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2013/02/19

金銀花 火野葦平

実は昨日来、僕は確定申告のための書類作りという、実に忌わしい作業に時間を潰してきた。あと数欄を埋めるというところの、最後のツメで遂に、数字も金も大嫌いな僕はお手上げとなった。――もう流石に、いい加減――厭――になった。後は、もう、どうなっても構わないという気になった。――実にアホらしい――これで持っていってどうとでもしろ!――と、叫ぶつもりである(私はもともと税務署とは相性がとりわけ悪いのである)――僕のようなたいした金も持たないド素人が、一から最後まで出来ないようなシステム自体が、そもそもおかしい――という気になってくる。

それで投げ出して終わり。

今日は未明から8種の進行形電子化テクストを総て作業した。――いやもう、実に爽快にして痛快――やっぱ、さ――野人に金の計算は――似合わねえよ――

 

   金銀花

 

 こけつまろびつ駈けこんできた者が、日ごろから周章者(あわてもの)の筆頭と目されてゐる河童だつたので、なみゐる仲間たちは、その重大な顏つきにもかかはらず、まづ笑つたのであつた。しかし、笑ひの波が全部に浸透しないうちに、直感と思慮とにするどい者が、たしかに、使者の用向が、その騷擾(さうぜう)に倍する重要な、そして、自分たちにすこぶる關係ぶかい内容を持つてゐるにちがひないことを看破した。

「笑つてはならぬ」

 その重々しく、豫言者のやうにきこえたので、笑ひのどよめきはすぐに止(や)まつた。

 使者の河童は笑はれた口惜しさなどは感ずることのできぬ鈍感者であつたので、この沈默に滿足した。そして、甲羅と膝の蝶番(てふつがひ)とをひきしめ、ぼとついた黄色い嘴を、高角砲のやうに天にむけて、

「新しい金銀花(すいかづら)の畑を見つけたぞ」と、叫んだのである。

 たしかにそれは颯爽としてゐて、勝利の豫感をつたへてゐた。仲間たちの間にはじけるやうな喊聲(かんせい)があがつた。立ちあがり、拍手し、肩をたたき、手を握り、抱きあふ者もあつた。椅子や瀨戸物のかけらを入れた塵箱をかきまはすやうな音がしばらくつづいて、また、沈默がきた。よろこぶには早かつたのである。かれらの思考は飛躍し勝ちで、しばしば順序を忘却する。河童の腦髓の組織は、あらゆる地上の生物のうちで、もつとも非科學的、非體系的であるといはれる。このための失敗は多くの歴史上の事實が證明してきた。千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間、等等、枚擧すれば遑(いとま)がないほどである。しかし、そのかずかずの失敗と教訓も、河童の生來の樂天性を頑強に變更するにいたらない。だからして、どの文獻にも、暗愚なるものは河童である、などと書かれるのである。

 しかし、いまは、金銀花(すいかづら)の畑の存在と、自分たちの幸福とがただちにつながるものでないことを、珍しくも短い時

短い時間に氣づいて、はたと鳴りを靜めたのであつた。

「それは、どこにあるのだ?」

 と、皆を代表して、先刻の分別ある長老が聞いた。

「そ、そ、そ、そ、そ、それは」と、まだ使者の興奮はさめてゐなかつた。「こ、こ、この向かふの、あ、あ、足無山(あしなしやま)の崖のかげに、……」

「距離はいかほど?」

「や、や、約、三千メートル」

「畑のひろさは、われわれの清掃作業に耐へ得る程度かね?」

「耐へても耐へなくても、われわれの死活の問題、一致團結してやらねばならんです」

「それはわかつて居るが、あまりに厖大(ぼうだい)であれば、われわれの能力には限界がある。もとは千を數へてゐた仲間が、金銀花の被害で、いまはもう五分の一しかゐないんだ。しかも、疲弊し、病人もあれば、怪我人もある。われわれにはもう餘力がなくなりつつあるんだ」

「そ、そんな自信のないことをいつてはいけません。放(ほ)つておいたならば、全滅のほかないです。金銀花はわれわれ河童にとつては、人間界の原子爆彈より恐いものだ。人間奴、ひどいことを考へつきやがつた。どこから、この祕密が洩れたのか、裏切者がゐやがるんだ」

「今ごろ、そんなことをいつてみたところで始まらぬ。よろしい、ただちに出動、その金銀花を殘らず刈りとらう。原形のままであれば、まつたく被害はない。災は未然に防がねばならぬ」

 異存のある者はなかつた。

 注進者が道案内に立ち、仲間はこれにしたがつた。行軍の陳列は勇壯とは義理にもいへない。二百匹ほどがたそがれの林間の小徑(こみち)をすぎて行つたが、それは、冬ちかくなつて、羽は破れ、足の蝶番はゆるみ、觸角すら折れた蟋蟀(こほろぎ)の一隊が、どこぞまだ生きのびる餘地はないかと、はかない摸索をつづける姿に似てゐた。隊列はみだれ、肩を借りてゐる者もあれば、這ふやうに足を引きずる者もあつた。多くは無言であつたが、なかには突調子もない陽氣な節で、河童音頭を歌つてゐる者もある。しかし、その聲がはちきれさうな元氣からおのづから溢れてきたものではなく、やけつ鉢からの怒鳴り聲であることは、誰にもすぐわかつた。泣き聲が高調すれば、笑ひ聲にきこえるものである。攻撃に出かけるにもかかはらず、退却する敗殘の列のやうに見えた。

 陽(ひ)が落らて、森は暗くなる。夜目の利(き)く河童は、その點はすこしも困らない。金銀花の被害で、鳥目になつた數匹が、友人の肩に手をかけて、とき折つまづく程度である。河童の一隊のすぎたあとには、蛞蝓(なめくぢ)の這つたあとのやうに、粘液(ねねき)の足跡が、銀の八つ手の葉を散らした亂雜さで、にぶく殘照を反射してゐる。

 まがふかたなき金銀花(きんせんか)のにほひが、風に乘つてきた。鼻孔をひろげられるだけひろげて吸ひこみたいやうな芳香である。凄艷な女性たちへ、愛とささやきとの夢をたぐりよせる茉莉(まつり)花や、玉蘭に類するこのうつとりする香氣、それがいかにして河童たちへの毒となり、生命をおびやかす武器となるのであらうか。傳説の掟のきびしさを知ることは毎々のことながら、河童たちはその攝理を輕々には納得できず、無念さはやる瀨がないのである。人間たちがその方法を發見して以來、河童の世界は大恐慌(きやうくわう)をきたし、實際にその威力に屈伏して、つぎつぎに仲間が減つたのであつた。

 身内のとろけるやうな芳香と、乳白色の細かい花とに、昔は河童たちとて美を感じないでもなかつたのに、それが自分たらを滅ぼす武器となつてからは、もはやただ見るも聞くも胸糞が惡いばかりであつた。なにがきつかけで、さうなつたか。その動機はたれも知らない。ただ、人間どもが金銀花の花瓣を煎じつめた液汁をばらまくことによつて、河童の害を封じ得るといふことを知り、實際にそれをおこなつてきた事實だけが、嚴然としてある。そして、それだけで十分だ。その液汁が體にふれたならば、そこのところから腐りはじめて。まるで、雪だるまが陽にとけるやうに、いかなる措置(そち)も效を奏せず、河童は消滅してしまふのである。河童は死ねば靑みどろいろのどろどろした液體になつてしまふので、河童たちの屍骸は、面積をひろげて、地上にはびこる。すると、そのために、農作物は枯れ、これを啄む犬や猫や鳥は死に、鷄は發狂する。さうして、人間どもはさらに怒りを發して、河童の剿滅(さうめつ)を期し、因果關係ははてしもなかつた。

 ところが、河童たちには、實は、わけがわからないのである。この恐るべき復讐が、なんのために、自分たちに加へられるのか。加へられなければならないのか。河童たらはこの膽無山(きもなしやま)に群棲はしてゐたが、自分たちだけの世界のなかで生活をし、いささかも人間たちと交渉を持つたおぼえはなかつた。他の地方の仲間たちのやうに、人間の尻子玉を狙つたり、角力を挑んだり、馬を水中に引きいれたり、野菜畑を荒したりしたことは、一度もなかつた。そんな必要はさらになかつた。ここにある沼や水流には、食餌が豐饒(ほうぜう)である。遊戲にしたところで、仲間うちだけで結構たのしく遊ぶことができた。地方地方によつて河童の性情も異る。膽無山の種族は、人間たちにすこしも興味を持たなかつたし、したがつて、これと交渉をもちたいと考へたことは、一度もなかつた。その人間から、仇敵として攻撃を加へられ、つぎつぎに仲間が死んでゆく羽目になつたことが、かれらにはどうしても納得がゆかないのである。

 不可解な攻撃に狼狽して、額をあつめて、研究してみたこともあるが、滿足の解答は得られなかつた。理由が一つとして浮かんでこない。

「人間どもから恨みを買ふことは、天地神明に誓つて、みぢんもない」

 結論はいつもそこへきて、それからの論議の展開しやうがない。河童は當惑するばかりである。

「これは、なにかの誤解にもとづいてゐる」

「たれか人間と接觸した者はあるまいな? 山の法則を破つた者はあるまいな?」

「そんな者はない」

「人間どもに使ひを立てて、この理不盡な攻撃の理由を聞きに行つてはどうだらう?」

「人間と口をきくことは、嚴に禁じられてゐる。絶對に祖先の遺訓を破つてはならぬ」

かういふ調子で、何十囘會議をひらいても、議論は堂々めぐり、小田原評定、吐息で終るのが落ちだつた。この間にも實際問題として、金銀花の液汁撒布による仲間の犧牲は相ついで、不安と絶望の空氣は、河童たちのうへを掩ひつくした。そして、かれらの考へ得、なし得る最大のことは、恐るべき武器たる金銀花の絶滅をはかるといふ消極的防禦法にすぎなかつた。ともかくも、地上から金銀花の姿を沒し去る、それのみが救ひだと信じた。早速、この淸掃事業は實施された。着々とすすみ、成功もした。人間どもはその畑の所在を隱さうとはしなかつたので、はじめは、河童たちの方で、人間どものお人よし、馬鹿さ加減を笑つたほどである。ところが、その勝利感が虛妄(きよまう)であつたことの悟りは、意外に早くきた。それはただちに絶望感とつながつて、河童たちを憂鬱にしたのである。金銀花を地上から絶滅することは不可能事に屬する――その認知の打撃は小さくなかつた。人間を嘲笑してゐた河童たちは、逆に、人間どもは魔法使ひではあるまいかと、恐怖するやうになつた。金銀花の淸掃の間斷なさにかかはらず、また地上に金銀花の間斷のない開花があつた。河童の信念がぐらつき、不安と恐怖はいやがうへに增大して、戰慄と變るのである。

 河童たちは巨大な努力を費しながら、その作業は根本のものを忘れてゐた。金銀花の花をちぎり、枝を折り、莖をたふしたけれども、根を掘ることはしなかつた。かれらは誕生の原理については、なんら知るところがないのである。鳥や蛇が卵から生まれ、自分たちが胎内からいでて繁殖することは知つてゐたが、大地に根ざしたものの生長の原理は知らなかつた。したがつて、金銀花は花瓣や枝や莖はとりさられたが、根はつねに殘されたので、ふたたび、そこから莖を出し、枝をひろげ、花をつけた。さうして、人間によつて、呪禁(まじなひ)の液汁がこしらへられ、河童たちのうへにばら撒(ま)かれた。

 人間たちの持つてゐる武器には、河童たちは辟易せざるを得ない。脱れやうがないのである。ポンプの先から霧となつた毒液が、森林のなかに充滿してきて、たちま苦痛が身體を襲ふ。身體が腐りはじめ、溶けはじめる。川にも流れにも、毒液をながすので、もうそこにも棲むことができない。食餌(しよくじ)を奪はれて、飢餓らおとづれる。仲間は減り、のこつた者も、疲弊で病人同樣なり、金銀花除去作業の際に傷つく怪我人もふえる。

 暗愚なるものは河童である。何度それをくりかへしてもあきたらぬほどだ。封建的といつてもよいかも知れない。

 かれらは恐怖にさらきれながらも、頑強に傳説の掟を守り、人間へ復讐しようとしない。防禦に專念してゐるばかりで、攻撃に轉じようとしない。勇氣がないのであらうか。ないやうに見える。しかし、かれらを怯懦(きようだ)といふことはできないのである。あからさまに死にさらされてゐながらも、なほかつ傳説の掟を守らうとする精神こそは、勇氣の最大なものとはいへまいか。たしかにさうにちがびない。さうすれば、河童を勇氣なきものといふことはできない。しかしながら、暗愚なるものといふことはできるのである。

 河童たちは疲れた。そして、人間たらも疲れた。戰ふものが疲れるのは當然である。どちらもがおたがひの執念深きを呪ひあつた。

「金銀花の液汁が河童の害に神效があるなんて、噓ぢやないのか」

 と、今度は、人間の方で合議がはじまつた。

「どうもをかしいな」

「さうだよ。これだけ撒いても、害が減るどころか、ふえる一方ぢやないか」

「河童が怒つたのかも知れんぞ。あの、どろどろの靑苔のやうな汁を、耕作物のうへに撒き散らすのには、往生するなう。折角の作物が全部だめになるわい」

「近來、ことにあれがひどいぢやないか。それに臭うて、傍にも寄りつけん」

「なにか、もつとはげしく利く藥はなからうかなあ? 金銀花ぐらゐぢや、たちのわるい河童どもにや、こたへんのかも知れんぞ。なにしろ、河童といや性惡のどうじれもんぢやからなう」

人間たちの會話は、河童たちにとつて、不可解きはまるものといつてよかつた。一個所として理解することができないのである。なにか、どこかに、まちがつてゐるところがある。そして、その根本のものの食ひちがひが、次々に新たな誤解を生んで、收拾(しうしふ)することができなくなつたのである。

「たれか、人間に害をあたへた者があるか」

と、今度は、河童の方の會議になる。しかし、この研究はすでに何十囘となくくりかへされたことで、小田原評定の結論は、たれひとりとして人間に害を及ぼした者はない、害どころか、交渉ら持つた者はないといふ一點に、つねに落ちつく。噓をついてゐる者はゐないのである。河童は暗愚ではあるけれども、噓はつかない。暗愚とは正直といふことである。

「たれか、人間をおどろかした者はないか」

或るとき、ふと出たさういふ質問に、二三、首をひねつた者があることはあつた。そのうちの一匹が語つたところによると、――或る月のあかるい夜、芒(すすき)と角力(すまふ)をとつてゐた。芒はゆらゆらと月光に銀の頭をふりながら、自分の相手になつてゐた。自分がいくら捻(ね)ぢたふしても、張りとばしても、芒はもとの姿勢に立ちなほる。今度は拳鬪で、芒とたたかつた。自分もすこし醉つてゐたし、いくらやつつけてもふらふらとはねかへる芒が面白くて、いつまでもいつまでも芒と遊び戲れてゐた。そのとき、かたはらで、ばたばたと音がした。鳥の羽ばたきのやうにはじめは思つた。ふりかへると、それは人間で、自分を見ると、ぎやらつといふやうな聲を發して、一目散に逃げ去つた。ばたばたといふのは人間の冷飯草履(ひやめしざうり)の音なのだつた。夢中で芒と遊び呆けてゐて、いつか、消してゐた姿があらはれてゐたものとみえる。しかし、びつくりしたのはこつちの方で、人間と交渉を持つてはならぬといふ山の法則を思ひだすと、こららも一目散に、沼に逃げ歸つたのであつた。

 それから、また一匹の語るところによれば、――そろそろ、夜あけがたのかはたれのうす明りがほの見えるころ、自分はいつもの習慣で、流れの岩のうへに端坐して、詩を口吟(くちずさ)んでゐた。潺湲(せんかん)の音がこころよく耳に入る。流れに浸した足の水かきにやはらかく生ぬるい水が觸れてゆくのが、なんともいへず心地よい。東の空がしだいに明るんでくるのを眺めながら、詩を誦してゐると、恍惚と、一種の三昧境(さんまいきやう)に入つてくる。自分は眼をとぢ、詩を、(その詩は、自分たちの理解者であり、知己であるアシヘイさんの「皿のなかの天」といふ詩なのだが)しまひにはお經のやうに聲高に朗吟してゐると、耳にはげしい水音がきこえ、飛ばちりが自分の顏にかかつた。おどろいて目をあけると、對岸の土堤(どて)を、數人の子供たらが一散になにか喚(わめ)きながら、走り去つてゆく姿が見えた。土橋のうへを通りかかつた子供たちが、自分の姿を見た模樣だ。水音がしたのは、びつくりした拍子に、なにかを川のなかに落したものらしかつた。それはすぐに川底に沈んでしまつたので、なにを落したのか、自分は知らない。自分もいい氣になつてゐて、姿を見られた失敗に狼狽し、あわてて、水中にもぐつた。

 さういへば、自分も、と、人間に倉つた經驗を語りだす者があつたが、衆議は、さういふことは、人間に害をあたへたといふことにはならない、いづれも似たやうな他愛もない失敗談で、と一決した。さすれば、人間の考へかたはとんと腑(ふ)に落ちず、攻撃や復讐を受ける道理がのみこめないのである。

 新しい金銀花(すいかづら)畑の發見に、最後の努力をかたむけるやうに、敗殘の河童の隊が、もう暗くなつた林間の小徑を行つた。隊列はばらばらになり、落伍する者も出たが、ともかく、やがて目的の足無山の崖のかげにたどりついた。月はなかつたが、星あかりに、白い金銀花の花瓣が浮きあがり、芳香があたりいちめんにただよつてゐる。かすかな風があつて、香氣はさらに抑揚を增した。しかし、河童たちには、その花の香も色も胸糞のわるさを誘ふばかりで、たれが指圖するまでもなく、作業はすぐにはじめられた。

 花瓣はむざんに引きちぎられ、襤褸(ぼろ)のやうに、用意の藁苞(わらづと)のなかに投げこまれる。一枝でも殘すことはできないのである。枝と莖とは折られたまま、畑のなかに積みあげられた。疲れた河童たちにとつて、この仕事は樂ではなかつたが、自己の生命と生活とを護る熱意に燃えて、金銀花畑は蠶(かひこ)に食はれる葉のやうに、端からつぶされていつた。花瓣をちぎる音、枝や莖を折る音が、靜かな夜の空氣にこだました。

 これは、たしかに不思議な光景にちがひない。河童たちは注意ぶかく姿を消してゐる。そこで、たれもゐないのに、花が散り、杖が折られる。事情を知らぬ者は妖怪變化(えうくわいへんげ)のしわざと思ふだらう。ところが、河童たちは、またしても人間たちの陷穽(かんせい)に落らてゐたのであつた。

「やつぱり、きやがつた」

「一匹も逃がすな」

 その聲とともに、數人の屈強な若者が、崖の根の楠の巨木のかげからをどり出てきた。彼らの手にはそれぞれ喇叭(らつぱ)のやうな噴霧器がにぎられてゐる。人間の眼に河童の姿は見えないが、金銀花の花や枝や莖のうごきによつて、河童の所在はまがふかたもないのである。彼らは人間のうちでも、智慧と勇氣と義俠とに富む者たちにちがひない。これまで金銀花畑が荒されたことを知つて、かならずこの畑にもくることを豫期してゐたのだ。河童たちがこの崖下の忍冬(すいかづら)畑が囮(おとり)であつたと氣づいたときは、もう遲かつた。ぐるりと畑をとりまいた人間たちは、下等な掛聲を發しながら、荒くれたやりかたで、噴霧器から、毒汁を撒布しはじめた。

 驚愕した河童たちは、脱れるために散らうとしたが、疲弊のため動作が緩慢で、その大部分は毒液を浴びた。ばたばたと重なりあつてたふれた。辛うじて、その場所から脱出した者も、方々で、力つきて、たふれた。

 混亂におちいつた河童たちのなかに、傳説の掟を破らうと決心した者があつた。死と絶望とのあたへた勇氣である。遲い覺醒ではあつたが、眞理を熱望する願ひが、はじめて、すでに苦痛のはじまつた肉體のなかに燃えた。

 かれは、この山の河童の歴史のなかで、人間に口を利く最初の一人であり、そして、最後の一人であつた。かれは、頭の皿を一囘轉させて、人間たちのまへに姿をあらはした。そして、叫んだ。

「あなたがた人間は、いかなるわけで、われわれ河童をかかる無殘な目にあはせるのですか」

 返答は得られなかつた。薄闇のなかに、すつくと立つた異形のものに、びつくり仰天した人間たらは、ぎやらつといふ悲鳴とともに、先をあらそつて逃げだした。勇氣ある者とはいへ、さすがに眼前に、化生(けしやう)の者が立ちあらはれて、怒れるさまに呼號するのを見ては、膽を冷やしたものであらう。たちまち、人間たちの姿は夜の闇に吸ひこまれ、足音が消えた。

 河童は呆然となつた。しばらく、魂を拔かれたやうに立ちつくしてゐた。やがて、力が盡き、空氣を拔かれた風船のやうに、そこへしぼみたふれた。全滅した仲間の姿へ、うつろな眼をやつた。折角、戒律を破つたのに、人間の答はなく、解決は得られなかつた。しかし、かれはなにか滿足してゐた。解體してゆく肉體のなかで、なにかの新しい精神が生まれてゆくやうな、暖かいうごめきを感じた。過失ををかすのは人間の天性であつて、河童の存在がその證明となつたのだと、おぼろげに解することができた。が、存在そのものが罪惡であるといふのは、いかなることであらうか。が、もうそんなことは、河童はどうでもよかつた。頭の皿の水がすつかり流れ出、身體が足のさきから溶けてゆくのを感じながら、意識をしだいに喪失したが、同時に、妙にふわふわと身體が輕くなつて浮くのを感じた。きらめく星が銀河の壯大の流れをはさんで、朦朧となつた視野のなかにしだいに近づき、空氣がつめたくなり、耳元で鳥の羽ばたくのをききながら、あとはなにもわからなくなつた。

 朝になつて、人間たちのぼやきは大きくなるばかりである。勇敢な靑年たちの河童退治、金銀花畑の襲撃はすこぶる不評判である。一匹も退治ることができなかつたばかりではなく、たつた一匹に怒鳴りつけられて、腰を拔かして逃げた。怒つた河童は、あつちにも、こつちにも、これまでになかつたほど大量に、例のどろどろの靑汁を撒き散らした。そのため農作物の被害は甚大で、本年度の供出に支障をきたすことは明瞭だ。またしても罰則を受ける、といふのであつた。かくて、人間たちは金銀花がなんら河童征伐に卓功がないといふ教訓を得て、はじめて、ここに、その栽培を斷念したのである。さうして、新に、河童の害を防ぐ大がかりな對策委員會が設置せられた。

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年の『九州文学』第一一四号五月号に所収されたものが初出であろうか(古書店目録に拠る推定)。

「金銀花」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ Lonicera japonica。常緑の蔓性木本。作品の後半で出るように別名を「忍冬」、「ニンドウ」とも言う。花は五~七月に咲き、甘い香りを有する。参照したウィキの「スイカズラ」によれば『蕾は、金銀花(きんぎんか)という生薬、秋から冬の間の茎葉は、忍冬(にんどう)という生薬で、ともに抗菌作用や解熱作用があるとされる。漢方薬としても利用される。忍冬の名の由来は、常緑性で冬を通して葉を落とさないから付けられた』。また、『「スイカズラ」の名は「吸い葛」の意で、古くは花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことに因』み、『砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラ類の英名(honeysuckle)もそれに因む名称で、洋の東西を問わずスイカズラやその近縁の植物の花を口にくわえて蜜を吸うことが行われていたようである』とする。因みに、 花言葉は本話には皮肉なことに――愛の絆――である。

「千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間」最初の三件は本底本の既出作品に描かれている。

「原子爆彈」この語によって、これまでの「河童曼荼羅」の中で、初めて戦後の作であることが明白な作であることが分かる一瞬であると同時に、本作の寓話の暗い闇の一つのキ・ワードでもある。いや――それは遙かに福島原発の致命的な惨事を遠く寓話化しているように私には読めるのである。……

「茉莉花」双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ属マツリカ Jasminum sambac。インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生し、ジャスミン・ティーやハーブ・オイル、香の原材料として知られる。

「玉蘭」白木蓮のことであろう。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia heptapeta(シノニム Magnolia denudata)モクレンの仲間で白色の花をつける。しばしば、モクレン Magnolia quinquepeta と混同される。モクレン属の中では大型の種類で樹高は一〇~一五メートルにまで成長する、春、葉に先立って大形で白色の花が開き、香りの高いことで知られる。

「どうじれもん」底本では「ヽ」の傍点。小学館「日本国語大辞典」に、方言の動詞「どうじれる」として、子どもなどがすねて悪意地を張ったりすることをいう、とあって、方言採取地として山口県豊浦郡、愛媛県大三島に続いて、福岡県小倉とある。最後のそれである。

「冷飯草履」緒も台も藁で作った粗末な藁草履。

「潺湲」さらさらと水の流れるさま。「せんえん」とも読む。

『アシヘイさんの「皿のなかの天」』火野葦平の河童の詩と思われるが不詳。少なくとも「河童曼荼羅」の中には所収しない模様である(未電子化部分は精査はしていない)。識者の御教授を乞う。

「退治る」は「たいじる」と読み、名詞「たいじ(退治)」の動詞化したザ行上一段活用の動詞。退治する、討ち滅ぼす、の意。]

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