金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 扇个谷 源氏山
扇个谷 源氏山
東光山英勝寺(とうくはうざんゑいしやうじ)は、扇(あふぎ)が谷(やつ)にあり。この地は、太田道灌(おほたどうくわん)の舊跡なり。この邊隨一の大寺(てら)にて、諸堂の莊嚴(そうごん)、結構なり。本尊阿彌陀佛、運慶の作。山門、總門の額、眞筆(しんひつ)なり。境内に澤庵(たくあん)の石盤(せきばん)あり。この西の山を源氏山といふ。阿佛尼(あぶつに)の塔、この境内の北にあり。
〽狂 げん
じ山
ひかる日の
出は
すへひろの
あふぎが
やつの
かすむ
あけぼの
旅人
「あの飴(あめ)をかつてゐる年增(としま)は、なかなか、まんざらでない器量(きりやう)だ。尻目(しりめ)で、儂の顏をみるは、儂(わし)に氣があるとみへる。ちよいときいて見やう。もしもし。お上(かみ)さま、ちと、物がおたづね申たい。お前、私(わたし)に氣がありますか、ほれなさつたか、どふでござります。」
「ナニ、妾(わたし)がほれたか、氣があるかとは、この野郎奴(やらうめ)は、とんだ事をいふ。うぬのやうな不景氣な野郎に、誰(たれ)がほれるものか。戲言(たはこと)をぬかすと横面(よこつつら)をはりとばすぞ。」
「今日は大ぶん、參詣のある日だわへ。晩には賽錢箱(さいせんばこ)の勘定(かんぢやう)をいたそふ。」
「これ、したり、小錢(こぜに)がない。四文錢(もんせん)を賽錢になげるも費(ついへ)だ。借(か)りにして、たゞ、おがんでおこう。貴公(きこう)も、そうなさい。」
[やぶちゃん注:「扇个谷」は「あふぎがやつ」とルビする。
「莊嚴(そうごん)」この場合の「莊嚴」は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)等で厳かに飾ること及びそのように飾り付け、建造したその物のことを指しす仏教用語であるから、厳密には「そうごん」ではなく、「しやうごん(しょうごん)」と読むのが正しい。
「山門、總門の額、眞筆なり。」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」に、総門の額は「東光山」で曼殊院良恕法親王の筆(裏書に寛永二十年四月二日のクレジット)、山門の額は「英勝寺」で後水尾帝の宸筆(裏書に寛永二十一年甲申(きのえさる)の年八月日のクレジット)とある。細かいことだが、順序が逆で、寺のより外にある総門から、次にその内側の山門を記載するのが普通である。
「澤庵の石盤」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の「石盤」の項を参照。卦を示す四種の文様の図及び碑文も読める。
「年增」娘盛りを過ぎた女性の謂いで、現在用いられる場合、流行語の略語「アラフォー」、アラウンド・フォーティー(Around Forty:四十歳前後。)と同義的で三十五歳から四十五歳辺りまでの女性層を指すが、江戸期のそれはもっと若く二十歳前後を年増、二十歳を過ぎてから二十八、九歳程までを中年増、それより上を大年増と言った。彼女は今なら相応に若いのである。それにしてもこの気風(きっぷ)の良さはどうか。
「だわへ」の「へ」は「え」で軽い感動を添える間投助詞。英勝寺は尼寺(現在も鎌倉で唯一の尼寺である)であるから、尼の台詞と見れば「え」もしっくりくる。ただ、賽銭勘定をする尼僧を想起させる一九は、これ、やはり意地が悪いともいえるが、前の語気苛烈なる姐御に守銭奴の尼を配せば、どっこい、当時の女傑もなかなかのもの、今までのエロティクで愚鈍な旦那連中より、ずっと気持ちがよい。
「尻目」流し目。]