耳嚢 巻之六 長壽壯健奇談の事
長壽壯健奇談の事
細川越中守留守居を勤(つとめ)、九十三にて致仕なしける中川軍兵衞といへるは、明和九年か、其翌年にか死したる由。予が許へ來れる秋山玄瑞、年若きより知人にて、死しける頃は壽算百廿二歳の由。玄瑞懇意の儘、いかにして斯(かく)長壽壯健なるや、養生の道もあらば、教へ給へと問ひしに、何も養生の道ありとも不覺(おぼへず)、人は大酒大食を禁じ、淫事を除き候得(さふらえ)ば、隨分長生なるべしとかたりし故、御身は淫事はいつの頃より禁じ給ふやと尋(たづね)ければ、六十四五より淫事を止(とどま)りしといひけるに、玄瑞も大きにあきれ、かゝる壯健の生れもありしと、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:呪(まじな)いではないが、びいどろ接ぎの奇法から長寿の奇法(読めば、それは万人には通用しない話で、要はバッキンバッキンの精力絶倫な上に、とんだ長大なテロメア爺さんであったというオチであるのだが)で軽く連関しているようには見える(リンク先は生物学用語としてのウィキの「テロメア」)。
・「細川越中守」岩波版の注で長谷川氏は、当時は肥後熊本藩第八代藩主細川斉茲(なりしげ 宝暦五(一七五五)年~天保六(一八三五)年)とされておられるが、これは本「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の当時の謂いである。彼が藩主になったのは天明七(一七八七)年であり、後文に「明和九年か、其翌年にか死したる」とあり、明和九年は西暦一七七二年であるから、本話中に於ける当代は、その先代である第七代藩主細川治年(はるとし 宝暦八(一七五八)年~天明七(一七八七)年)となる。二人とも官位は越中守であった。
・「留守居」諸藩に於いて藩主不在の際に居城又は江戸藩邸を預かる職を留守居と称したが、ここは江戸藩邸にあって幕府と藩との間の連絡交渉に当たり、他藩の動向を探ることを職掌とした大名留守居であろう。
・「中川軍兵衞」津々堂氏のHP「肥後細川藩拾遺」の「新・肥後細川藩侍帳【な】の部」の「中川吟之助」という家臣の項に、
中川休翁 名は元藝、郡兵衛と称す。知行高百五十石藩に仕へ留守居役を勤む。
明和九年十月二十七日没、年百七。
とある人物と見て間違いない。これだと明和九年は西暦一七七二年であるから、生年は寛文六(一六六六)年となる。
・「秋山玄瑞」既出。根岸の知音で脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳)。
■やぶちゃん現代語訳
長寿にして壮健なる御仁の奇談の事
熊本藩細川越中守治年殿の江戸留守居役を勤め、九十三歳にて致仕なされた中川軍兵衛と申す御仁は、明和九年か、その翌年辺りに亡くなられた由。
私の元へしばしば来たる秋山玄瑞殿は、若き頃よりのこの軍兵衛殿と知人であった由なるが、軍兵衛殿、亡くなられた頃は、これ既に、百七歳で御座った由。
生前のこと、玄瑞殿、懇意なれば、軍兵衛殿に、
「……如何に致さば、かくも長寿壮健であらせられるるものか? その養生の秘訣など御座らば、是非ともお教へ下され。」
と乞うたところ、軍兵衛殿は、
「……いや、これと申し、何も、養生の秘訣なんどというものが御座ったとも、これ、覚えませぬな。……ただ、そうさ、世間にも申すが如、人は大酒大食(おおざけおおぐい)を禁じ、淫事を避け候えば、随分と長い生き致すものにて、これ、御座る。……」
と語られたゆえ、玄瑞殿、
「……因みに、御身は、その、淫事は、これ……何時の頃より、自らに禁じなされたものか?」
と訊ねたところが、
「……そうさの……六十四、五よりは、淫事は止め申した。」
と申したによって、玄瑞殿も、これ、大きに呆れ果てて言葉も出ず御座ったとの由。
「……いやはや、かかる、とんだ壮健の生まれも、これ、あったものにて御座いまする。……」
とは、玄瑞殿の直談。――