北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍
○坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍
藤澤四郎淸親、今度、越後國鳥坂の軍に勳功あり。資盛が姨母(をば)坂額女房(はんがくにやうばう)を生捕(いけど)り、鎌倉に將(つ)れて參りけり。矢疵、未だ平癒せざりければ、隨分にいたはりつゝ、既に鎌倉に著(つき)しかば、賴家卿、その女房の事を聞召(きこしめ)され、「誠に雄々(ゆゝ)しき大剛の女房なり。その體(てい)を御覽ぜらるべし」とありければ、清親、軈(やが)て相倶して御所に參ず。賴家卿、簾(みす)の内より是を御覽ぜらる。小山、畠山、和田、三浦、以下の御家人侍所に候ぜらる、「その中を通りけるに、この女房、中々わろびれたる色もなく、簾の下(もと)に進みで坐(ざ)す。気色(けしき)、更に諛(へつら)へる有樣なし。凡(およそ)勇武の士に比すとも對揚(たいやう)するに恥づべからず。色黑く顏相(がんさう)荒(あ)れて、眼の光(ひかり)、邊(あたり)を射る。「醜き事は登都子(とうとし)が妻(め)、鴻伯鸞(こうはくらん)が室(しつ)にも替るまじ。※母(ばくぼ)陵園妾(りようえんせう)と云ふとも、是に合せて思ひやるべし」と笑ふ人も有けり。「流石に女性の事なれば、首(かうべ)を刎(はね)るに及ぶべからず。流罪に處せらるべきなり」と仰出されける所に、阿佐利(あさりの)與一義遠(よしとも)、申入れけるやう、「此囚人(めしうど)の女性に於ては義遠に預け下さるべし」となり。賴家卿の仰(おほせ)に、「此女は當時無雙の朝敵なり。是を望み申すの條、所存ある歟と思召(おぼしめ)さる。如何(いかで)思寄(おもひよ)る事のある。子細を言上すべし」となり。義遠、重(かさね)て申しけるは、「全く殊なる所存あるにあらす、只(ただ)同心の契(ちぎり)を結び、壯力(さうりき)の男子を生みて、朝廷を守護し、武家を擁衞(おうゑい)し奉り、忠勤の契を志(こころざし)を永くに傳へ參(まゐら)せんと存する計にて候」と申しければ、賴家卿仰せけるは、「此女の顏形、世に醜しといへども、力量勝れて、心武(たけ)し、恐ろしき所なきにあらず、是を思ふに、誰(たれ)か愛念して契を結ばん、義遠が心は又、更に人聞の好む所を外れたり。蓼を食ふ蟲、苦參を蠹する虫もありけり」と大に笑はせ給ひて、遂に免下(ゆるしくださ)されたり。阿佐利、大に悦び將(つれ)て甲斐國に下向し、夫婦(ふうふ)の語(かたらひ)をぞ致しける。「和田義盛は木曾義仲の妾(おもひもの)巴女(ともゑ)を妻として、其力(ちから)を傳へて、淺比奈義秀(あさひなのよしひで)を生みたり。當時大力(ちから)の剛(がう)の者と世にその隱(かくれ)なし。是は美目善き女なりければ、さもこそあらめ、坂額女房(はんがくのにやうばう)は力量武勇(ぶよう)の種(たね)を繼計(つぐばかり)ぞ、若しその種を繼がざるには善(よき)かづき物なり」と若き人々は笑(わらひ)合へり。彼の女房は越後守平資永が妹なり。資盛が爲には父方の姨母(をば)なれば、俗姓(ぞくしやう)取て恥(はづかし)からずといへども、容顏の餘(あまり)に醜かりければ、然るべき夫(をのこ)の緣もなくて、今日まで有りけるを阿佐利が妻となりけるも、緣の熟す故なるべし。兄越後守資永は往當(そのかみ)、治承五年九月に木曾冠者義仲、義兵を擧げられしに、勅命を承り、當國の軍兵を催し、木曾を攻(せめ)んと出立つ所に、資永、俄に卒中昏倒し、人事を省みずして死にたりけり。從五位下行(ぎやう)越後守平朝臣に任ぜられ、家、甚だ富(とみ)榮え、北陸道の大名にて肩を竝(ならぶ)る人もなし。その先祖は鎭守府將軍平維茂(これもち)の嫡男繁茂(しげもち)七代の後孫なり。然るに、繁茂、生れてその儘、行方(ゆくかた)なく失せにけり。父母、悲(かなしみ)歎きて、四方を尋ね求むれども、更にその有所を知らず。斯(かく)て四年を經て、父母に夢想の告(つげ)ありて、山際の狐塚(きつねづか)より求得たり。狐即ち變じて老翁となり。子を抱(いだ)きて、父母に渡し、一つの刀に插櫛(さしぐし)を添へて云ひけるは、「この兒を大日本の國主になさんと生立(そだ)てしかども、今は早、その位には至るべからず。早くかへし侍るなり。されども本朝に隱れなき名を取るべし、 愼(つゝしみ)なくは家滅びなん」とて搔消(かきけす)如くに失せにけり。この兒、成長(ひとゝな)りて城介(じやうのすけ)に補任(ふにん)せられ、繁茂とぞ號しける。是より七代相繼ぎて、越後國を治め領す。城四郎資永は九郎資國が嫡子として、母は將軍三郎清原武衡が女(むすめ)なり。資永を以て北越の固(かため)と賴まれしに、頓死しければ、平家は力を失ひ、木曾は勢(いきほひ)を增して、信州筑摩河(つくまがは)の邊に打出でしを、資永が舎弟四郎長茂、其跡を繼ぎて、軍兵を卒して、合戰するに、長茂打負て敗北す。文治四年、頼朝の世になりて、降人(かうにん)に出けるを梶原景時に預(あづけ)置かる。右大將家、奥州の泰衡對治の時、囚人(めしうど)を許され、家の旗さして向ひしが、大功を顯(あらは)し、漸く本知(ほんち)を許されける所に、今度、又、叛逆して、資永が嫡子資盛その外譜代の家子、郎從共に悉く滅びて一家皆(みな)、滅したり。資盛、滅びける時節に方(あた)つて野干の與(あた)へし刀も、この時に失せにけり。
[やぶちゃん注:「※」=「女」+「莫」(意味は後の注を参照)。板額御前の後日譚が前半、後半は前話の最後に引用した「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年五月十四日の条の最後の『出羽城介繁成〔資盛が曩祖。〕、野干の手より相傳する所の刀、今度、合戰の刻みに紛失す』の部分の資盛の先祖出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の伝承を、過去の「吾妻鏡」を用いて附記する。読み物としての面白さをよく考えた構成である。但し、ここでの「板額御前」の意外な(いや、美形ならば寧ろ成程と思わせるというべきかも知れない)展開は「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年六月の二十八日と二十九日に基づくが、そこには私が許し難い大きな相違点があり、それは私は断固! 異を唱えずんばあらざる誤りなのである!――それは――
◎「吾妻鏡」の板額姐さんは
(^^♪
(#^.^#)!
「チョー美形!」⤴
……であるのに対して、この……
×「北條九代記」の板額御前は
\(◎o◎)/!
~゜・_・゜~!
「キョーレツ醜女(しこめ)!」⤵
である点である!
私は、無論、原典を一二〇%支持するものである。「吾妻鏡」を読んだ昔、とってもいいシーンだなって、何だか、ほっとしたのは、ここだった。それ以来、私は「ばんかく姐御」のファン、BANKAKKU親衛隊なのである! 無論、醜い女であっても、本話柄の展開の妙味は変わらないのであるが、美人であると記しているものを、わざわざ醜い女とするのには、こうした伝承を都市伝説化する後代の人間の嫉妬を感じるのである。ウィキの「坂額御前」には、「大日本史」『など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される』とある。本「北條九代記」も、その流れを汲んでしまった。
〇原文
廿八日丙午。藤澤四郎淸親相具囚人資盛姨母〔號坂額女房。〕參上。其疵雖未及平減。相構扶參云々。左金吾可覽其躰之由被仰。仍淸親相具參御所。左金吾自簾中覽之。御家人等群參成市。重忠。朝政。義盛。能員。義村已下候侍所。通其座中央。進居于簾下。此間無聊諛氣。凡雖比勇力之丈夫。敢不可恥對揚之粧也。但於顏色。殆可配陵薗妾云々。
廿九日丁未。阿佐利與一義遠主以女房申云。越州囚女。被定既配所者。態欲申預云々。金吾御返事云。是爲無雙朝敵。殆望申之條有所存云々。阿佐利重申云。全無殊所存。只成同心之契約。生壯力之男子。爲奉護朝庭扶武家也云々。于時金吾。件女面貌雖似宜。思心之武。誰有愛念哉。而義遠所存已非人間之所好由。頻令嘲哢給。而遂以免給。阿佐利得之。下向甲斐國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日丙午。藤澤次郎淸親、囚人資盛の姨母(をば)〔坂額女房と號す。〕を相ひ具して參上す。其の疵、未だ平減に及ばずと雖も、相ひ構へて扶け參ると云々。
左金吾、其の體(てい)を覽(み)るべきの由、仰せらる。仍つて淸親、相ひ具し御所へ參る。左金吾、簾中より之を覽る。御家人等、群參し、市を成す。重忠・朝政・義盛・能員・義村巳下、侍所に候ず。其の座の中央を通り、簾下に進み居る。此の間、聊かも諛(へつら)ふの氣、無し。凡そ勇力之丈夫を比ぶと雖も、敢へて對揚(たいやう)を恥づるべからざるの粧ひなり。但し、顏色に於ては、殆んど陵薗(りやうゑん)の妾(せふ)に配すべしと云々。
・「對揚」相い対すること。
*(以下、非常に長い付属注になるので「*」で区別した)
・「陵薗の妾」白居易の新楽府「陵園妾」(「白氏文集巻四」所収)や、その影響下にある無数の和歌群、平安末期に藤原成範によって書かれた説話集「唐物語」の「陵園妾」などに基づく。かの李白の「陵園妾」の奥津城の美女と並ぶ(「配」)飛びっ切りの美人、それもそんな強弓の持主とは到底思えぬような美形であったことを言う。まず、
★「陵園妾」
の詩は長いが、私の好きな詩なので、全篇を示す。
陵園妾
憐幽閉也
陵園妾
顏色如花命如葉
命如葉薄將奈何
一奉寢宮年月多
年月多
春愁秋思知何限
靑絲髮落叢鬢疎
紅玉膚銷繫裙縵
憶昔宮中被妬猜
因讒得罪配陵來
老母啼呼趁車別
中官監送鏁門迴
山宮一閉無開日
未死此身不令出
松門到曉月徘徊
柏城盡日風蕭瑟
松門柏城幽閉深
聞蟬聽燕感光陰
眼看菊蘂重陽淚
手把梨花寒食心
把花掩淚無人見
綠蕪牆遶靑苔院
四季徒支粧粉錢
三朝不識君王面
遙想六宮奉至尊
宣徽雪夜浴堂春
雨露之恩不及者
猶聞不啻三千人
三千人
我爾君恩何厚薄
願令輪轉直陵園
三歳一來均苦樂
陵園(りようゑん)の妾(せふ)
幽閉を憐れむ
陵園の妾
顏色(がんしよく) 花のごとく 命 葉のごとし
命 葉のごとく薄し 將に奈何(いかん)せん
一たび 寢宮(しんきゆう)に奉じてより 年月(ねんげつ)多し
年月多し
春愁 秋思 知らず 何の限りぞ
靑絲の髮 落ち 叢鬢(そうびん) 疎(まば)らに
紅玉の膚(はだへ) 銷(き)え 繫裙(けいくん) 縵(ゆる)し
憶(おも)ふ 昔 宮中に妬猜(とさい)せられ
讒(ざん)に因つて罪を得 陵に配せられ來たりしを
老母 啼呼(ていこ)して車を趁(お)ふて別れ
中官 監送して門を鏁(と)じて迴(かへ)る
山宮(さんきゆう) 一たび閉ざされて 開く日無く
未だ死せざれば 此の身 出でしめず
松門 曉に到るまで 月の徘徊し
柏城 盡日
風 蕭瑟(せうしつ)たり
松門 柏城 幽閉深く
蟬を聞き 燕を聴き 光陰(くわういん)を感ず
眼に菊蘂(きくずい)を看ては 重陽の淚
手に梨花を把りては 寒食の心あり
花を把(と)り 淚を掩(おほ)ふも 人の見る無く
綠蕪(りよくぶ) 牆(しやう)は遶(めぐ)る 靑苔の院
四季 徒らに支(し)せらる 粧粉(しやうふん)の錢(せん)
三朝 識らず 君王の面(おもて)
遙かに想ふ 六宮(りくきゆう)の至尊に奉ずるを
宣徽(せんき)の雪夜(せつや) 浴堂の春
雨露(うろ)の恩 及ばざる者
猶ほ聞く 啻(た)だに三千人のみならずと
三千人
我と爾(なんぢ)と 君恩の何ぞ厚薄(こうはく)のある
願はくは 輪轉して陵園に直(ちよく)し
三歳一たび來たりて 苦楽を均しくせしめんことを
細かい語注を施していると、永遠に本注が終わらなくなるので、例えば私が原文の底本にした一九五八年刊高木正一注「岩波中国詩人選集 第十二巻 白居易 下」の当該詩の注や現代語訳を参照されたいが(訓読には必ずしも従っていない)、その内容は、讒言によって亡き天子の御陵の守り役として幽閉されてしまった若く美しい宮女がそこで老いさらばえてゆく(「三朝 識らず 君王の面」ここに幽閉されてから既に天子が三代も替わったことを意味する)、その恨みの悲歎を本人の言葉として叙したもので、最後の部分は後宮三千人全員に――どうか、交代で三年一度一夜だけ、ここで御陵の宿直(とのい)をして、私一身が受けているこの地獄のような苦しみと、あなたがたの快楽を平等に分かって下さい――と訴えて終わる。私が気になる部分だけ底本注を参考に注すると、
●「陵園の妾/顏色 花のごとく 命 葉のごとし」……御陵(みささき)の奥津城(おくつき)に……人の宮女……花の顔(かんばせ)……しかし木の葉のように薄命の……一人の女が語り出す……といった感じ。「通鑑」によれば、唐代の制で、宮女の中で子がいない者は、山陵に日夜供奉し、天子が生きている時と全く同様に仕えさせた、とある。
●「知何限」「知」は次に疑問詞を伴う場合、「不知」の意となる。
●「中官」天子側近の宦官。
●「寒食」古く、中国で冬至から一〇五日目。陽暦では四月三日か四日頃に相当する。この日は風雨の烈しい日として、火断ちをして煮炊きをせず、冷たい物を食べた風習に基づく。
●「支(し)せらる」支給される。
●「六宮の至尊に奉ずるを」底本には詩題の脇に高木氏の注で、清の王立名は、『宮女に託して、讒言のため放逐された朝臣の悲運に同情した詩と』釈している旨の記載があり、この「六宮の至尊に奉ずる」ものとは、この解釈によるならば『天子側近の重臣に喩えたものであろう』と注されておられる。
●「雨露の恩」天子の恩沢。お情け。
§
次に、原詩のコンセプトを手っ取り早く分かり易く和文訳にして呉れている、
☆「唐物語」の「陵園妾」
であるが、原書を持っているはずなのだが、見当たらない。以下は、個人ブログ「国語史資料の連関」のここから、「国文大観」本の引用を孫引きさせて戴いた(但し、恣意的に正字化し、一部の句読点・記号を追加・省略、和歌を独立させてある)。
むかし、陵園といふ宮の内に閉ぢ籠められたる人ありけり。玉のはだへ花のかたちあざやかにて世にならびなく美くしかりけり。年若かりける時、女御にいつきかしつかれて、うちに參りけるに、親しき、うとき、楊貴妃、李夫人のためしにも勝りなむと思へりけるを、數多の御方々めざましき事になむ思しける。その御いきどほりにや、さまざまのなき事によりて陵園といふ深き山宮に閉ぢ籠められて、明くるめもなき物思ひにやつれつゝ、みめかたちもありしにもあらずなりにけり。父母生きながら別れぬる事をなげき悲しめども、あひ見る事なかりけり、よの常は深き宮の内に心すごくて風の音、蟲のねにつけても、思ひ殘す事なし。かくしつゝ、やうやう春にもなり行けば、よもの山邊に霞たなびき、野邊の早蕨、あしたの雨に萌え出で、心ちよげなるも、我が身の爲には羨ましく覺えて、花のにほひ、薫り渡るにも、獨ねのとこの上心ときめきせられつゝ、哀を添へたる朧月夜のみさし入れども、問ふに音なき影ばかりほのかにて明し暮すに、春過ぎ、夏たけて、暮れにし秋も廻り來にけり。樣々咲き亂れたる白菊の夕の露に濡れたるを見るにも、むかしの重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとゞ抑へがたかりけり。
見るたびに涙つゆけきしら菊の花もむかしやこひしかるらむ
この人、山宮に閉ちこめられて後、三代の帝にぞ逢ひ奉りける。
*(「板額御前」の注に戻り、頼家会見の翌日、建仁元年六月二十九日分を示す)
〇原文
大廿九日丁未。阿佐利與一義遠主(あさりのよいちよしとほぬし)、女房を以つて申して云はく、
「越州の囚女、既に配所を定めらるてへれば、態(わざ)と申し預からんと欲す。」
と云々。
金吾、御返事に云はく、
「是れ、無雙(ぶさう)の朝敵たり。殆んど望み申すの條、所存有り。」
と云々。
阿佐利、重ねて申して云はく、
「全く殊なる所存無し。只だ、同心の契約を成し、壯力の男子を生み、朝庭(てうてい)を護り、武家を扶け奉らんが爲なり。」
と云々。
時に金吾、
「件の女の面貌、冝(よろ)しきに似たりと雖も、心の武を思はば、誰(たれ)か愛念を遺さんや。而るに義遠が所存、已に人間の好む所に非ず。」
の由、頻りに嘲哢(てうらう)せしめ給ふ。而して遂に以つて免(ゆる)し給ふ。阿佐利、之を得て、甲斐国に下向すと云々。
ウィキの「坂額御前」には、この「吾妻鏡」の記載を『「可醜陵園妾」(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)』と読んでいるが、この「吾妻鏡」の底本はどの版本か? 面白いが、採れない。寧ろ、体よく墓地に幽閉されたに等しい悲劇の美女陵園の妾と、幕閣要人の居並ぶ中、叛逆の美貌の女狙撃兵が、聊かも臆することなく、眼差し鮮やかに将軍に会見したことを「配すべし」と述べていると私は採る。また、そこでは身長は何と、六尺二寸(約一八八センチメートル)あったとあり、『坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』とある。――めでたし、めでたし! よかったね、ばんかく姐さん!
「登都子」これは「登徒子」の誤り。空海の「三教指帰」などに載り、楚の襄王の臣で好色で、その醜い女に五人の子供を産ませたといい、その後、「登徒子」は好色家の代名詞とされた。
「鴻伯鸞が室」にある。後漢の梁鴻(りょうこう)は字を伯鸞(はくらん)と言い、勉学に励んで博学多才の高潔な人物で、扶風平陵県の人であったが、多くの人が自分の娘を嫁にして欲しいと望んだものの、彼は同県の孟光という怪力の持主で、しかも肥満で色黒の醜い女性を妻として、後に霸陵山中に二人で隠棲したという。「蒙求」の「孟光荊釵」の故事(個人のブログ『「ふでの蹟」雑記帳』のこちらの記事を参考にした)。
「※母(ばくぼ)陵園妾(りようえんせう)と云ふとも、是に合せて思ひやるべし」「※」=「女」+「莫」。「※母」は本来は「ボボ」と読むのが正しい。中国古代の伝説上の皇帝である黄帝の第四夫人。顔が醜かったが、賢徳をもって知られた人物であったのに、転じて、醜女(しこめ)の意のみが残ってしまった。「※母(ぼぼ)や陵園の妾(しょう)などと言う醜女(しこめ)をも、この坂額の醜さに擬えてイメージして貰えれば、その醜さが分かろうというものである」というのだが、ここ、筆者が坂額の姐御をあろうことか、醜女にしてしまった結果意味が通らなくなった。以上で見た通り、「陵園妾」は美人の囚われ人の謂い以外の何ものでもないからである。
「阿佐利與一義遠」浅利義遠(久安五(一一四九)年~承久三(一二二一)年)。源清光十一男。元来、浅利氏は甲斐源氏の一員で、甲斐国八代郡浅利郷を本拠とした。兄の武田信義、安田義定らとともに源頼朝の幕下に参加する。弓の名手であり、壇ノ浦の戦いや奥州合戦においてもその強弓をもって戦功を立てた(ウィキの「浅利義遠」に拠る)。当時、五十二歳であるから、当時としてはもう、老人の部類である。対する坂額御前は、兄の城長茂は仁平二(一一五二)年生れで、正治三年当時で四十九歳であるから、それほど若いとは思われないが、それでも浅利義遠が子を求めんと望んだ以上は、三十代か。
「苦參を蠹する虫」「苦參」は「くらら」とも読む。マメ科の多年草のマメ目マメ科マメ亜科クララ Sophora flavescens。「眩草」とも書き、和名の由来は根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる。ウィキの「クララ」によれば、高さ五〇~一五〇センチメートル、花期は六~七月で、茎の先に薄黄色の総状花序をつける。全草有毒で、根の部分が特に毒性が強い。ルピナンアルカロイドのマトリンを含み、これが後述の薬効の元であるが、薬理作用が激しく、量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸困難で死に至る、とある。『根は、苦参(くじん)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があり、苦参湯(くじんとう)、当帰貝母苦参丸料(とうきばいもくじんがんりょう)などの漢方方剤に配合される。また、全草の煎汁は、農作物の害虫駆除薬や牛馬など家畜の皮膚寄生虫駆除薬に用いられる』。『なお、延喜式には苦参を紙の原料としたことが記されているが、苦参紙と呼ばれる和紙が発見された例が存在せず、実態は不明である』としながらも、二〇一〇年一〇月の宮内庁正倉院事務所の調査で「続々修正倉院古文書第五帙第四巻」の一枚目は和紙、手触りや色合いが延喜式での工程や繊維の特徴を持ち、二枚目は、その幻しの苦参紙の可能性が高いと判断している、とある。
「和田義盛は木曾義仲の妾巴女を妻として、其力を傳へて、淺比奈義秀を生みたり」「巴女」は巴御前。彼女は義仲の妻と称されることが多いが、便女(びんじょ:武将の側で身の回りの世話をする下女。)であって、妻ではない(義仲は京で松殿基房の娘藤原伊子とされる人物を正妻としている)。従って「妾(おもひもの)」という記載は正しい。一般には、義仲の討死の直前に別れて、消息不明となったとされるが、生きのびたのか、その消息はわからなくなったとされているが、「源平盛衰記」では、『倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされて』おり、『宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り』、九十一歳で生涯を終えた、という後日談が語られる、とある(以上の記載や引用はウィキの「巴御前」に拠る)。また、義仲と別れた際の彼女の年齢については、「百二十句本」で二十二、三歳、「延慶本」で三十歳程、「長門本」で三十二、この「源平盛衰記」では二十八歳としている、とある。
「善かづき物なり」(剛勇と武威をその子が継がなかったとしたら、この醜い顔ではとんだ)『よき賜り物ということになるわ!』という、若侍どものひどい揶揄である。
「資盛が爲には父方の姨母なれば、俗姓取て恥からずといへども」私が馬鹿なのか、意味が良く分からない。増淵氏は『資盛からいうと父方の姨母(おば)に当たるので、一般に称する姓氏としては恥ずかしくないが、』とするのであるが、この『ので』の接続助詞も、『一般に称する姓氏としては恥ずかしくない』というのも失礼乍ら、今一つ、分かったような分からないような訳文である。「資盛が爲には父方の姨母なれば」の部分は、一緒にいた資盛ではなく、彼女の一族たる城氏は、平国香の次男繁盛の流れを汲む名族で、平氏政権期に於いても越後国を支配、彼女の兄の資永は、その棟梁として保元の乱でも清盛に従って活躍した、検非違使を努めていたこともある北国の親平家豪族の筆頭の家系であったことを言っているものと思われる。そうであるからこそ、その城氏の一族の「俗姓取て恥から」ざる、いや、恥ずかしいどころか、武門の名誉でさえある家柄(但し、寧ろ、親平家豪族であったことが、開幕後は激しくマイナスに働いたが)だから、普通の娘ならば若年より引く手数多であったはずだが、……という謂いであろう。増淵氏の『一般に称する姓氏としては恥ずかしくない』というのは、恰も彼女の婿養子に入ることが前提のような書き方で、私にはよく分からないのである。彼女が若い頃は、城氏と言えば、飛ぶ鳥落す勢いの家系であったれば、凡そ嫁を出す家柄として相手に不足はなかったはずだが……あまりの醜女であったがゆえに……という謂いであろうか。
「兄越後守資永」城資永(?~養和元(一一八一)年)助永とも書く。父は城九郎資国。母は「吾妻鏡」には清原武衡の娘とする所伝を載せるが、不詳。城氏一族は十一世紀後半に出羽国から越後国に進出、十二世紀を通じて越後国北部域に勢力を拡げた豪族的武士団。資永はその嫡流で、本拠地は奥山荘(おくやまのしょう:越後国蒲原郡。現在の新潟県胎内市)にあったと考えられている。資永の申請によって治承五(一一八一)年一月、東国の源氏討伐の院宣が下され、信濃国の木曾義仲を討とうとしたが、果たせぬまま病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。
「從五位下行」不詳。本来、「下行」とは上位者が下位者に対して米や銭などの物資を与えることを言い、朝廷の官司や幕府・寺社や荘園領主・地頭を問わず用いられ、公務や儀式・仏事・神事を実施するための費用支払をはじめ、下位者の働きに対する給与や食糧支給などに用いらるために実施されたシステムを言う。しかし、ここは官位に附して用いられており、参考にしたウィキの「下行」には、『特殊な用法として災害などを理由として租税の損免を行うことも「下行」とも称した』とあるが、ここも租税免除を意味するものか? 識者の御教授を乞うものである。
「その先祖は鎭守府將軍平維茂の嫡男繁茂七代の後孫なり。然るに、繁茂、生れてその儘、行方なく失せにけり。……」「平維茂」(生没年不詳)は平安の武将。桓武平氏平国香の次子繁盛の孫。平貞盛の十五男として養子になったので、後に余五将軍とよばれた。従五位上に叙して信濃守・出羽介に任じられて陸奥国を所領本拠とした。自らは鎮守府将軍を称した。「今昔物語集」には藤原秀郷の孫諸任と合戦する維茂の話がある。維茂の子出羽介「繁茂」は、後の越後城氏の祖となった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、長茂・資盛の先祖である出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の話へとシフトする。これはまた、時計が巻き戻って遡る十三年前「吾妻鏡」文治四(一一八八)年九月十四日の条で、囚人であった城長茂が御家人の列に加えられて、頼朝面前に驚天動地のデビューをするシーンに添えられている伝承である。
〇原文
十四日丁未。尊南坊僧都定任自熊野參向。是年來給置御本尊。〔大將王像。〕幷御願書。御祈禱積熏修也。二品偏令恃二世悉地給。而城四郎長茂者。爲平家一族。背關東之間。爲囚人所被預置于景時也。是又以定任爲師檀。仍以參上之次。有免許。可被召加御家人之由。頻執申之間。二品被仰可召仕之由。今日定任參御所。被召入簾中。談世上雜事給。御家人等著座侍。〔二行。以東爲上。〕南一座重忠。北一座景時也。爰長茂參入。諸人付目。長七尺男也。著白水干立烏帽子。融二行著座中。參進著横敷。宛簾中於後。自其内。二品御一覽。不被仰是非。定任見此體頗赭面。景時對長茂云。彼所者二品御座間也云々。長茂稱不存知。起座即退出。其後定任不及執申云々。此長茂〔本名資茂。〕者。鎮守府將軍〔余五〕維茂〔貞盛朝臣弟也。〕男。出羽城介繁成七代裔孫也。維茂勇敢不恥上古之間。時人感之。將軍 宣旨以前。押而稱將軍。而以武威雖爲大道。毎日轉讀法華經八軸。毎年一見六十卷〔玄義。文句。止觀。〕一部。亦謁惠心僧都。談往生極樂要須。繁成生而則逐電。乍含悲歎。經四ケ年。依夢想告。搜求之處。於狐塚尋得之。將來于家。其狐令變老翁。忽然來授刀并抽櫛等於嬰兒云。於翁深窓。令養育者。可爲日本國主。於今者。不可至其位云々。嬰兒者則繁成也。長茂繼遺跡。給彼刀于今帶之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日 丁未。尊南坊僧都定任(ぢやうにん)、熊野より參向す。是れ、年來(としごろ)、御本尊〔大將王の像。〕幷びに御願書を給はり置く。御祈禱熏修(くんじいゆ)を積むなり。二品、偏へに二世の悉地(しつち)を恃(たの)ましめ給ふ。而るに城四郎長茂といふ者、平家の一族として、關東に背くの間、囚人(めしうど)と爲り、景時に預け置かるる所なり。是れ又、定任を以つて師檀(しだん)と爲す。仍つて參上するの次でを以つて、免許有りて、御家人に召し加へらる可しの由、頻りに執り申すの間、二品、召し仕ふべきの由を仰せらる。今日、定任、御所に參り、簾中に召し入れられ、世上の雜事を談じ給ふ。御家人等(ら)、侍(さぶらひ)に〔二行、東を以つて上と爲す。〕に著座し、南の一座は重忠、北の一座は景時なり。爰に長茂、參入す。諸人目を付くる、長け七尺の男なり。白の水干に立烏帽子を著け、二行に着座せる中を融(とほ)り、參進して横敷に著き、簾中を後に宛(あ)つ。其の内より、二品御一覽。是非を仰せられず。定任、此の體(てい)を見て、頗る赭面(しやめん)す。景時、長茂に對し云はく、
「彼の所は二品の御座間なり。」
と云々。
長茂、
「存知せず。」
と稱し、座を起ち、即ち退出す。其の後、定任、執し申すに及ばずと云々。
此の長茂〔本名は資茂。〕は、鎮守府將軍〔余五。〕維茂〔貞盛朝臣の弟なり。〕の男、出羽城介繁成が七代の裔孫なり。維茂の勇敢、上古に恥ざるの間、時の人之を感じ、將軍宣旨の以前に、押して將軍と稱す。而して武威を以つて大道と爲すと雖も、毎日法華經八軸を轉讀、毎年六十巻〔玄義・文句・止觀。〕一部を一見す。亦、惠心僧都に謁し、往生極樂の要須(えうしゆ)を談ず。繁成、生まれて則ち、逐電す。悲歎を含み乍ら、四ケ年を經、夢想の告(つげ)に依つて、搜し求むるの處、狐塚(きつねづか)に於いて之を尋ね得、家に將來す。其の狐、老翁に變ぜしめ、忽然として來つて、刀幷びに抽櫛(ぬきぐし)等、を嬰兒に授けて云はく、
「翁が深窓に於いて、養育せめば、日本國の主たるべし。今に於いては、其の位に至るべからず。」
と云々。
嬰兒は則ち繁成なり。長茂、遺跡を繼ぎ、彼の刀を給はりて、今に之を帶すと云々。
・「御本尊〔大將王の像。〕」頼朝の持仏。「大將王」は不詳。十二神将の何れかか? 但し、こうした武将の持仏は多くは観音像であった。
・「師檀」長茂は定任を仏道の師と仰ぎ、長茂は定任の檀那(檀家)であったことを言う。
・「悉地」「しつぢ(しっじ)とも読む。梵語“Siddhi”の漢音訳。成就の意で、真言の秘法を修めて成就した悟りの境地を指す。
・「定任、執し申すに及ばず」定任が長茂の推挙を取り消したことをいう。長茂はこの後、文治五(一一八九)年の奥州合戦で景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げて御家人に列せられたのは、前にも見た通り。
・「玄義・文句・止觀」「玄義」法華経の奥深い教義、「文句」は法華経を読み解いた隋代の「法華文句」で固有名詞、「止觀」は天台宗で禅定によって心の動揺を払い、一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして仏法を会得するところの瞑想法である摩訶止観のこと。
・「抽櫛」抜き櫛・挿(さ)し櫛とも言う。頭髪の飾りに挿す櫛。]
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