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2013/02/18

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松葉谷安國寺 普陀洛寺

   松葉谷安國寺 普陀洛寺

 

松葉谷安國寺(まつばがやつあんこくじ)は、日蓮上人、房州よりこゝにこもり、「安國論」をあらはし玉ふところなり。こゝに妙法櫻(めうふさくら)といふ名木(めいぼく)あり。佐竹屋敷、名越道(なごしみち)の方(かた)にあり。佐竹四郎秀義の舊跡なり。日蓮水(にちれんすい)、御猿畑(おさるばたけ)も皆(みな)、この名越坂(なごへさか)のほとりなり。

〽狂 ぢゝばゝのまいりおほきは

 たかさごのまつはかやつの

     そしどうにこそ

参詣(さんけい)

「日蓮さまが、此お寺で『安國論』といふ書物をおかきなさつたといふことだが、儂(わし)の頰(ほう)ぺたへできた、『たんこぶろん』は、いろいろにしても、なをらぬゆへ、「安國論」をおかきなされた祖師さまだから、『たんこぶろん』もご存知であらう。どうぞ、なをりますやうに、とおたのみ申したら、その晩に『たんこぶ』はなをつたが、また、金玉(きんたま)へ『たんこぶ』ができて、金玉がふへたから、金のふへるはめでたい。これも御利益であらうと、お禮參りにまいりました。」

長勝寺(てうせうじ)は名越坂(なごへざか)の西にあり。天照山(てんせうざん)の社(やしろ)、普陀洛寺(ふだらくじ)の觀音(くわんおん)。この先、三浦道寸(どうすん)の城跡(しろあと)あり。

〽狂 此けしきあかず三うらの

  しろあとやうてう

てんせうさんのながめに

「儂は貴樣の見るとほり、酒がすきだから、酒屋を見るたびに酒がのみたいけれど、俺(おれ)ばかりはのまれず、貴樣にものませるから、貴樣だけ、よけい錢がいるゆへ、儂もこらへて、のみたいの辛抱しているが、貴樣、かへるまでは酒をやめてくれぬか。どうだ、どうだ。」

「これは。旦那(だんな)には、おなさけないことを。私(わたくし)、酒は飯よりすきでござりますものを。命にかへてもやめられませぬ。その思(おぼ)し召しなら、いつそのこと、私(わたし)をころしてくださりませ。しかし、そのころす前に、一杯のましてころさるゝは本望(ほんまう)、しんでもいきかはり、しにかはり、幽靈になつて、後引(あとひき)にあらはれます。」

[やぶちゃん注:「妙法櫻」岡部事務所編集の「鎌倉手帳」の「鎌倉寺社巡り その4」にある「安国論寺の妙法桜」に、『安国論寺の御小庵の横に植えられている山桜は「妙法桜」と呼ばれて』おり、『日蓮が持っていた杖を突き刺すとそれが根付いたとされる桜』で、『正式の名称は「市原虎の尾」』と呼称される品種で、『さかさ木で直立には育たず横に広がるという性質を持っている。八重でめしべ一本が杖の形をして外へ飛び出している』『市の天然記念物に指定されている古木』とあって現存する。樹齢七六〇年『ともいわれる古木のため、枯死が心配されて』いたが、『住友林業の研究所によって後継樹の育成が行われて』、平成二三(二〇一一)年にはその苗木が公開されて、境内に植えられた。根付けば三年ほどで花を咲かせるという、とある。リンク先で花も見られる。

「佐竹屋敷」「新編鎌倉志卷之七」に、

〇佐竹屋敷 佐竹屋敷は、名越(なごや)道の北、妙本寺の東の山に、五本骨(ぼね)の扇(あふぎ)の如なる山の疇(うね)あり。其の下を佐竹秀義(さたけひでよし)が舊宅と云。【東鑑】に文治五年七月廿六日、賴朝、奧州退治の時、宇都宮を立ち給ふ時、佐竹の四郎秀義、常陸國より追つて參じ加はる。而して佐竹が所持(持つ所の)旗、無紋の白旗(しらはた)也。二品(にほん)〔賴朝。〕是を咎め給ひ、仍つて月を出だすの御扇(あふぎ)を佐竹に賜はり、旗の上に付くべきの由仰せらる。御旗と等しかるべからざるの故也。佐竹、御旨(むね)にしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹の家これを以て紋とす。此山の疇も、家の紋をかたどり作りたるならん。又【鎌倉大草子】に、應永二十九年十月三日。佐竹上總の入道、家督の事に付て、管領持氏の御不審を蒙り、比企谷に有けるが、上杉憲直(うへすぎのりなを)に仰せて、法華堂にて自害して失ぬ。又其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり。其の祠シ今はなし。此地佐竹代々の居宅とみへたり。法華堂は、比企が谷妙本寺の事なり。

とある。現在の大町にある大宝寺(文安元(一四四四)年創建)の境内が同定されており、その境内には、佐竹氏の守護神社であった多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。これは「其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり」とは無関係なのであろうか?(私には「大多福稲荷大明神」という呼称自体がこの御霊の封じ込めであるように思われるのだが) 更に言えば何故、「新編鎌倉志卷之七」には当時あったはずの大宝寺の記載がない。識者の御教授を乞う。以下、私の「新編鎌倉志卷之七」でのここでの注を転載する。

「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀を参照した)。「文治五年」は西暦一一八九年。「應永二十九年」西暦一四二二年。「佐竹上總の入道」佐竹与義(ともよし ?~応永二十九(一四二二)年)佐竹氏第十六代当主佐竹義篤の弟師義の子で、佐竹山入やまいり家第三代当主。常陸国久米城(現在の茨城県久慈郡)城主。鎌倉府と結託していた佐竹宗家との抗争の果て、応永二十三(一四一六)年の上杉禅秀の乱で禅秀方に参加、持氏方の佐竹義人らを攻撃して乱後も執拗に抵抗を続けたが、鎌倉公方足利持氏の討伐によって、比企谷法華堂で一族諸共に自害した。家督は嫡男義郷、次いで彼の弟祐義が継いだが、宗家との抗争は山入一揆として継続し、与義の死後八十数年後の永正元(一五〇四)年、与義玄孫氏義が滅ぼされるまで続くことになる。本文中に持氏の佐竹討伐の理由を「家督の事に付て」と述べているのは、この宗家との骨肉の抗争を指すようである(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の市村高男氏の記載に拠った)。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に、「佐竹上総介入道山入与義主従十三人の塔の図」がある。参照されたい。「上杉憲直」宅間ヶ谷上杉氏。持氏の側近中の側近であったが、後に幕府軍に敗北した持氏に裏切られて敗死した。

「まつはかやつの」この狂歌のここは、爺婆の「待つ墓」の意を掛けるか。

「儂の頰ぺたへできた、『たんこぶろん』」「たんこぶろん」は「立正安国論」の「あんこくろん」の音に掛けたわけだが、私はこの男の「たんこぶ」が気になるのである。治癒のすぐ後に睾丸に新たな腫瘤が出来たというところからは私は高い確率で、この人物は性病に罹患している可能性が高いように思うのである。軟性下疳菌や梅毒トレポネマの同時若しくは一方の罹患による大豆大のしこりが発生する硬性下疳(げかん)等である。男性の場合は陰茎部などに多く発生するが、口唇部での出現もしばしば見られる。当時の性感染症としては頗る普通に蔓延していた。

「天照山の社」次の項に出る天照山光明寺境内にある稲荷社であろうか。近世の建立。

「三浦道寸の城跡」住吉城址。私はこの今や忘却の彼方に消えつつある、城址を欠かさずに書いて呉れた一九が、何となく好きである。

「後引」飽きることなく現われては、次々に物を欲しがることを言うが、多くは酒についていうから本場面にはぴったりで、またこの語には、酒などを注(つ)いだ際に酒が銚子の口を伝って滴ること、また、その滴りの意もあることから、実に美味い、基い、上手い謂いと言える。]

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