西東三鬼 拾遺(抄) 昭和十一(一九三六)年
昭和十一(一九三六)年
ボロの旗天から埀れて日が暮れる
[やぶちゃん注:『傘火』六月号所収の「戦死」連作八句の掉尾。]
靑子昇天
昇天せりてつぺん靑きマストより
昇天せり霧笛のこだま手にすくひ
昇天せりつばさに潮の香をひそめ
昇天せり穢土には凡愚詩をつくる
[やぶちゃん注:『旗艦』一月号。四句連作の喜多靑子(きたせいし)追悼句。]
木馬館今もあり
さむき夜のおんがく褪せて木馬館
木馬めぐり星辰まどにふるびたる
くらき人木馬と老いてうづくまる
のがれゆく木馬の影を影が追へる
とこしへの木馬の輪廻凍てゆける
[やぶちゃん注:『京大俳句』一月号。五句連作。この「木馬館」とは、恐らく、浅草木馬館のことと思われる。ウィキの「通俗教育昆虫館」(木馬館の前身の旧正式名称)によれば、明治四〇(一九〇七)年に昆虫学者として有名な名和靖(なわやすし)が日露戦争勝利記念に昆虫館を建設したいと考え、東京市に「昆虫知識普及館」の建設を申請、土地を貸与され、同年四月二十一日に「通俗教育昆虫館」の名で開館した。開館当初こそ人気があったものの、すぐに経営は行き詰まり、後に浅草喜劇の俳優曾我廼家五九郎の援助を得て、それまでの木造から鉄筋コンクリート二階建ての建物へと改築、大正七(一九一八)年には根岸吉之助率いる根岸興行部に経営が移って、大正一一(一九二二)年には昆虫の展示は二階部分のみとなり、一階には木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」、やがて「木馬館」となった。昭和六(一九三一)年には昆虫展示が消え、大衆演劇の舞台となって、現在も存続している。]
銀簪を發止と星のその響き
[やぶちゃん注:『傘火』三月号の「星と或る家族」の連作五句の四句目。]
滿月できちがひどもは眠らない
月夜です閑雅な鳥は留守でした
僕は
盗汗ふくまつはる詩魔を惡みつゝ
[やぶちゃん注:「盗汗」は「ねあせ」で、寝汗のこと。『旗艦』三月号所収。]
絶對安靜
雪降れり妻いつしんに釘を打つ
小腦を冷やしちいさき猫とゐる
水枕がばりと寒い海がある
盗汗ふくまつはる詩魔を惡みつゝ
不眠症魚はとほい海にゐる
汽笛とべり窓の乳白曉ちかき
[やぶちゃん注:『京大俳句』三月号。知られた「旗」の句の初出形(四句目は既出であるが採録した)。表記やその他、有意な差がある(なお、以下の「磔刑の唄」の再校形も参照のこと)。前年昭和一〇(一九三五)年十一月、三鬼は胸部疾患で入院している(朝日文庫版三橋敏雄氏の解説には肺浸潤とある)。但し、発表一ヶ月後の四月には全治した旨の記載が底本の年譜にある。]
磔刑の唄
小腦を冷やしちいさき魚を見る
夕刊の來ぬ夜ましろき檢温器
水枕ガバリと寒い海がある
仰向の磔刑あをく夜を燃ゆ
不眠症魚はとほい海にゐる
汽笛とべり窓の乳白朝遠き
[やぶちゃん注:『天の川』三月号。前の「絶対安静」句群の再校形。]
レントゲン寫眞
肺臟
降る雪ぞ肺の影像(ヒルム)を幽らく透き
肋骨
雪つもる影像(ヒルム)の肋かぞふ間も
坐骨
骨の像こゞし男根消えてあはれ
びつことなりぬ
春夕べあまたのびつこ跳ねゆけり
[やぶちゃん注:『京大俳句』四月号の連作四句。]
船めざめ月より蒼き日を航ける
[やぶちゃん注:『天の川』五月号の「北海」連作五句の巻頭。]
螢賣る少年森の坂上に
[やぶちゃん注:『京大俳句』五月号の「井の頭公園」連作五句の掉尾。]
議事堂を背に禁苑の兵を視る