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2013/02/22

耳嚢 巻之六 孝傑女の事

  孝傑女の事

 

 享和三年の頃、御代官なる鹽谷何某(しほのやなにがし)の手代に、苗字は聞洩(ききもら)しぬ、林左衞門といえるありて、年頃廉直に勤めて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらん、勢ひよく勤めしに、一人の娘ありしを、同じ手代仲ケ間の世話にて、是も同じ手代類役(るいやく)の内へ媒(なかだち)せしが、いまだ事極りしにもあらず、況(いはんや)たのみなどとりいれしにもあらず。しかるに熊ケ谷邊の知音、かの林左衞門と懇意なりしが、右の媒にかゝりし手代を以て、彼(かの)娘を越後の國の豪家の百姓へ世話いたし度(たし)と、頻りにいひこしける故、彼越後成(な)る百姓は音に聞へし富家(ふけ)なれば、手代のかたへ嫁(か)せんよりは、遙(はるか)にまさるべしと、林左衞門夫婦へも咄しければ、夫婦も大きに悦び早速承知の趣にて、娘へもかたりければ、彼娘、何分越後へ嫁せん事はゆるし給へとて、斷(ことわり)に及びし故、父母は勿論、かの媒せし男も、いろいろうちよりいさめけれど、父母の命に背くは恐れあれど、幾重にも免し給へと斷るゆへ、媒もあぐみて考へぬれど、かの媒せんと始めかたりし手代は、年も四十にて年頃も相應にも無之(これなく)、容貌は大疱瘡(だいばうさう)にて醜といふの類ひ、いまだよき手代といふ程の人物にもあらざれば、戀慕執着のたぐひにもあらず。富貴(ふうき)を好むは人情の事故、ひそかにかの娘が内心を尋ねしに、素より右の手代の方へ嫁せんと好むにもあらず、しかれども、最初に物語り媒ありしは右の手代にて、追(おつ)て越後の豪家の農家より需(もと)むるとて媒あれば、全く富貴に目のくれて子を賣る罪、父母に蒙るべし、父は醇直(じゆんちよく)を以て今元締(もとじめ)等も致し、人も稱するに、此事にて慾にふけるの名をなさん、これ子の身としてしのびざるの事なりとて、何分合點せざるゆゑ、始は吉(きち)にして終り不宜(よろしからざる)もあり、縁談の値遇は人の憶智(おくち)にも及ばざればと、兼て心安(やすく)せし、相學に名ある栗原某を呼びて、いづれか吉ならんと相を賴みけるに、其の血色いかにも徹女(てつぢよ)にて、容色美わしきといふにはあらねど、十人には增るべき人相なり。しかれど、農家に嫁し或は田舍の事とり扱ふの手代などに嫁しては、いづれも不宜(よろしからず)、武家などへ嫁して可然(しかるべし)と判斷して歸りしと、右の栗原語り稱しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。深慮ある孝行者の麗しき娘の物語り。あとのことしりたや……

・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事。

・「鹽谷何某」塩谷惟寅(しおのやこれのぶ 明和六(一七六九) ~天保七(一八三六)年。大四郎。江戸後期土木事業などに大きな業績を残した西国筋郡代。名は正義。幕臣粟津家に生まれ、のち塩谷家に入る。寛政一二(一八〇〇)年に勘定吟味改役から代官に昇進、文化一三(一八一六)年には九州の幕領十万石支配の代官に任命され、翌年、豊後国日田陣屋(大分県日田市)へ着任した。その後支配地は十六万石余にまで増え、文政四(一八二一)年には西国筋郡代に昇任。日田在任中は小ケ瀬井路の開削・筑後川舟運の整備・救済施設陰徳倉の設置・道路の改修などを行った。また、豊前宇佐郡や豊後国東郡などの海岸干拓新田を築造している。但し、こうした積極的行政政策は町村の豪農商の出金によって賄われたため、その負担が有意に増し、「塩鯛(塩谷大四郎)は元のブエン(無塩)に立返れ塩が辛うて舌(下)がたまらん」との狂歌も残されている。天保六(一八三五)年まで同職にあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。底本の鈴木氏注には『享和三年の武鑑に、塩谷大四郎は単語但馬美作の代官』とある。

・「手代」郡代・代官・奉行等に属して雑務を扱った下級役人のことを指すが、狭義にはその内で非武士階級の者を指す。底本の鈴木氏の「手代」の注に、『町人百姓から適任の者を採用するのを手代という。手代は役にある間は侍待遇で両刀羽織袴であるが、退職すれば士分の待遇を失う』とある。次の「手附」の注も参照のこと。

・「手附」辞書には「手代」と同じ記載があるが、底本の鈴木氏の「手代」の注には、『小普請の御家人から採用する』事務担当者を特に『手附とい』うとある。また、岩波版長谷川氏の注には、『幕臣で譜代の者と一代のみ抱えの者あり。小普請組より採用の者と手代より抜擢の者がある』ともある。但し、本文ではこれ以降の「手代」を、この「手附」と厳密に区別して用いているようには思われない。

・「たのみ」「頼み」「恃み」などと書き、契約(結)を受けて(納)下さいの意で、婚儀の結納を指す。

・「況(いはんや)」は底本のルビ。

・「栗原某」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

・「徹女」一徹の女子の意であろう。思い込んだことは一筋に押し通すと見える筋の通った女丈夫ということ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  孝行の女傑の事

 

 享和三年の頃、御代官として知らるる塩谷何某(しおのやなにがし)殿の手代にて――苗字は聞き洩らしてしもうたが――林左衛門(りんざえもん)と申す者が御座って、年頃、実直にお勤め致いて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらを、精心に勤め上げて御座った。

 さて、林左衛門には一人の娘があったが、同じ手代仲間の世話によって、これも同じ手代の役務を致いておる者の家へと、媒酌致いて御座った。

 ところが、未だ、その手代方との正式なる受諾や婚儀手筈なんども決まっておらず、況んや、結納(ゆいのう)の儀なんどは、これ、まだ取り交わしてもおらなんだ。

 ところが、そんな折りも折り、武蔵国は熊谷辺りの、林左衛門とは懇意なる知人が、かの、先の媒酌に関わった同じ手代――彼もこの知人と知り合いで御座った――を通して、

「――かの娘子の婚儀のことじゃが、実は、かの貴殿もご存知の、かの熊谷の御仁より、いい話しが別に降って湧いて御座った。場所は越後の国、相手は土地の豪農じゃ! そちらの家へ、是非とも世話致したく存ずるのじゃ!……」

と、頻りに慫慂(しょうよう)に参っては、

「――その越後の百姓と申すは、これ、我らも存ずるほどの、かの地でも音に聞えた富家(ふけ)なればこそ、先だっての、あの、手代の方へ嫁(よめ)せんよりは――遙かに娘子へも良きことで御座るて!」

と、林左衛門夫婦へも熱心に勧める。

 夫婦も、これを聴き、大いに悦び、早速に承知した旨、その媒酌の男に新たな取り持ちの許諾を与え、娘を呼んでは、そのことを語った。

 ところが、娘は、

「……何分……その越後へ嫁(よめ)入り致すということ……これ……お免(ゆる)し下さいませ!……」

と、堅く断りを入るる。

 されば、父母は勿論、かの媒酌致いた男も、意外な娘の言葉に慌て、一緒になって、いろいろと宥(なだ)めたり賺(すか)したり、何とか説得致さんと、したが、これ、全く聞き入るること、御座ない。

 娘はただ、

「……父上さま母上さまの御命(おんめい)に背くことは、これ、畏れ多いことと存じます……が……それでも……幾重にも……はい……お免し下さいませ!……」

と頑なに拒む。

 されば、媒酌人も考えあぐみ、

「……かの、初めに媒(なかだち)致さんとした手代は――これ、年も既に四十にて、年頃も娘子に相応の者にては、これ、ない!――失礼ながらかの手代が容貌も、これまた、ひどい疱瘡の痘痕面(あばたづら)にして、まんず、言うたら、「醜」の部類!――また、未だ手代としても、これといった業績を積んでおるというほどの人物にも、これ、御座ない!……されば、娘子が、かの手代へのせつない恋慕執着の類いによるものにても、これ、御座ないこと、明白じゃ!……それに富貴(ふうき)を好むは、これも人情のことなればこそ……さても!?……」

と合点の行かぬゆえ、媒酌人、こっそりと、かの娘一人と逢(お)うて、その忌憚なきところの内心を糺いたところ、

「……はい……もとより……かの初めの手代の御方へ、嫁入り致すことを心より望んでおるわけにては、これ、御座いませぬ。……されど……最初に、お話があり、媒(なかだち)の御座いましたは……かの手代の御方……後(あと)より追って、越後の豪家の農家より、嫁を求めておらるるとのお話、これ、貴方さまより媒(なかだち)御座いました。……が……これ、お受け致さば――『全く富貴に目の眩んで子を売った』――と申す謂われなき咎(とが)を、これ、父母の蒙りますこと、明白……父は、これまで淳直を以って、今は手附役の元締めなども致いて、人も讃える一廉(ひとかど)の人物……されど……この我らが婚儀の経緯によって――『欲に耽るがりがり亡者』――と申す忌わしき風聞を成さんは……これ、子の身として、忍び難きことにて御座いますれば、かく、お畏れながら、お断り申すので……御座いまする!……」

とて、如何に懐柔致さんとしても、これ、いっかな、合点せぬ。

 されば――始めは吉(きち)に見えても、終わりには、これ、よろしからざる結末の出来(しゅったい)致すこともあり――また、縁談に限っては、殊にその男女の出逢いと申す――これ、憶測や人智の及ばぬ摩訶不思議なるものの力とも言わるるものなれば……かねて心安うして御座った相学に名のある栗原某を呼びて、

「……さても、この二つの縁談……何れが吉で……御座ろう?……」

と人相見を依頼致いたそうな。

 さても――この栗原某――そう、最早、読者諸君もご存知の、かの栗原幸十郎で御座った。……

 

「……そうさ、その娘は、血色、これ、如何にも一徹の女傑にて……まあ、容貌麗しい、と明言するほどにては、これ、御座らなんだが……それでも、十人並、と申してよい美顔、、基! 人相で御座った。……然れども……

――農家に嫁(か)し、また或いは田舍の些事雑事を取り扱(あつこ)うが如き手代なんどへ嫁しては、これ、何れもよろしからず――しっかりと致いた武家などが方へ嫁してこそ然るべし――

と断じて、帰りまして御座る。……」

とは、かの栗原殿の開陳致いてくれた話にて御座る。

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