耳嚢 巻之六 長壽の人格言の事
長壽の人格言の事
松平上野介の家士に山川文左衞門といへる男、百歳餘になりて近頃みまかりしが、老病の床中へ、予がしれる醫をまねきて、我も最早此度(このたび)限りなるべき、壽算殘る事なければ、藥も用ひべき心なけれど、孫など彼是(かれこれ)すゝめて事六ケ敷(むつかし)ければ、是も又尤なる故、なじみの甲斐に藥を調じ給はるべしといひしゆゑ、藥を與へけるに、彼(かの)老翁申けるは、さて人も長壽をねがひしは常なれど、長壽も程有(ある)べし、素より人の禍福にはよれど、我身は子をも先立(さきだ)て、今(いま)孫に養はれて不足もなけれども、いにしへの知音(ちいん)はみな泉下(せんか)の人となり、中年の知る人も殘るものなく、何をかたり何を咄さんとしても、我のみしりて人しらず、誠やしらぬ國にあぶれぬるも同じ事にて、心にも身にも樂しと思ふ事はなし、しかれば死したるも同じ事なりと語りしと、彼老醫の語りけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。九つ前の「長壽莊健奇談の事」の中川軍兵衛(享年一二一歳)からこの山川文左衛門(享年一〇〇余歳)へ長寿譚で連関するが、軍兵衛のそれが精力絶倫でポジティヴであったのに対し、この文左衛門の述懐は痛くネガティヴである。個人の持って生まれた性格の相違ででもあろうが、私は断然、文左衛門派である。
・「松平上野介」出雲国松江藩の支藩である広瀬藩。藩庁として、かつての出雲の中心地であった現在の安来市広瀬町に広瀬陣屋が置かれていた。寛文六(一六六六)年に松江藩初代藩主松平直政次男近栄(ちかよし)が三万石を分与され立藩した藩。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時の藩主は第七代直義(ただよし 宝暦四(一七五四)年~享和三(一八〇三)年)か、第六代藩主近貞の長男で第八代藩主となった直寛(なおひろ 天明三(一七八三)年~嘉永三(一八五〇)年)の何れかである。
・「誠や」「誠」は感動詞、「や」は間投助詞。
■やぶちゃん現代語訳
長寿の人の格言の事
松平上野介の家士に山川文左衛門と申す御仁、百歳余になって、近頃身罷って御座ったが、老衰の病いが進んだその床(とこ)の辺(べ)に、たまたま私の知っておる医師を招き、
「……我らも最早……この度(たび)は……遂に限りとなったと知れる……寿命……これ……残りなければこそ……薬なんど用いんと欲する気持ちは……これ……全く以って無い……じゃが……孫なんどの……かれこれと療治を勧むること……これ……如何にも難儀なことじゃ……じゃが……孫の身になって考えてみれば……これもまた……尤もなることゆえ……馴染みの甲斐に……一つ……お茶濁しにて……よう御座るによって……調じては下さる……まいか……」
と申すによって、当座の痛みや覚醒の対症なる薬を調じて与えたと申す。
されば少し、落ち着いたによって、意識もやや聡明となった、かの老翁、
「……さて、人が長寿を願うは、これ、常のことなれど、長壽も『程』というものが、これ、あるべきことにて御座る。……
……もとより、各人の生涯に受くるところの、禍福の度合いにはよれど、……我が身は実子にも先き立たれて、今はその孫に養われて御座る。……そのことに不足なんどは、これ、あろうはずも御座ない。……
……じゃが、古えの知音(ちいん)は、これ、皆、泉下(せんか)の人となり、……中年の知れる人もこれ最早、没して残る者もおらずなって、……
……何を語り、何を話さんとしても、……
……これ、我らのみ知りて、他人には丸で一向に分からぬことばかり、……
……他人にとってはこれ、……遠い遠い、昔々の、……そのまた昔の話としか、映らぬ。……
……ほんに!……
……これ……我ら……見知らぬ異国に流浪して御座るも……同じ事にて……
……心にも身にも……楽しいと思ふことは……
……これ……全く……御座ない……
……しかれば……我らは……
……死したるも同じことにて……御座るのじゃて…………」
と語ったと、かの老医の語って御座った。