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2013/02/12

耳嚢 巻之六 火事用心の事

 火事用心の事

 

 寛政丁巳(ひのとみ)に梓行(しかう)せし畸人傳(きじんでん)といふは、格別用に足る事もなし、閑田庵(かんでんあん)主人の作にて、色々奇と思ふ事を書(かき)て、唯(ただ)耳目の慰めなれど、又教へになるべき事もひとつふたつあり。それが中に、京都大火の節、藏ども多分燒(やか)せ古物財賓を失ひしに、火事の心得を書し所に、都(すべ)て火災後、藏へは早く立戻り、あたりの火を片付て水を打(うち)、戸前(とまへ)へも水打(うち)てはやくひらくべし、さなければ、火氣籠りて燒(やく)る事あり、且(かつ)柳ごりの大ぶりなるを、其身の上に應じ貯(たくはへ)、連尺(れんじやく)を付(つけ)ておけば、其内へ入るものを詰(つめ)て、壹人にてかつぐ程なれば、持(もち)除くに便(びん)なり、慾に任せ、番袋(ばんぶくろ)等へ入れてかつぎ出しても、持なやみつかれて、はては捨(すつ)るもの多しと書(かけ)り。是等は心得にもなるべき事なり。又或るもの、野遊(のあそび)旅行の用とて、兩懸(りやうがけ)をこしらへ、火口附木(ほくちつけぎ)やうの品、京の事なれば薪(まき)やうのものも少し入(いれ)て貯へしが、彼大火の節、大いに用をなして、家内兩三日はうへざりしといふなどは、面白き故、此所に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。それにしても根岸、かの「続近世畸人伝」を「格別用に足る事もなし、閑田庵主人の作にて、色々奇と思ふ事を書て、唯耳目の慰めなれ」なんどと評するは、これ、本「耳嚢」へこそ鏡にて返し申さうず――と私なら反論するであろう。根岸君、「予のものはただの私的な覚書で、板行などしておらん」とのたもうかも知れんが――いや、やはり、ちょいと思い上がって御座るようにしか見えんわい――

・「寛政丁巳」寛政九(一七九七)年。

・「梓行」板木を彫って書物を板行すること。出版。刊行。昔、中国では梓(あずさ)の木材を板木に使ったことに由来する。

・「畸人傳」「近世畸人伝」伝記。正続二編。正編は伴蒿蹊(ばんこうけい)著・三熊花顚(みくまかてん)画で、続編は三熊花顚原著・蒿蹊加筆訂正したものである。正編は寛政二(一七九〇)年の、続編は寛政一〇(一七九八)年の板行。正続ともに五巻で、近世初頭から執筆の寛政期に至るまでの故人となった有名無名の畸人約二〇〇人を撰した伝記集。武士・商人・職人・農民・僧侶・神職・文学者・学者から下僕・婢女・遊女・乞食などに及ぶ多彩な人物を所載する。中江藤樹や貝原益軒など有名人は言うに及ばず、この書によって後世に名を残すこととなった人物も多い(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここには「寛政丁巳」九年とあるが、後者の続編のことを指している。

・「閑田庵主人」は歌人で作家であった伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)。名は資芳(すけよし)、別号は閑田蘆。近江八幡の商家の出で、八歳で本家の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。十八歳で家督を継いで家業に専念したが、三十六歳で隠居剃髪して著述に専念した。著書に「閑田耕筆」「閑田次筆」。「近世畸人伝』は彼の代表作で十七~十八世紀の江戸期を知るに有益な伝記集である(以上はウィキの「伴蒿蹊」に拠った)。前注に示した通り、正確には「続近世畸人伝」は彼の著作とは言い難く、誤りである。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

・「京都大火の節」は天明八(一七八八)年正月晦日の京の大火のこと。以下は「続近世畸人伝」の巻四「雇人要助」に載る。以下、「国際日本文化研究センター」のデータベースから当該部全文を引く(但し、恣意的に正字化し、漢文訓読をしたと思われるカタカナ漢字交じり部分の一部は順列を正して読み易くした)。

   《引用開始》

下京に治良兵衞といへる者、人ト爲リ正直にして、假初にもいつはりをいはず。子一人持たりしが、十三歳の比、隣リの錢をいさゝか取て來ることありければ、勘當せんことを催せども、十五未滿のものは廳にも取上給はぬならひなれば、せんかたなく思ひ煩ふ間ダに、大坂の人來りたりしに、かくと語りければ、さらばわれにえさせよといひて引つれかへりぬ。其あくる年、妻もうせければ、つらつらおもへらく、まづしくてなまじひに小家をもつ故に、時有リて人の物をも借事あり。人の物をかりては一日も心安からずと、家具殘らず賣拂て、わづかの借財をそれぞれにかへし、名をも要介と改て、上京のある寺へやとひ人となりて行しが、かく正直なるものなれば、寺のまかなひとしけり。やうやう年老六十になりしかば、いつまで人につかへて有べき。家をもち手脚をのばしてこゝろよく臥たるこそよからめと、勸る人あるにより、其事をはかる間、ふと思ひよりて、此年までいまだ江戸を見ず、一目見てかへり、其後ともかくもたのみ參らせん、といひて、少しの路費などたくはへもちて旅立。草津の驛まで行キて宿り、朝とく出て、目川といふ里にて、京に大なる火有と噂とりどりなれば、引かへし京に歸りてみれば、一面の紅火世界也。是天明八年申正月晦日の大火也。 おのがありし寺も早跡なく燒うせたれば、いかにともせんすべなく、丸太町の河原に暫彳てありしに、もとより相識人の疊、戸、障子などこゝに運ぶにあひて、其雜具をまもる事をたのまれて居たるに、頓て若き男走り來て、えもいはずきらびやかなる箱の大なるに、眞紅の綱かけて結びたるを携へ、しばしたのみ參らすよしいひて走り去ル。其男何か懷より小サきもの落せしを見し故、行てみれば金也。拾ひ上て夫レをもあづかりける。其日もあけの日もそこにくらして、火もやうやう靜ぬれば、戸、障子の主より人をおこせて運びぬるが、其箱も金もとりにきたらず、誰ともしらねば、さだめて煙にかこまれて死やしけん、とせんかたなく覺えて、先金の包をときて所書もや、とみれどそれはなし。されどすこし心當の名見えしかば、もしやと尋ね行しに、其所の金にてありしかば、さは此箱も其家の物にてあらんといへれど、それはしらぬよしにて、彼金の謝禮に金五兩參らせんと出しけれど、かつてうけず。其代りには此箱のぬししるゝまでは宿かし給へとて、そこに有ながら、人の行來多き所にかたげてありきしに、三日といふに、黑谷門前にてある侍見とがめて、其箱はいづくよりいづくへ持行ぞといふ。さてこそとうれしく、われ河原にて此箱をたのまれて預りしが、其人誰ともしらず。返し所なきにわびて、かく持ありき尋給ふ人をまちし也。内のものをさし給へ、あはゞかへし申さんといふ。中のものはえしらず、まづはわが殿へ來り給へとて伴ひしが、やごとなき御方也。此殿の稱號、又男のありし寺、かの金をかへせし家の名など、憚りて記さず。さて奧より小折紙にて、其品々を書出し給へるが、金銀をのべたる葛屋の香爐、銀の茶碗、一角の獅々の形したる墨臺、大小刀の七所拵の金物二タ通、古鏡三つ、壇道齋が持たる硯など、これかれの品物、凡五十餘品也。誠にたがふ所なしとて返し奉れば、御褒美の品、御衣など迄かづけ給りしかど、固く辭してうけ奉らず。所はいづこの者ぞ、と尋給へば、しかじかのよし申シ、此御箱さへ返し奉れば、明日にも江戸へ罷立候はんよしを申す。さらば某ノ侯のもとへ着ケよとて御消息をたまふ。其御文をもちて下り、其邸に尋よりけるに、かのよしをもこまごまと仰ありしかば、やがて休息所を賜ひぬ。其日、靑侍一人つくづくと要介が顏を見るもの有しが、夜に及びて、ひそかに其休息所に來り、若シ以前は下京におはして治良兵衞殿とは申さゞりしか、といふ。要介、いかにもしかり、いかにしておのれがむかしの名所をしらせ給ふやととふ。其事にて侍ふ、おのれは幼名七之助にて、十三の時浪花へやり給ふ後も、かしこの若者と心を合せ、さまざまあしきことをのみせしかば、かの所にも住佗たる比、堺の邊に東雪といへる僧、此地に下りたまふ供にやとはれて下りけるが、道すがらのやどりやどりにて、さまざまの物語に、身の上をも明し侍りしかば、心を盡して御教訓にあづかり、其後、心を改め、此御家へ參りても十七年に及び、今は不肖ながら侍になり、御おぼえも大かたならず候に付ても、唯明暮二タ親の御事のみ心に掛り、神佛に祈りしが、四年のさき主の御用にて京へのぼり侍し時、下京の住給ひしあたりを尋ねしかども、御ゆくへしられず。殘多キながら、日數限有て罷下りしが、はからずもふたゝびめぐり逢奉ることのうれしさよとて、涙せきあへず、明の日は侯にもかくとしらせ奉りしかば、親子ともめしつかふべきよし仰ありて、父は厨の長になど仰有しを、京にも約クせしことあれば、かへりのぼり度よしを申して、とかくせしほどに疝を病みて醫療殘る所なく、もとよりあたゝかに着、口にかなふ食を喰ひなど、孝養せられて、つひにこゝにて終れり。彼子が立身故に家名もたしかに殘れり。此家名も憚りてこゝにもらしぬ。 爲リ人ト正直淳朴にて、彼箱を返し奉り、其報ひをも辭し申せしにより、はからぬ邸に參り、捨たる子にめぐりあひ、殘る所なく介抱せられて身まかれり。もし京にて病たらば、災後の家もさだかならぬ時にて、親族もなく、いか斗の侘しさならんに、正直の德忽チあらはれたりといふべし。

(追記)

花顚因にいふ、此天明壬申歳の大火、正月晦日朔日、兩日、洛中洛外あまねく燒亡せるは、ためしまれなることなり。これは予雨月庵の記といふものに錄し、又諸家の記錄も多ければこゝにはもらしぬ。閑田子も亦、かぐつちのあらびといふ筆記せしを、何ものかかすめとりて、他の語をもまじへて俗文にうつし、花紅葉都噺とかいへるものを印行せり。其ころ諸家、和漢の文章此災をしるせるもの多し。 されども平日心得置べき火災の備へを記して、人のためにす。

○柳骨折の比よきに、れんじゃくをかけて、笈のごとく仕立るものを用意し置べし。大家には數あるべし。小家にても一つはあるべし。急火といふ時、物をいれて背に負べきため也。或人、蚊帳を袋にして衾夜着の類を入て持しが、門につかへてくるしむうち、火近くなりしかば、捨てにげたり。又車長持といふもの便なるに似たれども、寶永大火の時に辻々にせきあひ、老人女子などそれに隔られあやまちするもの、死たるものも多かりしとぞ。凡大きなる器はかへりて益なく障り多し。

○予がしたしき人、銅にて作りし三つ套の鍋、木碗、磁器、酒器、箸などを片荷とし、味噌、鹽、醤油、米、酒などを又片荷にしたるものを作り、擔厨と名づけて、春秋、山野遊行に携へ興ぜしが、此大火に東山に遁れてあるときゝて行訪ひしが、此たびは此擔厨にて十七人心よく凌たりと話せり。是は不意に用をなせるものなれども、變は計るべからぬものなれば、乏からぬ人はかうようの備へも有たきものなり。

○火にあひては倉より外にたのむものなし。然るに倉に火の入ルは大やう下の石垣燒て、其氣、内の柱につたふ故なり。石垣はひきくし、ぬりごめにするがよしと見ゆ。又倉を閉る時釣瓶車繩などを口に入て閉べし。若開きて火ある時、速に水を汲べきため也。凡ソ火さへ鎭まらば頓に戸を開べし。久しき時は火氣こもりて内より燒出す也。閑田子云、此大火に二三日、四五日をへて倉燒出し所多し。是京師の人、火事にうとければなり。江戸にては居宅燒はつればそのまゝ倉にかゝり、先、戸をすこし開き水をうちこみ、漸々にひらくよし也。江戸は火早き所ゆゑ、人々馴て倉をやくこと稀也。足駄一足持て遁るべし。足駄なれば少しの火をも踏べく、釘のたぐひにあしを損ることもなし。閑田子またついでにいふ。急火に倉の窓の目ぬりする土なくば、塀をくづして其土をもてぬるべし。又倉なき人は雜具の携べからざるものは、地に置て、其上へ塀を覆ひ置て遁べし。大かた燒ず。時にあたりて此働をせし人ありしと、昔相識ル老人かたられし。手近きことも變にあたりては心づかぬもの也。治に居て亂をわすれずといふごとく、つねに心がけあるべきものなり。

   《引用終了》

「草津の驛」は草津宿は東海道五十三次の五十二番目の宿場。現在の滋賀県草津市。「目川の里」は現在の滋賀県栗東市目川。「柳骨折の比よきに」柳行李の程よい大きさのものに、の意。――これを読んだだけでも、「耳嚢」よりは、遙かにプラグマティクで、有益な書でありますぞ、根岸殿!――

・「連尺」「連索」とも書く。物を背負うのに用いる道具。肩に当たる部分を麻繩などで幅広く編んだ荷繩や、それを木の枠に取り付けた背負子(しょいこ)などを指す。

・「番袋」雑物を入れる大きな袋。武家では武士が宿(とのい)の際に衣類などを入れた袋を指す。

・「兩掛」旅行用の行李(こうり)の一種。挟箱(はさみばこ)や小形の葛籠(つづら)を棒の両端に掛けて肩に担いだものを言う。

・「火口」火打ち石で発火させた火を移し取るもの。麻などの茎を焼いた炭、また茅花(つばな)などに焔硝(えんしょう:硝酸カリウム。)を加えたものが用いられた。火糞(ほくそ)とも言った。

・「附木」火附け木。檜・松・杉などの薄い木片の先に硫黄を塗りつけたもの。火を他へ移したり、火口に移した火をこれに点けて燃え立たせたりする。

・「京の事なれば薪やうのものも少し入て貯へしが」この部分、何故、特異的に「京の事なれば」薪が非常用に必要なのか、意味不明である。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火事の用心の事

 

 寛政丁巳(ひのとみ)の年に板行(はんぎょう)した「近世畸人伝」とか申すものは――格別、実用に足ることも御座ない――何でも、閑田庵(かんでんあん)主人とか申す者の作にて――まあ、いろいろと奇なり、と思うことを書きて――そうさ、ただ、耳目の慰めと致すような雑文集なれど――されどまた、日常の教えになるようなことも、これ、一つ二つは、御座った。

 その中(うち)の一つに、天明壬申(みずのえさる)の京都大火の折り、洛中の蔵なんど、大方焼けて、古物(こぶつ)やら財宝やら、数多(あまた)、焼失致いたが、その火事の際の心得を書き記した条に、

 

◎一般に火災後は、土蔵へは速やかに立ち戻り、辺りの火を早急に消火し、燃え残った燃焼性の瓦礫などを撤去、十分に水を打って、土蔵の戸の前へも十二分に水を打ってから、素早く戸を開かねばならない。さもないと、火気が土蔵内に充満して、自然発火を起こすことがあるからである。

◎且つ、軽量である柳行李(やなぎごおり)の大振りなものを、その所持している財物の実際量に応じて事前に準備しておき、連尺――背負うための荷繩や背負子(しょいこ)の類い――を、やはり事前に、その柳行李に装着しておけば、その行李の内へ入るだけのものを詰めおけば、これは、一人でも担ぐことが可能なので、火事の際に持ち出だすのには、極めて便利である。欲を出して、大型の番袋(ばんぶくろ)などへ、入るだけ入れてぱんぱんに膨れ上がったそれを担ぎ出そうとしても、持ち悩んで疲れ、果ては諦めて火事場に捨てざるを得なくなる場合が多い。

 

と書いて御座った。これらの事実は、火災及びその予防の際の心得になりそうな事柄ではある。また、

 

◎ある者は、遊山・旅行用として専用の両懸けを拵えておき、その中に常時、火口(ほくち)・附木(つけぎ)といった品々や――京のことであるから――薪(まき)のようなものも、少し入れて常備しておいたが、かの大火の折りには大いに役に立って、家作を焼かれなどして避難致いた者でも、家内の者どもとともに、火災後三日間ほどの間は野外にて煮炊きなんど致し、餓えずに済んだ。

 

という部分などは、実に面白い記載であるによって、ここに記しおくものである。

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