一言芳談 九十四
九十四
敬佛房云、婬事對治(いんじたいぢ)、不淨無常(ふじやうむじや)は猶、次(つぎ)なり。只以貧爲最(ただひんをもつてさいとなす)。依之(これによつて)、故上人は、あながちにうれへず。貧賤をさきとする故なり。今の後世者は其身、富有(ふいう)なるがゆゑに、此事難禁(いましめがたし)と云々。同(おなじき)上人、あからさまにても、男女(なんによ)の間の事、物語にし給はず。
〇婬事對治、婬欲を對治せんには、人身の不淨を觀じ、自他の無常を觀ずる、つねの事なれども、それよりも貧乏が第一の對治にてあるとなり。婬事も衣食住のゆたかなるうへの事なり。はだへさむく、食事ともしくば、色欲もおのづからおこるまじとなり。
〇あからさまにても、かりそめにもなり。
[やぶちゃん注:「婬事對治」「對治」は退治と同義。性的な欲に関わる一切を退治すること。「不淨無常」との並列ではなく、「禁欲するためには~」で以下に続く。
「不淨無常」「不淨」とは五種不浄を謂い、種子不浄(父母の淫欲の業火、その種子の結果として生じる身体とその内にある種子すべてが不浄であること)・住処不浄(生まれる際の十月十日の間の母胎の内は臭穢に満ちており不浄であること)・自性不浄(脚部から頭部まで全身に不浄が充満しており、如何なる着衣・清拭・飲食を以てしても浄めることは出来ないということ)・自相不浄(この身は常に九孔より不浄物を流出していること)・究意不浄(死後に遺体が腐敗・膨満・崩壊して白骨となることを謂い、一切の死屍の中でも人身が最も不浄であることを指す)を指す。つまり、生命の発生から死後の白骨化に至るまでの一生のことごとくが不浄に埋め尽くされていることを説く言葉であり、それは謂わば、諸行無常という認識の自己による体現である、ということを述べているのであろう。
「只以貧爲最」「依之」「此事難禁」の部分が漢文脈で記されていることから、これは伝不詳の敬仏房なる人物の書き記した何物かからの引用であることが分かる。
「故上人」「同上人」法然。
「物語にし給はず」大橋氏の訳では、『何も、こうせよといったことは話をしていらっしゃいません』とある。]
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