金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 比企谷妙本寺 田代觀音
比企谷妙本寺 田代觀音
大御堂(みだう)は、賴朝公、はじめて建立し玉ふ勝長壽院(せうちやうじゆいん)の跡なり。釋迦堂が谷(やつ)は、大御堂の東(ひがし)、北條泰時建立せし釋迦堂の跡なり。文覺(もんがく)の屋敷跡は、この西の方(かた)にあり。この邊、屏風(びやうぶ)山、葛西(かさい)が谷、比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持(もち)なり。この南、坂東(ばんどう)の札所、田代觀音あり。
〽狂 かまくらひ
どれと見へ
たる
酒のみの
あと
ひきがやつ
ちや屋にうかるゝ
「なんと、これから、いつそのこと、裏側(うらがは)から船にのつて、房州の方(ほう)へ、いかふではないか。」
「貴樣(きさま)は獨身(ひとりみ)だから、どこへいつてもよいが、俺(おいら)は妻子(さいし)のあるものだは。内の女房が、俺(おれ)がねれてかへるを、たのしんでまつているだらう。かへしかへし、ひもじい目(め)をせておくのがかわへそうだ。」
「これは、おかしい。なに、お前の嬶衆(かゝあしゆ)がひもじい目をしているものか。今頃は、お前よりわかい男をこしらへて、ちつともひもじい目をすることではないから、氣遣いしなさるな。」
「そんなら、これから、どこへいつてもよいが、儂(わし)が家(うち)をあんじるは、そこばつかり。どうしてまた、俺(おら)が女房のひもじいことのないことを、しつてゐるか合點(がてん)がゆかぬ。」
「それは此前(まへ)、お前が伊勢へいつた時、その留守中、上(かみ)さまが色男をこしらへて、ひもじい目はせぬことを、儂はよく見て、しつているから、それで今度も、そんなことでありませう。」
「そんなら、それでおちついた。さあさあ、これから房州へなりと、どこへなりと出かけるのだ。」
「旅はういもの、つらいものといふが、それは錢(ぜに)なしのことだ。こつちは錢ありだから、おもしろい、おもしろい。」
「なんと、おれが踊(をど)りは色氣があるだらう。それだから、今まで大勢、女の見物(けんぶつ)があつたものを、皆(みな)、どこへか踊りなくしてしまつた。」
[やぶちゃん注:「大御堂」大蔵幕府跡の南方、釈迦堂ヶ谷西の谷。文治元(一一八五)年に頼朝が鎌倉に来て初めて建立した父義朝の菩提を弔うための新寺院、阿弥陀山勝長寿院(大御堂は俗称)があったが、室町時代、鎌倉御所成氏が亡命して間もなく衰亡したものと思われる。
「屏風山」宝戒寺の背後の山。山容が屏風を立てたのに似ていることに由来するという。
「釋迦堂の跡」現在の浄明寺釈迦堂の字地名が残る。大御堂ヶ谷の東の小さな谷の更に次の谷間にあった。北条泰時が父義時追善のために建立、竣工は嘉禄元(一二二五)年。ここにあった本尊清凉寺式釈迦如来像は後に杉本寺に移され、現在は東京都目黒区行人坂にある大円寺にある(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊の白井永二編「鎌倉事典」に拠る)。
「文覺の屋敷跡」文覚は義朝の首を探し出して鎌倉へ持ち帰り、それが勝長寿院へ葬られた。その所縁からか、大御堂ヶ谷入口付近に文覚の屋敷があったと伝えられ、滑川川辺には文覚の座禅窟なるものもあり、この辺りでは滑川は座禅川と呼ばれる。
「葛西が谷」宝戒寺の背後の東南方の地域で、幕府滅亡の東勝寺のあった場所である。
「かまくらひ」は「鎌倉」に、鯨飲馬食の「喰らひ」を掛けるか。
「裏側」は半島の裏側の浦賀に掛けたものであろう。
「比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持なり」妙本寺の池上本門寺住持兼帯については、「新編鎌倉志巻之七」の「妙本寺」の項及び私の注を参照されたい。
「田代觀音」これは、現在の大町にある坂東巡礼第三番札所安養院観音堂のことを指しているが、その歴史的事実はやや複雑である。それについては、やはり、「新編鎌倉志巻之七」の「妙本寺」の項及び私の注で考証しているので参照されたい。
「俺がねれてかへるを」底本の鶴岡氏の「ねれて」の注に『老練になる。女陰がやわらかになることも言う。この場合それをかけたしゃれ』とある。失礼乍ら、私が馬鹿なのか、分かったような分からないような注である。主語が「俺が」では、私にはよく分からぬのである。そうした識者の御教授を乞うものである。]