金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 山之内圓覺寺
山之内圓覺寺
瑞鹿山門覺寺(ずいろくさんゑんがくじ)は山之内にあり。鎌倉五山の二番目なり。本尊は寶冠(ほうくわん)の釋迦佛。諸堂の額は、皆、眞筆(しんひつ)なり。北條時宗の建立にて、開山は、宋國の佛光(ぶつくわう)禪師なり。境内に宿龍池(しゆくりやうち)、座禪窟、鹿巖(しゝがん)、虎頭岩(ことうがん)などいふ名跡あり。佛殿の南の方(かた)に、高さ八尺の大鐘(がね)あり。在(ところ)の人は、龍宮(りうぐう)よりあがりし鐘也といひつたへたり。
〽狂 みほとけのちかひを
むすぶゑんがくじ
かゝるりやくに
おほがねのおと
參詣
「なんと、よいお寺。かうかうとしたものだ。昔、鎌倉の繁盛の時は、さだめて、今、江戸の淺草の奧山のやうに、豆藏(まめぞう)や見世物(みせもの)などが、この境内にもあつたらうから、さぞかし、その時分には、にぎやかなことであつたらう。」
「左樣(さやう)、左樣。今の奧山の『濱藏(はまぞう)』の先祖は、昔、この鎌倉にて、『由比(ゆひ)の濱藏』といつて、由比の濱に小屋をかけてゐたといふことでござりますが、いつでも、いざといふと、濱藏が出かけて一番に手柄をしたといふことでござります。」
「イヤお前、とんだことをいふ。何、戰(いく)さの時に豆藏が何の役にたつものでございます。」
「イヤイヤ、違(ちが)ひのないこと。和田合戰(わだがつせん)の時、敵は目にあまるほどの大軍、一度気(いちどき)におしよせきた處(ところ)に、北條方(がた)は、無勢(ぶせい)にて、
『これは、どうしてこの大敵(たいてき)をふせがふ』
と、うろたへまはる處へ、濱藏の先祖がきて、
『大敵、私(わたし)がしりぞけてお目にかけませう』
といつて、笊(ざる)をもつてとんで出たら、
『そりやこそ、ざるがまはる』
と、その大敵が皆、にげてしまつたといふことでござります。」
[やぶちゃん注:「眞筆」「新編鎌倉志卷之三」の「圓覺寺」の条に、総門及び仏殿の額は後光厳帝の、山門の額は花園帝の宸筆とある。なお、ここに載る円覚寺内の名所等については「新編鎌倉志卷之三」及び「鎌倉攬勝考卷之四」の本文及び私の注を参照されたい。
「江戸の淺草の奥山」江戸中期ころから浅草寺境内の西側奥(裏手の後に五区と呼ばれた旧地)の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが盛んに行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保一三(一八四二)年から翌年にかけて江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町。現在の台東区浅草六丁目)に移転して来ると、そうした傾向は更に強まった(以上は主にウィキの「浅草寺」に拠る)。
「豆藏」手品・曲芸や滑稽な物真似などをして銭を乞うた大道芸人。
「今の奥山の濱藏」「由比の濱藏」何れも不詳。「濱藏」の漢字は推測で当てた。識者の御教授を乞う。
「笊がまはる」この「笊」は大道芸人が芸の後に投げ銭を貰うために客に持って回った笊のことであろう。]