猫 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)
猫
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病氣です』
[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。「みかづき」の下線は底本では「ヽ」の傍点。私は三十数年前、高校教師になりたての頃、学校でのさる劇団の芸術鑑賞会で、一人の女優がこの詩を朗読するのを聴いた。彼女は、この擬音部分を、如何にもな、ありきたりの猫の擬音で済ませた。それを聴いて私は、その女優に激しい嫌悪を覚えた。その、かあーっときた瞬間に、横で同僚が「やぶさんの方が上手いんじゃない?」と呟いた。私の怒りがふっと解けた。忘れ難い思い出である。]