一言芳談 九十一
九十一
願生房(ぐはんしやうばう)云、其昔、明遍上人にあひたてまつりて、十八道傳受の次(ついで)に、字輪觀可奉受(じりんくはんうけたてまつるべき)よし所望の處に、上人、示(しめして)云、學生(がくしやう)智者、なこのみ給ひそ。釋迦佛(ほとけ)の因位(いんゐ)にも、學生智者にてはましまさず。爲半偈投身(はんげのためにみをなげ)、爲虎捨命(とらのためにいのちをすつる)道心者にてこそ、ましまししか。然れば、深法(じんぽふ)は無用の事なり。道心こそ大切なれ、云々。是を承つて後、輪觀雖被許之(りんくわんこれをゆるさるるといへども)、不可奉習(ならひたてまつるべからざる)志相催したりき、云々。
〇十八道、眞言初入(しよにふ)の行法なり。印明(いんみやう)の數にて名(なづ)く。
〇字輪觀、阿字觀(あじくわん)のごとく、圓相(ゑんさう)の内に梵字を觀ずる事なり。
〇爲半偈投身、雪山童子(せつせんどうじ)の、生滅々已(しやうめつめつい)の半偈(はんげ)をきゝて、身を羅刹(らせつ)の口に投げ給ひし事、涅槃經(ねはんぎやう)にあり。
〇爲虎捨命、薩埵王子(さつたわうじ)の、餓ゑたる虎をあはれみて、身をほどこして食う(じき)となり給ひしこと、金光明經(こんくわうみやうきやう)に見ゆ。
[やぶちゃん注:「願生房」伝不詳。房名としてはありがちである。
「十八道」十八道法、十八道次第。真言密教では四度加行(しどけぎょう:十八道の行法・金剛界・胎蔵界・護摩法。)を修して伝法灌頂を受けるが、その最初期段階の行法を言う。名称は十八種類の印相(いんぞう)からなる十八契印を用いて修することに由来する。荘厳行者法・結界法・道場荘厳(しょうごん)法・召請法・結護法・供養法の六法からなり、自己の心身の護身浄化が行われ、来臨した諸仏とその行者とが一如に交われるようになるとされる。その後、我入観などを以つて心体は一つとなり、正念誦の法を以つて如来の言葉が語れるようになるなどという。
「字輪觀」真言の観法の一つ。心に月輪(がちりん:全き月。)を見、心を月の如くに清浄にして完全であると観ずるもので、地水火風空の五大梵字や仏菩薩を意味する梵字を一文字一文字、月輪の中に瞑想する。その時、行者の身・口・意は如来の身・口・意と不二一体になるという。
「釋迦佛の因位」釈迦や仏たちが悟りを開く以前の階梯、修行時代。
「半偈」偈文の半分。特に、諸行無常偈の後半の「生滅滅已、寂滅爲樂」を指す。雪山(せっせん)で修業中の釈迦が身を羅刹(らせつ)に与えることを約して聞くことが出来たという。
「爲虎捨命」捨身飼虎。釈迦の前生であった薩捶王子が、飢えた親子の虎に我が身を与えるために崖上から虚空に身を翻らせて墜死し、餓虎の餌食となった話。しばしば仏画に描かれる。
「深法」通常は、「甚深の仏法の奥義、深遠にして無辺な仏の教え」の意であるが、それに「などと呼ばれるもの」と附した方がここは断然、理解し易い。
「金光明経」四世紀頃に成立したと見られる大乗経典で、本邦では法華経・仁王経とともに護国三部経の一つとされる。
「不可奉習志相催したりき」もう、字輪観を習受させて戴こうなんどという気は、これ、全くなくなっておる己れを見出しておりました。]