体がはしごの形に見えるということから梯子形神経系と呼称するものの、実際には梯子らしい形が見て取れるわけではなく、縦走する神経索がごく近接する例や、互いに融合しているケースが少なくない。従って梯子形というのはあくまで神経系モデルの分類上の大まかな概念表現と見るべきである。これらは謂わば、中枢神経形成の果てに微小脳を形成した点で特徴的である。
『一つは「たこ」・「いか」・貝類などのもの』これらのグループも梯子形神経系に属するが、ウィキの「はしご形神経系」によれば、『軟体動物では、基本的な構造としては環形動物に近い神経系を持つ。つまり周食道神経環から後方へ神経索が対をなして伸びる形である。ただし体節ごとに神経節があるのではなく、神経節は口の上(脳にあたる)、口の下、およびその後方に四対あるのが基本の形である。神経索は二対あり、各所で横の連絡を持つから、全体としてははしご形に近い形である』。『多板類と無板類ではこの基本形に近い構造が見られる。多板類の場合、口の後ろで消化管を取り囲む周食道神経環から体の後方へ走る神経索は体の左右に二対ずつあり、外側を側神経幹、内側を足神経幹という。これらの間には互いに横の連絡を取るように神経連合が発達するため、全体としては三本のはしごを密着させたような形を取る。なお、単板類の場合、内側の足神経幹の対の間には連絡がないため、左右に一対のはしごが並んだようになっている』。『このことは多板類の殻や鰓、体表の毛の配列にも体節的な特徴があることと並んで、軟体動物が体節制を持つ祖先から由来したとの考えの基礎となった。発生面では環形動物との共通点が強いこともあって、このことはほぼ定説的に考えられたこともある。しかし、その後の系統学的検討からは、軟体動物の祖先が体節を持っていたとの判断はでていない。むしろ、無脊椎動物の多くで、体軸方向に走る神経索は左右に対をなす例が多く、両者の間に連絡ができた場合、はしご形になってしまう、という風に見た方がよいかも知れない』。『なお、これ以外の軟体動物では、体軸方向に著しく短縮化が生じており、神経系の形が大きく変形している。腹足類の場合、頭部付近の口球神経節、脳神経節あたりまでははしご形の形がある程度維持されるが、以降は短縮され、また多くの群ではこの間にねじれを生じて形が複雑になっている。前腮類では足神経幹の間のはしご状がわずかに見られる場合もある。二枚貝類では』四対乃至『三対の神経節とその間の神経連鎖が見られる。堀足類でも神経索がごく短縮しているものの神経節の配置はほぼ認められる』とある。特にこれらの内、イカ・タコは謂わば、中枢神経形成の果てに巨大脳を形成した点で、先の節足動物群などの、同じ梯子状神経系のグループでありながらも、大きく異なった特徴と言えるであろう。
『一つは獸類鳥類より魚類までを含む脊椎動物のもの』中枢神経系は背面中央に一本で管状、前方部分が脳に分化するタイプの管状神経系である。]
[なめくぢうを]
次に脊椎動物を見ると、これにも最も簡單なものから最も發達したものまでさまざまの階段がある。この類では必ず身體の中軸に一本の脊骨があつて、その背後に神經系の幹部が通つて居るが、最も下等の脊椎動物になると、これに腦・脊髓といふ區別がない。例へば淺海の底の砂の中に居る「なめくぢうを」の類では、身體の中軸の背側に長い紐の形の神經系の幹部はあるが、全部脊髓の如くで、特に腦と名づくべき太い部分が見當らぬ。元來腦なるものは脊髓の續きで、たゞその前端の著しく發達した部分に過ぎぬから、腦がなければ、神經系の幹部は全く脊髓のみから成つて居る如くに見える。腦があれば、これを包み保護するための頭骨も要るが、「なめくぢうを」の如き腦のない動物では無論頭骨も發達せぬから、身體の前端に特に頭と名づくべき部分がない。それ故、動物學上では、この類を無頭類と名づける。かやうに腦はないが、この動物の生きて居る所を見ると、なかなか運動も活潑で、特に速に砂の中へ潜り込むことなどは頗る巧である。さればこの動物の神經系の幹部は、簡單ながらもこの動物の日常の生活に對して、用が足りるだけの程度には發達して居るものと考へねばならぬ。
[やぶちゃん注:「なめくぢうを」は原始的な脊索動物で、脊椎動物の最も原始的な祖先に近い動物であると考えられる生きた化石。脊索動物門脊椎動物亜門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科のナメクジウオ属
Branchiostoma(生殖腺は体幹の左右両側にある)及びカタナメクジウオ属
Epigonichthys(生殖腺は体幹の右側のみ)に属する生物の総称。日本近海にはナメクジウオ
Branchiostoma belcheri・カタナメクジウオ
Epigonichthys maldivense・オナガナメクジウオ
Epigonichthys lucayanum・ゲイコツナメクジウオ
Asymmetron inferum の四種が生息しており、愛知県蒲郡市三河大島と広島県三原市有竜島がナメクジウオの生息地として天然記念物に指定されているが激減しており、絶滅が危惧されている希少種である。主に参照したウィキの「ナメクジウオ」によれば、体長は三~五センチメートル程で、『魚のような形態をしている。体色は半透明。背側と腹側の出水口より後方の縁はひれ状にやや隆起してひれ小室と呼ばれる構造が並び、それぞれ背ひれ、腹ひれと呼ばれる。後方のひれ小室を伴わない部分は尾ひれとして区別される。神経索の先端には色素斑や層板細胞、ヨーゼフ細胞と呼ばれる光受容器をもつほか、神経索全体にわたってヘッセの杯状眼と呼ばれる光受容器がある。閉鎖血管系』(リンク先の模式図の7)『をもつが、心臓はもたず、一部の血管が脈動することで血液を循環させている。体の前半部にある鰓裂』(リンク先の模式図の10)によって『水中の酸素を取り込んでいる。鰓裂は水中の食物を濾こしとる役割も果たしている』。『頭部から尾部にかけて、筋肉組織でできた棒状組織である「脊索」をもつ。多くの脊椎動物では、発生過程において脊椎が形成されると「脊索」は消失するが、ナメクジウオ(頭索動物)は生涯にわたって「脊索」をもち続ける。また脊椎動物と異なり、頭骨や脊椎骨はもたない。脊索の背側に神経索』(リンク先の模式図の3)を持っており、神経索の先端は脳室(リンク先の模式図1)『と呼ばれ、若干ふくらんでいるが、脳として分化しているとは見なされない。かつては食用とされた』。『全世界の暖かい浅海に生息している。体全体を左右にくねらせて素早く泳ぐことができるが、通常は海底の砂のなかに潜って生活している。ホヤなどと同様、水中の食物を濾過することで摂食している。体内に緑色蛍光タンパク質を持ち、特に頭部が明るく発光する。雌雄異体であり、精子と卵を体外に放出し、体外受精を行う』。古生代カンブリア紀のバージェス動物群(五億一五〇〇万年前)の一種として発見されたgenus Pikaia ピカイアはナメクジウオによく似ていることから、これが脊椎動物のもっとも古い先祖と言われたこともある。しかし、それよりやや前の澄江(チェンジャン)動物群(約五億二五〇〇万年前から約五億二〇〇〇万年前のカンブリア紀前期中盤に生息していた、化石の発見地である中国雲南省澂江県の名を冠した動物群)から発見された、最古の魚類のルーツとされるミロクンミンギア
genus Myllokunmingia(中文名は昆明魚)の仲間ハイコウイクチス
Haikouichthys『が当初は頭索類ではないかと言われたが、頭に当たる構造が確認されたことで脊椎動物と考えられるに至った。したがって、それらの系統の分岐はさらに遡ると考えられる』とある。]
[魚の腦
(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]
[「わに」の腦
(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]
[鳥の腦
(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]
[兎の腦
(い)大腦 (ろ)視神經葉 (は)小腦]
[犬の腦
(い)大腦 (ろ)小腦]
普通の魚では脊髓の前端に續いて明な腦があるが、これを人間の腦などに比べると、その形狀が餘程違ふ。人間の腦ならば、腦の大部分をなすものは所謂大腦であつて、小腦はたゞその後端の下面に隱れて居るに過ぎぬが、魚類の腦では大腦は甚だ小さくて、腦の前端の附属物の如くに見え、小腦の方が、遙にこれよりも大きくて、腦の後部の大半をなして居る。そして腦の中央部にあつて、恰も腦の如くに見える左右一對の大塊は何であるかといふに、これは視神經葉若しくは中腦と名づけるもので、人間の腦では、大腦の小腦との間の割れ目を開いて覗かなければ見えぬ程の小さな隱れた部分である。かやうな次第で、魚の腦にも人間の腦にも、同じだけの部分が具はつてはあるが、各部の發達の程度に非常な相違があつて、人間で大きな大腦は魚類では頗る小さく、人間で小さな中腦は魚類では甚だ大きい。尤も腦全體の重量が人間では體重の四十分の一もあるに反し、「まぐろ」などでは僅に三萬分の一にも當らぬから、實際の大きさをいへば、魚類の中腦は決して人間のよりも大きなわけではなく、たゞ他の腦部に比して大きいといふまでである。實驗觀察によると、大腦は知・情・意等の所謂精神的作用を司どり、小腦は全身の運動の調和を圖るといふやうに、腦の各部分には、それぞれ分擔の役目が違ふから、各部の大きさの著しく違ふ動物では、その作用にも種々の相違のあるべきは言ふを俟たぬ。蛙の類では大腦が稍々大きいが、やはり大腦と視神經葉と小腦が前後に一列に竝んで居る。圖に示した「わに」の腦は、蛙の腦に比してたゞ大腦が少しく大きいだけである。また鳥類では、大腦が更に大きく、その後緣は小腦と相接し、そのため視神經葉は左右へ壓し出され、腦の側面に丸く食み出して居る。
[やぶちゃん注:「視神經葉若しくは中腦」は狭義の脳幹(下位脳幹)のうち、最も上の部分であって、更に上には第三脳室、下には橋、両外側には間脳がある。滑らかな動きを可能にする錐体外路性運動系の重要な中継所を含むほか、対光反射・視聴覚の中継所・眼球運動反射・姿勢反射(立ち直り反射)・γ運動ニューロン活動(随意運動中の筋紡錘の感度の調節機能)の抑制・歩行リズムの中枢をも含む(以上は主にウィキの「中脳」に拠る。リンク先にはヒトの脳での立体的な中脳の位置を画像で見られる)。]
獸類の腦はすべての動物の中で最も大きく、且大體に於ては全く人間の腦と構造が一致して居る。たゞ大腦の發達の程度には種々の階段があつて、その低いものでは大腦の表面が平滑で少しも凸凹がないが、その高いもの程表面が廣くなり、それがために大腦の表面には廻轉・裂溝などと名づける雲形の複雜な凸凹が生じ、終に人間に見るやうな形のものとなる。二三の例を擧げて見れば、兎や鼠などでは腦の表面は殆ど平滑で、囘轉も裂溝もないが、馬でも鹿でも大腦の表面には若干の溝があつて稍々複雜に見える。犬では更に廻轉が多く、猿の類では餘程人間の大腦に似て來る。特に猿の中でも猩「しやうじやう」〔オランウータン〕などのやうな大形の種類では、大腦の表面にある廻轉・裂溝の配置が、大體に於いては人間のとよく似て居て、一々の部分を互に比較することが出來る。近來大腦の働きを實驗的に研究するには、生きた動物の頭骨を切り開いて腦を露出せしめ、その表面の各部を弱い電氣で刺戟して、その動物の知覺と運動とに如何なる結果が現れるかを調べるが、歐米の學者が競うて「しやうじやう」〔オランウータン〕の類をその材料に使ひたがるのは、全くその腦が人間の腦によく似て居て、研究の結果を直に人間に當て嵌めることが出來るからである。
[やぶちゃん注:「しやうじやう」は猩々で現在のオランウータンのこと。現在の哺乳綱サル目ヒト上科ヒト科オランウータン亜科オランウータン属
Pongo に分類される、
スマトラオランウータン
Pongo abelii
ボルネオオランウータン
Pongo pygmaeus
の二種を指す。約一三〇〇万年前にヒト亜科とオランウータン亜科が分岐したと考えられている。以前はオランウータン一種から構成され、基亜種ボルネオオランウータンと亜種スマトラオランウータンとの二亜種に分かれていたが、両者は遺伝的・形態的・生態的に異なる点が多く、飼育下では交雑が可能であるものの、雑種個体は純血個体に比べて寿命が短く、幼児死亡率が高いことが報告されていることから、現在では別種とするのが適当と考えられている。属名Pongo は、十六世紀にアフリカ大陸で発見された人のような怪物(ゴリラもしくは原住民と考えられているもののコンゴ語)に由来し、また、オランウータンという名はマレー語で「森の人」の意。元来は海岸部の人が奥地に住む住民を指す語だったが、ヨーロッパ人によって本種を指す語と誤解されたことに由来するという(以上は主にウィキの「オランウータン」に拠った)。]
以上述べた通り神經系の幹部の形狀や、その發達の程度は、動物の種類によつて大に違ふが、若し同じ構造を有するものは作用も相同じと假定すれば、魚類より人間までを含む脊椎動物の腦脊髓の働きは、性質は大抵相同じで、たゞその程度に相違があるものと考へねばならず、また「かに」・「えび」や「たこ」・「いか」などでは神經系の幹部の形狀が根本から違ふが、これは同じ目的を達するために、相異なる形式を取つたと見なすべきもので、恰も同じく空を飛ぶ機械に、飛行船もあれば飛行機もあり、また飛行船の中にも瓦斯嚢に硬い骨のあるものもあればないものもあり、飛行機の中にも單葉もあれば複葉もあり、なほ別に工夫すれば子供の玩具の竹の「とんぼ」と同じ理窟を應用した航空機も出來るのと同じことであらう。そしてその目的とする所はいづれも、外界の變化に應じて適宜に身を處するといふことであつて、その働きの程度は各種の動物の現在の生活狀態に從つて、それぞれ間に合ふ位の所を限りとして居るのである。