北條九代記 判官知康落馬 付 鶴ヶ岡塔婆造立地曳
〇判官知康落馬 付 鶴ヶ岡塔婆造立地曳
賴家卿は官加階(くわんかかい)滯りなく、次第昇進し給ふ。八月二日、京都の使節參著す。去ぬる月二十二日、左近衞中將より轉任あり、從二位に叙せられ、征東大將軍に補せられ給ふ由を申す。
即ち鶴ヶ岡に於いて宮前拜賀の式をぞ行はれける。愈(いよいよ)日毎の御鞠(おんまり)は天下の政道に替へ給ひて、世の誹(そしり)、人の嘲(あざけり)を知(しろし)召さず。同じき十一月二十一日、將軍家、若者善哉公(ぜんやぎみ)、年(とし)三歳始て鶴ヶ岡に神拜(じんはい)あり。神馬(じんめ)二疋を奉らる。同十二月十九日、將軍家、御鷹場(たかば)を御覧ぜんとて山内莊(やまのうちのしやう)に出で給ふ。夜に入て還御ありける所に、判官知康、御供に候ず。龜谷(かめがやつ)の邊にて乘(のり)たる馬、物影に驚き、頻(しきり)に棹立(さをだ)ちて、知康、鞍壺に堪(たま)らず、舊井(ふるゐ)の中に落入りたり。されども別義(べちぎ)なく、額(ひたひ)の邊(あたり)を打(うち)損じ、濕々(ぬれぬれ)として匐上(はひあが)り、やうやうに家に歸りければ、將軍家、御小袖二十領を知康に下されたり。是を聞ける人々、「京家の古狐(ふるぎつね)、善く將軍を妖入(ばかしい)れたり」と唇(くちびる)を返して私語(さゝやき)けり。かゝりけれども、近習(きんじゆ)の輩を初(はじめ)て諷諫(ふうかん)を奉る人、更になし。建仁三年正月二日、將軍家の若君一幡公(まんぎみ)、鶴ヶ岡に御社參あり。同二月四日、將軍家の御舍弟千幡公、鶴ヶ岡に參り給ふ。絵馬四郎殿、御車副(くるまぞひ)として、神馬二疋を奉り給ひけり。同十一日、八幡宮の塔婆(たふば)再興の爲、地曳(ぢびき)を始めらる。去ぬる建久三年に炎上ありける後、遂にその沙汰もなかりしに、今日、彼(か)の舊基(きうき)を興(おこ)さしめ、將軍家、監臨(かんりん)し給ふ。大夫屬(さくわん)入道善信、是を奉行す。
[やぶちゃん注:頼家の補任及び頼家子息善哉(頼家の次男。後の公暁。母は源為朝の孫娘に当たる足助重長(あすけしげなが)の娘)・一幡(頼家嫡男。母は比企能員の娘若狭局。比企能員の変の際、享年六歳で焼死した)・弟千幡(後の実朝)の鶴ヶ岡参詣の部分は「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年八月二日及び十一月二十一日と建仁三年正月二日及び二月四日の条を、メインの判官知康の落馬事件は、同巻の建仁二年十二月十九日の条を、最後の鶴岡の塔婆地曳の記事は、同じく同巻の建仁三年二月十一日の条に基づくが、例に如くオリジナルに、「愈日毎の御鞠は天下の政道に替へ給ひて、世の誹、人の嘲を知召さず」と辛口に論評したり、元後白河法皇の腰巾着で今や頼家のそれである鼓判官平知康に対し、鎌倉の市井の人々が「京家の古狐、善く將軍を妖入れたり」と陰口を囁いたと附記して、陰に陽に頼家を批判することを忘れていない。
「官加階」官職と位階。
「絵馬四郎」北条義時。
「八幡宮の塔婆」鶴岡八幡宮寺にあった宝塔又は三重塔という。
「地曳」「地引き」とも書く。家屋などを建築するに当たって地均(なら)しや地突きの際に行う宗教性を帯びつつも、プラグマティクでもある儀式のこと。地曳き祭り。後世の宗教性の高い土公祭(どこうまつり)や現在の地鎮祭とは異なる。
「建久三年」この塔婆炎上は建久二(一一九一)年の誤り。「吾妻鏡」の同年三月四日の条に「餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆」(餘炎飛ぶがごとくして、鶴岡の馬場本(ばばもと)の塔婆に移る)とあるのが、それ。
「大夫屬入道善信」三善善信。]
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