耳嚢 巻之六 名句の事
名句の事
いつの頃にやありけむ、八月の良夜、諒闇にて洛中いと淋しかりしに、攝家宮方の内と聞(きこえ)しが、御名はもらしぬ、
普天の下そつと月見るこよひかな
□やぶちゃん注
○前項連関:地下の狂歌から堂上の俳諧で連関。
・「諒闇」天皇・太皇太后・皇太后の崩御に当たって喪に服する期間。「諒」は「まこと」、「闇」は謹慎の意、「闇」は「陰」と同意で「もだす」と訓じ、沈黙を守るの意。
・「しもらぬ」底本「しもらぬ」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「普天の下そつと月見るこよひかな」書き直すと、
普天(ふてん)の下(もと)そつと月見る今宵かな
「普天」は天下。「そつと」は副詞の「そっと」に全国土を意味する「率土の浜(そっとのひん)」(元来は陸地と海との接する果てで、「詩経」の「小雅 北山」に基づく語)を掛けた崩御の追悼吟。
――天子さまのものであらっしゃいます……この大八洲(おおやしま)にある民草は……これ、皆、今宵、黙したままに……そっと……天子さまの率土(そっと)の浜(はま)から……淋しく中秋の名月を見上げるばかり――
■やぶちゃん現代語訳
名句の事
いつの頃のことで御座ったものか……八月の中秋の名月の宵のこと、丁度、諒闇にて、洛中、大層淋しく御座った折りのこと、摂関家か宮方の邸(やしき)での吟詠とも聞き及んで御座るが、御名(おんな)は聴き漏らして御座るが、その御詠の発句とのこと、
普天の下そつと月見るこよひかな
« 一言芳談 九十一 | トップページ | 税務署へ突撃 »