生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 二 反射作用
二 反射作用
外界の變化に應じて適宜に身を處することは、素より如何なる生物にも必要なことで、この働きのない生物は到底生活する資格がないが、神經系のない生物は全身を以てこのことを行ひ、神經系のある生物では主として神經系がその衝に當たり、神經系に明かな幹部の具はつてある動物では、主として幹部がこれを司どることになつて居る。但し神經の發達には無數の階段があつて、一歩一歩進み來たつたもの故、神經系のあるものとないものとの間にも、神經系に明かな幹部のあるものとないものとの間にも、決して判然たる區別はないから、以上の働きがいづれの部分で行はれるか、確と斷言の出來ぬ場合も無論あるべき筈である。
さて食はれぬために外界の事情に應じて適宜に身を處する働きには、また種々の行ひ方がある。例へば人間に就いて見ても、眠つて居る人の足の先へ火の附いた線香を持つて行くと、忽ち足を引き込めるが、覺めた後に尋ねて見ると何も知らぬ。また眼の前へ急に尖つた刀の先を突き附けると直に眼を閉ぢるが、これも決して危險であるから眼瞼を閉ぢて内なる眼球を保護せずんばなるまいと考へた結果行ふのでなく、刀の先が見えたと思ふころには、眼瞼は已に獨りで閉ぢて居る。かくの如く外界から刺戟が來たときに、全く知らずに若しくは知つて考へる隙もなしに、直にこれに應じた運動をするのを反射作用と名づける。また生まれた許りの赤ん坊の口に乳首を入れると、直に吸つて呑むが、これは誰に教へられたのでもなく、自分で習つたのでもなく、生まれながら自然にこの能力を具へて居るのである。かやうに自然に持つて生まれた能力によつて、よく外界の事情に應じた働きをなし得ることを本能と名づける。またかくすれば、かくなるべき筈と考へ、目的に相應した手段を工夫して、自身でよく承知しながら行ふことは皆智力の働きで、人間が日々骨を折つてわざわざ行ふ仕事の大部分はこの類に屬する。生物の行爲を觀察すると、その多くは以上の三種類の型のなかのいづれかに相當するが、その間の區別は決して判然たるものではなく、いづれに屬せしめて宜しいか分らぬ場合も頗る多い。特に反射作用と本能との間には殆ど區別が附けられぬ。例へば赤子の口に乳首を入れてやれば直に吸ひ著くのは、持つて生れた本能によるが、その働きはやはり一種の反射作用である。畢竟反射作用とか、本能とか、智力とかいふ言葉は、人智の進むに從ひ必要に應じて一つづつ造つたもので、各々若干の著しい行動に冠らせた名稱に過ぎぬ。
[やぶちゃん注:「反射」という語は生物学上は無条件反射を示し、その「種」が先天的に持っている反射行動を指す。これに対して後天的に獲得された、その「個体」の反射行動を条件反射(conditioned reflex)という。丘先生は「三種類」として「本能」を挙げておられるが、先生御自身が「その間の區別は決して判然たるものではな」く、「人智の進むに從ひ必要に應じて一つづつ造つたもので、各々若干の著しい行動に冠らせた名稱に過ぎ」ない、とおっしゃられている如く、現在の一般的な生物学上の概念から言えば、「本能」とは「複雑な無条件反射」と言える。しかしながら、「個体」の学習した同じ種類の条件反射がくり返して形成されるような環境が存在する場合には、生物と環境との持続的な結合が生じ、生命物質のなかにその痕跡を残すに至り、獲得された環境への適応の仕方が遺伝し、その種に定着される場合がある。条件反射が無条件反射に転化し、それ以前の無条件反射を変化させるのである。即ち後天的な条件反射が、本能をも変化させることがあるということである。その点からも丘先生の謂いは古くて新しいと言えるのである(この部分は一部、私の遺体が解剖されることになっている慶應義塾大学医学部解剖学教室の、船戸和弥先生の「無条件反射と条件反射」の記載を参考にさせて戴いた)。]
まづ反射作用に就いて考へて見るに、これにも簡單なものから複雜なものまで種々の程度があるが、わざわざ自然と異なつた狀態に置いて試みる場合の外は、すべて自身の安全を圖るに必要な働きをするやうに思はれる。醫者が脚氣の患者を診察するとき、膝の下を手で輕く打つて脚が跳ねるか否かを試みるが、これなどは反射作用の最も簡單な例で、健康な人ならば膝の下の腱の刺戟を受けると、直に腿の前面の筋肉が收縮して我知らず脚部が動くのである。しかし普通の人間が普通の生活をして居るときには、膝の下の腱に醫者が手で打つのと同じやうな刺激を受けるといふ機會は殆どないであらうから、これに應じて脚部を跳ね上げる反射作用の働きがあつても何の役にも立たぬ。これに反してなほ少しく複雜な反射作用になると、皆何らか生活上の功用がある。例へば鼻の孔に紙撚を入れて内面の粘膜を刺戟すると、反射作用で直に嚔(くさめ)が出るが、これなどは鼻の中に異物の入る來たつた場合にこれを除き去るために必要である。子供の鼻の孔が詰まつて空氣の流通が惡くなると、注意が散漫になり、學業の成績も次第に下落するとさへいはれるから、鼻の内を掃除するための反射作用は生活上隨分大切なものであらう。また急いで食するとき飯粒が氣管の方へでも入ると、咽頭の内面の粘膜を刺戟するため、反射作で直に咳をするが、その結果として咽頭内の異物は口から吐き出される。肺病患者が常に咳をするのも、肝の組織がだんだん壞れて粘液となり、喉頭まで出てきて絶えずこれを刺戟するからであるが、咳は氣道を掃除する働きとして生活上必要なものである。強い光に遇へば眼の瞳が小さくなり、暗い處へ行けば瞳が大きくなつて、適當量の光線を眼球内へ入れるのも時機にかなうた反射作用であるが、生活上更に大切な反射作用は即ち呼吸の運動である。呼吸は或る程度までは故意に加減することが出來るが、平常は外の事をしながら知らずに呼吸して居る。そして、その行はれるのは、肺内に溜る炭酸瓦斯が肺の内面を刺戟して、反射作用で肋間筋や横隔膜を收縮せしめる結果である。睡眠中に絶えず呼吸の行はれるのはそのためである。されば、若しこの反射作用がなかつたならば、人間は素より他の多くの高等動物も一日も生活は出來ぬ。
[やぶちゃん注:「異物の入る來たつた場合に」はママ。「入り來たつた」の誤植であろう。講談社学術文庫版も「はいりきたった場合に」とある。]
實驗研究の結果によると、物を知る働きは大腦の司どる所の如くに思はれるが、若し大腦に限るとすれば、大腦を切り去つた動物は物を知る力がない筈であるから、そのなすことは皆反射作用に依ると見做さねばならぬ。所が蛙などで試して見ると、大腦を切り去つても、隨分複雜な働きをする力が殘つて居る。生理の實驗としてどこの學校でもよくやることであるが、大腦部を切り去つた蛙を平らな板に載せて置くと、行儀よく坐つていつまでも動かずに居るが、少しづつ板を斜にすると、平均を失はぬやうに體の姿勢を少しづつ變じ、板が著しく斜めになつて、滑り落ちる危險が生ずると、徐々と匐ひ出して上方に進み、板の緣まで行つて、安全に坐れる處で止まる。また大腦部を切り去つた蛙の皮膚の一點に薄い酸類を塗つて見ると、直に手足をその處へ向け、曲げたり伸ばしたり、種々に工夫して、これを拭ひ去らうと努める。これらの擧動は、いづれもよく目的にかなうたことで、若し人間がこれをしたならば、見る者は必ず意志により智力を働かせてして居るものと見做すに違ひない。かくの如く反射作用はその複雜なものになると、殆ど智力を用ゐてする運動と同じ程度のことが出來るが、これらは恐らく皆その動物の生活中に、敵に食はれぬためか、餌を食ふためか、または子を産むためか、子を育てるためか、何かの際に直接若しくは間接に役に立つことで、且その動物の生活に取つて必要な程度までに發達して居るのであらう。
[やぶちゃん注:生物で通称、脊髄ガエルと呼ばれる実見である。私は昔から、この実験や図譜には何故か、頗る嫌悪を覚えるのである。如何なる解剖も平気な私が、である。私は、この私の不思議な特異的事実を何時か、自己分析したいと思っている。仮説は大歓迎だ。宜しくホームズになってみて呉れ給え。]